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セカンド
5、うつむく癖
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やはりパートを辞める踏ん切りはつけられずにいた。
家とパート先を往復するだけの、以前の生活に戻っただけの日々が続く。
バススタッフをしていたときは、家事や睡眠を切り詰め、時間に追われてきりきり動いていた。ただ元に戻っただけなのに、まるで余裕が生まれたように感じるから不思議だ。
時間や感情、雰囲気…。形のないものは人がどのようにそれらを受け止めるかで、重さも色合いも違ってくる…。改めてそんなことに気づき、ちょっと感心したりもした。
その空いた時間を原稿を書くことに使った。使うことの稀だったワッフルメーカーなんかを引っ張り出してきて、総司のおやつを手作りしてあげる気分にもなる。
この日もパートから帰り、洗濯物をたたんで夕飯の段取りをつければ時間が空く。ダイニングテーブルに途中の原稿を広げた。
これまでは夫の目を気にしながら、夜中にこそこそ原稿に向かっていた。照れ臭さと説明が面倒なので「友だちとフリーマーケットに手作り絵本を出す」と脚色まじりで誤魔化してきた。けれど、それもやめた。
余裕ができたとはいえ、時間は常に足りない。そして漫画を描くのはスペースを取る作業だ。言い訳しつつ、隠れて進めるのには限界もあった。
素人ながら描いた漫画でお金を得ようと思っている。真剣にそう考えていた。これからどれだけそんな生活が続くのかしれないが、夫にもある程度の理解は欲しい。
「パパ、ごめん、総司見てて」
幼稚園から帰った総司を夕飯まで見てもらうのは、もう日課になっていた。声をかけると夫はソファからあくびしながら立ち上がる。
「パパと外に行くか?」
おもちゃをひねくり回している総司を誘う。「アイス買ってやるぞ」とわたしのバックから財布を抜き出すのが見えた。アイスにつられて総司がおもちゃを放り出す。
子供を抱えた夫へ言う。
「チョコは止めて。夕飯食べなくなる」
「ふうん。総司、何が食いたい?」
「ガリガ⚪︎君…」
首をのけぞらせて総司が答える。ちょっとどきっとした。誰かさんが、好物のそのアイスキャンディーをわたしに買ってくれた記憶はまだまだ新しい。
ほどなく夫が総司を連れ、家を出て行った。
彼はわたしが外でフルタイム勤務をすることは、はっきりと嫌がる。なのに、イベントで売る同人誌のための漫画を描くことには、これといって反対もなかった。パートを合わせれば、フルタイムよりオーバーワークなのに。
「同人誌」とか「イベント」といった特殊な世界のことをよく理解していないこともあるだろう。内職程度、のような感覚なのかもしれない。
彼はわたしが稼ぐことが不満なのではない。外で正規に、以前の彼のように働く妻が嫌なのではないか…。そんなことを思うことがある。
それはそれで構わない。理由は違えど、絶対に妻は家にいて欲しいと譲らない男性だって、少なからずいるだろう。
夫の場合はどんな理由があるのか。プライドや見栄。または束縛…。そこに幼い子供がいることという実際的な事情が加わるはず。それらが組み合わさったものが、答えに近いのではないか。
どうであれ、わたしの仕事が彼にとって「内職」の域を出ない限り納得してくれる。そして描く時間を捻出する協力をしてくれるのであれば、ありがたい。それ以上何の要求もなかった。
冷え過ぎた室内のエアコンを切り、窓を開けた。狭い庭の向こうから夫の声が聞こえた。話し相手は隣りの安田さんの奥さんだ。話好きな人だからつかまってしまったのだろう。
「パパ」と総司の焦れる声が聞こえた。彼も適当にかわせばいいのに…。
意識を原稿に向ける。
