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ため息曜日
5、スミレ
しおりを挟むラベンダー色の表紙をしたコピー本が一冊売れるのに二時間かかった。
そこから流れが変わったように、ぽつぽつと手に取ってくれるお客が増えた。二冊、三冊…と徐々にだが、本が売れていく。
代金をもらい本を渡すと、おずおずといった具合で厚手のリングノートを差し出された。二十代半ばらしい女性のお客だった。
「ご迷惑じゃなければ…、記念に本を買ったサークルさんのサインをいただきたいんです。本当に簡単でいいですから」
昔もこういうことはよくあった。、とぼんやり思い出す。当時はともかくお客が多かったので、スケッチブックにサインを描き合ったのは、わずかに互いにサークル参加者だけだったが。
「いいですよ」
ご覧の通りの閑古鳥。気安くノートを受け取った。
それがまだ真新しいノートであり、自分がその第一ページにペンを入れることにちょっと息をのんだ。思わず、メガネの彼女を見返した。
「お願いします」
と、ちょんと頭を下げる。
わたしは手つかずのノートの一ページ目に、とりあえずペンを走らせた。『雅姫(まさきと読みます)。個人サークル スミレ』。あと今日の日付と簡単なすみれのイラストを添え、ノートを彼女に返した。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
優しいシフォンのブラウスが肌の白い彼女によく似合っている。可愛らしい人だと思った。
その後、またお客が途切れた。
この頃には、朝からの緊張も肩の無駄な力も抜け、リラックスしてスペースにいられるようになった。
コンビニで買ったおにぎりをかじりながら辺りをただ眺めた。さっきのリングノートの彼女もそうだが、最近はおしゃれな人が多いな、と改めて感じる。はっきり言って、こういったイベントは「オタク」の趣味だし、ファッションをそう気にしない人が多いというのが常識だった…。
こうざっと見ても「これぞオタク」といった格好の人など、なかなか見当たらない。まあ、中にはいる、確実に。でも既に少数派だろう。
昔は「オタクらしさ満開」の目が吸いつくような風貌の人が、サークル主にもよくいたのに…。
そうそう、あの人。イベントではジャンルがオリジナルだから、同じ人とよくスペースが隣り合ったものだ。
ソバージュの超ロングヘアに幅広の白いカチューシャ。真っ赤とか真っピンクとかの『P INK ⚪︎OUSE』の服を着た年齢不詳な人だった。個人でよく参加してたっけ、あの人。寡黙だし親しくなることもなかったが…。
いたいた、そんな人。
思い出す過去は今もおかしくて、そしてほんのりと苦い。
食べ終わったおにぎりをビニール袋にまとめたとき、左の空いたスペースに人の気配がした。床を擦るダン箱の音。遅れて参加する人もある。挨拶くらいしようと顔を向け、絶句した。
『PINK ⚪︎OUSE』の人だった。
現役だったのか…。
何だかふわっふわのスカートからのぞくペチコートの層が更にボリュームアップいている気がする…。
「…よろしく、お願いします……」
「こちらこそ」
尋常に返してくれたものの、しばらく眼光鋭く探るようににらまれる。居心地が悪くなった。まさか、あっちもまだわたしを覚えていたりして…?
