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G6第六戦:プレジャーRd
第三十三話:ターニングポイント
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俺って奴は、つくづく駄目なオトコだと思う。
ひとたび何かを思い込んだら、光の速さで視野狭窄に陥っちまう。
これまでの人生を振り返れば、何度もそういう経験があった。
実際に痛い目を見たことだって、それこそ両手の指じゃ追いつかない。
そういう無様を何度繰り返しても懲りないんだから、まったくもって、自分が情けなくなっちまう。
自己嫌悪を通り越して、自己否定にすら第一歩目を踏み出しそうだ。
最近の出来事でその一例をあげるなら、そいつは言うまでもなく、あの山崎あかねの一件だろう。
あの一連の騒動で、この俺は、我が国に存在するオンナっていう生き物が、卑劣で醜悪で浅ましい、どうしようもないゴミクズなのかを思い知った。
いまもって断言できる。
生身のオンナと良い関係を結べるのは、その外見が好まれるモテ男か、さもなくば奴らの要求に青天井で応えられる社会的・経済的な成功者だけだ。
そんなことない! 私たち女性は男性の性格を最重視している!
公には、そういうことを主張する三次元オンナは多い。
というか、そういう主張が大半であることぐらい、この俺だってわかってる。
でも、改めて現実って奴を考察すれば、そんな主張はいともたやすく覆る。
恋愛ものの漫画やアニメを見てみるがいい。
登場するその他大勢のオンナたちは、容姿や財力に優れたライバルキャラには先を争って群がり寄るけど、そうでない中身イケメンの主人公をスルーするのがほとんどじゃないか。
俺は、あれこそがオンナの本音なんだと思ってる。
事実、「アニメのヒロインみたいなのが理想だ」っていう非モテオタクの宣言に「あんなのはいない。現実を見ろ」って応えるオンナは九割方を占めるだろう。
つまり、内心ではあいつら自身も認めてるんだ。
モブとヒロイン、どちらの行動がよりリアルで自分たちに近い存在なのかを、奴ら自身が一番よく知ってるんだ。
こいつは俺の妄想か?
いや、そうだとは思わない。
そりゃあ、物事には絶対ってことはない。
どんな少ない確率であっても、想定外の対象って奴は、必ずどこかに存在する。
ヒロイン的な中身のオンナも、この世のどこかにいるだろう。
たとえそれがイリオモテヤマネコの数より少なかったとしても、その実在を俺も完全否定するわけじゃない。
ただ同時に、そんな希少な存在が俺みたいなのと遭遇する機会なんて、きっかりゼロに違いない、ぐらいなことは思っていた。
どれほど楽観的に考えてみても、年末ジャンボの一等賞に当たるくらいの、いやむしろ降ってきた隕石に直撃されるぐらいの可能性なんだと、心の底から信じきってた。
そう、まさについこの間までは──…
大橋薫子。
このオンナと出会っちまってからの俺は、文字どおりライトノベルの主人公みたいな、端から見たら「ありえね~」ってくらいの環境にあった。
取り柄といえば漫画を描くことしかない俺みたいなオタクが、寄りにも寄って、アニメキャラみたいな完璧超人と恋人紛いの週末を送ってるのだ。
相手が十ほど年上とはいえ、普通に考えれば、こんな奇跡は万が一どころか億が一ってところだろう。
少なくとも、凡人が望んで得られる幸運じゃない。
それぐらいのことは、さすがの俺も承知していた。
ただ、それに気付くのが凄まじく遅かったってだけの話だ。
そしてこれこそが、俺ってオトコが駄目なんだって自覚できる一番の理由だった。
そう。
言い訳なんてしない。
俺はいま、この大橋薫子っていう人生最大の幸運に、すっかり参ってしまっているのだ。
雑な言葉を用いるなら、ぞっこんだったと言い直してもいい。
あのオンナは、俺の中に連綿と築かれてきた「下衆で汚い三次元オンナ」ってイメージから、軽く百万光年は離れていた。
もっとも、具体的にどこがどうと説明するのは、いまの俺では不可能だった。
とにかく、ありとあらゆるところが決定的に異なってたからだ。
もちろん俺のそうした見解に、あいつのルックスやプロポーションがひと役買っていたことは否めない。
あいつの持つずば抜けた美貌。
目を見張る巨乳。
魅惑的な腰付き。
長い手足とふくらはぎ。
俺だって一応オトコの端くれだ。
下半身の好みがものを言うことだって、絶対ないってわけじゃない。
でも、それだけじゃないことは明白だった。
俺にとって、あいつはまさしく女神だった。
奈落で苦しむ哀れなオトコに遣わされた、天空からの蜘蛛の糸だった
随分とまた大袈裟な表現だけど、それが過剰であるとは少しも思えなかった。
雲間から差し込んできたひと筋の光明。
そんな穏やかな温もりに、俺は思わず手を伸ばしてしまったというわけなんだ。
恋っていうのは、こんな感情のことを言うんだろう。
鈍感な俺にだって、その程度の理解力はある。
その程度の状況把握は、なんとかついてるつもりだった。
だからこそ、俺の中にいるもうひとりの俺が警告を発した。
恋愛感情っていうのは精神のバグだ。
理性的な判断を狂わす妨害電波だ。
頭を冷やして思考してみろ。
その想いに乗っかることが、本当におまえのためになるものなのかを──…
わかってる。
そんなことぐらいはわかってる。
茹った俺が、もうひとりの自分に言い聞かせる。
いまの俺は、かつての俺と同じように猪突猛進を始めてる。
痛い目を見る可能性、深い傷を負う可能性から、意図してその目を背けてる。
薫子だって、しょせんはオンナだ。
どれほどそうじゃないって思えても、それが間違いだって確率は少なからず存在する。
ましてや、俺の選球眼がろくでもないって事実は、あかねの件で立証済みだ。
今回だって、きっとそうに違いない。
まともに考えれば、その可能性のほうが百パーセント。
俺の望みが叶えられる見込みなんて、これぽっちもありはしない。
そう考えるのが普通だったし、そう考えるのが合理的だった。
恐らくだけど、諸葛孔明がいまの俺をサポートしてたら、「お待ちください! それは罠です!」と身を挺して止めにかかる事態なんじゃないだろうか。
でも……それでも、だった。
どう冷静になろうとしても、俺の心の暴走は、ちっとも鎮まってはくれなかった。
猛る右手が麻のくびきを引きちぎり、運命のダイスを振ろうと逆巻く。
分の悪いギャンブル。
勝ち目のない博打。
結果の見えてる負け戦。
にもかかわらず、俺の両足はそちらに行くのをためらおうとしてくれなかった。
調子を速め、歩幅を大きくすることを戸惑ったりはしてくれなかった。
男には、たとえ死ぬとわかっていても行かねばならない刻がある。たとえ負けるとわかっていても、戦わねばならない刻がある──って、そんなわけあるかいッ!
