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G6第六戦:プレジャーRd

第三十六話:ふたりきりの夜

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 泥酔した薫子を俺が愛車に積み込んだのは、それから少しあとのことであった。
 わずかでも意識を取り戻してくれたら、という淡い期待などどこへやら。
 完全無欠な眠り姫と化してしまったあいつは、目覚める気配をちっとも見せてはくれなかった。
 千春さんの手を借りながら、そんなあいつの身体を助手席に載せた俺は、アクセルワークに細心の注意を払いながら、自宅への道を忠実に走った。
 下心って奴が少しも脳裏を過ぎらなかったのか、と問われたら、実のところノーと言うだけの自信はない。
 すぐ手の届くところにある、無防備極まる魅惑の女体。
 シートベルトを斜めに挟む豊かなふたつの膨らみに、嫌でも視線が伸びちまった。
 でも、目的地としてこいつのマンションを選ばなかったことについては、胸を張って言えるだけのわけがある。
 薫子の住んでるマンションは、入り口にオートロック式のセキュリティーが付いているのである。
 つまり、そこの住人であるこいつ自身がこの有様では、その玄関をパスすることなんてできない。
 扉を開けるための暗唱コードがわからないからだ。
 となれば、俺に残された選択肢って奴は、さほどの数に及ばなかった。
 そして、自分の家にこいつを持って帰るってのは、その中でも最善の一手と考えられる決断だった。
 少なくとも、ホテルの部屋に連れ込んだり、このまま車内で夜を明かすっていうのよりは、よっぽどまともに感じられた。
 自宅の敷地にクルマを乗り入れ、脱力しきった薫子の身体を引きずるように助手席から降ろす。
 想像以上の重さだった。
 漫画やアニメだと、普通の男性主人公がヒロインの身体をひょいっと気軽にお姫さま抱っこしてたりするが、あれは嘘だと実感した。
 考えてみれば、それもそうか。
 人間ひとりの重さなんて、そんなに軽いわけがない。
 それなりの腕力と覚悟がなければ、あんな芸当を易々こなせるはずもなかった。
 化粧品の微香に交じって、強烈なアルコール臭が俺の鼻腔に襲い掛かる。
 正直言って滅茶苦茶不快だ。
 だがその一方、この嫌な臭いに感謝する一面もあった。
 薫子の醸すオンナの香りを、酒の臭気が打ち消してくれたからだ。
 もしそうでなければ、ここ数日で確実に溜まってる俺の息子は、持ち主の意図を一顧だにせず戦闘姿勢を整えただろう。
 無理矢理肩を貸すような格好で、俺はあいつに自宅の門を潜らせた。
 対人センサーが反応して、真っ暗な玄関に照明が点る。
 人の気配はゼロだった。
 あたりまえだ。
 もしそんなものがあったとしたら、そいつは泥棒か何かに相違ない。
 足先だけを用いて靴を脱ぎ、身体をかがめて薫子のパンプスも脱がせる。
 パンストに覆われた脚線美が、嫌でも至近で目に入った。
 密着した右半身に、人肌の温もりがジワリと浸み込む。
 これまで意識したこともない生の刺激。
 クソッ、と短く悪態を吐き、その感触を理性の力でねじ伏せた。
 階段を上り、我が神殿の中枢へと到着。
 入口の扉を足で開け、その奥にあるベッドの上に、ようやくのことで女神の五体を横たえた。
「んんッ」
 重労働を終えひと息ついた俺の目の前で、薫子の奴が艶めかしく身体を捻った。
 タイトスカートから延びる長い両脚をこすり合わせ、右腕を頭の上に振り上げる。
 その筋のオタクならわかるだろう。