まさか…。
落ち着くためと手持ち無沙汰で、ペットボトルに口をつけた。そのとき、左から低音の声が呼ぶ。
「お帰りなさい、雅姫さん」
口に含んだ水を吹きそうになる。
はい、ただいま。
携帯を見れば、そろそろ三時近かった。
スペースに平積みしたコピー本は、あと二冊を残すのみとなった。元々が、三十五冊しか刷っていない。持ってきたものが作った全てだ。
それが運良くこうまで売れた。嬉しさに幾らかの誇らしさが混じり、そろそろ店じまいの今更、ぽっと胸が熱い。何だか興奮してしまっている。
「すごいですね。もう全然ないじゃないですか」
右隣りのサークルの女の子が声をかけてきた。「貴重な二冊なのに…」とためらう感じで、本の代金四百円を差し出す。譲って欲しいと言った。
「おやつのどうぞ」と昼過ぎにはドーナツも分けてもらった。気持ちのいいサークルさんだ。わたしは首を振り、お金を辞退した。「差し上げます」と本を差し出した。
代わりに、とあちらも既刊本の一冊を差し出したので、交換の形になった。そんなやり取りもやっぱり懐かしい。
遠方からのイベント参加で、そろそろ撤収するという。
「隣り合ったよしみで、この後本来ならアフターにお誘いしたいんですが、都合もありまして…、今回はお先に失礼します」
「いいえ、お気遣いなく。帰り、お気をつけて」
彼女たちはゴミ一つ残さずに爽やかに撤収していった。見送った後でわたしも帰り支度だ。動く前にもらったコピー本のページをふと繰ってみた。
あ。
とページをつまむ手が止まった。
すんごいエロ。
もう本当に、すんごい濃厚なエロ。
何を描こうが個人の自由だし、そもそもここはそういった自由な創作の発表の場でもある。
しかし、
音読を憚られる擬音のあふれる、鬼畜系触手モノ…。
彼女たちの清楚なたたずまいとその彼女らが生み出した作品とのすさまじいまでのギャップに、ただただ驚いてしまう…。
「最近の子って、すごいでしょ。斬新なものを描くわよね」
この道のベテランPINK ⚪︎OUSEさんだ。右隣りのサークルさんのことも知っているらしい口ぶりだった。
「うん…。絵も上手い、技術ある」
「あなたも久しぶりなのに、落ちてないわよ、絵が。だから、こんな鉛筆描きの薄っいコピー本なのに、四百円もふっかけてるのに、ほら売れてるじゃない」
褒めてくれているのだか、けなされているのだか。
「あははは。それはどうも」
わたしはもらった濃厚18禁本をバックの奥にしまい、片づけを始めた。今日はパートと偽って出かけてきている。まだ余裕はあるが、そろそろ帰りたい時刻だった。
行きとは違い、随分身軽になった。本が売れたお陰だ。
残った一冊は、欲しいと言うので、やはり料金を辞退してPINK ⚪︎OUSEさんに献上してしまう。これで在庫ゼロ。ほぼ完売と言っていい。
コピー本作りに使った経費を差し引いても、総司が欲しがっていたおもちゃが買える金額が財布に入ったことになる。ぎりぎりだけど。
単純に嬉しい。今度の休みには、パパと三人でト⚪︎ザラスに行ける…。
でも…、
嬉しさの陰で、ちょっぴりだけ悔しい。これで終わってしまうことが。
これで終えなくてはならないことが…。
軽いショッピングバックに机のビオラを入れた。これで個人サークル『スミレ』は閉店だ。
そこで、PINK ⚪︎OUSEさんが「アフターに行かない?」と言った。自分ももう帰るから、と。
「え」
これまでPINK ⚪︎OUSEさんとはイベント後に飲み食いに行ったことなどないし、誘われたこともない。
彼女はわたしの返事を聞かず、ケイタイを耳に当てた。誰かに手短かに連絡を取ってそれをしまう。わたしを外へ促した。
PINK ⚪︎OUSEさんが先に立ち、あちこちを示しながら「あそこは…」と、わたしが疎い今のサークル情報をくれた。
会場内には既にスペースをたたんだサークルも目につく。壁際に配置された「大手」と言われる人気サークルなどは、それこそあっという間に商品がはけてしまう。他のサークルや買い手のファンと言ってくれる人たちとの交流の他、残る理由もないだろう。
会場を出て、PINK ⚪︎OUSEさんは建物の裏へわたしを導く。カフェやファーストフード店などは駅前に多いため、てっきりそっちへ向かうものとばかり思っていたから意外だ。
「どこに行くの? 時間もないし、あんまり遠くは困るんだけど…」
ずんずん先を行く彼女がふと立ち止まった。わたしを振り返り、どうぞ、と車道へ手を広げてみせる。
「遠くないわ。もう着いた」
「へ?」
意味がわからず、彼女がまっすぐ伸ばした指先に目をやる。そこへ一台車が流れるように滑らかに走り寄って静かに停車した。
落ち着いたシルバーのやたらと車体の長い車だ。ぴかぴかに磨かれている。これなら遠目にも超高級車だとわかる。もしかして、リムジン?