突如浮かんだ漢の台詞に、すかさずツッコミが炸裂する。
莫迦だ。
莫迦だ。
大莫迦だ。
本当に俺って奴は駄目なオトコだ。
無策のままに敵陣めがけて突っ込んでく、そんな愚かな新兵そのものだ。
そして気が付いたとき、俺の手の中では、あいつに送るべきプレゼントがしっかりとした自己主張を果たしていた。
それは、俺という初心で間抜けなチェリーボーイが引き返しのつかないところにまで到着したという、なんともわかりやすい証明であった。
紫色した絹のスカーフ。
価格は七千五百円。
そういった店に出入りするのが嫌だったから、商品自体はネットを通じて購入した。
もちろんだけど、相応のパッケージングは施してある。
あまり派手ってわけではなく、だからといってデパートの包装みたいに安っぽいってわけでもない。
そんなラッピング用紙に包まれた細長い箱。
この手のセンスに自信がないからあちらの提示に任せたけれど、個人的には、それがかえって良い方向に作用したと自賛できるくらいの雰囲気だった。
本当なら、もっと高価な品を選んだほうが女性向けのプレゼントとしては良かったのかもしれない。
例えば、宝石や貴金属みたいなミもフタもないヒカリモノ。
それが高級ブランドのモノだったとしたら、なおのことだと俺でもわかる。
だけど、さすがにそいつははばかられた。
恋人同士の関係ならいざしらず、その兆しすらない相手に贈る品物としては、そういうブツはいささか重過ぎるように思えたからだ。
そしてなにより、このスカーフはあいつの首にとても似合う気がしてならなかった。
実は、カオルゥをデザインしていた時から密かに思ってたりしたんだ。
きらびやかなアクセサリーやなんかの類は、全然あいつに相応しくない。
なぜなら、薫子という一己の存在そのものが、夜空の星より輝きを放つ飛びっきりの宝石だからだ。
ジュエリーをジュエリーで飾ってどうする?
そんなの、どっちかがどっちかの光に呑まれて存在感がかき消されるだけじゃないか。
眩さに満ちた宝玉は、もっと別の方向性で装飾すべきだ。
漫画や小説のキャラクターたちだってそうだろう。
Aにはできないことがあり、そのできないことをBが補う。
そしてまた、その逆もしかり。
そういう関係が成り立って初めて、AというキャラもBというキャラも物語の中で弾けることができるってもんだ。
物語ってのは個性と個性の椅子取りゲームじゃない。
物語ってのは個性と個性の共同作業にほかならないんだ。
それは俺という個人が持つ、矮小な創作哲学に過ぎなかった。
でも俺は、その正しさに疑問を持ったりしなかった。
自己判断に対する強い妄信。
普段の俺なら、自分の描いた正しさをもっと構えて眺めただろう。
危険に過ぎる兆候は、自覚するまでもなく一気にヒートアップを果たしていた。
後ろに回った何者かが、俺を陰から操っている。
鼓膜の側では、そいつの囁きが延々と繰り返されていた。
まるで魔物だ。
そうそれは、恋愛感情という名を持つ闇の詐話師に違いなかった。
そんな妖異に憑りつかれたこの時の俺にとって、残された問題は、どう自然な成り行きでこれをあいつに贈るのか、ただそれだけであった。
残念ながら、何かのイベントにかこつけるのは不可能だった。
だからといって、ド直球の告白を敢行しちまうのは、当初の計画からして本末転倒以外の何物でもない。
押して押して押しまくって、あいつのハートを力技でものにする。
いまの俺のスペックじゃ、そんな芸当は絵空事だ。
難攻不落の薫子城。
正門突破が叶わないなら、搦手から攻めるしか方策はない。
少しずつ、少しずつ。
長期の包囲戦を覚悟して、天守閣まで陣を進めるしか落城までの道筋はない。
考える時間はたっぷりあった。
しかしながら、まったくいい知恵は浮かばなかった。
あたりまえだ。
恋愛成就の良薬なんて、俺の引き出しにはひと欠片だって入ってない。
上手い手口を思い付く可能性なんて、それこそゼロに等しかった。
結局、俺が採択したのは「ジムカーナの練習に付き合わせた謝礼」という、どうにも中途半端な理由でしかなかった。
インパクトに欠けること甚だしい。
自分で言うのもなんだけど、取って付けた感に満ち満ちた道理でしかなかった。
果たしてこんなので、俺の想いは届くんだろうか?