広げているのは次のイベントにアンさんと出す合同誌のもの。頼まれた彼女の小説の挿絵はもう仕上げてあった。これは自分の漫画だ。タイトルこそ未定だが、最終段階に入っている。
今回からチャレンジするBLは、わたしにとって初めて描くジャンルになる。ネタからネームから、そして仕上げまで…、全てが新鮮で面白い。
舞台は幕末、キャラには有名志士たちが登場する。これは、いろはちゃん情報による人気の時代背景を参考にさせてもらった。
新参でBLを描くのは、より多くの人に手に取ってもらうためだ。なら、ジャンルだって人気があり盛り上がっているところを思い切って狙うのが、目的に適う気がする。
「人気の設定ということは、もちろんそれだけ描く人口も多いということです」。
いろはちゃんからはそう注意ももらっていた。確かに、ラーメン激戦区エリアにぽっと出が出店するようなもの。それは覚悟の上だ。
人の目に触れる機会が増えるのは何より魅力だった。メジャーなジャンルということは、言い方を変えれば、誰もが親しみ易いということでもある…。
「描いてみる。駄目元で」
と、そんな声が気楽に出たのは、錆びつつもやっぱり昔の経験からの自信だ。珍しくもない設定であるなら、自分なりの切り口や工夫を加えればいい…。物語やネームをひねくり回すのは好みだった。
六時少し前に夫と総司が帰ってきた。玄関の音を聞き、わたしはペンを置いた。そろそろ夕飯の支度にかかろう。
お茶を飲みにキッチンに入ってきた彼が、わたしの原稿をひょいとのぞいた。
首を傾げている。
ちょうど描いていたシーンはキャラ同士が包容を交わすところ。「見ないでよ」と照れ臭くて、慌てて紙を伏せて隠した。手早く片付けてしまう。
「何で? 上手いのに」
「見ないでよ」
夫の背を押し、リビングに押し返す。
「もうちょっと女の子を可愛く描かないとな。あれじゃ男にしか見えないだろ。男が男と抱き合うって、何の罰ゲームだよ」
そういう読み物のジャンルがあるんだよ。驚かせてみたくて、つい口元まで出かかった。けれど、夫がつないだ次の言葉に、わたしは声を飲み込んだ。
「うわ…、気持ちわる」
ノーマルな反応だろう。彼が責められるレベルでもない。口にする人もきっと多くある。わかっているから、
「…そうだね」
と、気持ちがこもらないまま相槌が打てた。
でも冷静に思う一方、心の別な場所でふつふつと怒りに似た感情が泡立ちそうになる。
その気持ちの悪い漫画を、わたしは頭をしぼって懸命になって描いている。それで生活費を稼ごうとしている。
そのわたしも、やっぱり気持ちが悪いのかな?
ねえ?
その同人誌即売会は、東京某所で開催された。三日連続のイベントで、参加許可の下りたサークルは、そのいずれかの日に会場でスペースをもらえることになる。
今回のイベントではアンさんと合同誌を出す。一日都合をつけて、売り子を買って出た。
アンさんは当日、待ち合わせにわたしが現れると一瞬ぱっと顔をほころばせた。が、すぐにそれを引きしめ、真面目な声で言う。
「思い出して。イベントは合戦よ。食うか食われるかの、女の関ヶ原」
あははは…。
イベントを合戦だなんて思ったことないけど。男もいっぱいいるし。
彼女の個人秘書の影山さんに手伝ってもらい、本の搬入を済ませた。
夏本番の季節だ。会場はそれなりに空調が効いているとはいえ、人いきれでですぐにむっとしてくる。簡単な設営を終えれば、もう暑さを感じ出す。
椅子に座り、来る途中街頭で配っていたうちわを出してあおぐ。隣りのアンさんがごそごそと足元のバックを探っている。
何かを取り出してわたしへ差し出した。布地で服のように見える。柄が、彼女の着ている小花とテディベアがぎっしりあしらわれたものにそっくりだ。色違いなだけで…。
「はい、今日のユニフォームを支給するわね。トップスは着替えにくいからスカートだけでいいわ。ほら、わたしの後ろで、ささっとぱぱっとドリーミーなあなたに変身しちゃいなさいよ」
変身?
ドリーミーなわたし?