 そのポーズはまさしく、等身大抱き枕に書き込まれた二次元美女のそれだった。
 決定的に違っているのは、その艶姿が体積を持ち、その気になれば本当に触って確かめることができるってことだけだ。
 あいつの自称Gカップバストが、白いブラウスを内側から力強く押し上げていた。
 その存在感はまるで、天井にいる俺の嫁フレデリカを挑発してるような感じだった。
 さあ、どっちが上か競いましょう。
 三次元オンナを代表して、そんな台詞を放っているかのようにさえ思えた。
 液晶画面の灯しかない、薄暗すぎる俺の部屋。
 そんな中で浮かび上がる、実体を備えた生身のオンナ。
 色気のある吐息とともに、甘い香りが俺の周囲に漂い始めた。
 気のせいじゃない。
 それは、薫子の放つフェロモンだった。
 ベッドの真横で立ちすくむ俺。
 丸腰の想い人を、いまじっと上から見下ろしている俺。
 目の前の女体に対し、俄然優位な立ち位置にいる俺。
 そんな自分を認識した刹那、胸の鼓動がその回数を急激に増した。
 ドク、ドク、ドク──…
 身体の芯がたちまちのうちに熱くなり、血液の流動がこの上もなく激しくなる。
 無意識のうちに呼吸が荒れた。
 鼻からだけじゃ収まりきらない。
 意識が次第に朦朧となり、股間のアレにタキオン粒子が充填され出す。
 ゴクリ。
 生唾を呑む音が、やけに大きく感じられた。
 ひょっとしてこれ、据え膳って奴じゃないのか?
 けしからぬ思考が、俺の内部で鎌首をもたげた。
 そいつは悪魔のささやきだった。
 股間に潜むオスのさだめが、渇きを満たせと飼い主に詰め寄る。
 何をためらってる?
 こんなチャンス、二度とはないぞ。
 この状況、ほかのオトコだったら、とっくにアクション起こしてるはずだぜ?
 なんでおまえだけが、お行儀よくしてなくちゃならないんだ?
 童貞捨てたいんだろ?
 最高のオンナを相手に気持ちよく射精したいんだろ?
 見ろよ、この美味しそうな身体。
 いまならこいつを、好き勝手できるんだぜ?
 誰にも邪魔されず、思う存分味わえるんだぜ?
 そんなことをしたら嫌われる?
 それがどうした?
 仮にそうなったとしても、そんなのは、これまでのおまえの人生といったい何が違うっていうんだ?
 約束を破ることになる?
 綺麗事を。
 赤の他人千春さんとの約束なんざ、ガン無視したっていいじゃないか?
 な、悪いことは言わねえ。
 ここで一発、オトコらしく決めちまえよ。
 いまここで決めちまわねえと、おまえ一生チェリーのままだぜ?
 それでもいいのか?
 色香に迷った俺の意識が、合理のレールを逸脱しだした。
 ハァハァと乱れた呼気に導かれ、震える右手が眠り姫に向かう。
 ちょっとだけ。
 ちょとだけなら、たぶんいいよな?
 手前勝手な言い訳が、俺の脳裏をグルグル回った。
 気付かれないように触るだけだし、問題なんてどこにもないよな?
 だいたいだな。
 飲み過ぎて、こんな風に潰れちまった薫子のほうが悪いんだ。
 健康なノーマル男子の前で、そんな無防備晒してる薫子のほうが悪いんだ。
 おっきい胸。
 引き締まった腰。
 むっちりしたフトモモ。
 こんなの見せつけられて、正気でいられる野郎なんていない!
 いるはずがない!
 そうさ!
 よく考えればいま俺は、そんな莫迦オトコからこいつのことを守ってんだ!
 だったら、これぐらいの役得があったっていいはずだ。
 いいはずなんだ!
 俺だって、俺だってさ、年頃のオトコなんだよ。
 一生に一度くらいは、そんな良い目を見たっていいじゃないか!
 わかれよ!
 頼むよ!
 わかってくれよ!
