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四章:マン・オブ・スティール

第四十話:藩主慟哭

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 それはもう誰の耳にも明らかな、現然極まる挑戦だった。
 我と我が身とを縛りつけてこれを傀儡にせんと試みる、そんな理不尽な策略に対する断固たる反逆行為。
 それまで光を失っていたように見えた葵の両目には、気が付くとその奥底に揺らめく炎が宿っていた。
 淀みなく放たれた口上にも、いまや精気の欠片がちりばめられるようになっている。
 おそらく彼女は、その身を伏しながらじっとこの機をうかがっていたのだろう。
 従順な人形の素振りを装いつつ、憎むべき圧制者へ全身全霊を込めた一撃を見舞うべく、この絶好の瞬間を息を殺して待ち続けていたのだろう。
 そこに保身の念はまったくもって見られなかった。
 むしろその爛々たる眼光からは、おのれの生還をすら微塵たりとも考慮せぬ、ある種の狂気までもが感じ取れるほどだった。
 この娘は、もとよりこちらに従う意志など持ちあわせてはおらなんだ。
 玄蕃は瞬時にしてそれを悟った。
 この娘は、もとよりこちらに従う意志など持ちあわせてはおらなんだ。
 それどころか、この愚かな娘は、いまおのれの死すらも覚悟しているのだ。
 自らの「名」と「誉」とを守るためならば、死すらも厭わぬと決しておるのだ。
 なんたることだ。鷲鼻の家老は思わず歯軋りした。
 おのれの命さえいらぬと申す者を相手に、いったいいかなる駆け引きや策略が通用するというのか!
 自身の頭部にかっと熱い血が上るのを玄蕃は感じた。
 知らず知らずのうちに、憤怒の形相がその顔面へと浮かび上がる。
 葵の言動になんら理性的な対応を思いつけなかった反動が、より一層の激情となってこの男の心身を支配したのだ。
 我が意に従わぬ小癪な娘を自ら仕置きせんとして、彼はがばっと片足を振り上げた。
 こともあろうかこのでっぷりと肥えた中年の侍は、おのが足下で座する無抵抗の少女を足蹴にせんと試みたのである。
 もちろん、この時おのれに向けられた明確な害意を、葵ははっきりと察していた。
 しかし、彼女はそれを完全に無視した。
 我が身可愛さゆえの保身により、自身の中に張り詰めた気合いが逃げてしまうことを何よりも恐れたからだ。
 無法な暴力によって心を曲げるような真似は二度としない。
 数日前、おのが義父の立場を自称しているこの中年男が我が身の上にのしかかった際、ただ不条理なる力を行使されたというだけで唯々諾々と敗北を受け入れてしまったあの瞬間を、屈辱を、葵は片時も忘れてなどいなかった。
 まだ戦えたはず、まだ抗えたはずなのに、あの時の自分は、あろうことか降りかかってきた火の粉から震え上がって逃げ出そうとした。
 開かれた敵の顎に立ち向かいもせず、あろうことか涙を流して敵の情けにすがろうとした。
 お父さまは逃げ出さなかった。
 古橋さまも逃げ出さなかった。
 なのに、ふたりがその身命を賭して守ろうとしてくれたこの自分は、ほんのわずかな保身のために、膝を屈して自ら敵の軍門へと降ろうとしてしまった。
 憎き仇に一矢も報いようともせず、安易な道への逃走を図ろうとしてしまった。
 それは、誇り高き武士の娘にとって断じて赦される行いではなかった。
 だが、そんなあたりまえのことを悟ったのは、翌日の朝になってからのことだった。
 ただ漠然と流れているだけの時間が、泣き疲れて泥のように眠る自分に蕩々と語りかけてくれたのだ。
 そして、その日が終わりを告げる頃には気付くことができた。
 真に赦してならないものはおのれの演じた醜き怯懦などではなく、その道へと我が意を導いた心の弱さそれ自体なのだということに、である。
 だから、今度こそ自分は現実から目を背けない。
 押し寄せる理不尽にも背を向けない。
 意志を曲げ、襲いかかる不条理に降参してみせるような恥ずかしい真似は絶対にしない。
 そうでなければ、どうしてお父さまに顔向けできよう。
 そうでなければ、どうして古橋さまに顔向けできよう。
 「武士」と書いて「もののふ」と呼ぶ。
 文字どおり「武士」とは、武勇をもって、戦う意志をもってその存在意義とする者にほかならない。
 なればこそ、ひとたび武士の家に生まれたからには、たとえ女子の身であろうとも戦うこと、抗うことを忌避してはならない。
 それは、おのれがおのれたる身であるために欠かすことのできないたったひとつの理であるのだから。
 突き付けられた威に際してなお一歩も退こうとはしないそんな葵の身の上に、玄蕃の蹴りが振り下ろされる。
 そこに容赦など欠片も見られなかった。