「ほら」、「早くしないと開場で、お客が来ちゃうでしょ」と当たり前の口調で急かす。
「…でも、汗かいて汚しちゃうとまずいし…、それに…、似合わないから(趣味じゃないし)、こんな可愛いの…」
「同人に一人でカムバックした若干憂い顔の雅姫さんに似合う色をと、特にセレクトしてきたの。汗なんか気にしないでよ。わたしたちの仲じゃない。ニキビと汗は青春の勲章でしょ?」
勲章じゃなくて、きっとシンボル…。
「いや、だから、わたし年だし、ね?」
「イベントは萌えと自称年齢で通る場でしょ。よって、二十四歳以上の人間はいないのよ」
「あははは」
まあ的を得た(?)彼女の意見に押され、半ば面倒にもなり折れた。
まあ、いっか。
彼女のスペースだし。わたしは今日、彼女のところの売り子だ。
若干憂い顔だというわたしに似合う色だというスカートを受け取る。ちなみにスモーキーなブルーだった。はいているバギーの上からスカートを重ね、パンツの方を落とした。
季節柄か、浴衣を可愛らしく着ているサークルさんも目につく。可憐に広がるティアードスカートもそうそう奇抜でもないかもしれない。椅子に座っていれば、上の黒いTシャツしか見えないし…。
そうこうしているうちに開場だ。わっと喧騒が辺りに広がって溶けていく。
「隣りに人がいると、気分が違う」
わたしにユニフォームを着せてご満悦なアンさんが、ぽつりともらす。彼女は昔から、いつも一人のイメージだ。それが彼女の意に適っているのだろう。ポリシーなのかもしれない。
一人サークルのメリットは、本を作るときも売るときもマイペースに気楽なことだ。
けれども、
売れた喜びも売れなかったがっかり感も。そして、このお祭りのような環境の独特の匂いも。みんな一人で味わう。
気ままの裏側で、それはちょっと寂しい。
今回は初の合同誌記念もあって、わたしの描いたイラストを元に、彼女がポスターを起こしてくれた。それを持ち、アンさんへ声をかけた。
「ちょっと宣伝に立とうか。人が来るよ」
「そうね」
どうせなら、今のこの時間を楽しもう。
本は売れた。
前もってブログで、イベントの告知と合同誌の宣伝をしておいたのが大きかったよう。「ブログで見ました」と声をかけてくれるお客も珍しくない。
全く、こんな「今どきの当たり前」を教えてくれた、いろはちゃん様様だ。
午前の終わりには多めに刷った(今のわたしにしては)本が三分の一ほどに減っていた。快挙と言っていい。初のBLジャンル、ということもあり、涙ぐむほどの感激だった。気分がふわふわと浮き立つ。
わたしの浮かれっぷりを横目に、ごくマイペース、長年のアンさんスタイルを崩さない彼女は、
「大した部数じゃないでしょ。昔を思えば屁みたいなものじゃない?」
と渋い顔だ。
「だって嬉しいんだもん」
「情けない。あの『ガーベラ』の雅姫さんっていったら、「クールジェンヌ」で通っていて、同人じゃ、あなたのファンも大勢いたのよ。それが、百もいかない数の本が売れたからって、へらへらでれでれ…。ああ、情けない。相棒の千晶さんもあなたの豹変に草葉の陰で泣いているわよ、悔しがって」
だから、千晶は元気だって。
「クールジェンヌ」…? は?
スペースには頻繁にお客が現れ、途切れることがない。申し訳ないが、スケッチブックへの書き込みなどはお断りさせてもらう。とても対応の時間がない。
おそらく、これまで『ガーベラ』を意識もしない若い女の子たちが本を手に取ってくれる。舞台背景が幕末であると知れば、「カップリングは何ですか?」と問いかけてくれる。
「ジャンル買い」「カップリング買い」をしてくれる人が少なくない。人気のジャンル効果の手応えをこのときしっかり感じた。
「はい、午前のおやつ支給」
うちの売り子は待遇がいいの。とバック(保冷機能付き?)からあずきバーを出してくれた。
「ありがとう」
遠慮せずにもらう。熱気でもわもわするから冷たいものはとってもありがたい。
交代で食べていると、お客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
あずきバーを急いで飲み込み、声をかける。そのとき「あ」とアンさんがわたしのティアードスカートを引いた。それが不思議だった。
「あの…」
若い女性だ。二十代半ばに見えた。黒地に赤い菖蒲が印象的な浴衣姿だ。しっとりとした黒髪のボブを揺らし、お客は合同誌を指した。
「この中の幕末モノのBL、カップリングが『土方(歳三)×高杉(晋作)』だって聞いたんですが、間違いないですか?」
変な問いかけだと思った。でも、好み以外の本は絶対に買いたくない、といった人もある。「はい」と答えた。
彼女は指で本の表紙をなぜた。くっきりとアイラインで縁取った目をわたしに向ける。その目元を見て、『王家⚪︎紋章』という少女漫画に出てくるヒーローのトラブルメーカーな姉を思い出していた。
「おたくから、挨拶がまだないんですが…」
はい?
