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G6第五戦:トラップRd

第二十八話:自覚した想い

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 その夜、薫子とふたりで過ごした時間は、俺にとって初体験と呼べる出来事の連続だった。
 まず手始めとして語りたいのが、ディナーを取るため足を運んだ、本格的なイタリア料理レストランだ。
 そこで手にした献立表は、イタリアンといえばピザやパスタぐらいしか知らなかったこの俺小市民が、初めて目にする珍妙な品名で溢れかえっていた。
 横文字の羅列に圧倒され、阿呆面晒してその内訳を見詰める俺。
 当然というかなんというか。注文内容のことごとくは、薫子の奴が勝手にひとりで決定した。
 俺への相談だのなんだのは、初めからする気なんてないようだった。
 まあそんなわけだから、奴が発注した料理の品々には、俺の好みというものがまったく反映されてなかった。
 立場的に仕方のないこととはいえ、これはこれでなかなか屈辱的な成り行きである。
 にもかかわらず、俺の口から文句の類は、最後までひと言たりとも出なかった。
 理由なんて述べるべくもない。
 口にしたメニューのあれもこれもが、マジで腰を抜かすほどに美味かったからだ。
 まず前菜として目の前に出て来たのが「エビとホタテ貝柱の蒸し料理ヴァポーレ&甘酸っぱいリンゴのソース」って奴だった。
 そして、それに続く軽食が「細身のパスタバベッティーネ&鯛と青菜とレンコンのソース」
 真打ちとなるメインディッシュの一品目が「トロサーモンの半生焼きプレコット&百合根のクリームソース」で、追い討ちをかける二品目が「鴨胸肉の炙り焼きロースト&キノコのソース」
 最後にデザートとして「二種類のスイートポテト&バニラアイス」を味わったのち、苦みのあるエスプレッソをデミタスカップで頂戴する。
 「ほっぺたが落ちる」とは、まさにこのことだった!
 俺は、それまで大嫌いだった美食家連中の心情を、少しだけだが理解できた気がした。
 そりゃあ支払う金額も相応の数字に達していたが、それだけのもとは十分にとれたと納得できる官能だった。
 そんな俺たちが次に訪れたのは、フライデーナイトの映画館だった。
 どういうわけだか若いカップルで賑わってた。
 上映していたのは最近話題のアニメ映画。
 そのあらすじを短く言えば、「年頃の男女の中身が、ひょんなことから入れ替わってしまう」という実に古典的なSFラブストーリーである。
 随分と手垢が付いた筋書といえば確かにそのとおりなんだろうけど、それでもその作品の出来栄えは、あのハリウッドが熱視線を送ってくるのもさも当然、と頷けてしまうだけのレベルにあった。
 決して王道を外さない安定した脚本と、定評ある作画スタッフによる溜息が出るほどの映像美。
 断言するけど名作だ。
 悔しいけれど認めざるを得ない。
 クリエイターの端くれとして、こういった他人の心を揺さぶる作品って奴を、一度でいいから仕上げてみたいと本気で思った。
 暗がりの中で並んで座った俺と薫子は、スクリーンに映し出されるそんな別世界での出来事を、声も出さずに堪能した。
 のめり込んだと言っても過言じゃなかった。
 つがいばかりの観客たちがいまの俺たちをどんな風に見ているかなんて、ちっとも気にはしなかった。
 ただ、カラメルをまぶしたポップコーンといかにもジャンクフードでございって感じのたこ焼きが妙に香ばしく思えたのだけは、強く印象に残っていた。
 そして余韻とともに映画館を後にした俺たちが続いて足を踏み込んだのが、雑居ビルみたいな形のアミューズメントスポットだ。
 もっともそれは、今宵のイベントの一環ってわけじゃない。
 急遽化粧直しをしたがった薫子の奴が、たまたまそこを選択したのである。
 それは、二十四時間営業の複合娯楽施設だった。