品物を手にしてから数日後。
俺は、かき消せない不安を胸に、おのれの戦場へと望んだ一歩を踏み出していた。
時間は午後の十時過ぎ。
目的地は、薫子の住むマンションだ。
産婦人科医である薫子は、平日であっても帰りが遅い。
泊まり勤務である当直がなくても定時で終わる日などまずありえない、と、以前あいつ自身が語っていた。
噂どおりの激務な職場。
そんなわけだから、俺は訪問時間をこんな遅くに設定した。
これぐらいの時間帯ならさすがに帰宅済みだろうと、緩いオツムで予想したからだ。
だがよく考えれば、独居の女性を深夜に訪問するだなんて、常識はずれにもほどがある行為だった。
場合によってはストーカー扱いされても仕方がない。
冗談抜きで、警察呼ばれても文句を言えない、そんな所業にほかならなかった。
だけど、頭の沸いてたこの時の俺は、そんなあたりまえのことを少しも気にすることがなかった。
ただただ自分のこと、自分の都合だけを考えて、奇妙なポジティブシンキングに我が身のすべてを委ねていた。
ウキウキの気分で「パルサー」を転がし、目的地の近くにまで到着する。
クルマを停めた場所は、近場にあるショッピングセンターの駐車場だ。
運転席の窓越しに、マンションの駐車スペースを眺める。
薫子の白い「インテグラ」は、そこで静かに羽を休めていた。
よし、オッケー。
狙いどおりだ。
勢い込んで愛車から飛び出す俺。
その手にはもちろんのこと、例のプレゼントがしっかりと握られている。
ただし頭の中は、これからのことでいっぱいいっぱい。
とてもじゃないけど、周囲の状況を確認する余裕なんてなかった。
たとえ近隣の住宅が火に包まれていたとしても、それほど気にはならなかっただろう。
にもかかわらず、にもかかわらず、だ。
その喧騒は、俺の意識を見事なまでに分捕まえた。
それは、激しくやりあう男女の声だ。
いや、言い直そう。
それは、激しい口調の女の声と、それをなんとか宥めようとする男の声とのデュエットだった。
雰囲気的には剣戟にすら近い。
なんだなんだ、と好奇心に駆られ、俺は声のする方向に目を向けた。
それは薫子の住むマンション、そのエントランス付近からのものだった。
ここからじゃ現場が上手く見えないし、冗談抜きで何言ってるのかも聞き取れない。
俺は無意識のうちにそこへ近寄り、少し離れた植え込みの側に身を隠した。
直線距離にして、対象からは十メートルも離れてない。
耳をそばだて、ふたりの会話に集中する。
「何度も同じことを言わせないでッ!」
オンナの怒声が炸裂したのは、それからすぐのことだった。
「あなたの顔なんて二度と見たくないって言ったの、おぼえてないのッ!?」
張り上げられたハスキーボイスが、ところ構わずあたりを震わす。
隠し立てされてない激情の吐露。
その中にはどこかしら、涙声が含まれてるような感じがした。
ありゃりゃ、痴話喧嘩か?
下手すりゃ警察案件だな。
だがマンションの住人たちは、これ以上もない無反応。
これだけの大声だ。
聞こえてないはずないと思うんだけど、顔を出してくる人間はまったくいない。
その無関心をいいことに、オトコの側が、あからさまな弁解を始める。
両手を開いて奴は言った。
「違うんだ、薫子。落ち着いて、僕の話を聞いてくれ」
薫子!?
その男は、間違いなくその名前を口にした。
俺は咄嗟に自分の耳を疑った。
身を乗り出し、眼をむきながら、ふたりの姿を注視する。
人工の灯りが点るエントラント前で、近距離対峙するひと組の男女。
男の側はこちらに対して背を向けてるので、はっきりした容姿はうかがえない。
ただ、その品の良さそうな上下の背広と肩幅の広い長身から想定するに、かなりのイケメン風味が予想される男だった。
少なくともそのレベルは、俺みたいな童貞小僧の比ではない。
そして、そんな野郎と相対してる質素なブラウスの短髪女性。
それは紛れもなく、この俺の想い人である大橋薫子そのひとだった。
薫子は、鬼のような形相で奴を睨む。
その全身からは、いまにも爆発しそうな灼熱のオーラが放たれていた。
美形な分だけ、その迫力は尋常じゃあない。
生きた活火山とは、まさにいまのあいつを言うのだろう。
薫子が……いったいなんで?
思ってもいなかった情景の出現に、俺は凄まじく混乱した。
さらなる情報を集めんと、この上もなく瞳を凝らす。
あいつがその身をよじったのは、次の刹那の出来事だった。
「何が違うっていうのッ!? 都合のいい弁解は聞き飽きたわッ!」
斬り伏せるような薫子の口振り。
そこには、俺の知るあいつではない、生のオンナの激情があった。
息継ぎもせず、一気呵成に奴は続ける。
「最初から最後まで自分大事な綺麗事ばっかり! そんなあなたの言葉の、いったいどこを信じればいいのよッ! あたしは……あたしはねッ! 偽りの幸せなんかじゃない、本当の幸せを手にしたいのよッ!」
「いや、君は本当の幸せを手にしていたはずだ。この僕の腕の中で」
声色を変えて男は言った。
慰撫に努める柔らかい口調から、自信に溢れる断定口調へ。
それは、包容力溢れる大人のオトコの口説き文句。
イケボっていうのは、こういうののことを言うんだろうか?