 膝をつき、近い距離から薫子の顔を覗き込む。
 長いまつ毛。
 すっと通った鼻筋。
 悩まし気な唇。
 滑らかな頬のラインが気になって、思わず手のひらを当ててしまう。
 染みひとつない、大理石みたいなこいつの肌。
 シルクみたいな触り心地が気持ち良すぎて、そいつを堪能してしまう。
「あ……」
 薫子の口が開いて、短く音を吐き出した。
 その声色が、やけにいろっぽく俺に届いた。
 胸の奥で、ハートがドラムを乱打する。
 それに合わせて息子の奴マイ・サンが、痛いくらいに硬度を増した。
 光沢のある厚めのリップ。
 これに自分のを重ねたら、どれぐらい気持ちいいんだろう?
 呼吸に合わせて上下する、小山のようなふたつのおっぱい。
 これを手で揉んだら、どれぐらい柔らかく感じるんだろう?
 ストッキングに包まれた、カモシカみたいな二本の美脚。
 これの間に挟まれたら、どれぐらい興奮できるんだろう?
 その最奥に隠された、オンナがオンナである芯の部分。
 そこに俺のを突っ込んだら、どれぐらい感動できるんだろう?
 できたらそのまま、子宮の奥に生の精子を送り込みたい。
 でもってこいつの卵子と受精させて、俺の子供を孕ませたい。
 俺の子供を、俺の家族を産ませたい。
 そしたら、そしたら、この最高のオンナを俺の家族にできるかもしれない。
 俺だけの家族、俺だけのオンナにできるかもしれない。
 俺だけのオンナ。
 そう、誰にも手を出されない、本当の意味での俺だけのオンナに。
 欲望がはじけて自制心が飛んだ。
 あいつの頬に右手を添えて、ゆっくりと唇同士を近付けていく。
 が目に入ったのは、そんな刹那の出来事だった。
 薫子の首に巻かれている紫色したシルクのスカーフ。
 それは、俺がこいつにプレゼントしようと購入した品物であり、あの夜の一件で俺があそこに落としてきたもの、それそのものに間違いなかった。
 なんで薫子がこれを──…
 疑問に駆られ、そっとそいつに手を伸ばす。
 その時だった。
 薫子の口から、激しい悲鳴が迸ったのは。
「嫌ァァァッ!」
「わわわッ!」
 日本刀みたいなその鋭さに、俺は思わず飛びのいた。
 のぼせたアタマに冷や水をぶっかけられたってのは、まさにこの事態のことを言うのだろう。
 「ごめんなさいッ!」という謝罪の言葉が、脊髄反射で飛び出してきた。
 あいつの姿を直視できずに、顔を反らして身をよじる。
 あたりまえだがこの時、俺は薫子が目覚めちまったんだと判断した。
 いたずらをしでかそうとした莫迦な俺を、奴が咄嗟に拒絶したもんだとばかり思い込んだ。
 追撃が来る。
 覚悟を固めて身を縮めた。
 いまのは全部、俺が悪い。
 意識がないのをいいことに、女性の唇を奪おうとしたんだ。
 叱咤を受けるのは当然のこと。
 それっくらいの常識は、わきまえているつもりだった。
 でも、予想していた口撃は俺のもとに訪れなかった。
 実のところ薫子は、少しも目覚めてなどいなかったんだ。
 二重のまぶたは、いまだきっちり閉ざされたまま。
 にもかかわらずあいつは、血を吐くような勢いで絶叫し続ける。
 まるで見えない何かに抗うみたいな、そんな感じで両の手足を振り回しながら──…
「嫌ァッ! もうやめてッ! 触らないでェェェッ!」
 左右に何度も首を振り、おとがいを反らして奴は叫んだ。
「やめてッ! 許してッ! こんなの嫌ッ! 絶対に嫌ッ! 誰かッ! 誰か助けてェッ!」
 細くて綺麗な五本の指が、目の前の虚空を必死になって掻きむしる。
「お願いッ! もうやめてッ! 誰にも言わないからッ! 絶対に誰にも言わないからァァァッ!」
「こんなの嫌ッ! 絶対に嫌ッ! 嫌嫌嫌ッ! 嫌ァァァッ!」
「やめてッ! 助けてッ! お願いッ! お願いしますッ! 助けてくださいッ! 助けてくださいッ! 誰かッ! 誰かッ! 誰かァァァッ!」
「あッ! あッ! あッ! 嫌ァ……嫌ァ……こんなの嫌ァ……助けて……助けて……お母さん……お母さん……お母さァァァん!」
 哀願する薫子の両目から、大粒の涙が溢れ出した。
 みるみるうちに、ぼろぼろと、ぼろぼろと、それは柔らかなあいつの頬を濡らしていく。
 しかめられた眉根の様が、見るからに痛々しかった。
 あれじゃあまるで、飢えた魔物に貪り食われる哀れな生贄そのものじゃないか!