 そのきらびやかに装飾された建物の中には、大型のアーケードゲームやプリクラ、自販機などの置かれたゲームコーナーばかりでなく、ビリヤード場やボーリング場、それに簡単なカラオケボックスなんかも設置されているようだった。
「ねえ圭介くん。どうせならさ、ここで少しお金を落としてかない?」
 ひとりで待つこと数分間。
 ようやくのことで手洗いから出てきた薫子の奴が、いけしゃあしゃあと俺に言った。
「タダで設備だけ使うっていうのも、なんだか気が引けちゃうし」
「言っとくが、俺個人は何ひとつ使ってないぞ」
「あらあら。大人のオンナをエスコートしてる立派なオトコが、そんなセコイこと言ってるようじゃ駄目じゃない。せっかく上がった自分の株が、地面の上まで落ちちゃうわよ」
 嫌味を口にする俺に向かって、絶世の美女が意味深に微笑む。
 心臓をギュッと鷲掴みにされ、俺は慌てて奴の顔から視線を外した。
「チッ、仕方ねえな」
 強気を装い、俺は応える。
「そこまで言うんなら付き合ってやるよ。で、いったい何がしたいんだ?」
「悪いわね。なんだか要求しちゃったみたいで」
「みたいじゃなく、遠回しに要求したんだろうが」
「まさかまさか。今夜のあたしは、あくまでも君のエスコートに従う身だもの。そんな礼儀知らずな真似なんて、恐れ多くてとてもする気にならないわ」
「よく言うぜ」
 結局俺はあいつと一緒に、対戦型のレースゲームにチャレンジすることと相成った。
 スマホで軽く調べると、そのゲームは、別のゲームを元ネタにした随分とまたキャラクター性の強いものであるらしい。
 つまりだ。
 レースゲーとして純粋に使うクルマを選ぶというより、自分が成り代わるべき登場人物ドライバーをマシンと同時に選択するっていう表現のほうが、より正解に近いのだと言える。
 筐体に身を沈め、チャリンと一枚コインを投入。
 すかさず俺は、真っ赤な英国製ブリティッシュスポーツカー、ロータス「エリーゼ111Rワンイレヴン」を操る主人公・アキトを自分の分身として選んだ。
 元ゲーのストーリーを知らない俺としては、きわめて無難な選択をしたつもりだ。
 一方、薫子はそれに対応してか、軽のオープンスポーツであるスズキ「カプチーノ」に搭乗するヒロイン・リンカを選択した。
 間を置かず、ゲーム本編がスタートする。
 いかにもなキャラクターゲームらしく、軽妙なユーロビートの響きとともに、画面の中でアニメチックな登場人物たちによる会話のシーンが始まった。
 その展開から推し量るに、アキトとリンカの二人組は、いまのところ友達以上恋人未満という間柄らしい。
「アキト!」
 それを見てノリノリになった薫子の奴が、俺のことを作中主の名前で呼んだ。
「クルマのスペックがバトルのすべてじゃないってことを、あたしが実地で教えてあげるわ!」
「しゃらくせえ!」
 負けじと俺も応戦する。
「通常の三倍速でぶっちぎってやんよ!」
 そしてゲームエンド。
 大言壮語は叶わなかったが、バトルは俺が勝利した。
 現実のドラテクでは俺をはるかに上回る薫子だったが、やはり虚構の世界では大きく勝手が違うようだ。
「何よ、あれ! ルール違反だわ!」
 レースの白黒が付くや否や、口先を尖らせ、あいつはぼやく。
「ガードレールにガンガンぶつけながらのコーナリングなんて、現実世界で許されるわけないじゃない! あんなのノーカンよ、ノーカン!」
「へへん! なんとでも言いやがれ」
 勝ち誇る俺は、不敵な笑いでそれに応える。
「使えるものは猿でも使うのが、ゲーム世界の常識だぜ。世渡り上手く行き過ぎて、オツムが固くなりすぎてたんじゃねえのか?」
「おぼえてなさい! この借りは、いつか必ず倍返ししてあげるんだから!」
 子供みたいにプーっと頬を膨らませる薫子。
 こいつはまさしく、とんだお宝映像だ。
 少なくとも俺は、こんなになった奴の姿をこれまで目にしたことがない。
 そんな女神の大人げなさは、なぜだか俺をあったかい気持ちにしてくれた。
 そういえば、こうやって他人から感情を投げつけられるのは、いったい何年ぶりの快挙だろう?
