何処吹く風に満ちている

夏蜜

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夜風

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 椿田は平木の頬に軽く手で触れてから腰を浮かした。同僚としてでも友人としてでもない、全く別の表情をしてだ。だが、平木はそんな些細な変化には疎い。
 だから、必要以上に距離が近くとも、平木は避けようとしなかった。結果的に椿田を受け取る状況となり、離れた後も行為の意味を明確に捉えきれずにいた。
「平木先生、……いや、ちとせ」
 平木は言葉を発さずに、視線だけを声のほうへ遣る。椿田の顔は、暗がりに溶け込んでよく判らなくなっていた。
「いい加減、目覚めろよ。こっちは早く喰べたくて我慢できないってのに」
 もう一度平木の頬を撫でる椿田に、平木はやっと声を絞りだせた。
「……里、お前、本気だったのか」
「初めからずっと。……お互い、もっと深く知る方々があるはずだ」
 椿田は再度、唇を触れ合わそうとする。そこで平木が同僚の肩を掴み、半ば信じられないような目つきをして口を動かした。
「三十までに結婚したいって、本気だったんだな」
 至って真面目に答えた平木だったが、椿田は眉間に皺を寄せて直前で行為を止めた。
「……結婚?」
「つまり、俺と一緒に合コンに行って相手を見つけて、……で、今のは練習ってことか」 
「ちょっと、何を言ってるんだか……」
 椿田は頭に手をやって考え込んだのち、大きく溜め息を漏らした。
「……ダメだ。予想より遥かに手強いな」
 肩を掴む平木の手を振りほどいた椿田は、立ち上がって背を向ける。 
「ああ、先に帰んのかよ」
「……この状況でよくそんなことが言えますね。貴方って人は本当に、今まで誰にも狩られずに生きてこられたのが不思議なくらいだ」 
 平木は立ち去ろうとする椿田を引き留めたが、彼は振り返らずに扉口へ歩いてゆく。だが束の間足を止め、顔は合わせずに平木に告げた。
「今度は容赦しません。もう、後戻りできませんから」 

 椿田がいなくなった後も、平木はチェアにもたれて茫然としていた。躰が思うように動かず、妙な感覚がいつまでも離れていかないのだ。
 夜風が窓辺から吹き込む。汗ばんだ素肌に纏わりつく風は、もうじき真夏を連れてくる前兆であるかのようだ。
 窓を開け放しただけの室内は、異常な暑さを保っている。そうではなく、躰そのものが昂っているのだと、平木は鈍った頭で気付く。
「あっれえ、……風邪ひいたかな」 
 平木は腕を擦りながら、窓辺に立って空を仰いだ。半分に欠けた月が、物足りなげに浮かんでいる。誰かに食べられたみたいだ。平木はそう思いながら、自分がいつ喰われるとも知らず月を眺めた。 




 
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