ダークスーツを着込んだ初老の男性が、運転席から歩道のこちらへ小走りにやって来る。
戸惑うわたしの前で、男性はPINK ⚪︎OUSEさんに恭しくお辞儀した。
「お迎えに参りました、お嬢様」
と後部座席のドアを開いて慇懃に乗車を促した。
「ふん」
確かにそう聞こえた。彼女は鼻息みたいな声で応じ、白地にバラのボンボンがいっぱいあしらわれたスカートを揺らして車に乗り込んだ。そうしてわたしを手でこまねく。乗れと言うのだ。
「え?!」
何が何だか。やはり戸惑うわたしへ、ダークスーツの男性も「お嬢様がおっしゃっていますから、どうぞご遠慮なく」と柔らかな声で勧める。
「わたくしは会場へ参りまして、お嬢様のご作品の売れ残りをk車に積み込む作業がございますので。ちょっと失礼いたします」
と頭を下げる。
そういえば、PINK ⚪︎OUSEさんは身の回りの物だけ持って身軽に撤収してきている。在庫の入ったダン箱が足元にあったはずなのに。ちょっと不思議に思ったが、不意にアフターに誘われ、気が逸れてしまった。
あれはこういう人が回収するのか…。
「うるさい影山」
彼女が低い声で男性を叱る。それに男性は「はは」と首を垂れるものの懲りた様子もなく、
「ここは駐車禁止エリアのようでそうではありません。しかし、わたくし、お売れ残りを持ち五分で戻って参りますから、中でお寛ぎの上、しばしお待ち下さいませ」
滑舌よく述べた後、会場へ去って行った。
「雅姫さん」
更にPINK ⚪︎OUSEさんに手招きおずおずと中に乗り込んだ。
車内はベージュで統一されていた。向かい合って座れるレザーシートはしっとりと輝いている。ドアを閉めれば外の喧騒から遮断され、驚くほど静かだ。そして広々としていた。
いきなりの異空間が取り巻き、あぜんとしてしまう。
イベントではある意味「ただ者ではない」印象のPINK ⚪︎OUSEさんだったが、まさに「ただ者ではなかった訳だ。どういう身分の人なんだろう? と不思議がりつつも落ち着かない。視線もきょろきょろとさまよう。
ふと、どこから出したのか、PINK ⚪︎OUSEさんがわたしへ気泡の立つ液体の入ったグラスを差し出した。ほっそりと華奢で、車で何かを飲むようなグラスじゃない。
「乾杯しましょう」
勧めるので、「はあ」と受け取る。飲み口が甘い。
「ファンタよ」
てっきりアルコールかと思った。「イベントの後の一杯はこれに決めているの」。彼女は一息でグラスを干した。
「とにかく復活おめでとう。幸先のいい再デビューだったわね」
またどこから出したのか。一口サイズのサンドイッチが美しく盛られた皿をこちらへ差し出す。「ありがとう」と、狐につままれた思いで一切れもらう。
「再デビューって…、そんな」
「千晶さんはプロで大活躍だけど、地道に趣味の範囲で活動するのも悪くないわ。何の責任もないし縛りもない。好きなものを好きなだけ描いていけるし…」
そこで、「千晶さんとは今も連絡とってるの?」と問う。やっぱりPINK ⚪︎OUSEさんは千晶のこともよく覚えているようだ。
それに答えるより早く、彼女はわたしの手からグラスを抜き取り、別なタンブラーに白濁した液体を注いで渡す。「カルピス?」と思いきや、
「マッコリよ。サンドイッチには、わたしはこれ」
と、ちんとグラスをぶつける。
「はあ…」
「次のイベント『スーパー⚪︎⚪︎』に、わたし、スペース取れてるの」