 ボッチの人生があたりまえになりすぎてて、思い出すこともできやしない。
 そういうのを情けないと思えない自分については、もはや苦笑いすら出て来なかった。
 そうこうあって気が付けば、時計の針は、とうに日付を跨いでいた。
 最後の締めにあいつが俺を連れてったのは、歓楽街の奥にある、古びたビルの一角だった。
 正確には、その建物の三階部分。
 入口のドアには、「アイリッシュパブ・シーガル」というそこの店名が掲げられてあった。
 「レディースオンリー」という明確すぎる注意書きも含めて、だ。
女性専用レディースパブ?」
 そいつを目の当たりにした俺は、思わず頓狂な声を上げてしまった。
「男の俺に、ここに入れってのか?」
「そうよ」
 あっけらかんと薫子が答えた。
「オーナーには、ちゃあんと許しをもらってるから大丈夫よん」
「んなこと言われてもだなァ」
「怖がらない怖がらない。人生なにかと『案ずるより産むが易し』よ。ここはオトコらしく、きっちり覚悟を決めなさいな」
「そういや、これってもともと罰ゲームだったんだよな。すっかり忘れちまってた」
「そういうこと」
 わざとらしい態度で奴は頷く。
「つまり、君に拒否権なんて初めっからないの。てなわけで、オンナの園に童貞少年ごあんなーい!」
「わああッ! そんなに腕を引っ張るなッ!」
 薫子に利き手を掴まれ、俺は扉の向こうに引きずり込まれた。
 問答無用とは、この有様のことだろう。
 地蜘蛛に捕まった哀れな獲物と比べても、まだそちらのほうがましなんじゃないかと思えてしまった。
 引っ張りこまれた扉の向こう。
 そこで目にした店の様子は、俺の予想を大きく超えるものではなかった。
 短い通路を抜けた先には、右手の側にカウンターが、そして突き当りの奥に小さめのボックス席がふたつばかし設けられている。
 決して大きな店とは言えない。
 むしろ、こじんまりした小規模店といったイメージだ。
「みなさん、お久しぶりです!」
 店内に足を踏み込むや否や、薫子の奴が右手を挙げて大声を出した。
 カウンター席やボックス席にいた常連客と思える女性たちが、目の色を輝かせてそれを迎える。
 その全員が、やや化粧っ気の強い、悪く言えばケバい雰囲気のある女性たちだった。
 ただし、オバチャンと呼べるような年齢には見えない。
 どう上に見積もっても薫子より下、もしくはせいぜい同じくらいといったあたりか。
「おう、薫子ちゃん。いらっしゃい」
 彼女たちを代表するようにそう第一声を放ったのは、カウンターの向こうにいる中年の女性だった。
 こちらのほうは、薫子と比べてもひと回り程度年長だろう。
 バーテンダーの装いをしているせいか、飲み屋のママといった印象は欠片もない。
 後頭部に結い上げたその豊かな髪が目に入らなければ、立派なマスターとして通用したかもしれない。
 そんな女性がニパッと真白い歯を見せた。
 間髪入れず、彼女は尋ねる。
「その子が例の男の子だね」
「そうです。この子が例の童貞少年です」
「童貞言うなッ!」
 身も蓋もない薫子の回答に、脊髄反射で噛みつく俺。
 これじゃあまるで、年季の入った夫婦漫才だ。
 その絶妙すぎるボケとツッコミに改めて相好を崩した女性が、続けざま、真っすぐな視線で俺を見た。
 間を置かず、短い質問を繰り出してくる。
「少年、名前は?」
「あ、ああ」
 戸惑いながら俺は答えた。
「楠木圭介って言います」
「素直でよろしい」
 俺の答えに彼女が応じる。
「アタシの名前は虎島とらしま千春ちはる。見てのとおり、この店のオーナーやってる」
「は、はじめまして」
「飲食店のスタッフに社交辞令はいらないよ」
 豪快にガハハと笑って、千春と名乗った女性は言った。
「さあさあ、少年。そんなところに突っ立ってないで適当な席に座んなよ。オトコが娑婆で突っ立ててていいのは、ズル剥けのアソコだけだと相場が決まってんだ」
 こりゃまた、随分と下品な発言だな。
 呆れ半分でそう思いつつ、俺は薫子と並び、勧められるがままカウンター席の一角に着いた。
 で、腰を下ろす刹那に思い至る。
 ああ、薫子のシモネタ発言は、きっとこのひとの影響をまともに受けたからなんだろうな、と。
 なるほどなるほど。
 つまるところこの御仁は、こいつ薫子にとっての「オンナの師匠」って奴なわけだ。
 ここ最近、これほどの得心に至った推理は、俺の中に存在してなかった。
 俺たちが着席するのにタイミングを合わせ、件の女性・千春さんが「何呑む?」と単刀直入に尋ねてきた。
 これに薫子は、すぐさま「シュバルツ」という答えを返す。
 「お連れさんはコーラでいいかい?」という確認にも、ふたつ返事で「OK」と応じた。
 もちろんだが、俺の了解などそこにはない。
 ほとんど余計な間を置かず、大ジョッキに注がれた黒色の液体が二人分、俺らの前に出現した。
 薫子の言った「シュバルツ」っていうのは、早い話が黒ビールのことだったのだ。
「じゃあとりあえず、かんぱーい」
 なんとも上機嫌の薫子が、手にしたジョッキを真上に掲げた。
 俺もまた、釣られてそいつに対応する。
 異質な物に満たされたガラスの容器が、鋭くカチンと衝突した。
 短く鳴った鋭い音が、結構耳に心地好い。
 大きく胸を反らしながら、ジョッキの中身を飲み干す薫子。
 そいつはほとんど一気飲みに近い。
 あの細い身体のいったいどこにそれだけのキャパシティーがあるんだろうか?