 それは、とても父親が我が娘たる少女に取り得る行いなどではなかった。
 それまで傍らに控えていた白髪の僧侶が、咄嗟に反応の色を示した。
 素早くその身を滑らせた彼は、おのが背をもって葵を庇わんと試みたのだ。
 しかしながら、その献身が成就することはなかった。
 だが一方で、玄蕃の暴挙が成立することもまたなかった。
 それは、唐突に割り込んだ藩主・頼時の一喝が、まるで刻の流れをとどめるかのごとく両者の行為を制止し得たからである。
「玄蕃、下がれ」
 頼時は短く告げた。
 有無を言わせぬ迫力が、そのひと言の中に含まれていた。
 それは、一国の当主たる身に生まれついた人間が否応なしに備える、ある種の凄みであったのだろうか。
 傲慢というものを形にして衣を着せたような玄蕃ですらが、その言葉を無視し得なかった。
 かろうじて「いや、しかし……」と抗議の意志を見せるのがやっとだった。
「玄蕃」
 そんな家老に毅然として藩主は告げた。
 それはおよそ最後通告に近い代物だった。
「私の言うたことがわからぬのか?」
 玄蕃は、かつての頼時を痛いほどに知っていた。
 才覚にあふれ、果断で、ひとたび口にしたことについてはおよそ頑迷なほどに責任を背負い込もうとする理想家肌の若者。
 いま彼の放ったひと言は、この鷲鼻の中年男にそんな藩主の本質をまざまざと思い出させるに足るものであった。
「は……ははっ……」
 思い描いていたはずの流れが思いも寄らぬ方向へと歪んだことを察し、玄蕃は、わずかな間、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
 主の見ている前で、それを隠す素振りすら見せなかった。
 しかしながら、この男は下された主君の命に反抗の意を示すほど愚かしい人物ではなかった。
 彼は改めて深々と座礼すると、言われるがまま黙って藩主の前から姿を消した。
 階下へと向かうその足取りが速やかだったのは、腹心たる生島数馬と今後の対応を話し合おうと考えたためであったのやもしれぬ。
 それと前後して、頭白もまたこの場から退出しようと腰を上げた。
 おのれがここに滞在する必要性を感じられなくなったからだった。
 目の前に展開するのは、紆余曲折を経た叔父と姪との邂逅である。
 お互いに含む想いがあったとしても一向に不思議ではない。
 無論、その一方が一国の領主たる重責を背負う者であったとしても、だ。
 彼は、おのれの存在を両者にとっての邪魔者であると決定づけた。
 聡明であることにおいては疑う余地もないこの白髪の僧侶にとって、ゆえにその行動はまったく理に適うはずのものだった。
 ふたりの関係に深入りすることなく身を退くことは、むしろ必然的な心遣いとしてしか感じられなかった。
 だが、当事者の片割れがそれを許しはしなかった。頭白がやんわりと一礼しようとしたまさにその瞬間、「御坊!」と彼に呼びかける声が彼に届いたのだ。
 それは、頼時からのものだった。
 彼は言った。
「そなた、仮にも坊主であろう。何ゆえこの場に同席したかはあえて聞かぬが、これもまた何かのえにしだ。まもなく死ぬる私の……この私の懺悔の言葉を何卒聞き届けてはくださらぬか?」
「懺悔、と申されるか?」
「左様」
 瞬時に目を見開いた頭白に向かって、大きく頷きながら頼時は応えた。
「懺悔の言葉だ」
 彼はそう告げたのち葵と頭白の双方をおのが側へと呼び寄せ、廊下に控える小姓に命じて部屋の襖を閉めさせた。
 どこか張り詰めたようなこの場の空気が、藩主の抱く一種の気概をあからさまに物語っているようにさえ思えた。
 床の手前で並んで座るひとりの少女とひとりの僧侶。
 頼時は、そんなふたりと真正面から向かい合うようにして、こちらもまたゆっくりと膝を折った。
 驚くべき行為であった。
 三万八千石という小藩であるとはいえ、紛れもない一国の領主が格下の者どもと同じ高さに目線を合わせる──それは、厳格な身分制度に縛られたこの時代において、およそあってはならないことだった。
 社会を司る骨組みを根底から覆しかねない振る舞いであったからだ。
「葵、と申したな」
 寸分もぶれることない眼差しを少女に向かって注ぎつつ、感慨深げに頼時は言った。
「なるほど、雅が娘だ……その目が、あれに生き写しだ……」
 藩主の右手が葵に伸びた。
 指先が柔らかな彼女の頬に触れようと近付く。
 それは、奥底から肉親の情が滲み出る、まこと優しげな仕草であった。
 敵意や害意などは、微塵も見出すことができなかった。
 葵は、無言で頼時の意を受け止めようと身を定めた。
 凜と背筋を伸ばし、来たるべき圧力に負けまいと心を鎮める。
 だがその瞬間が訪れることはなかった。
