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第一章 発端 2
②
しおりを挟む叔父と兄が帰朝した翌日、薫子は学友の小笠原清子の邸へ招待されたと嘘をつきひとり出かけていた。
もちろん華族の令嬢だけあって徒歩や乗り合い、最近急速に発展した軽蒸気軌道(軽蒸軌)ではなく、馬車での移動であった。
本郷区の帝国大学赤門前の本郷五丁目にある、小笠原邸に薫子が着いたのは午前九時半頃であった。
敷地内の馬車回し(車寄せ)まで乗り入れようとする馭者に声を掛け、門の前で停車させた。
馭者は仕方なく、門の脇のくぐり戸を開ける。
しかしこのくぐり戸だけでも、通常の家屋の門よりも立派であった。
馬車を降りる際に中型サイズの革の鞄を馭者が手に持ち、邸内まで運ぼうとする。
「佐々木、鞄はあたしが持つからもういいわ」
「しかしお嬢様、――わたしが中までお運び致します」
その時十五メートルほど先の玄関の大きな扉が開き、中から薫子と同年代の少女が姿を現わした。
薫子はその少女に向かって手を振った。
「いいって言ってるでしょ、清子さまも出ていらっしゃった。後はあたしが持つからお前はお帰り」
「そうですか――」
馭者の佐々木は不承不承その言葉に従い、茶色の皮鞄を薫子に手渡した。
「迎えは夕方四時頃にお願い。今日は清子さまと一日ゆっくり過ごすの、お昼もここでいただくから心配いらないわ」
門をくぐる際に馭者にそう声を掛け、出迎えに出て来た清子と挨拶を交わし邸内へと姿を消した。
それから三十分後には薫子の姿は軽蒸軌の〝帝大赤門前驛〟から〝本郷三丁目驛〟の間の道を軽妙な足取りで歩いていた。
白いブラウスに細めのベージュのズボンに足を通し、大きめのハンチングの中に髪をまとめ入れている。
ぱっと見には少年のようである。
首には赤いネッカチーフを巻き、焦茶に輝く革編み上げの半長靴を履き、手にはステッキまで持っている。
本郷三丁目驛から軽蒸軌に乗り、白梅で有名な湯島天神を経由して上野驛まで出た。
そこで別の軽蒸に乗り換えて、浅草驛へと降り立つ。
太正に入り、東京市にはこの〝軽蒸軌〟が網の目のように敷かれた。
〝帝都蒸機軌道交通〟それが正式な名称である。
一説によると倫敦のメトロを手本にした、地下鉄道計画が進められているという。
これは地下隧道を走ると言うことで、現在主流の〝新蒸気機関〟ではなく、電気を使用するという。
すでに〝帝都高速度交通営団〟と言う名が出来ているらしい。
そうなれば地上は新蒸軌機関の軽蒸軌、地下は電力で走る地下鉄道がそれぞれしのぎを削ることになるだろう。
浅草に着いた薫子は真っ先に六区へ行き、いま大流行の浅草オペラを掛けている劇場に入った。
当時の浅草は七つの地区に分かれていた。
一区は〝浅草寺〟の本堂付近、二区は参道となる〝仲見世〟、三区は〝金龍山浅草寺・本堂〟と〝伝法院〟の敷地内、四区は明冶中頃に造成された〝林泉池〟〝ひょうたん池〟付近、五区は奥山〝浅草花屋敷〟の周辺、そしてもっとも賑やかなのが六区と呼ばれる興行街である。(七区は浅草馬道周辺)
日本最大の歓楽街浅草は、まるで祭りのように賑わっていた。
オペレッタ鑑賞を終えた薫子は、前から行ってみたかった凌雲閣に登った。
浅草十二階とも呼ばれる、日本で一番高い建物である。
一時廃止されていた電動式エレベーターも、新蒸気機関へ変更され再開されており、地上八階までは容易く行くことが出来る。
最上階から臨む〝ひょうたん池〟や浅草公園の眺望は一見の価値があった。
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