「薫子……」
 七転八倒しているそんなあいつを、俺は呆然と眺めていた。
 想定外の出来事に、オツムが機能不全を引き起こしたからだ。
 それは、パニック映画とかにありがちなワンシーンだった。
 俺は、目の前で悶え苦しむ想い人を、ひたすら見つめる観察者へと成り下がってしまっていた。
 恐怖と混乱とが全身を支配し、俺の身体を石にした。
 役立たずの木偶人形とは、この時の俺にこそ、まったく相応しい称号であっただろう。
 薫子の奴、悪い夢でも見てるのか?
 鈍い頭が、そんな予想を掲示する。
 にしたって、この有様はただごとじゃないぞ。
 悪い夢ってのは、過去の経験から大きな影響を受けるって聞く。
 だとしたら、薫子。
 おまえはいったい、何を経験しちまったんだ?
 そこまで苦しめられるほどの、いったいどんな出来事を見ちまったっていうんだ?
 千春さんとの会話が俺の脳裏に蘇ってきたのは、まさにそんなおりでのことだった。
 「シーガル」の店内で彼女が語った薫子の過去。
 その意味深な一節を思い出し、俺は激しく戦慄した。
『薫子ちゃんはね、まだ高校生だった時分、不本意ながらそんな悪意に晒されちまった。そうさ。娑婆で管巻くくだらない男たちのせいで、このは、思い出したくもないほどのこっ酷い目にあわされちまったんだ。くだらない……心の底からくだらないって断言できる、そんなゴミクズみたいな男たちの手で、ね』
 薫子は、誰かにレイプされたことがあるんだ──…
 それこそが、俺の導き出した結論だった。
 もちろんそれには、裏付けとなるべき何物かはひと欠片も存在しなかった。
 だけど俺は、自分の下したその結論を疑ったりなどしなかった。
 確かにそいつは、端から見れば単なるエロ妄想に過ぎなかっただろう。
 他人に言えば「考えすぎだ」のひと言で叩っ切られてただろうし、もしもうひとりの俺がその場にいたとしても、やっぱり否定的な見解を下してたと思う。
 それでも、俺は確信した。
 確信してしまった。
 あいつは高校生だった時分、ろくでもないクズどもの手で、その身を汚されてしまったんだ、と。
 想い人の苦悶を目にして、安っぽいヒロイズムがまたぞろ脈動を始める。
 手のひらに指先が食い込み、奥歯がギリッと音を立てた。
 俺は所詮オトコだから、蹂躙されるオンナの気持ちを、完全にはわかってやれないと思う。
 それが罪だというのなら甘んじて受けるし、そんな自分であることを、恥ずかしながら否定できない。
 だけど、これだけは想像がつく。
 どれだけ怖かったんだろう。
 どれだけ辛かったんだろう。
 そして、どれだけ悔しかったんだろう。
 俺はそう思うと同時に、ついさっきまでの自分自身を心の底から恥ずかしく感じた。
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 そんなのは許されることじゃないッ!
 そんなのは許されることじゃないッ!
 俺はッ、俺はッ、あかねの彼氏どもみたいな、あんなヤリたいだけのクソ野郎になんて死んでもなりたくないんだッ!
 俺はッ、俺はなッ、こいつにちゃんと認められる、こいつだけの……そう、こいつだけのオンリーワンになりたいんだよッ!
