ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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ビジョンの中でもがく

4、ダグ

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 頭にタオルを巻いた義兄は、野菜の詰まった段ボールの大箱を抱えながらも涼しげだ。キッチンの隅にひょいと運び入れてくれた。

 マドラスチェックのシャツにジーンズのゆらっとした長身の彼を見上げる。

「ダグになったの? お父さんかと思った。電話でお姉ちゃんもそう言ってたし」

「お義父さんは明日の葬儀のご遺体を待ってるよ。それに重いのは僕が運ぶ方が都合がいいしね」

 彼は「コージは?」「ソージは?」とリビングを見渡した。「コージ」は夫の名だ。アメリカ出身の彼が言うと、間延びしてそう聞こえる。来日してもう十年を超える彼の日本語はかなり流暢だが。

 夫の方はスルーし、総司は熱を出して寝かせていると答えた。

「そう」

 ダグはちょっと眉根を寄せ心配げな表情をした。下痢や嘔吐の症状がないかを聞く。私には姪に当たる花梨(かりん)が、この間軽い腸炎になったのだという。

「彼女は熱も出したよ。まあ、林間学校が原因じゃないかって、咲姫(さき。雅姫の姉)は言ってるけど」

「今のところ熱以外は大丈夫みたい。さっきアイスもペロっと食べたし」

 何もないが冷えたお茶程度なら出せる。グラスに注いで出した。「ありがとー」と喉を鳴らして飲むから、粗茶でも嬉しい気持ちになる。

 彼の肌はきれいな褐色だ。黒髪に黒い目に、すらりと上背のある姿。混血していると聞く、ハンサムで理知的な面立ち…。ダグはアメリカの某大統領に似ている。初めて家にやってきた彼を見て、父もわたしも驚きにあんぐり口を開けた記憶は鮮やかだ。

 子供は娘のみで「見込みのある男をつかまえてこい」と常々言っていた父が、困った顔で絶句していたのもよく覚えていた。寺院はきっと保守の最たるような場所だ。父の煩悶もわからないではない。

 知るにつれ、父が聡明な好青年のダグに好意を深めていく。本山にも認められ、新聞やローカルテレビなどに紹介されたことがある。「フロリダからやって来たダグ僧侶です!」。ダグはフロリダ出身ではない。

 元から親日派で仏教に興味があったとはいえ、日本と寺という異世界になじむ努力をし、溶け込んだ彼はすごい。

 でも何より素晴らしいのは、彼と我が家を受け入れてくれた檀家衆に違いない。物議も困惑もあったのは知る。けれど今ではすっかり親しまれ、住職の父より人気があるかもしれない。

 姉に言わせれば「ダグを見つけたわたしが一番偉い」となるらしい。このダグが凡庸な姉になぜつかまったのか、謎は深い。

「病院は行かないつもり?」

「うん…、様子を見ようと思ってるんだけど。どうしよう、行った方がいいかな?」

「コージは?」

 二度目の問いだ。今度はスルーできず、いないと答えた。

「面接が出来たんだって」

「日曜に?」

 我が家の内情は父や姉から聞き、およそ知っているはず。わたしは、さあと首を傾げた。

「わたしも仕事で出てて、さっき帰ったの。留守を頼んでたのに…。もういなかった」

「じゃあ雅姫が帰るまで、ソージがたった一人でこの家にいたことになるね」

 ダグはかすかに首を振り、口を歪めた。苦い表情になる。日本にどれだけなじんでもこんな仕草はきっと抜けないのだろう、ちょっと思った。

「どのくらいかは、総司にも聞けてないけどね」

「時間の長さの問題じゃない。四歳は一人で留守番をするには早過ぎる」

 責めるほどではないが、やや硬い口調が胸をついた。アメリカではある年齢までの子供に留守番をさせることは犯罪になると聞いたことがある。ダグの中ではそれが常識としてあるのだろう。

 それに「だってここは日本だから」と居直る気になどなれない。何か事故があったかもしれない。無事だったからいいようなものの…。

 自分の責任も感じている。今朝イベントに出る際、総司が風邪気味なことを把握していた。夫に注意してくれるよう頼むこともできたはず。

 でもまさか、総司を置いてふらっと家を開けるなどとは想像もできなかった…。

 少し過去をもやもやと悔いる間に、わきにどけておいた夫への怒りや不信がどんどんふくらんでいくのがわかる。

 彼なりに事情はあったのだろう。だが帰宅後のあの総司の様子を思えば、それは言い訳にしかならない。いつものように「ま、いっか」と許して、流してしまうことはできない気がした。

