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ため息と吐息の違い
10、怖い未来は見たくない
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「ひどい」
つい非難の声が出た。家庭を捨てられないのなら、彼はわたしをもう好きでなくなるという。思わぬ動揺に瞳が潤む。薄い闇の中彼をにらんだ。沖田さんはその目を受け止めて、やんわりと流した。
でも、
ひどいのはわたしの方。
「若くない」と内省し、だからこれからを「無駄にしたくない」と彼は最初に言ってくれている。先の明言はないものの、「一緒になるのなら、本当に好きな相手がいい」とも告げているのに。
なのに、わたしはのらくらと変化を恐れ、未練がましい。
欲しいのは何?
「嫌」
ふと声が出た。また彼の腕をぶつ。意味もなく。やっぱりグーで。
彼は幾度かそうさせた後でわたしの手首をつかんだ。「おい」と言う。怒ったようなそれを堪えているのような低い声だった。
「雅姫」と呼ぶ。
「あんまり外れたことを言わせるな」
「え」
「どうだってお前が欲しいんだ、本音では。今、手放してしまえる自信がない」
つかまれた手首に痛いほどの力を感じた。
心にスイッチがあるのだとして、それはきっとこんな瞬間に入れ替わるのではないだろうか…。
カチッと。
自分からつかまれたままの手を引き寄せていた。彼は手首をほどきわたしの顔を上にむかせる。両の頬を手のひらで挟んだ。
まなじりは涙でぬれている。それを彼が指先でぬぐう。
「腹は決まったか?」
「うん…」
返事をしたことが次への扉を開かせたのか。同じ自分同じ景色に見えるのに、おそらくわずかな過去とはもう違う…。
ほとばしるように唇から不安がこぼれ出す。他でもない、総司のことだ。
「子供を離したくない。絶対に」
「わかってる」
声にためらいはない。なのに物足りない。身勝手にも。だったらどんな答えが欲しいのか、自分にもわからないくせに。
「本当に?」
「ああ」
「大丈夫?」
「うん」
「簡単に言ってない?」
「言ってない」
「絶対に?」
「約束する」
矢継ぎ早に念を押すわたしに彼は苦笑した。「俺に理想の父親役が務まるかは別として、努力はする」と言ってくれる。
彼が使った「父親役」という言葉がこそばゆく耳をなでる。
こんなにも嬉しいのに、ありがたいのに。
心の奥が気がかりで揺れる。どんなに素敵な言葉をもらったとして、それが叶えられるとは限らない。そんなこと、いい歳をしてる。身にしみていた。
沖田さんはわたしを見つめ、気持ちの裏をのぞくようなことを言う。
「信じてくれ、としか言えない」
わたしは頭を下げた。
「お願いします」
祈るよう、願うよう。
不安は大きい。それはいつか消えるのではなく、徐々に違った何かに変わっていくのだろう。自分の手でそうしていくもの。
「わかった、任せておけ」くらい返ると思ったのに、「こちらこそ」と彼も頭を下げてくるから驚いた。
目が合う。何だか間が抜けていておかしかった。緊迫した雰囲気の幕間。互いにちょっと笑う。
「送る。すまん、遅くなったな」
「ううん…」
彼が車を車道へ戻した。滑らかに走る中、ごく何気なく問う。
「ボウズだったよな。子供の名前は?」
当たり前の質問だ。これまでなかったのが不思議なほど。しかし「来た」と気まずさに身構える。
「言いたくない」
「は?」
「沖田さん笑うから」
「笑わないって。今時分、凝った名前が多いだろ。そう言えば、お前、昔も実家の寺の名前いうの嫌がってたよな、面白がるからって」
「よく覚えてるね、そんなこと」
「ショーリンジだ」
わたしの実家は寺をしている。父が住職を務め、姉の夫の義兄が後継として副住職となっていた。しかし、相変わらず彼の発音はおかしい。いつかの「シャチョー」と同じじゃないか。
「省倫寺!」
「それそれ」
何がそれそれ、だ。完璧に「ショーリンジ」だったくせに。まあそれはいい。
「隠すことじゃないだろ、言え」
「うるさいな」
「うるさくねえよ」
昔の実家の件とは違う。わかっている。秘密と言う訳にはいかない。わたしは声をひそめ「総司」とささやいた。
「はあ?! 聞こえない」
もう。
「だから、総司」
漢字も有名な歴史的人物と一緒、と伝える。言い捨ててぷいっと彼とは逆の窓へ向いた。絶対笑う。「お前、にわか幕末BL描きかと思ったら、根っからの腐女子だったんだな。推しの美剣士様の名前を子供に託すなよ」とか、言うはず。
ああ、むかつく!!