艶めかしく語るように、男はなおも言葉を紡ぐ。
「薫子。君というオンナを幸せにできるのは、この僕しかいない。そのことを、本当は君だってわかってるはずだ」
「う……うぬぼれはいい加減にしてッ!」
薫子の声に一瞬だけだが躊躇が生じた。
男はそれを天与の機会と捉えたか、両手で薫子の肩を掴む。
顔を近付け、奴は言った。
「いいや、これはうぬぼれじゃない。れっきとした事実だ。そのことをたとえ君の心が忘れていても、君の身体はおぼえてる。ふたり一緒に天に昇った情熱的なあの興奮を、君というオンナはまだおぼえてるはずだ。そうとも。忘れられるわけがない。君のオンナが、僕のオトコを忘れられるわけがない。違うかい?」
「いやらしいッ!」
歯をむき出しにして薫子が叫んだ。
「綺麗さっぱり忘れてやったわよッ! あんな人生の黒歴史ッ!」
「そうか」
取りつく島のない反発に、男は声を低くする。
それはどこか、恫喝に近い色合いを帯びた口振りだった。
「じゃあ思い出させてやる。君の主人がいったい誰であるのかを」
次の刹那、俺の視界でふたりの姿が重なった。
会話の調べが消え失せて、奇妙な沈黙が発生する。
果たして何が起こったものか?
この時、俺という存在は、目の前で起きた出来事をほぼ正確に把握していた。
視線の先で発生した事態を、寸分も誤解することなく認識していた。
だが同時に、俺の頭脳は、その揺るぎのない現実を見事なまでに拒絶していた。
そんなことをしてもなんにもならないというのに、事実を事実として受け止める処理を、完膚なきまでに拒んでいた。
男が薫子にした行為、それは紛れもない愛の営みにほかならなかった。
そう。
寄りにも寄ってあの男は、あいつの身体を抱きしめるや否や、ガッツリとその唇を奪ったのだ!
この俺が絶対に認めたくない、狂おしいまでの大人のキス。
まったく予期せぬ状況変化に、俺のオツムは真っ白になった。
ただただふたつの目玉だけが、主の意志をガン無視しつつ、奴らの動きを追いかけていた。
男の唇が重ねられた瞬間、いや自分の身体が男の腕に抱き寄せられた刹那、薫子はビクリと我が身を硬直させた。
その双眸が皿のように見開かれるのもわかった。
まっとうな女としては至極当然の反応だろう。
いかに三次元オンナと言えども、こうした奇襲を喜ぶ奴らは数少ないに違いない。
たとえ相手がイケメン野郎であったとしても、重度のビッチでない限りは、それがあたりまえだと思われた。
それがあたりまえだと思いたかった。
だが俺は、そんな薫子の瞳からスッと精気が消え去るのを見た。
色彩が薄れ、トロンとまぶたが落下する。
その瞬間、男が何をしたのかを俺は察した。
奴はあいつの口内に自分の舌を差し入れたのだ。
長々と続く口付け。
目の前で展開するふたりの交わり。
舌と舌との絡み合う音が、いまにもここまで届いてきそうだ。
薫子の身体から見る見る力が抜けていくのがわかった。
抵抗の意志を示していた両手はゆっくりと弛緩し、その膝は次第に角度を深めていく。
自分の力で支えられなくなった薫子の肉体を、男はおのれの両手で抱き支えた。
左手を腰に、右手を首の後ろに回し、より一層の力を籠める。
その行いはまるで「おまえは俺のものだ」と周囲に宣言してるみたいに思えた。
呆然とした表情でそいつを眺め続けている俺。
哀しいことに、身動きひとつ取れなかった。
押し寄せてくる敗北感、喪失感。
自分が自分でいることに、これほどの虚無を感じたことは一度もない。
そんな俺の姿を、虚ろになった薫子の目が捉えた。
ひょっとしてそれは、俺の自意識が招いた幻想だったのかもしれない。
しかし、俺は確実にそれを見た。
眼差しが俺の存在を認めた刹那、あいつの瞳に激しい光が宿ったことを──…
「圭介くんッ!」
薫子が叫んだ。
男の身体を突き飛ばし、俺のほうへと顔を向ける。
この時になってようやく悟った。
どうやら俺は、無意識のうちに、その場で立ち上がってしまってたようだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
本当の意味で、どうでもよかった。
薫子の視線が、氷になった俺を突き刺す。
「違うの、圭介くんッ! これは……違うのッ!」
続けざま、すがるような必死さで、あいつは俺に駆け寄ってきた。
いまになって思う。
俺は、そいつを受け止めるべきだったんだろう。
男らしく……そう、本当に男らしく。
だけど、できなかった。
近付いてくるあいつの姿に、俺は怯えた。
恐怖した。
手の中にあった箱が、ポロリと足元に落下する。
それに気付くこともなかった。
無言で二、三歩後退り、そして激しく踵を返す。
そうすることしかできなかった。
「圭介くん、待って! お願いッ! 話を聞いてッ! 圭介くんッ! 圭介くん!」
薫子の哀願が俺の背中を乱打する。
でもその声は、この時の俺に届くことはなかった。
ひとたび何かを思い込んだら、光の速さで視野狭窄に陥っちまう。
これまでの人生を振り返れば、何度もそういう経験があった。
実際に痛い目を見たことだって、それこそ両手の指じゃ追いつかない。
そういう無様を何度繰り返しても懲りないんだから、まったくもって、自分が情けなくなっちまう。
自己嫌悪を通り越して、自己否定にすら第一歩目を踏み出しそうだ。
最近の出来事でその一例をあげるなら、そいつは言うまでもなく、あの山崎あかねの一件だろう。
あの一連の騒動で、この俺は、我が国に存在するオンナっていう生き物が、卑劣で醜悪で浅ましい、どうしようもないゴミクズなのかを思い知った。
いまもって断言できる。
生身のオンナと良い関係を結べるのは、その外見が好まれるモテ男か、さもなくば奴らの要求に青天井で応えられる社会的・経済的な成功者だけだ。
そんなことない! 私たち女性は男性の性格を最重視している!