PINK ⚪︎OUSEさんの挙げた東京でのイベントは、わたしが活動していた頃からある大がかりで有名なものだ。全国からのサークル参加希望者も多く、スペース確保には選考がある。
当時は春に一つ、夏前のこれが上半期の活動の大本命だったものだ。
「その気があるのなら、あなたの本委託するけど」
え。
「次は新刊一つの予定なの。既刊も置くけど、場所が余るから」
「新刊出すんだ…」
ふうんと受けながら気持ちはざわめいていた。そして、ふわふわと揺れた。
そこへ影山さんが荷物を運んで戻ってきた。トランクにダン箱をしまい、運転席に乗り込んだ。
「お待たせいたしました」
どちらへ、と首をこちらにひねり、PINK ⚪︎OUSEさんの意を伺う。
「雅姫さんの最寄りの駅まで送るわ」
どうやらこれが彼女なりのアフターらしい。時間のなさげなこちらを気遣ってくれるのがわかる。非常にありがたい。
PINK ⚪︎OUSEさんと別れ、混雑し始めた夕方の駅前を歩く。
夕飯の内容を考えながら、耳に鮮やかに残る彼女の声を繰り返し聴いている。
「その気があるのなら、あなたの本、委託するけど」。
決まって個人参加の、スペースに自分の本以外置いた記憶のない彼女がそう声をかけてくれるのは、きっと望外の厚意のはずだ。その理由は、多分不意に現れた昔のイベント仲間(厳密にはそうではないが)への懐かしさや嬉しさにあるのだろう。
今日思いがけず誘われて言葉を交わした。癖はあっても、決しておかしな人でなかったことが発見といえば発見だ。話してみないと人ってわからないな、と改めて思う。
『ガーベラ』時代は、千晶が人見知りで群れるのを嫌ったため、他のサークルとの交流もほぼなかったから。
少し飲んだお酒の酔いが、歩くにつれふわふわ身体を揺らす。そして、そのごく軽い酔いが、PINK ⚪︎OUSEさんのくれた言葉を褪せさせず胸を昂らせた。
本音ではまた本を作りたい。
そしてそれは今回のような間に合わせのコピー本ではなく、昔のようにちゃんと製本したものでありたい。
そんな願いがくるくると頭で渦を巻いて止まらない。
商店街の店先で、夕飯に惣菜のパックを選ぶ。三百八十円の代金を払う。
現実とは違う場所で「五十部刷るとして、今印刷代にいくらかかるのだろうか…」、そんなことを思いめぐらせている。昔の同人経験は古いし、あまりあてにできない。何せ、刷る部数も冗談ではなくニケタ違った。
今日の売り上げは総司に買うおもちゃで消えてしまうし、いかほども残らない。
幾らかかるのだろう。
行く手に不意にティッシュを突き出され、はっとなる。珍しくもない。どこかの店が販促に配るチラシ入りのポケットティッシュだ。
もらったそれを惣菜にを買った袋に入れようとし、派手やかな宣伝文句がふと目に留まった。『♡紳士のための妄想くらぶ♡~あなたのふくらむ妄想、エンジョします~』。
なぜ女のわたしに? と目を逸らしかけた。
『バススタッフ女性絶賛募集中!! 安心の3ナイ。脱がない、触れない、身バレない』。
下に続いた文言に目が吸いついた。
『時給3500円←高すぎないお給料が安心でしょ??』。
『素人さん♡大歓迎』とある。
まさか、ね。
まさか、こんなのに、ね。
目を凝らしてチラシを眺めた自分を嗤う。『安心でしょ??』とはあるが、軽目とはいえ立派な風俗ではないか。
「馬鹿」
小さく自分を罵った。でも、バススタッフって何するんだろう…?
まさかね。
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