笑って馬鹿にされる前にこっちから言ってやる。
「馬鹿」
あるはずの反応がなく、隣りを見る。沖田さんは面白がる様子もない。尋常にハンドルを握りながらつぶやいている。ちょっと噛みしめるかのように繰り返し「オキタソウジ」と。
へ?
わたしの視線を感じるのか、ちらっとこちらを見る。「ああ」となぜかやや照れたような笑みを見せる。解せない。
「何かな、運命的だな。そう思わないか? ボウズの名前、俺と引っ付けたらズバリ『沖田総司』だろ。腑に落ちるっていうか…」
え?
「縁があるんだな、お前とは…。宿命の修正力がちゃんと働いて、子連れでも俺のところに戻ってくるっていう…」
相槌も打てない。
「そうか総司か…」
ちょっと嘆ずるようにつぶやく。
笑いが込み上げたが咳払いでごまかした。だって、おかしい。長年少女漫画で食べてきた人だから、きっとおつむも乙女色に軽くカラーリングされているのかも…。
「何だよ?」
「ううん、…何でもない」
わたしの見立てとは違い、いい意味で総司の名を捉えてくれているのだ。さすがに「脳がピンク色だね」と突っ込むのもためらわれる。適当に目に入った、歩道を犬の散歩に歩く人の話題に変えた。
「犬の胴に腹巻きがしてあった。トラ柄の…。すごいセンス」
「ふうん、病院で腹でも切ったんだろ。俺もでっかい『ポンデライオン』みたいなのと遭遇してびびったことがある。知らないか? さらっさらのロン毛のでかい犬」
頭に何となくイメージは浮かぶ。何とかハウンドとかいう…。それのポンデライオン版…。思わずふき出した。
笑うことで気づく。
自分がしばらく笑っていなかったことを。総司の前でする、作った笑みは別として、けらけらとこんな風に笑ったのはいつだっただろう…。
笑いがやっと引いた後だ。
「なあ雅姫」
「うん?」
「お前といると面白いんだ」
え。
突っ込みたいところもあるが。
沖田さんといるとやっぱり楽しい。
家に着いたのは十二時ちょっと前だった。
リビングには灯りが灯っている。中で夫がネットゲームの画面に向かっていたが、肩透かしなほど何も聞いてこない。
身構えていた分、虚脱した。
「ごめんね。総司、一度も起きなかった?」
「…うん」
リビングを出て浴室に向かう。手早くシャワーを浴びた後、キッチンで賞味期限が十二時で切れた幼児飲料を飲んだ。
相変わらず夫はパソコンの画面に目を向けたままだ。
「寝るね」
それにため息のような音が返っただけ。
わたしの位置から夫の斜め後ろが見えた。無防備なその姿を目に留める。いつからこんな風になったのだろう。ちらりと思う。
行き先も告げず「友達」のところへ用で出たわたしに、帰ってきても何も問うこともない。詮索をして欲しいのではないが、せめて「どこ」の「誰」と会っていたのくらい、気になりはしないのか…。
不思議がってすぐ、自分もそれと同じだと気づく。「ちょっと出てくる」と言い、ほぼ毎日外出する夫が「どこ」へ行き「何を」しているのか、わたしは聞いたことがないではないか。
それは、詮索しない思いやりや信頼を真似た、無関心だ。
キッチンの電気を落とす。寝室に入る途中で総司の部屋をのぞいた。よく寝ている。ケットから出た足を直してやり、部屋を出た。
ベッドに潜り込んだ途端、疲れがにじむ。伸ばした手足の力が抜け弛緩する。
瞳を閉じ、思う。
とちらが先なのだろう。夫とわたしと。
どちらが先につないだ手を離したのだろう。