公には、そういうことを主張する三次元オンナは多い。
というか、そういう主張が大半であることぐらい、この俺だってわかってる。
でも、改めて現実って奴を考察すれば、そんな主張はいともたやすく覆る。
恋愛ものの漫画やアニメを見てみるがいい。
登場するその他大勢のオンナたちは、容姿や財力に優れたライバルキャラには先を争って群がり寄るけど、そうでない中身イケメンの主人公をスルーするのがほとんどじゃないか。
俺は、あれこそがオンナの本音なんだと思ってる。
事実、「アニメのヒロインみたいなのが理想だ」っていう非モテオタクの宣言に「あんなのはいない。現実を見ろ」って応えるオンナは九割方を占めるだろう。
つまり、内心ではあいつら自身も認めてるんだ。
モブとヒロイン、どちらの行動がよりリアルで自分たちに近い存在なのかを、奴ら自身が一番よく知ってるんだ。
こいつは俺の妄想か?
いや、そうだとは思わない。
そりゃあ、物事には絶対ってことはない。
どんな少ない確率であっても、想定外の対象って奴は、必ずどこかに存在する。
ヒロイン的な中身のオンナも、この世のどこかにいるだろう。
たとえそれがイリオモテヤマネコの数より少なかったとしても、その実在を俺も完全否定するわけじゃない。
ただ同時に、そんな希少な存在が俺みたいなのと遭遇する機会なんて、きっかりゼロに違いない、ぐらいなことは思っていた。
どれほど楽観的に考えてみても、年末ジャンボの一等賞に当たるくらいの、いやむしろ降ってきた隕石に直撃されるぐらいの可能性なんだと、心の底から信じきってた。
そう、まさについこの間までは──…
大橋薫子。
このオンナと出会っちまってからの俺は、文字どおりライトノベルの主人公みたいな、端から見たら「ありえね~」ってくらいの環境にあった。
取り柄といえば漫画を描くことしかない俺みたいなオタクが、寄りにも寄って、アニメキャラみたいな完璧超人と恋人紛いの週末を送ってるのだ。
相手が十ほど年上とはいえ、普通に考えれば、こんな奇跡は万が一どころか億が一ってところだろう。
少なくとも、凡人が望んで得られる幸運じゃない。
それぐらいのことは、さすがの俺も承知していた。
ただ、それに気付くのが凄まじく遅かったってだけの話だ。
そしてこれこそが、俺ってオトコが駄目なんだって自覚できる一番の理由だった。
そう。
言い訳なんてしない。
俺はいま、この大橋薫子っていう人生最大の幸運に、すっかり参ってしまっているのだ。
雑な言葉を用いるなら、ぞっこんだったと言い直してもいい。
あのオンナは、俺の中に連綿と築かれてきた「下衆で汚い三次元オンナ」ってイメージから、軽く百万光年は離れていた。
もっとも、具体的にどこがどうと説明するのは、いまの俺では不可能だった。
とにかく、ありとあらゆるところが決定的に異なってたからだ。
もちろん俺のそうした見解に、あいつのルックスやプロポーションがひと役買っていたことは否めない。
あいつの持つずば抜けた美貌。
目を見張る巨乳。
魅惑的な腰付き。
長い手足とふくらはぎ。
俺だって一応オトコの端くれだ。
下半身の好みがものを言うことだって、絶対ないってわけじゃない。
でも、それだけじゃないことは明白だった。
俺にとって、あいつはまさしく女神だった。
奈落で苦しむ哀れなオトコに遣わされた、天空からの蜘蛛の糸だった
随分とまた大袈裟な表現だけど、それが過剰であるとは少しも思えなかった。
雲間から差し込んできたひと筋の光明。
そんな穏やかな温もりに、俺は思わず手を伸ばしてしまったというわけなんだ。
恋っていうのは、こんな感情のことを言うんだろう。
鈍感な俺にだって、その程度の理解力はある。
その程度の状況把握は、なんとかついてるつもりだった。
だからこそ、俺の中にいるもうひとりの俺が警告を発した。
恋愛感情っていうのは精神のバグだ。
理性的な判断を狂わす妨害電波だ。
頭を冷やして思考してみろ。
その想いに乗っかることが、本当におまえのためになるものなのかを──…
わかってる。
そんなことぐらいはわかってる。
茹った俺が、もうひとりの自分に言い聞かせる。
いまの俺は、かつての俺と同じように猪突猛進を始めてる。
痛い目を見る可能性、深い傷を負う可能性から、意図してその目を背けてる。
薫子だって、しょせんはオンナだ。
どれほどそうじゃないって思えても、それが間違いだって確率は少なからず存在する。
ましてや、俺の選球眼がろくでもないって事実は、あかねの件で立証済みだ。
今回だって、きっとそうに違いない。
まともに考えれば、その可能性のほうが百パーセント。
俺の望みが叶えられる見込みなんて、これぽっちもありはしない。
そう考えるのが普通だったし、そう考えるのが合理的だった。
恐らくだけど、諸葛孔明がいまの俺をサポートしてたら、「お待ちください! それは罠です!」と身を挺して止めにかかる事態なんじゃないだろうか。
でも……それでも、だった。
どう冷静になろうとしても、俺の心の暴走は、ちっとも鎮まってはくれなかった。
猛る右手が麻のくびきを引きちぎり、運命のダイスを振ろうと逆巻く。
分の悪いギャンブル。
勝ち目のない博打。
結果の見えてる負け戦。
にもかかわらず、俺の両足はそちらに行くのをためらおうとしてくれなかった。
調子を速め、歩幅を大きくすることを戸惑ったりはしてくれなかった。
男には、たとえ死ぬとわかっていても行かねばならない刻がある。たとえ負けるとわかっていても、戦わねばならない刻がある──って、そんなわけあるかいッ!