 ひどい。

 彼のやったことはこれに尽きる。

「大丈夫なの? 雅姫」

 ダグの声は和らいでいた。代わってわたしが口元を歪めさせる。舌に溶けない苦いものが乗っているような気持ちだった。

「ねえ、雅姫?」

「…うん……」

 ダグの声は心にしみ、冷えた中をほぐすようだ。ふと、それに促されるように思いを吐き出していた。どこかで心地よいと感じながら。

「別れようと思ってるの」

 言い切った後でダグを見た。

 彼がほんのり目を見張った。けれどもそれほど驚いているようでもない。我が家の状況からこういう結果もあり得るのでは、と見越していたのかもしれない。

 彼はわたしを手招きした。そばに行きソファの隣りに腰を下ろした。大きな手がわたしの手をそっと包んだ。わざとらしさのない優しい仕草だった。

 彼のシャツからわずかに実家の匂いがする。それは庫裡や本堂にしみた匂いだ。わたしには当たり前の親しい懐かしもの。

「コージとはもう話し合ったの?」

「ううん、でももう無理だと思う」

 気づけば、これまで口にするのをためらっていた夫への不満をもらしている。彼がなかなか仕事を見つけてくれないこと。今ではその努力すら感じられないこと。もしかしたら働く意欲が消えてしまった?……。

 でもそれならそれで、まだいい。そう許してきたわたしがいるから。妻が稼ぐのをサポートする、家の事を分担する。そういった意思や姿を見せてくれていたら、事態は違ったはず…。

 そんな繰り言を述べながら、どうして愚痴を言うことをはばかってきたりしたのか。その訳を求めていた。

 何でも気安く言い合える相手がそばにいなかったため。言葉に出してしまうことで、目の前の問題がより重くなりそうな苦しさを感じたためもある。

 それだけではない。

 わたしの中の夫への罪悪感が批判を言う口を重くさせていた。

「雅姫、コミックは売れてるの?」

 問いにぎょっとなる。姉からの情報だろう。夫の収入が絶え家計の心配をする姉には、ちょろっと近況を伝えてあった。

「まあ、ぼちぼち」

「それはすごい。咲姫が言っていたよ。雅姫は昔ドージンシを作って大儲けしていたって。ちゃんとした雑誌に描いたこともあるんだって」

 ダグの表情はお世辞でもなさそうで照れ臭い。しかも彼の言う「ドージンシ」という単語が羞恥を煽る。

「もう、大儲けなんて。お姉ちゃん、オーバー」

 ちょっと笑って流した後で言った。

「頑張ってそれでやってみようと思って。少し、手応えもあるし…」

「それは頼もしいね」

「はは、だといいけど」

 ダグは至極話し易い聞き役になってくれた。が、その後でふっと黙る。

 適当に意見を言うのを躊躇しているのだろう。周囲のほとんどが彼に思慮深く穏やか印象を持つ。それに…、

「相手は誰なの? 雅姫」

 鋭くもない当たり前の声だった。

 あ。

 それに、彼の聡明さをはっきりと思い出す。

 驚きもあったが虚をつかれたのはほんのわずかだ。すぐにふっと笑ってしまった。

 夫の行為や態度にとうとう辛抱が切れた…。そんな耐える妻を語ったところで、見る人が見て聞けば透けて見えるのかもしれない。それは底にあるわたしのエゴだ。

 夫婦という枠を出て一人になりたい。争うくらいなら一人がいい。その方が気持ちよく楽に総司に向き合えるから。

 もっと身を入れて気を入れて、昔捨てた漫画にまたのめり込みたい。

 そして、一人になって自由になることは沖田さんとのこれからを示すから…。

 わたしの短い自嘲は自白のようなもの。

「みっともないね、旦那だけ悪者にして…。ああ安っぽい」

 うつむいて苦笑するわたしの手の甲をダグはぽんと軽く叩いた。それが「そうでもないよ」といった意味の相槌に取れるのは、のんきな思い上がりだろうか。

「お父さんたちもそんなこと言ってるの?」

 この想像が勘のいいダグだけのものではない、としたら…。と心が冷えた。

 我が家のことではここずっと心配をかけている。更に離婚だ。父も姉もひどくがっかりするに違いない。そこにわたしの不倫が潜むと知られることは、どうしても避けたい。

 またあっさりとエゴが顔を出す。それを恥じる余裕もなく彼のをうかがった。

 ダグは首を振り、自分だけの思いつきであることを示した。単純にほっとする。

「もちろん二人は雅姫のことを気にかけてる。特に咲姫はお義父さんにも僕にもよく言うよ。コージがマイペースで雅姫ばかりがキリキリマイさせられてるんじゃないか、と気をもんでるよ」

 その言葉に、姉がテンパったときの癖の甲高い声でダグや父にあれこれ言う様子が目に浮かぶ。それに「落ち着け、お前はちょっと黙れ」と諭す父の声も、「ダイジョーブ、オーケー」となだめるダグの声も。すぐに聞けそうな気がする。

 そんなことをふと思うだけで胸が詰まり、目頭が熱くなる。

 返す言葉も見当たらない。また場当たりに短く笑って済ます。

「君はいつもそうやって笑うね」

 楽しくもないのに笑う。

 どれほどの言葉の代わりをそれで済ませてきたのだろう。迷うときや面倒な問いには全てこれで返してきた気さえする。不精な癖であり、ちょっとした虚勢でもあるだろう。体のいい無難で便利な相槌。