 小刻みに身を震わせ、ギュッと唇をかみしめる俺。
 そんな俺の耳奥に短い言葉が飛び込んできたのは、それからすぐのことだった。
 懸命すぎる哀願の中で、あいつは、そう、あいつは間違いなく、そのセンテンスを口にしたのだ。
「助けてッ、圭介くん! 助けてェッ!」
 それは紛れもなく、俺の名前にほかならなかった。
 天地神明に誓って、聞き違いなどではなかった。
 あいつは間違いなくいま、俺の名前を呼んだのだ。
 俺は咄嗟に目を見張った。
 そんなシロモノがあいつの口から飛び出してくるなんて、思ってすらもみなかったからだ。
 いま夢の中であいつがどんな目に遭わされているのか、そいつは俺にはわからない。
 もしかしたら俺の予想は見当違いの大外れで、夢の中の薫子が、単に悲劇のヒロイン役に酔っぱらっているだけのことなのかもしれなかった。
 そういうのは実際によくある話だと思うし、確率からしてそちらのほうがはるかに高いと考えられた。
 だがそれでも、あいつが俺に助けを求めたという事実、それだけはいま、疑いようのない真実と化した。
 そうだ。
 たとえ現実ではない夢の世界であったとしても、あいつはいま、ほかの誰でもないこの俺の名を呼び、俺に助けを求めたのだ。
 電撃が、身体の芯を走り抜けた。
 真っ赤になった焼け火箸が、尻の穴から脳天までを一気呵成に突き抜けていく。
 そして次の瞬間、突き動かされた俺の両手は、薫子の右手を力一杯握りしめていた。
 俺は叫んだ。
 惚れたオンナの心の奥に届くように、渾身の力で呼びかけた。
「俺はここだッ! ここにいるぞッ!」
 続く刹那、薫子の顔から険しさが消えた。
 入れ替わるようにして、無邪気な笑みが浮かんで来る。
 無垢で幼い、赤ん坊みたいなその表情。
 そんな純真を見せつけながら、こいつの口は、またしても俺の名前を溢れさせた。
 たった一度だけ、ゆっくり優しく「ああ、けいすけ」と。
 前後して、しなやかな左手が俺の両手に重ねられた。
 そのままそいつを自分のもとへと引っ張り込んで、飼い猫みたいな頬ずりをかましてくる。
 思わぬ仕草にドキリとする俺。
 そんな従者を尻目にして、姫君は眠りの国へと帰って行った。
 よっぽど安心したんだろうか。
 静かな寝息がふたたび周囲に放たれ始める。
 薫子の中から悪夢は去った。
 そのことを確信するや否や、とてつもない達成感が胸中を満たした。
 そう。
 俺はいま生まれて初めて、自分の信じるオトコの責務を見事果たすことに成功したんだ。
 手を握ったままの形で、俺はしばらく女神の寝顔を見詰め続けた。
 膝をついた姿勢を維持しながら、飽きもせず、ただじっと、想い人の横顔を堪能し続けた。
 自分の「オンナ」を持つっていうのは、こんな感触なんだろうか?