寝返り、枕に頰を当てた。ほんのりまだぬれた髪が心地よく肌に冷たい。
多分…、
わたしはもう気づいている。
先に手を離したのは、わたしだ。
ささやかな輝きの詰まった過去とその夢を思い出したときから。ちょんと結んでいたはずの指先をそっと外したのだろう。自分さえ知らぬ間に。
まぶたの裏に先ほどの夫の背が浮かんだ。
ふと考える。
彼はそれに気づいたのだろうか…、と。
いつしか眠っていた。嫌な短い夢を見たようで目を開ける。
消して寝たはずのオレンジの常夜灯が灯っていた。怪訝に思うよりも先に夫の気配に気づく。
わたしが起き出す頃にようやく寝室に寝にやってくる夫だ。まだ夜中のようだし、今夜は早いなくらいにしか考えなかった。
寝ぼけと眠気で頭がぼんやりとしていた。けれども、身体を探られればさすがに目も覚める。
「止めて…」
寝返りを打ち、抗った。
とてもそんな気になれない。わたしが頑ななのを知って、夫は興が覚めたらしい。「ちっ」と舌打ちをして離れてくれた。
「ごめん…」
タオルケット越しのつぶれた声で謝った。悪い気がした。強制ではないが、夫婦である以上セックスはやや義務のような気がする。
わたしの声に気づいたのかそうでないのか。夫は部屋を出しな、しっかり文句を置いて行った。
「調子がいいよな。子供が欲しいときは、こっちの都合も考えずに予定通りにしつこかったくせに。総司が出来たらもう用なしか?」
腹立ちまぎれの独り言に聞こえた。言い返したいセリフは幾つも浮かんだが、聞こえないふりでやり過ごした。一つでも言葉を投げればきっと嫌な喧嘩になる。
明日も早い。夜中に下らないいさかいをするのなら寝ていたい。
また眠りに落ちる中、怒りはひたひたと引いていく。毒のあるセリフを残す夫も悪いが、わたしにも非がある。彼の言葉が素通りをせず耳に痛いのは、正しい部分もあるからだ。
前に抱き合ったのはいつだったろう。まだパートしていた頃のことで、眠気とだるさで「勝手にして」とろくに脱ぎもせず事を終えた記憶がある…。
もう嫌だ。
身体が彼を拒む。
気持ちが離れているのをこんなことで知る。
終わりだ。
何よりもわかりやすい。
つい非難の声が出た。家庭を捨てられないのなら、彼はわたしをもう好きでなくなるという。思わぬ動揺に瞳が潤む。薄い闇の中彼をにらんだ。沖田さんはその目を受け止めて、やんわりと流した。
でも、
ひどいのはわたしの方。
「若くない」と内省し、だからこれからを「無駄にしたくない」と彼は最初に言ってくれている。先の明言はないものの、「一緒になるのなら、本当に好きな相手がいい」とも告げているのに。
なのに、わたしはのらくらと変化を恐れ、未練がましい。
欲しいのは何?
「嫌」
ふと声が出た。また彼の腕をぶつ。意味もなく。やっぱりグーで。
彼は幾度かそうさせた後でわたしの手首をつかんだ。「おい」と言う。怒ったようなそれを堪えているのような低い声だった。
「雅姫」と呼ぶ。
「あんまり外れたことを言わせるな」
「え」
「どうだってお前が欲しいんだ、本音では。今、手放してしまえる自信がない」
つかまれた手首に痛いほどの力を感じた。
心にスイッチがあるのだとして、それはきっとこんな瞬間に入れ替わるのではないだろうか…。
カチッと。
自分からつかまれたままの手を引き寄せていた。彼は手首をほどきわたしの顔を上にむかせる。両の頬を手のひらで挟んだ。
まなじりは涙でぬれている。それを彼が指先でぬぐう。
「腹は決まったか?」
「うん…」