 他愛ない疑問を弄びながら、俺もまた、グイっとジョッキを傾けた。
「ねェ薫子先生。今晩はゆっくりしてくんでしょ?」
 それからまもなく、ボックス席で屯っていた客のひとりが、ひょこっと後ろから絡んできた。
 特に露出が多い服装というわけではないのだが、妙に艶っぽい感じの女性だ。
 薫子のフェロモンに慣れ親しんだ俺でなければ、不遜な息子がアップを始めていたかもしれない。
「お~、みさおちゃん。久しぶり~。仕事のほうはどう? 調子よくやれてる?」
 肩越しに軽く振り向き、あいつは応えた。
「あたしのほうはいまのところ、閉店までいる腹積もりだけど」
 閉店までって──それを聞いて俺は思った。
 そういや、この店の閉店時間って何時だっけ?
 看板には確か午前三時って書いてあったような──…
 午前三時!
 そんな時間まで居座るつもりか、このオンナは!
 そりゃあ、いくらなんでも図々しすぎるってもんだろ。
 片付けのスケジュールだってあるだろうし、営業する側にだって迷惑かかるんじゃないのか?
 だがそんな俺の言い分は、結局話題になることがなかった。
 操と呼ばれた女性のほうが、目線で先に意思表示を済ませたからだ。
 何かを察した薫子が、すぐさま彼女に助け舟を出す。
「ん、どうしたの? 何かまた相談事でもあるの? 遠慮しないで言ってごらんよ」
「うん。実は──」
 操さんが、言いにくそうにちらりと俺の顔を見た。
 どうやら俺──というよりは、男に聞かれたくはない話らしい。
 薫子もまた、俺のほうへと目を向けた。
 彼女の発する空気を読んだか、席を外すか外さないかを迷っているような顔つきを見せてる。
「俺のことなら気にしなくていいぞ」
 そんなあいつに向かって、俺はさぱっと言い放った。
「人間何かと、頼られてるうちが華だからな。行って来いよ」
「ごめんね。気を使わせちゃって」
 腰を浮かせた薫子が、微笑みながらそう言った。
「あとでたっぷり弄ってあげるから、許して」
「誤解を招くような発言はいいから、さっさと行け」
 ボックス席のほうに移動する奴の背中を一瞥したのち、俺はジョッキに口を付けた。
 炭酸飲料の刺激を、のどの奥で味わう。
「仲良いねェ」
 イシシ、と意味深に笑って、千春さんが俺に言った。
「聞いてた以上の親密さじゃないか」
「どこがっすか?」
 つい失礼な口調で答える俺。
「俺なんて完全な奴隷扱いですよ。晩飯だって、俺の意向はガン無視だし」
「ははァ。女王さまと下僕ってわけかい」
 それを聞いて千春さんは、一層大きく破顔する。
「まぁ、そっちの言い分もわからないじゃないけどな。でも一応言っとくけど、信頼のおけない下僕を側に置いとくほど、世の女王さまってのは軽率じゃないぞ」
「そんなもんですかね」
 形勢不利を迅速に悟って、俺は話題を切り替えた。
「ところでマム」
「千春でいいよ、少年」
「じゃあ、千春さん」
 俺は彼女にサクッと尋ねた。
「薫子の奴、この店には結構来てるんですか?」
「大の男が女のプライベートを詮索するのはよくないねェ」
 その質問に千春さんが答えた。
「だが、知りたくなるって気持ちはわかるよ。だから特別に答えてあげよう」
「す、すいません。無理言っちゃって」
「男が簡単に謝るんじゃないよ。アンタはもっと、自分の言動に責任を持ちな」
 彼女は言う。
 先の叱責は、本気のそれではなかったみたいだ。
「あの娘《こ》がウチに始めて来たのは、いまから四年ぐらい前のことだったかねェ。独りでぽつっとやって来て……うん、医師免許がどうのこうの言ってた時期だったから、確かそのあたりのことだったと思うよ」
「へェ」
「こりゃまたえらい別嬪さんが来てくれたもんだと思ってたら、その日はあの、ずっと閉店までひとりでいてね。それからさ。ほとんど毎週足を運んでくれる、常連さんになってくれたよ」
「なんかあいつ、他のお客さんからも人気あるみたいっすよね」
 さっきの出来事を振り返って、俺は話を繋げてみせた。
「うん、まァ、お医者さんだからねェ」
 声を潜めて千春さんが応える。
「ある特定の層のオンナには、表立って言えない相談事ってのがいろいろあるのさ。もちろんあのの人柄ってのも大きいけど、どっちかっていうと需要と供給が一致してるってののほうが大きいんじゃないかと、あたしは思ってるよ」
「特定の層?」
「少年」
 たしなめるように千春さんが告げた。
「夜の街ってのにはね、陽の当たらない商売ってのがたくさんあるんだよ。アンタみたいな娑婆のオトコが、好奇心半分で首突っ込むような世界じゃないんだ。悪いことは言わないから、それ以上は黙ってな」
 風俗嬢!
