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第一章 発端 2
①
しおりを挟む日比谷公園にある松本楼で、薫子はカレーライスを一心に食べていた。
ピリリと辛いその料理は彼女の嗜好を満足させたと見え、まだ少女の表情を湛えた口元に知らずと笑みが浮かんでいる。
この緑に囲まれた三階建ての佇まいは、いまや帝都の名物のひとつになっている。
東京驛で合流した一行は薫子のたっての無心で、評判のこの店で食事を採ることとなったのである。
端っから薫子は松本楼での食事を意識しており、その日の朝食も半分は残してしまっていた。
いくら金があろうとも女学生が好きなときにこのような店に出入りして、勝手に食事をするなど許される時代ではなかったのだ。
新しもの好きな薫子はそのうちに松本楼のカレーライスを食べようと、秘かに好機を狙っていたのである。
「ねえ榮一朗、そのメンチホール一口ちょうだいよ」
隣の兄の皿から返事も待たずに、デミグラスソースのかかった挽肉と刻んだタマネギを捏ねたフライをパクリと口に放り込む。
「こら、薫子!」
榮一朗が注意するが、なんのことはない様子で口をムグモグと動かしている。
「うん、こっちもなかなかいけるわ」
満足げに感想を述べる。
ビフステークを刺したフォークを持ったまま、近文が苦笑いしその様子を見ていた。
「もう薫子ったらなんてお行儀が悪いの、わたし近文さまに対して恥ずかしくってたまらない。いい加減にしてください」
姉の冴子が泣きそうな顔になっている。
「ほれほれお嬢さま、少しはお淑やかに出来ないのですか。冴子さまが泣いてしまわれますよ、まったく誰に似られたのか。爺は――」
小言を言い始める乱丸の機先を制し、その口真似をする。
「情けなくて、お亡くなりになられた大旦那さまに申し訳が立ちません。腹を切ってお詫び申さねば、でしょ。爺の口癖は聞き飽きた。それにね誰に聞いてもあたしは、その大旦那さまによく似ているって言われるの。きっとお爺さまも、あの世で喜んでいらっしゃるわよ」
まったく意に介した風もない。
「薫子さん、その言葉遣いもどうにかならないのかしら。いまの流行りなのかも知れませんが、下賤な身分の者や花柳界の女たちみたいにしか聞こえませんよ。仮にも大名家の出自である、秋月家の令嬢がお使いになるのは如何でございましょう。それにお兄さまのことを呼び捨てにするなど、信じられません。旦那さま、あなたからもご注意なすってくださいませんか」
気の強さでは薫子に劣っていない紫津が、きっと眉を吊り上げて夫である龍彦の顔を見る。
「わたしは知らんよ、薫子を教育するのは兄貴の仕事だ。それにね、たしかに死んだ父に気性がよく似ている。母も女だてらに護身術の達人で、子どもの頃悪戯をするとよく投げ飛ばされた記憶がある。間違いなくこの子は秋月家の人間だよ」
「まあ、あのお上品なお婆さまが――」
冴子が驚きのあまり、口を大きく開けたまま固まっている。
「そうやってみなが甘やかすから、薫子さんのお転婆が直らないのです。このままでは、嫁に貰ってくださる殿方がいなくなっても知りませんからね」
紫津の小言は続く。
「あーら、それでしたら心配ご無用。紫津義叔母さまだって、龍彦叔父さまのような物好きと出会えたんですもの。あたしだってどうにかなるわよ」
鼻にシワを寄せて、薫子が憎まれ口を利いた。
「なんですって薫子さん! わたくしがなんだとおっしゃるの、聞き捨てなりませんよ」
「だってそうじゃありません、義叔母さまも若い時分は〝神田の巴御前〟って言われてたって聞きましたよ。長刀やら弓だのは相当な腕前で、そこらの殿方を見下していらっしゃったらしいじゃあないですこと」
「そ、それは元直参八千五百石・結城家の子女としての嗜みのひとつです。わたしの場合はお茶やお花、和歌に源氏や万葉集まで一通り身につけております。お琴の腕前は師範級ですのよ、あなたのお転婆とは訳が違います」
確かにこれは高禄の武家の娘であれば、当然身につけるべきものであった。
しかしご一新後の明冶の御代になってからは、その習慣も徐々に廃れていた。
されども結城家は、あと千五百石加増されていれば、たとえ小藩であろうが大名家にもなれたほどの三河以来の家柄である。
ほんの数例ではあるが徳川治世に於いて幕閣、それも若年寄の要職を務めたこともあった。
相手が誰であろうが、その気位の高さと矜持は並大抵のもではない。
「その辺で口喧嘩は止めなさい。お前たちは似たもの同士で口が達者だ、いつまでやっても埒が明かん。聞いてるこっちがうんざりするよ、ねえ近文君」
「いやあ、なんとも――」
龍彦の言葉にどう応えて良いか困った近文が、引きつった笑顔を見せる。
「ねえ近文兄さま、驛にいたあの書生さんのことを弟とおっしゃってたけど、なんのご冗談ですの」
さっさと自分の食事を終えてしまった薫子が、突然さっきから気に掛かっていた事を真顔で聞いてくる。
「ああ、真吾のことですか? まあ、なんと説明すれば良いのか――」
近文は言葉を選ぶように、小首を捻る。
「近文さまのご兄弟は、お姉さまの貴子さま、すぐ下の弟が政文さま、一番下の弟の寛文さま、そうして末っ子の由希子さまの五人のはずでございますのに。しかもあの書生さんは、もう一人の方から壬生と呼ばれておいででした。どういったご関係の方になるのです」
遠慮もなく紫津が、近文の兄弟関係を並べ立てる。
こちらも本性は、薫子以上のじゃじゃ馬なのだった。
近文と冴子の婚約が成立した際に両家の顔合わせも行われ、互いに顔見知りとなっているのだ。
しかしここに居る誰もが、先ほど東京驛にいた青年のことを知らない。
「紫津、そのような不躾なことを訊くもんじゃない、近文君が困ってるじゃないか。家庭にはそれぞれ言いたくない事もあるものだ。すまないな近文君、無理に答えることはない。気にせんでくれ」
すでに大人の男である龍彦には、何やら察しが付いているようだった。
「いいえ、そのうちに話さねばならないと思っていたのです。縁戚になる方たちに隠し事は失礼ですしね。端的に言いますと、真吾は父が妾に産ませた子どもです」
きっぱりと言い放つ。
「壬生真吾。いまは母方の苗字を名乗っていますが、やがては薗田の籍に入れることとなっています。なにも隠し立てしていたわけではないんです、まだ薗田を名乗っていないことからご紹介していなかったのです。すいませんでした」
この近文という人間、薗田コンツェルンの跡継ぎになるにしては、素直な性格すぎる嫌いがあるように見受けられる。
〝俗世間を、ましてや世界を相手に渡り合うにはこの素直さはどう評価したものか。いささか、いや相当に優しすぎる。家は三代で潰れると言うが、こんな好青年ではよほどしっかりとした番頭が舵取りをせねば、薗田家も苦労なさるだろう〟
龍彦はそう考えていた。
〝しっかりとした番頭、得てしてそんな人間が一番信用ならぬ場合もあるが〟
他家とは言え姪の嫁ぎ先であるが故に、龍彦は必要以上に気に掛かってしまっていた。
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