 日本人がマルチに使う「すみません」にもやや通じるのかも。ダグにはこの曖昧さが首を傾げたくなるのかも。

 でもそこに何かしらの「逃げ」が許されている気がする。自分への相手への。

「笑ってる場合じゃないのにね」

「そうとしか、笑えなかったんじゃないかな」

 ダグの手がまたわたしの手をふんわりと包む。

「人が自分を罰する必要はないよ」

 省みて矯めて、これからの糧にすればいいだけ…。さらりとした口調でダグはそう説いた。

 父がする説法より心に響く気がした。ありがたさは薄いのかもしれないが、簡単な足し算引き算を示されるようなわかり易さがある。生意気にそう思う。

 そんなことを言うとダグは首を振った。「僕はまだごく駆け出しだよ」と返る。日本人でもすらりと出てこない流し方だ。

 そんな後だ。

「ねえ雅姫。僕には君を心配する権利があると思う。違う?」

 また日本人にはちょっと言い難い表現がすぐに出てくる。ほんのりとおかしい。本人は意図しないはずのこんなギャップも彼の親しみの一因なのかもしれない…。

「ううん」

 問われるまでもなく、彼は家族だ。返せば、ぽんとすぐに問いがある。

「相手はどんな人? 具体的に知っておきたい」

 はぐらかし辛い質問だ。しばらくためらったのち、沖田さんのことを話していた。

 年齢、独身であること、社会人としてきちんとした人物であること…。それらを告げると、ダグの黒い瞳は吟味するかのように瞬く。

 こんな風に彼のことを誰かに話すのは初めての経験だった。思いがけない照れ臭さに頬が火照った。

 喉が渇く気がし、立ち上がって冷蔵庫からお茶を取り出しグラスに注いで飲んだ。ダグのにも注ぐ。「ああそうだ」と彼は何気なく、

「その彼に僕はいつ会えるだろう?」

 などと聞いてくるから、口のお茶を吹きそうになる。

 え?!

 会うの?!

 ドーナツでもつまむような気軽さだ。

 わたしがたじろぐ気配を見せれば、首を振る。

「彼が僕に会えないというのなら、認められない。まともでない、会えない理由があるはずだからね」

「でも、ほら忙しい人みたいだし…」

「都合なら彼に合わせるよ。それに、これは彼にとってまず優先するべきことじゃないかな」

「はあ…」

 ダグの言うことは正しいし、心配してくれる気持ちもありがたいが…。

「僕で不都合なら、咲姫でもお義父さんでもいいよ。僕から話を二人に…」

 まずいまずい、それはやばい。

「いや、いや、いや。ダグがいい。ダグじゃないと」

 慌てて彼の言葉を遮った。わたしの合意にこっくり頷く様子を見て、父と姉にはまだ知られたくない、そんなわたしの泣き所を上手く利用されたとわかる。ダグは結構な策士だ。

 ダグ理論に押されつつ、沖田さんがこの彼と対面した状況を想像してしまった。その気まずさに、少々暗澹とした気分になってしまう。

 どうやってこの件を伝えようか。そもそも今日のイベントでくれたメッセージの返事もしていない…。そんなことをつらつら考える。

 そこへダグが、

「総司の病院どうするの? 連れて行くのなら送って行くよ」

 と気軽に言ってくれた。

 様子を見ようと考えたものの、タクシーを呼ぶことへのちょっとしたためらいもあった。緊急であればもちろん是非もないが、目当ての休日診療の医院は隣の市でやや距離もある。

「…そうだね」

 夜分に熱が上がったりすれば、昼のうち医師に診せなかったことを悔やむだろう…。せっかくの好意に甘えようか、と総司を連れに子供部屋に向かう。

 だるそうにしている総司だが、階下荷下ろし、久しぶりのダグに会えば笑顔になった。

「オバマー」

「こら、ダグ伯父さんでしょ」

 ダグは総司を抱き上げ「Yes,we can!」と答えてやっている。総司はその意味もわからず、笑っている。

 彼の何気ない優しい行為に、今では当然に思える身内の慕わしさを感じた。

 成功の捉え方は人それぞれあろうが、このダグを伴侶とし安定した家庭を築く姉は、ちょっとした成功者だと思う。姉は自然にするするそうなっていった。何であれ、何かを成し遂げた人は、端からそのように見える気がする。

 成功とは程遠いわたしなど、家庭と同人に手いっぱいのあっぷあっぷ状態だ。自分でもときに呆れるほどなのだから、外野からの目を想像するのもおこがましい。

 ついた重たい吐息が、疲れにでも見えたのか。ダグが励ましてくれる。

「ドタバタもいいものだよ。落ち着いて老け込むのは早いというサインだ」

 わたしの心情には毛色の違った慰めだったから、頷くだけで答えにした。

 診察のため必要なものを取りまとめていると、先ほどのダグの憂鬱な申し出も軽いものに感じられるから不思議だ。

 と、いつもの調子で吐息に流してしまう。さっきの彼の励ましがほんののちの今、そう的外れでもなくなっていた。

 車に乗る際、ダグの手から車のキーリングが見えた。目にしたことで、沖田さんも同じものを持っていたことを思い出す。

 いつかの夜を思い出す。
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