 咄嗟に俺は理解した。
 そうか。あそこにいる面々は、いわゆる性産業に勤めてる女性セックス・ワーカーたちなんだ。
 であれば、先ほど感じた不思議な色気も十分に理解できる。
 もし本当にそうなら、彼女らは女性特有のカラダの問題に嫌でも向き合うことになる。
 それが職業人プロとして、自分と客とを直接守ることに繋がるからだ。
 そして、そこで出て来るのが薫子ってわけか。
 確かに、産科婦人科の職業医でさらに自分たちと世代も近い同性のあいつなら、下手なオトコの藪医者を相手にするより、よほど信頼できる相談相手と言えるだろう。
 しかも、ちゃんとした医療機関にかかるのと比べたら、費用はほとんどタダみたいなもんだ。
 無関係な人間に知られて、余計な心配事を増やす可能性も極めて少ない。
 もっとも薫子の側からすれば、全然メリットのある話じゃないだろう。
 そりゃあいくらかの酒や食べ物をご馳走にはなってるだろうが、ここで費やした時間が給金として跳ね返ってくることは絶対にないからだ。
 懐が膨らまない一種の偽善行為。
 それでもその行為はあいつにとっての喜びになるに違いないと、俺は無意識のうちに確信していた。
 根拠などもちろんない。
 ただこれまでの短い期間を通じ、この俺自身は「大橋薫子」というのはそういった女なのだと、心の底から信じていた。
 そいつはひとの好き嫌いとはまったく別の、あくまでも中立的な評価だった。
 そんな自分の予想を露ほども疑わず、俺は内心であいつのことを称賛した。
 金儲けマンセーないまの世の中、まだ若いのに「医は仁術なり」を地でやってるあいつの心根を、俺は本気で褒め称えた。
 畜生。
 薫子の奴め、本気で頑張ってやがんだな。
 だがそれと同時に、この時の俺は、どうしようもない寂しさにも襲われていた。
 なんだかあいつに置いて行かれてるような気がして、それがどうしても我慢できなくなってしまったんだ。
「千春さん。もう一杯もらえます」
 そういった心情をごまかすため、俺は千春さんに話しかけた。
 設置されたカラオケがいきなり動き出したのは、彼女がジョッキを受け取った、まさにその矢先での話だった。
 つと振り向いた視線の先では、ボックス席で立ちあがった薫子の奴が片手にマイクを握っていた。
 周りの女性たちがはやし立ててるのを見る限り、あいつが歌を披露するのはまず間違いないことと思われる。
 壁面のディスプレイにその曲名が映し出された。そいつは、朝の幼児番組でよく流れているオリジナル童謡のひとつだ。
 前奏が終わり、歌詞が始まる。
 千春さんからジョッキを受け取り冷たいコーラを口にしながら、俺はしばらくハスキーボイスに耳を傾ける決意をした。
 そしてその次の刹那、俺は自分の決断を激しく後悔することとなる。
 それは、とんでもない内容に変換された、いわゆる「替え歌」って奴だったんだ。

 ど~て~、こぞ~の、け~すけく~ん♪
 今宵も~、ひとり~でマスをかく~♪
 ビュル~ン、ビュル~ン♪
 ビュルル~ン、ルンルンルン~♪
 イ・ク・で~、ござぁ~んす~、ビュルルルルルル~ン♪

 あいつを囲む女性たちの口々から、合いの手と黄色い悲鳴が飛び交い始める。
 そのあまりの莫迦莫迦しさに抗議する気持ちも砕け、俺はばたりとカウンターの上で突っ伏してしまった。
「な、仲良いねェ」
 苦笑いを浮かべた千春さんが、さっきと同じ台詞を吐いた。
「いっつもこんな感じっす……」
 顔も上げずに俺は応える。
「俺、あいつから一人前のオトコ扱いされてないっすから……」
「そいつはどうかねェ」
 否定の言葉を千春さんは放った。
「あれっくらいじゃ怒らないって信頼されてるから、あそこまで寄り掛かられてるって考えもあるんじゃないのかい?」
「単に舐められてるだけっすよ」