突如浮かんだ漢の台詞に、すかさずツッコミが炸裂する。
莫迦だ。
莫迦だ。
大莫迦だ。
本当に俺って奴は駄目なオトコだ。
無策のままに敵陣めがけて突っ込んでく、そんな愚かな新兵そのものだ。
そして気が付いたとき、俺の手の中では、あいつに送るべきプレゼントがしっかりとした自己主張を果たしていた。
それは、俺という初心で間抜けなチェリーボーイが引き返しのつかないところにまで到着したという、なんともわかりやすい証明であった。
紫色した絹のスカーフ。
価格は七千五百円。
そういった店に出入りするのが嫌だったから、商品自体はネットを通じて購入した。
もちろんだけど、相応のパッケージングは施してある。
あまり派手ってわけではなく、だからといってデパートの包装みたいに安っぽいってわけでもない。
そんなラッピング用紙に包まれた細長い箱。
この手のセンスに自信がないからあちらの提示に任せたけれど、個人的には、それがかえって良い方向に作用したと自賛できるくらいの雰囲気だった。
本当なら、もっと高価な品を選んだほうが女性向けのプレゼントとしては良かったのかもしれない。
例えば、宝石や貴金属みたいなミもフタもないヒカリモノ。
それが高級ブランドのモノだったとしたら、なおのことだと俺でもわかる。
だけど、さすがにそいつははばかられた。
恋人同士の関係ならいざしらず、その兆しすらない相手に贈る品物としては、そういうブツはいささか重過ぎるように思えたからだ。
そしてなにより、このスカーフはあいつの首にとても似合う気がしてならなかった。
実は、カオルゥをデザインしていた時から密かに思ってたりしたんだ。
きらびやかなアクセサリーやなんかの類は、全然あいつに相応しくない。
なぜなら、薫子という一己の存在そのものが、夜空の星より輝きを放つ飛びっきりの宝石だからだ。
ジュエリーをジュエリーで飾ってどうする?
そんなの、どっちかがどっちかの光に呑まれて存在感がかき消されるだけじゃないか。
眩さに満ちた宝玉は、もっと別の方向性で装飾すべきだ。
漫画や小説のキャラクターたちだってそうだろう。
Aにはできないことがあり、そのできないことをBが補う。
そしてまた、その逆もしかり。
そういう関係が成り立って初めて、AというキャラもBというキャラも物語の中で弾けることができるってもんだ。
物語ってのは個性と個性の椅子取りゲームじゃない。
物語ってのは個性と個性の共同作業にほかならないんだ。
それは俺という個人が持つ、矮小な創作哲学に過ぎなかった。
でも俺は、その正しさに疑問を持ったりしなかった。
自己判断に対する強い妄信。
普段の俺なら、自分の描いた正しさをもっと構えて眺めただろう。
危険に過ぎる兆候は、自覚するまでもなく一気にヒートアップを果たしていた。
後ろに回った何者かが、俺を陰から操っている。
鼓膜の側では、そいつの囁きが延々と繰り返されていた。
まるで魔物だ。
そうそれは、恋愛感情という名を持つ闇の詐話師に違いなかった。
そんな妖異に憑りつかれたこの時の俺にとって、残された問題は、どう自然な成り行きでこれをあいつに贈るのか、ただそれだけであった。
残念ながら、何かのイベントにかこつけるのは不可能だった。
だからといって、ド直球の告白を敢行しちまうのは、当初の計画からして本末転倒以外の何物でもない。
押して押して押しまくって、あいつのハートを力技でものにする。
いまの俺のスペックじゃ、そんな芸当は絵空事だ。
難攻不落の薫子城。
正門突破が叶わないなら、搦手から攻めるしか方策はない。
少しずつ、少しずつ。
長期の包囲戦を覚悟して、天守閣まで陣を進めるしか落城までの道筋はない。
考える時間はたっぷりあった。
しかしながら、まったくいい知恵は浮かばなかった。
あたりまえだ。
恋愛成就の良薬なんて、俺の引き出しにはひと欠片だって入ってない。
上手い手口を思い付く可能性なんて、それこそゼロに等しかった。
結局、俺が採択したのは「ジムカーナの練習に付き合わせた謝礼」という、どうにも中途半端な理由でしかなかった。
インパクトに欠けること甚だしい。
自分で言うのもなんだけど、取って付けた感に満ち満ちた道理でしかなかった。
果たしてこんなので、俺の想いは届くんだろうか?
