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プロローグ

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 これは私が10歳のころの記憶。


 伯爵家の庭園は手入れが行き届いているとは言えなかった。人通りのあるところは丁寧に剪定や芝刈りがしてあるが、少し奥に行くと雑草が生い茂っていた。
 しかし、私はそんな荒れた庭園が大好きだった。
 昆虫や魔獣が紛れ込んでくるから。

 私にとってその荒れ地は、小さな、小さな楽園だった。
 それは秘密の花園。


 私は夏の炎天下のなか庭先でじっとしゃがみ込む。
 汗が流れても気にしない。
 食事さえ忘れて、ただひたすら魔獣を観察する。
 好奇心が満たされるまで。


 今日の魔獣はまだ幼い。
 それは兄がいたずらに殺傷した魔獣。
 3匹はすでに死んでいて、小柄な一匹を残すのみ。
 薄茶色の毛に覆われ、目だけが黄金色に煌めいて夜の星空のように輝いて見えた。

 傷を負った小型魔獣はたぶん栗鼠と魔物の混血のようで小刻みに震えている。
 兄が練習剣で叩いたのだろう、下半身が動かない。

 魔獣は私を見て苦しそうに鳴く。

「痛いのね?」

 私はそっと手を差し出す。
 魔獣は私の手を見て臭いをかぐ。
 そして飽きたのか私の目を見て首を傾げる。

「もう心配ないわ。お兄様は勉強中だから。わたしがあなたを逃がしてあげる」

 魔獣は否定するように首を振り、私の瞳をじっと見つめる。
 私はなんとなく理解した。

 この子、もうすぐお迎えがくるのだと。


 私は膝の上に魔獣を乗せた。不思議なことに暴れる気配がない。

「死んじゃうのかな?」

 不安になってきて魔獣の背中にそっと手を当てる。
 暖かさが伝わってくると同時に目の前が白くなって何も見えない。

 私が立ち上がると空間と時間が捻じれていく。私のまわりを星が廻っている。
 夢に落ちたのかもしれない。



 やがて霧が晴れるように白い雲は流されていき、目の前の景色が激変する。

 そこは風が吹いていた。
 草の葉が風に飛ばされ空を舞っている。
 なおも風は強く吹き荒れる。

 私は髪の毛を抑えて空を見上げた。
 太陽がものすごく遠い。

 遠くから聞こえる雷の音、雨の予感を風が運んでくる。
 私は雨の前にただようあの香りが嫌いだ。

 やがて雨は本降りになり、体中が雨に濡れてしまう。
 稲光に驚き、遅れて届く雷鳴に恐怖する。


 私は魔獣になっていた。それは、さっき庭で見つめていた魔獣。

 五体満足で生きている。
 だから、草を掻き分け走り続ける。

 本能のままに。
 山を越え、湿原で濡れ、小川を泳いで渡る。
 木の枝を伝ったり、小さな穴倉を迷いなく進んだりした。

 世界は私が知っているよりも広大で力にあふれている。
 私はただ走りまわる。

 余計なことなど何も考えない。
 気がつけば宇宙を旅していた。真っ暗で星々が瞬く世界。

「あなたは旅することに憧れていたのかしら」

 真実はわからない。
 でも、魔獣の願望に違いない。


 世界の中心が青白い焔で覆われていく、星々が飲まれてさらに輝きが強くなる。
 とても眩しい。
 嵐のように私の魂は揺り動かされた。

 たぶん眠ってしまったのだろう。
 そこから先の記憶はない。




 これは子供のころにみた夢。

 そして、それは夢現術の目覚め。世界が輝く記念すべき日になった。
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