聞き間違えだと思った。
またアンさんがスカートを引いた。
家とパート先を往復するだけの、以前の生活に戻っただけの日々が続く。
バススタッフをしていたときは、家事や睡眠を切り詰め、時間に追われてきりきり動いていた。ただ元に戻っただけなのに、まるで余裕が生まれたように感じるから不思議だ。
時間や感情、雰囲気…。形のないものは人がどのようにそれらを受け止めるかで、重さも色合いも違ってくる…。改めてそんなことに気づき、ちょっと感心したりもした。
その空いた時間を原稿を書くことに使った。使うことの稀だったワッフルメーカーなんかを引っ張り出してきて、総司のおやつを手作りしてあげる気分にもなる。
この日もパートから帰り、洗濯物をたたんで夕飯の段取りをつければ時間が空く。ダイニングテーブルに途中の原稿を広げた。
これまでは夫の目を気にしながら、夜中にこそこそ原稿に向かっていた。照れ臭さと説明が面倒なので「友だちとフリーマーケットに手作り絵本を出す」と脚色まじりで誤魔化してきた。けれど、それもやめた。
余裕ができたとはいえ、時間は常に足りない。そして漫画を描くのはスペースを取る作業だ。言い訳しつつ、隠れて進めるのには限界もあった。
素人ながら描いた漫画でお金を得ようと思っている。真剣にそう考えていた。これからどれだけそんな生活が続くのかしれないが、夫にもある程度の理解は欲しい。
「パパ、ごめん、総司見てて」
幼稚園から帰った総司を夕飯まで見てもらうのは、もう日課になっていた。声をかけると夫はソファからあくびしながら立ち上がる。
「パパと外に行くか?」
おもちゃをひねくり回している総司を誘う。「アイス買ってやるぞ」とわたしのバックから財布を抜き出すのが見えた。アイスにつられて総司がおもちゃを放り出す。
子供を抱えた夫へ言う。
「チョコは止めて。夕飯食べなくなる」
「ふうん。総司、何が食いたい?」
「ガリガ⚪︎君…」
首をのけぞらせて総司が答える。ちょっとどきっとした。誰かさんが、好物のそのアイスキャンディーをわたしに買ってくれた記憶はまだまだ新しい。
ほどなく夫が総司を連れ、家を出て行った。
彼はわたしが外でフルタイム勤務をすることは、はっきりと嫌がる。なのに、イベントで売る同人誌のための漫画を描くことには、これといって反対もなかった。パートを合わせれば、フルタイムよりオーバーワークなのに。
「同人誌」とか「イベント」といった特殊な世界のことをよく理解していないこともあるだろう。内職程度、のような感覚なのかもしれない。
彼はわたしが稼ぐことが不満なのではない。外で正規に、以前の彼のように働く妻が嫌なのではないか…。そんなことを思うことがある。
それはそれで構わない。理由は違えど、絶対に妻は家にいて欲しいと譲らない男性だって、少なからずいるだろう。
夫の場合はどんな理由があるのか。プライドや見栄。または束縛…。そこに幼い子供がいることという実際的な事情が加わるはず。それらが組み合わさったものが、答えに近いのではないか。
どうであれ、わたしの仕事が彼にとって「内職」の域を出ない限り納得してくれる。そして描く時間を捻出する協力をしてくれるのであれば、ありがたい。それ以上何の要求もなかった。
冷え過ぎた室内のエアコンを切り、窓を開けた。狭い庭の向こうから夫の声が聞こえた。話し相手は隣りの安田さんの奥さんだ。話好きな人だからつかまってしまったのだろう。
「パパ」と総司の焦れる声が聞こえた。彼も適当にかわせばいいのに…。
意識を原稿に向ける。
広げているのは次のイベントにアンさんと出す合同誌のもの。頼まれた彼女の小説の挿絵はもう仕上げてあった。これは自分の漫画だ。タイトルこそ未定だが、最終段階に入っている。