品物を手にしてから数日後。
俺は、かき消せない不安を胸に、おのれの戦場へと望んだ一歩を踏み出していた。
時間は午後の十時過ぎ。
目的地は、薫子の住むマンションだ。
産婦人科医である薫子は、平日であっても帰りが遅い。
泊まり勤務である当直がなくても定時で終わる日などまずありえない、と、以前あいつ自身が語っていた。
噂どおりの激務な職場。
そんなわけだから、俺は訪問時間をこんな遅くに設定した。
これぐらいの時間帯ならさすがに帰宅済みだろうと、緩いオツムで予想したからだ。
だがよく考えれば、独居の女性を深夜に訪問するだなんて、常識はずれにもほどがある行為だった。
場合によってはストーカー扱いされても仕方がない。
冗談抜きで、警察呼ばれても文句を言えない、そんな所業にほかならなかった。
だけど、頭の沸いてたこの時の俺は、そんなあたりまえのことを少しも気にすることがなかった。
ただただ自分のこと、自分の都合だけを考えて、奇妙なポジティブシンキングに我が身のすべてを委ねていた。
ウキウキの気分で「パルサー」を転がし、目的地の近くにまで到着する。
クルマを停めた場所は、近場にあるショッピングセンターの駐車場だ。
運転席の窓越しに、マンションの駐車スペースを眺める。
薫子の白い「インテグラ」は、そこで静かに羽を休めていた。
よし、オッケー。
狙いどおりだ。
勢い込んで愛車から飛び出す俺。
その手にはもちろんのこと、例のプレゼントがしっかりと握られている。
ただし頭の中は、これからのことでいっぱいいっぱい。
とてもじゃないけど、周囲の状況を確認する余裕なんてなかった。
たとえ近隣の住宅が火に包まれていたとしても、それほど気にはならなかっただろう。
にもかかわらず、にもかかわらず、だ。
その喧騒は、俺の意識を見事なまでに分捕まえた。
それは、激しくやりあう男女の声だ。
いや、言い直そう。
それは、激しい口調の女の声と、それをなんとか宥めようとする男の声とのデュエットだった。
雰囲気的には剣戟にすら近い。
なんだなんだ、と好奇心に駆られ、俺は声のする方向に目を向けた。
それは薫子の住むマンション、そのエントランス付近からのものだった。
ここからじゃ現場が上手く見えないし、冗談抜きで何言ってるのかも聞き取れない。
俺は無意識のうちにそこへ近寄り、少し離れた植え込みの側に身を隠した。
直線距離にして、対象からは十メートルも離れてない。
耳をそばだて、ふたりの会話に集中する。
「何度も同じことを言わせないでッ!」
オンナの怒声が炸裂したのは、それからすぐのことだった。
「あなたの顔なんて二度と見たくないって言ったの、おぼえてないのッ!?」
張り上げられたハスキーボイスが、ところ構わずあたりを震わす。
隠し立てされてない激情の吐露。
その中にはどこかしら、涙声が含まれてるような感じがした。
ありゃりゃ、痴話喧嘩か?
下手すりゃ警察案件だな。
だがマンションの住人たちは、これ以上もない無反応。
これだけの大声だ。
聞こえてないはずないと思うんだけど、顔を出してくる人間はまったくいない。
その無関心をいいことに、オトコの側が、あからさまな弁解を始める。
両手を開いて奴は言った。
「違うんだ、薫子。落ち着いて、僕の話を聞いてくれ」
薫子!?
その男は、間違いなくその名前を口にした。
俺は咄嗟に自分の耳を疑った。
身を乗り出し、眼をむきながら、ふたりの姿を注視する。
人工の灯りが点るエントラント前で、近距離対峙するひと組の男女。
男の側はこちらに対して背を向けてるので、はっきりした容姿はうかがえない。
ただ、その品の良さそうな上下の背広と肩幅の広い長身から想定するに、かなりのイケメン風味が予想される男だった。
少なくともそのレベルは、俺みたいな童貞小僧の比ではない。
そして、そんな野郎と相対してる質素なブラウスの短髪女性。
それは紛れもなく、この俺の想い人である大橋薫子そのひとだった。
薫子は、鬼のような形相で奴を睨む。
その全身からは、いまにも爆発しそうな灼熱のオーラが放たれていた。
美形な分だけ、その迫力は尋常じゃあない。
生きた活火山とは、まさにいまのあいつを言うのだろう。
薫子が……いったいなんで?
思ってもいなかった情景の出現に、俺は凄まじく混乱した。
さらなる情報を集めんと、この上もなく瞳を凝らす。
あいつがその身をよじったのは、次の刹那の出来事だった。
「何が違うっていうのッ!? 都合のいい弁解は聞き飽きたわッ!」
斬り伏せるような薫子の口振り。
そこには、俺の知るあいつではない、生のオンナの激情があった。
息継ぎもせず、一気呵成に奴は続ける。
「最初から最後まで自分大事な綺麗事ばっかり! そんなあなたの言葉の、いったいどこを信じればいいのよッ! あたしは……あたしはねッ! 偽りの幸せなんかじゃない、本当の幸せを手にしたいのよッ!」
「いや、君は本当の幸せを手にしていたはずだ。この僕の腕の中で」
声色を変えて男は言った。
慰撫に努める柔らかい口調から、自信に溢れる断定口調へ。
それは、包容力溢れる大人のオトコの口説き文句。
イケボっていうのは、こういうののことを言うんだろうか?