 言葉を飾らず、俺は返した。
「医者で美人の薫子と比べたら、俺なんて、まるで人間の出来損ないですし」
「オイオイ少年。自分のことを自分で悪く言うもんじゃないよ」
 そんな俺を千春さんが叱る。
「結局のところ、最後の最後に自分を信じてやれるのは、自分自身でしかないんだ。『コギト・エルゴ・スム』だっけ? 『我思う。ゆえに我あり』 自分で自分を認めてやらなきゃ、いったい誰が自分の背中を押してくれるってんだい? 卑屈にならず、自信を持ちな」
 やけに親身がかった千春さんのアドバイス。
 だがそれに、俺は無言を貫いた。
 わずかばかりの沈黙が、ふたりの間を通過していく。
 そんな停滞に我慢できなくなったのか、千春さんが溜息とともに口を開いた。
「なあ少年」
 口調を変えて彼女は言った。
「おまえさん、オンナ嫌いなんだって?」
「それ、薫子から聞いたんですか?」
 ひょいと顔を上げて千春さんの目を見る。
 その問いかけに「まあね」という予想どおりの答えをもらって、俺は思わず愚痴をこぼした。
「あいつ、他人ひとのプライベートをよくもまあぺらぺらと」
「質問の答えになってないぞ、少年」
 千春さんの双眸に険がこもった。
「いま尋ねたのは、このアタシだ。まずはそいつに答えるってのが、ちゃんとした筋ってもんじゃないのかい?」
 もっともすぎる正論だった。
 そのことに疑問を挟む余地はない。
 この時俺は、頷くことでそいつに答えた。
 無言のまま視線を逸らせ、カウンターの上にそれを這わせる。
 人間力に押されたためか、千春さんと見を合わせる余裕がなかった。
 こういうところがガキなんだなァと、否が応にも自覚する。
「そうかい。オンナ嫌いかい」
 やっぱりな、と言わんばかりに彼女は言った。
「最近増えてるみたいだよねェ。若いオトコどものオンナ嫌い」
「すいません」
「謝るこたァないよ、少年」
 思わず漏れ出た謝罪の言葉を、千春さんの笑いが一蹴した。
「まともなオトコがオンナを嫌いになるなんざ、怖いくらいにあたりまえのことさね。ましてや、アンタらみたいな純朴な少年なら、そんなのはなおさらのことだよ」
「えッ?」
「理由が聞きたいって顔だね」
 片眉を上げて彼女は言った。
「じゃあ、四十路のオバサンが聞かせてあげようか。オンナっていう生き物がなんでオトコから嫌われちまうのか、その根本的な理由わけって奴を、さ」
 片手間にグラスやジョッキを磨きながら、淡々と千春さんは語り始める。
「オンナっていう生き物はね、大半のオトコからすると、嫌になるくらいに理不尽な存在なのさ。理屈じゃなく、あくまでも感情中心に世の中生きてる。そして、どうしようもないレベルの自己チューだ。常々周りに『共感して欲しい』と願っててはいても、じゃあ自分がそれと同じことできてるのかといえば、決してそういうわけじゃなかったりする。
 いつぞや本で読んだんだけどさ、オトコから見たオンナっていうのは、『ちょっとしたことで怒り出す』、『終わったことをいつまでも蒸し返す』、『答えようのない質問をしてくる』、とまあ、そんな傾向があるんだと。あながち間違っちゃあいないよね。同じ性別のアタシから見ても、そういうオンナはそれこそ掃いて捨てるほどいる。これに『自分が不利になると泣いてごまかす』を付け加えたら、どれにも当てはまらないオンナなんて、実際どこにもいないんじゃないかな。
 だから、まともに娑婆を渡ってきたオトコどもが『そんな生き物抱え込むなんざ御免被る』って言い出しても、アタシゃ別段不思議には思わないね。もしアタシがひとを雇うとしても、そんな情緒不安定な人間はお断りだ。ビジネスパートナーとして考えたら、モノの役にも立ちそうにないからさ」
 彼女の毒舌はなおも続く。