今回からチャレンジするBLは、わたしにとって初めて描くジャンルになる。ネタからネームから、そして仕上げまで…、全てが新鮮で面白い。
舞台は幕末、キャラには有名志士たちが登場する。これは、いろはちゃん情報による人気の時代背景を参考にさせてもらった。
新参でBLを描くのは、より多くの人に手に取ってもらうためだ。なら、ジャンルだって人気があり盛り上がっているところを思い切って狙うのが、目的に適う気がする。
「人気の設定ということは、もちろんそれだけ描く人口も多いということです」。
いろはちゃんからはそう注意ももらっていた。確かに、ラーメン激戦区エリアにぽっと出が出店するようなもの。それは覚悟の上だ。
人の目に触れる機会が増えるのは何より魅力だった。メジャーなジャンルということは、言い方を変えれば、誰もが親しみ易いということでもある…。
「描いてみる。駄目元で」
と、そんな声が気楽に出たのは、錆びつつもやっぱり昔の経験からの自信だ。珍しくもない設定であるなら、自分なりの切り口や工夫を加えればいい…。物語やネームをひねくり回すのは好みだった。
六時少し前に夫と総司が帰ってきた。玄関の音を聞き、わたしはペンを置いた。そろそろ夕飯の支度にかかろう。
お茶を飲みにキッチンに入ってきた彼が、わたしの原稿をひょいとのぞいた。
首を傾げている。
ちょうど描いていたシーンはキャラ同士が包容を交わすところ。「見ないでよ」と照れ臭くて、慌てて紙を伏せて隠した。手早く片付けてしまう。
「何で? 上手いのに」
「見ないでよ」
夫の背を押し、リビングに押し返す。
「もうちょっと女の子を可愛く描かないとな。あれじゃ男にしか見えないだろ。男が男と抱き合うって、何の罰ゲームだよ」
そういう読み物のジャンルがあるんだよ。驚かせてみたくて、つい口元まで出かかった。けれど、夫がつないだ次の言葉に、わたしは声を飲み込んだ。
「うわ…、気持ちわる」
ノーマルな反応だろう。彼が責められるレベルでもない。口にする人もきっと多くある。わかっているから、
「…そうだね」
と、気持ちがこもらないまま相槌が打てた。
でも冷静に思う一方、心の別な場所でふつふつと怒りに似た感情が泡立ちそうになる。
その気持ちの悪い漫画を、わたしは頭をしぼって懸命になって描いている。それで生活費を稼ごうとしている。
そのわたしも、やっぱり気持ちが悪いのかな?
ねえ?
その同人誌即売会は、東京某所で開催された。三日連続のイベントで、参加許可の下りたサークルは、そのいずれかの日に会場でスペースをもらえることになる。
今回のイベントではアンさんと合同誌を出す。一日都合をつけて、売り子を買って出た。
アンさんは当日、待ち合わせにわたしが現れると一瞬ぱっと顔をほころばせた。が、すぐにそれを引きしめ、真面目な声で言う。
「思い出して。イベントは合戦よ。食うか食われるかの、女の関ヶ原」
あははは…。
イベントを合戦だなんて思ったことないけど。男もいっぱいいるし。
彼女の個人秘書の影山さんに手伝ってもらい、本の搬入を済ませた。
夏本番の季節だ。会場はそれなりに空調が効いているとはいえ、人いきれでですぐにむっとしてくる。簡単な設営を終えれば、もう暑さを感じ出す。
椅子に座り、来る途中街頭で配っていたうちわを出してあおぐ。隣りのアンさんがごそごそと足元のバックを探っている。
何かを取り出してわたしへ差し出した。布地で服のように見える。柄が、彼女の着ている小花とテディベアがぎっしりあしらわれたものにそっくりだ。色違いなだけで…。
「はい、今日のユニフォームを支給するわね。トップスは着替えにくいからスカートだけでいいわ。ほら、わたしの後ろで、ささっとぱぱっとドリーミーなあなたに変身しちゃいなさいよ」
変身?
ドリーミーなわたし?