艶めかしく語るように、男はなおも言葉を紡ぐ。
「薫子。君というオンナを幸せにできるのは、この僕しかいない。そのことを、本当は君だってわかってるはずだ」
「う……うぬぼれはいい加減にしてッ!」
薫子の声に一瞬だけだが躊躇が生じた。
男はそれを天与の機会と捉えたか、両手で薫子の肩を掴む。
顔を近付け、奴は言った。
「いいや、これはうぬぼれじゃない。れっきとした事実だ。そのことをたとえ君の心が忘れていても、君の身体はおぼえてる。ふたり一緒に天に昇った情熱的なあの興奮を、君というオンナはまだおぼえてるはずだ。そうとも。忘れられるわけがない。君のオンナが、僕のオトコを忘れられるわけがない。違うかい?」
「いやらしいッ!」
歯をむき出しにして薫子が叫んだ。
「綺麗さっぱり忘れてやったわよッ! あんな人生の黒歴史ッ!」
「そうか」
取りつく島のない反発に、男は声を低くする。
それはどこか、恫喝に近い色合いを帯びた口振りだった。
「じゃあ思い出させてやる。君の主人がいったい誰であるのかを」
次の刹那、俺の視界でふたりの姿が重なった。
会話の調べが消え失せて、奇妙な沈黙が発生する。
果たして何が起こったものか?
この時、俺という存在は、目の前で起きた出来事をほぼ正確に把握していた。
視線の先で発生した事態を、寸分も誤解することなく認識していた。
だが同時に、俺の頭脳は、その揺るぎのない現実を見事なまでに拒絶していた。
そんなことをしてもなんにもならないというのに、事実を事実として受け止める処理を、完膚なきまでに拒んでいた。
男が薫子にした行為、それは紛れもない愛の営みにほかならなかった。
そう。
寄りにも寄ってあの男は、あいつの身体を抱きしめるや否や、ガッツリとその唇を奪ったのだ!
この俺が絶対に認めたくない、狂おしいまでの大人のキス。
まったく予期せぬ状況変化に、俺のオツムは真っ白になった。
ただただふたつの目玉だけが、主の意志をガン無視しつつ、奴らの動きを追いかけていた。
男の唇が重ねられた瞬間、いや自分の身体が男の腕に抱き寄せられた刹那、薫子はビクリと我が身を硬直させた。
その双眸が皿のように見開かれるのもわかった。
まっとうな女としては至極当然の反応だろう。
いかに三次元オンナと言えども、こうした奇襲を喜ぶ奴らは数少ないに違いない。
たとえ相手がイケメン野郎であったとしても、重度のビッチでない限りは、それがあたりまえだと思われた。
それがあたりまえだと思いたかった。
だが俺は、そんな薫子の瞳からスッと精気が消え去るのを見た。
色彩が薄れ、トロンとまぶたが落下する。
その瞬間、男が何をしたのかを俺は察した。
奴はあいつの口内に自分の舌を差し入れたのだ。
長々と続く口付け。
目の前で展開するふたりの交わり。
舌と舌との絡み合う音が、いまにもここまで届いてきそうだ。
薫子の身体から見る見る力が抜けていくのがわかった。
抵抗の意志を示していた両手はゆっくりと弛緩し、その膝は次第に角度を深めていく。
自分の力で支えられなくなった薫子の肉体を、男はおのれの両手で抱き支えた。
左手を腰に、右手を首の後ろに回し、より一層の力を籠める。
その行いはまるで「おまえは俺のものだ」と周囲に宣言してるみたいに思えた。
呆然とした表情でそいつを眺め続けている俺。
哀しいことに、身動きひとつ取れなかった。
押し寄せてくる敗北感、喪失感。
自分が自分でいることに、これほどの虚無を感じたことは一度もない。
そんな俺の姿を、虚ろになった薫子の目が捉えた。
ひょっとしてそれは、俺の自意識が招いた幻想だったのかもしれない。
しかし、俺は確実にそれを見た。
眼差しが俺の存在を認めた刹那、あいつの瞳に激しい光が宿ったことを──…
「圭介くんッ!」
薫子が叫んだ。
男の身体を突き飛ばし、俺のほうへと顔を向ける。
この時になってようやく悟った。
どうやら俺は、無意識のうちに、その場で立ち上がってしまってたようだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。
本当の意味で、どうでもよかった。
薫子の視線が、氷になった俺を突き刺す。
「違うの、圭介くんッ! これは……違うのッ!」
続けざま、すがるような必死さで、あいつは俺に駆け寄ってきた。
いまになって思う。
俺は、そいつを受け止めるべきだったんだろう。
男らしく……そう、本当に男らしく。
だけど、できなかった。
近付いてくるあいつの姿に、俺は怯えた。
恐怖した。
手の中にあった箱が、ポロリと足元に落下する。
それに気付くこともなかった。
無言で二、三歩後退り、そして激しく踵を返す。
そうすることしかできなかった。
「圭介くん、待って! お願いッ! 話を聞いてッ! 圭介くんッ! 圭介くん!」
薫子の哀願が俺の背中を乱打する。
でもその声は、この時の俺に届くことはなかった。
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