返事をしたことが次への扉を開かせたのか。同じ自分同じ景色に見えるのに、おそらくわずかな過去とはもう違う…。
ほとばしるように唇から不安がこぼれ出す。他でもない、総司のことだ。
「子供を離したくない。絶対に」
「わかってる」
声にためらいはない。なのに物足りない。身勝手にも。だったらどんな答えが欲しいのか、自分にもわからないくせに。
「本当に?」
「ああ」
「大丈夫?」
「うん」
「簡単に言ってない?」
「言ってない」
「絶対に?」
「約束する」
矢継ぎ早に念を押すわたしに彼は苦笑した。「俺に理想の父親役が務まるかは別として、努力はする」と言ってくれる。
彼が使った「父親役」という言葉がこそばゆく耳をなでる。
こんなにも嬉しいのに、ありがたいのに。
心の奥が気がかりで揺れる。どんなに素敵な言葉をもらったとして、それが叶えられるとは限らない。そんなこと、いい歳をしてる。身にしみていた。
沖田さんはわたしを見つめ、気持ちの裏をのぞくようなことを言う。
「信じてくれ、としか言えない」
わたしは頭を下げた。
「お願いします」
祈るよう、願うよう。
不安は大きい。それはいつか消えるのではなく、徐々に違った何かに変わっていくのだろう。自分の手でそうしていくもの。
「わかった、任せておけ」くらい返ると思ったのに、「こちらこそ」と彼も頭を下げてくるから驚いた。
目が合う。何だか間が抜けていておかしかった。緊迫した雰囲気の幕間。互いにちょっと笑う。
「送る。すまん、遅くなったな」
「ううん…」
彼が車を車道へ戻した。滑らかに走る中、ごく何気なく問う。
「ボウズだったよな。子供の名前は?」
当たり前の質問だ。これまでなかったのが不思議なほど。しかし「来た」と気まずさに身構える。
「言いたくない」
「は?」
「沖田さん笑うから」
「笑わないって。今時分、凝った名前が多いだろ。そう言えば、お前、昔も実家の寺の名前いうの嫌がってたよな、面白がるからって」
「よく覚えてるね、そんなこと」
「ショーリンジだ」
わたしの実家は寺をしている。父が住職を務め、姉の夫の義兄が後継として副住職となっていた。しかし、相変わらず彼の発音はおかしい。いつかの「シャチョー」と同じじゃないか。
「省倫寺!」
「それそれ」
何がそれそれ、だ。完璧に「ショーリンジ」だったくせに。まあそれはいい。
「隠すことじゃないだろ、言え」
「うるさいな」
「うるさくねえよ」
昔の実家の件とは違う。わかっている。秘密と言う訳にはいかない。わたしは声をひそめ「総司」とささやいた。
「はあ?! 聞こえない」
もう。
「だから、総司」
漢字も有名な歴史的人物と一緒、と伝える。言い捨ててぷいっと彼とは逆の窓へ向いた。絶対笑う。「お前、にわか幕末BL描きかと思ったら、根っからの腐女子だったんだな。推しの美剣士様の名前を子供に託すなよ」とか、言うはず。
ああ、むかつく!!
笑って馬鹿にされる前にこっちから言ってやる。
「馬鹿」
あるはずの反応がなく、隣りを見る。沖田さんは面白がる様子もない。尋常にハンドルを握りながらつぶやいている。ちょっと噛みしめるかのように繰り返し「オキタソウジ」と。
へ?
わたしの視線を感じるのか、ちらっとこちらを見る。「ああ」となぜかやや照れたような笑みを見せる。解せない。
「何かな、運命的だな。そう思わないか? ボウズの名前、俺と引っ付けたらズバリ『沖田総司』だろ。腑に落ちるっていうか…」
え?