「ほら」、「早くしないと開場で、お客が来ちゃうでしょ」と当たり前の口調で急かす。
「…でも、汗かいて汚しちゃうとまずいし…、それに…、似合わないから(趣味じゃないし)、こんな可愛いの…」
「同人に一人でカムバックした若干憂い顔の雅姫さんに似合う色をと、特にセレクトしてきたの。汗なんか気にしないでよ。わたしたちの仲じゃない。ニキビと汗は青春の勲章でしょ?」
勲章じゃなくて、きっとシンボル…。
「いや、だから、わたし年だし、ね?」
「イベントは萌えと自称年齢で通る場でしょ。よって、二十四歳以上の人間はいないのよ」
「あははは」
まあ的を得た(?)彼女の意見に押され、半ば面倒にもなり折れた。
まあ、いっか。
彼女のスペースだし。わたしは今日、彼女のところの売り子だ。
若干憂い顔だというわたしに似合う色だというスカートを受け取る。ちなみにスモーキーなブルーだった。はいているバギーの上からスカートを重ね、パンツの方を落とした。
季節柄か、浴衣を可愛らしく着ているサークルさんも目につく。可憐に広がるティアードスカートもそうそう奇抜でもないかもしれない。椅子に座っていれば、上の黒いTシャツしか見えないし…。
そうこうしているうちに開場だ。わっと喧騒が辺りに広がって溶けていく。
「隣りに人がいると、気分が違う」
わたしにユニフォームを着せてご満悦なアンさんが、ぽつりともらす。彼女は昔から、いつも一人のイメージだ。それが彼女の意に適っているのだろう。ポリシーなのかもしれない。
一人サークルのメリットは、本を作るときも売るときもマイペースに気楽なことだ。
けれども、
売れた喜びも売れなかったがっかり感も。そして、このお祭りのような環境の独特の匂いも。みんな一人で味わう。
気ままの裏側で、それはちょっと寂しい。
今回は初の合同誌記念もあって、わたしの描いたイラストを元に、彼女がポスターを起こしてくれた。それを持ち、アンさんへ声をかけた。
「ちょっと宣伝に立とうか。人が来るよ」
「そうね」
どうせなら、今のこの時間を楽しもう。
本は売れた。
前もってブログで、イベントの告知と合同誌の宣伝をしておいたのが大きかったよう。「ブログで見ました」と声をかけてくれるお客も珍しくない。
全く、こんな「今どきの当たり前」を教えてくれた、いろはちゃん様様だ。
午前の終わりには多めに刷った(今のわたしにしては)本が三分の一ほどに減っていた。快挙と言っていい。初のBLジャンル、ということもあり、涙ぐむほどの感激だった。気分がふわふわと浮き立つ。
わたしの浮かれっぷりを横目に、ごくマイペース、長年のアンさんスタイルを崩さない彼女は、
「大した部数じゃないでしょ。昔を思えば屁みたいなものじゃない?」
と渋い顔だ。
「だって嬉しいんだもん」
「情けない。あの『ガーベラ』の雅姫さんっていったら、「クールジェンヌ」で通っていて、同人じゃ、あなたのファンも大勢いたのよ。それが、百もいかない数の本が売れたからって、へらへらでれでれ…。ああ、情けない。相棒の千晶さんもあなたの豹変に草葉の陰で泣いているわよ、悔しがって」
だから、千晶は元気だって。
「クールジェンヌ」…? は?
スペースには頻繁にお客が現れ、途切れることがない。申し訳ないが、スケッチブックへの書き込みなどはお断りさせてもらう。とても対応の時間がない。
おそらく、これまで『ガーベラ』を意識もしない若い女の子たちが本を手に取ってくれる。舞台背景が幕末であると知れば、「カップリングは何ですか?」と問いかけてくれる。
「ジャンル買い」「カップリング買い」をしてくれる人が少なくない。人気のジャンル効果の手応えをこのときしっかり感じた。
「はい、午前のおやつ支給」
うちの売り子は待遇がいいの。とバック(保冷機能付き?)からあずきバーを出してくれた。
「ありがとう」
遠慮せずにもらう。熱気でもわもわするから冷たいものはとってもありがたい。
交代で食べていると、お客が前に立った。
「いらっしゃいませ」
あずきバーを急いで飲み込み、声をかける。そのとき「あ」とアンさんがわたしのティアードスカートを引いた。それが不思議だった。
「あの…」
若い女性だ。二十代半ばに見えた。黒地に赤い菖蒲が印象的な浴衣姿だ。しっとりとした黒髪のボブを揺らし、お客は合同誌を指した。
「この中の幕末モノのBL、カップリングが『土方(歳三)×高杉(晋作)』だって聞いたんですが、間違いないですか?」
変な問いかけだと思った。でも、好み以外の本は絶対に買いたくない、といった人もある。「はい」と答えた。
彼女は指で本の表紙をなぜた。くっきりとアイラインで縁取った目をわたしに向ける。その目元を見て、『王家⚪︎紋章』という少女漫画に出てくるヒーローのトラブルメーカーな姉を思い出していた。
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