 フレデリカという「俺の嫁」には決して抱くことのなかった、そんな想いが切々と込み上げてくる。
 なんとも形容しがたい不思議な感覚だった。
 何度も何度も、無意識のうちに背筋が震えた。
 下賤な行為に例えるとしたら、そいつはもはや射精に近い。
 ゾクゾクとした腰のしびれに導かれ、微妙なレベルで口元が緩んだ。
 受け容れて、もらえるかもしれない。
 そんな希望が、忽然と俺の内部に出現した。
 こいつになら、本当の俺を受け容れてもらえるかもしれない。
 こんな俺を、こんな俺を、こいつなら受け容れてくれるかもしれない。
 だが、すぐさま現れたもうひとりの俺が、たちまちそいつを否定する。
 パンドラの箱に潜む希望という名の小さな輝き。
 もうひとりの俺は、そんな希望の存在こそが、ひとに過ちを起こさせる原動力なんだってことを嫌っていうほど知っていた。
 希望なんて持たなければ──…
 希望なんて持たなければ──…
 希望なんて最初から持たなければ、ひとは過ちを犯さない。
 なまじ希望なんてものを持ってしまうからこそ、それにすがって、ひとは過ちというものを犯してしまうのだ。
 そうさ。
 希望なんてものを初めっから持たなければ、俺は山崎あかねに告白なんてしなかった。
 なまじ希望なんてものを持っちまったからこそ、俺は山崎あかねに告白なんかをしちまった。
 希望なんてものを持たなければ、俺はあんな目に遭わなかった。
 身の程知らずの冒険をして、あんな思いをしなくて済んだ。
 身の丈に合った人生を、きちんと選択できてたはずだ。
 はずなんだ。
 希望っていうのは一種の罠だ。
 持たない者を惑わすだけの、メフィストフェレスの甘言だ。
 だから俺は、あの一件からこれまで、そんな希望を持たないように心掛けてきた。
 裏切られるだけの希望なんて、持ったところで仕方がない。
 どうせ俺なんて──…
 どうせ俺なんて──…
 そんな風に口ずさみつつ、斜に構えて生きてきた。
 生まれながらの「持たざる者」である俺にとって、希望なんてシロモノは過ぎた贅沢だと信じたからだ。
 なのにいま、俺はそんな希望に憑りつかれてる。
 抑えきれない希望の波に、身を任せようとしちまってる。
 もうひとりの俺が警告を発するのも当然だった。
 薫子──…
 両手の中の確実にある温もりに、全神経を集中する。
 俺は、いったいどうすりゃいいんだ?
 疑問が実を結ばないうちに、鼻をつく腐臭が俺の背中を這い上ってきた。
 粘液質な感触とともに、白い指先が首筋を撫でる。
 あの妖怪女の仕業だった。
 オンナというものを凝縮した、顔を持たないオンナの化身。
 そいつは背中から俺にのしかかり、嘲りの言を連発する。
『受け容れてもらえる? 受け容れてもらえる? 莫迦だねェ。そんなことあるはずないだろ、この童貞小僧が』
 奴は笑いながら、耳元近くでささやいた。
『おまえみたいな半端な子供ガキを受け容れるほど、オンナって奴は愚かじゃないよ。オンナってのはね、おまえたちオトコが思ってる以上のリアリストなのさ。欲しいオスには喜んで股開くけど、いらないオスにはせいぜい笑顔。聞きたくはないだろうけど、それがオンナっていう生き物の必勝戦略なのさ。
 だからね、おまえみたいな出来損ないが本当の意味でオンナに選ばれるなんてことは、この世じゃありえないことなんだよ。考えてもみな? 顔も適当、稼ぎもない、セックスは未経験。そんな無価値なオトコとしての失敗作を、いったいどこの誰が受け容れようってんだい? オンナにとって、そこにどんなメリットがあるっていうんだい? ははは、言われなくてもわかりきったことじゃないか。
 おまえだって、そんなことぐらいわかってんだろ? そうとも。頭じゃわかっていなくても、全身の細胞がわかってるはずさ。なんたっておまえは、このアタシが腹を痛めて産んだ、実の息子に違いないんだからね。ははは、はははははは』
 妖怪の嘲笑は、延々と延々と継続した。
 俺のことを莫迦にし、侮辱し、当てこすりとともに蔑み倒した。
 そんな資格なんてこの俺にはないのだと、繰り返し繰り返し耳の奥へと注ぎ込んだ。
 「シーガル」で聞いた千春さんの発言が、そのたびごとにそれと重なる。
『惚れたオンナを守るかどうかってのは資格じゃなくって権利だぞ。それを理解しないで自分の立場に目を背けてるようじゃ、おまえさんには男としての価値がない。もしおまえさんが本気で恋を実らせようと思ってるなら、大事な権利を放棄して足踏みなんかしてるんじゃないよ』
 耳にした時は、素直に素敵な台詞だと思った。
 だがいまは、その内容が酷く白々しく感じられる。
 混乱が押し寄せ、頭の中がグルグルと回った。
 結局その日、俺は一睡もできずに朝を迎えた。
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