「アンタもいっぱしのオトコならわかるだろ? 現場に生きるオトコってのは、自分と一緒に戦ってくれる、そんな忠実な存在が欲しいのさ。自分の背中を任せてもいい。自分の城を預けてもいい。そう心から信頼できる、自分だけのパートナーが欲しいんだよ。
 ところがさ、いまどきの若いオンナは、そういう立ち位置が生理的に嫌ときてる。オンナがオトコに尽くす生き方を『男女平等に反する』って毛嫌いする癖に、何かあったら『オトコはオンナを守るのが義務だ。助けろ』って臆面もなく主張する。そしてそういう片務協定を、まともなオトコに向かって集団で押し付けてくる。
 そんなことあたりまえにやってるようじゃ、そりゃあ普通のオトコは逃げ出すよ。オトコが血と汗を流して必死に狩ってきた獲物を、お代も出さずに自分だけで食べようってんだ。いや、自分だけで食べようってんならまだ可愛げもある。下手すりゃあ、そいつと違う別のオトコといちゃつきながら食べようってんだから、こりゃあもう救いようがない。
 身を粉にして獲物を捕ってきたオトコからしてみたら、そんな相手は『もういいや』ってなるのも当然さね。少なくともアタシだったらそう思うし、自分がそんな真似されたとしたら、頭から湯気出して怒り狂うだろうよ」
「……」
「もちろんだけど、世の中そんなオンナばっかりってわけじゃない。惚れたオトコに尽くすこと、信じたオトコを支えることに喜びを感じるオンナだって、そりゃあ星の数ほどもいる。アバズレに手酷くやられたオトコたちだって、当然それぐらいのことはわきまえてる。よっぽどアタマの悪い奴じゃなけりゃあ、それぐらいのことは言われなくても承知してる。
 でもさ、コップ一杯のウンコ水注いだ樽一杯のミルクは、結局樽一杯のウンコ水にしか見られないんだよ。一度その事実を見知ってしまったら、どんなに頑張ってもそうとしか思えなくなっちまう。たとえ科学的になんの問題もなかったとしても、そんなのにわざわざ口つけようとする変わり者なんて、この世の中にはまずいないんだ。
 いいかい? これが人間って奴の本質で、同時にオンナ嫌いってののメカニズムさ。まあ、アンタみたいな本物のオンナ嫌いからしてみたら、こういうのは釈迦に説法って奴だったかもしれないけどな」
「俺だけが特別ってわけじゃない……そう言いたいんですか?」
「いまのをどう受け取るかは、完全にそっちの自由さ。そもそもこういうのは、アタシごときがどうこう言える問題じゃないしね」
 口調を変えて千春さんが言った。
「少年。アンタがどういった経緯でオンナ嫌いになったのかアタシは全然知らないし、別段知ろうとも思わない。はっきり言うなら興味すらないよ。ただね、もしアンタがどこぞのアバズレに付けられた傷の痛みでいまもまだのたうってるってのなら、どうしてもひと言だけ言っておきたい言葉があって、その前触れを語らせてもらったんだ」
「え?」
「圭介くんっていったっけ? もしアンタがまともなオトコだってのなら、今後のためにも、いまからアタシの言うことだけは、きっちりと心の隅に留めといとくれ。
 オンナってのはさ、確かに純情なオトコを手酷く傷付ける生き物だ。莫迦で、愚かで、わがままで、眼中にないオトコには、とことん冷たい生き物だ。そういった評価は、神さま仏さまにだって全否定はできないさね。
 でもな、少年。これだけはおぼえといとくれ。オンナに付けられた古傷を癒せるのも、皮肉なことに、やっぱりオンナだけなんだよ」
 そんな風に言葉を締めくくると、千春さんはふたたびグラスを磨き始めた。
 俺もまた、無言でジョッキに口を付ける。
 この時の俺には、なんで彼女がそんな説教を垂れようと思ったものか、その具体的理由って奴がこれぽっちもわからなかった。
 よくあるオンナの気紛れか?
 それとも、何か別の思いがあってのものか?