「縁があるんだな、お前とは…。宿命の修正力がちゃんと働いて、子連れでも俺のところに戻ってくるっていう…」
相槌も打てない。
「そうか総司か…」
ちょっと嘆ずるようにつぶやく。
笑いが込み上げたが咳払いでごまかした。だって、おかしい。長年少女漫画で食べてきた人だから、きっとおつむも乙女色に軽くカラーリングされているのかも…。
「何だよ?」
「ううん、…何でもない」
わたしの見立てとは違い、いい意味で総司の名を捉えてくれているのだ。さすがに「脳がピンク色だね」と突っ込むのもためらわれる。適当に目に入った、歩道を犬の散歩に歩く人の話題に変えた。
「犬の胴に腹巻きがしてあった。トラ柄の…。すごいセンス」
「ふうん、病院で腹でも切ったんだろ。俺もでっかい『ポンデライオン』みたいなのと遭遇してびびったことがある。知らないか? さらっさらのロン毛のでかい犬」
頭に何となくイメージは浮かぶ。何とかハウンドとかいう…。それのポンデライオン版…。思わずふき出した。
笑うことで気づく。
自分がしばらく笑っていなかったことを。総司の前でする、作った笑みは別として、けらけらとこんな風に笑ったのはいつだっただろう…。
笑いがやっと引いた後だ。
「なあ雅姫」
「うん?」
「お前といると面白いんだ」
え。
突っ込みたいところもあるが。
沖田さんといるとやっぱり楽しい。
家に着いたのは十二時ちょっと前だった。
リビングには灯りが灯っている。中で夫がネットゲームの画面に向かっていたが、肩透かしなほど何も聞いてこない。
身構えていた分、虚脱した。
「ごめんね。総司、一度も起きなかった?」
「…うん」
リビングを出て浴室に向かう。手早くシャワーを浴びた後、キッチンで賞味期限が十二時で切れた幼児飲料を飲んだ。
相変わらず夫はパソコンの画面に目を向けたままだ。
「寝るね」
それにため息のような音が返っただけ。
わたしの位置から夫の斜め後ろが見えた。無防備なその姿を目に留める。いつからこんな風になったのだろう。ちらりと思う。
行き先も告げず「友達」のところへ用で出たわたしに、帰ってきても何も問うこともない。詮索をして欲しいのではないが、せめて「どこ」の「誰」と会っていたのくらい、気になりはしないのか…。
不思議がってすぐ、自分もそれと同じだと気づく。「ちょっと出てくる」と言い、ほぼ毎日外出する夫が「どこ」へ行き「何を」しているのか、わたしは聞いたことがないではないか。
それは、詮索しない思いやりや信頼を真似た、無関心だ。
キッチンの電気を落とす。寝室に入る途中で総司の部屋をのぞいた。よく寝ている。ケットから出た足を直してやり、部屋を出た。
ベッドに潜り込んだ途端、疲れがにじむ。伸ばした手足の力が抜け弛緩する。
瞳を閉じ、思う。
とちらが先なのだろう。夫とわたしと。
どちらが先につないだ手を離したのだろう。
寝返り、枕に頰を当てた。ほんのりまだぬれた髪が心地よく肌に冷たい。
多分…、
わたしはもう気づいている。
先に手を離したのは、わたしだ。
ささやかな輝きの詰まった過去とその夢を思い出したときから。ちょんと結んでいたはずの指先をそっと外したのだろう。自分さえ知らぬ間に。
まぶたの裏に先ほどの夫の背が浮かんだ。
ふと考える。
彼はそれに気づいたのだろうか…、と。
いつしか眠っていた。嫌な短い夢を見たようで目を開ける。
消して寝たはずのオレンジの常夜灯が灯っていた。怪訝に思うよりも先に夫の気配に気づく。
わたしが起き出す頃にようやく寝室に寝にやってくる夫だ。まだ夜中のようだし、今夜は早いなくらいにしか考えなかった。
寝ぼけと眠気で頭がぼんやりとしていた。けれども、身体を探られればさすがに目も覚める。
「止めて…」
寝返りを打ち、抗った。
とてもそんな気になれない。わたしが頑ななのを知って、夫は興が覚めたらしい。「ちっ」と舌打ちをして離れてくれた。
「ごめん…」
タオルケット越しのつぶれた声で謝った。悪い気がした。強制ではないが、夫婦である以上セックスはやや義務のような気がする。
わたしの声に気づいたのかそうでないのか。夫は部屋を出しな、しっかり文句を置いて行った。
「調子がいいよな。子供が欲しいときは、こっちの都合も考えずに予定通りにしつこかったくせに。総司が出来たらもう用なしか?」
腹立ちまぎれの独り言に聞こえた。言い返したいセリフは幾つも浮かんだが、聞こえないふりでやり過ごした。一つでも言葉を投げればきっと嫌な喧嘩になる。
明日も早い。夜中に下らないいさかいをするのなら寝ていたい。
また眠りに落ちる中、怒りはひたひたと引いていく。毒のあるセリフを残す夫も悪いが、わたしにも非がある。彼の言葉が素通りをせず耳に痛いのは、正しい部分もあるからだ。
前に抱き合ったのはいつだったろう。まだパートしていた頃のことで、眠気とだるさで「勝手にして」とろくに脱ぎもせず事を終えた記憶がある…。
もう嫌だ。
身体が彼を拒む。
気持ちが離れているのをこんなことで知る。
終わりだ。
何よりもわかりやすい。
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