 理解できたのは、たったひとつ。
 その語られた内容が、俺のはらわた深くにじわりと染み透ってきたこと、ただそれだけであった。
 でもな、少年。これだけはおぼえといとくれ。オンナに付けられた古傷を癒せるのも、皮肉なことに、やっぱりオンナだけなんだよ──…
 まるで高名な哲学者みたいな千春さんの台詞を、俺は知らぬ間に、何度も何度も心の中で繰り返していた。
 何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も反芻していた。
 そいつは半ば、困惑にすら近かった。
 なんでそう思ったのかは、自分自身でもわからない。
 だけどこの時、俺の中に根差していた強靭な何かがわずかな揺らぎを示したことだけは、疑う余地のない事実だった。
 なんで俺、こんな気持ちになってるんだ?
 自信喪失にも似た無力感が、急速に発言意欲を奪っていく。
 押し寄せてきた心の飢えが、むかしの自分を思い出させた。
 しばらく忘れ去っていた寄る辺のなさが、改めて俺の胸腔を満たし始める。
 そんな苦い現状を完膚なきまで打破したもの。
 それは、まったく予期していなかった薫子からの強襲だった。
「圭介くん。暗いぞ~。ちゃんと飲んでますか~」
 大ジョッキを左に備えたあいつの腕が、真後ろから俺の身体を抱きかかえた。
 「うわッ!」と驚く俺を意にも介さず、ルージュを引いた肉厚の唇が、耳元に甘いささやきを注ぎ込んでくる。
「せっかく遊びに来たんだから、独り酒はよくないわね~。こっち来て、おねーさんたちの相手なさい。さ、早く早く」
「ま、待てッ、薫子! 俺はまだ未成年だぞ! 酒が飲める身分じゃないぞ!」
 ぐいぐいと腕を引っ張る薫子に、俺は抗議の言葉を発した。
 だが、あいつの強引は止まらない。
「そんなことはわかってるって」
 かなり出来上がった様子の薫子が、それに応じて答えを返す。
「だ・か・ら、デュエットぐらいは付き合いなさい」
「デュ、デュエットぉ!?」
「そうそう」
 ニマッと笑ってあいつは言った。
「彼氏でもないのに、この薫子さんと選りすぐった愛の歌をデュエットできるのよ。君も一応オトコなら、そのことに少しは感動しなさいな」
 そのままズルズルとボックス席のほうに引きずられていく俺。
 強制連行とは、このこと以外の何物でもなかった。
 抵抗などまるで無意味。
 無理やりマイクを握らされ、ほとんど力尽くでこいつの真横に立たされた。
 その瞬間、同席する女性たちの口々から、かなり好意的な歓声が飛び出してくる。
 薫子から俺のことをどう説明されてるのかわからなかったけど、悪い印象を持たれているとは思えない状況だ。
 おろおろと情けないさまを見せている俺の右腕に、薫子の左腕が大胆に絡んだ。
 Gカップバストが、まともにギュッと押し付けられる。
 ドキリ、と急に心臓が鳴った。
 ゴクリ、と思わず息を呑む。
 ボッ、と顔が火照るのも自覚した。
 いままで経験したことのないトリプルアタック。
 熱病にでもかかったみたいに、頭の中がクラクラする。
「千春さん! 選曲お願い!」
 右手を挙げてあいつが叫んだ。
「『ミゲールとカトリーナ』 ズバッと行っちゃって!」
 「いきなりそれかい? 攻めるねェ」と笑いながらリクエストに応じた千春さんの両目が、密かな期待に煌くのが見える。
 酸いも甘いも嚙み分けてるような彼女の目に、いまの俺たち俺&薫子はどんな関係に映ってるんだろう?
 不可思議な好奇心が、一瞬だけだが俺を捉えた。
 最初に俺が自称したような「女王さまとその下僕」か?
 それとも、もっとまともな「年の離れた友人知人」?
 まさか、「恋人同士」ってわけじゃないよな?
 えッ!? 「恋人同士」!?
 自分で思い浮かべたその四文字が、間を置かず、俺の頭頂部を痛打した。
 「恋人同士」?
 俺と薫子こいつが、寄りにも寄って「恋人同士」?
 その関係は、これまでの俺の中には、まるっきし存在しないシロモノだった。
 初めっから、ありえないものと思い込んでた繋がりだった。
 前奏がスタートし、艶やかに歌いだす薫子。
 そんなあいつを横目で見ながら、俺もまた自分のパートを口ずさむ。
 三度、千春さんの台詞が脳裏をよぎった。
 でもな、少年。これだけはおぼえといとくれ。オンナに付けられた古傷を癒せるのも、皮肉なことに、やっぱりオンナだけなんだよ──…
 そして、唐突に俺は自覚してしまった。
 俺、ひょっとして薫子こいつのことが好きなのかもしれない──と。
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