 頼時の指は、おのが目的を果たさんとしたその矢先、まるで痙攣したかのようにびくりと震え、意を達することなく元来た道をしずしずと引き返して行ったのだ。
 不自然な動きだった。
 知らず知らずのうちに藩主の指先を目で追っていた葵は、思わず左様に訝しんだ。
 視線を改めて頼時が顔へと移す。
 そこで彼女が目の当たりとしたものは、文字どおり泣き崩れんがばかりに表情を歪ませている一国の領主の姿だった。
 葵も頭白も、衝撃の余り刮目してそれを見ることしかできなかった。
 その口は、ただのひと言をも発することができなかった。
 だが続く藩主の行いは、そんな両者をなおも驚愕させるに値する代物だった。
 飛騨高山藩主・金森出雲守頼時は、あろうことかこの時、おのれから見てはるかな下位に位置する者へ平身低頭してみせたのである。
「すまぬ!」
 そんな容易には信じられぬ光景を目の当たりにし思わず石のように固まる両者の前で、頼時は吼えた。
 いや、彼の絶叫は葵と頭白、その双方へ向かって等しく放たれたわけではない。
 間違いなく頼時は、ただおのが姪・秋山葵に対してのみ、その言葉を発したのだ。
「私はそなたに詫びねばならぬ。詫びて、詫びて、なお許されることではないが、それでも私は、おのれの口で詫びねばならぬ。そなたに向けて詫びねばならぬ」
 それはまるで、溢れんばかりの濁流が堤を押し破るかのごとき魂の叫びだった。
 いつのまに溢れてきたものであろうか。
 滂沱の涙を滴らせつつ、彼は言った。
「雅を……そなたの母を死に追いやったのは、ほかならぬこの私……この私なのだ」
 その言葉を耳にした直後、頭白はおのれの傍らに座る少女が小さく息を呑む音を確かに聞いた。
 胸の奥にいささかの気がかりを覚え、目立たぬように視線を向ける。
 その眼差しの先で、葵は表情ひとつ変えず、じっと頼時を見詰めていた。
 それが意図してのものなのか、それとも藩主の発言がもたらした茫然自失の結果なのかはうかがい知ること叶わなかった。
 沈黙がこの場を支配してからしばしののち、頼時はゆっくりと面を上げ、新しく背筋を伸ばし直した。
 感情を落ち着かせるためであろう。
 大きく数度、肺腑に呼気を送り込む。
 目をつむり喉を鳴らし、おのれを取り戻したのを慎重に確かめてから、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
 自分自身と葵の母・雅との間に、いかなる現実が起きたものかを──…
「私がそなたの母・雅と出会うたのは、私がまだ幼少のおりのことであった」
 語り部は遠い目をしつつ、左様な言葉で口火を切った。
「その当時のあれは、いまのそなたと同じほどの年頃だった。我が母とさしてかわらぬ年齢の女中どもに混じって、ひらひらと忙しそうに動き回っていたのをよくおぼえておる。なんとも風変わりな娘であった。いや、むしろ場違いな娘であったと申してもよい。ほかの女中どもがまるで私を高価な茶器か何かのように扱うなかで、ただあの者だけが、まだ年端も行かぬ私をひとりの『ひと』として扱うてくれた。
 早くに父を亡くし、生みの母も後見人たる叔父も、周りの者たちすべてが私を『次代の領主』『金森の跡継ぎ』としてしか見てくれぬなか、まさしくそなたの母だけが、この私に『ひと』としての温もりを与えてくれた。与えようとしてくれた。
 いつしか私は、そなたの母に心惹かれるようなっていた。幾度もあれに、『おまえを妻に迎える』と真っ向から宣言した。無論、しょせんは幼子が口にする戯言よ。文字どおり一笑に付されても仕方がない行いだ。
 だが、私は本気だった。その想いは、天地神明にかけて嘘偽りなどない本心だった。
 そしてそれがために、あれは私の側より遠ざけられた。おそらくは、我が母の策謀だったのだろう。雅は、およそ聞いたこともない藩士のもとへ嫁ぐことが決まり、時を経ずして私の前から姿を消した。
 それが意に沿わぬ婚礼であることに疑いはなかった。それぐらいは当時の私にもはっきりとわかった。だが、その時の私にはそれをどうこうできる力などなかった。いかに金森が家長とはいえ、たかが六つか七つの子供には、その立場を利用して立ち回るほどの知恵などなかった。
 雅が死んだとの話が伝わってきたのは、それから間もなくのことだ。
 婚家へと輿入れをする際、物取り目当ての不埒者が手にかかって果てたとのことだった。
 私は、おのが無力を嘆いた。そして、荒れた。
 三万八千石の藩主たる身でありながら、十を過ぎる頃には酒色をおぼえ、放蕩の三昧を繰り広げた。そう、まだ毛も生えそろわぬ年頃の子供が、だ。
 およそ考えられぬ所行であった。赤面の至りとはまさにこのことよ。誰の目から見てもあきらかな、まったく恐るべき愚行であった。あの時、我が叔父がうまく御公儀に取り繕わねば、金森家は取り潰しの憂き目にあっていたやもしれぬ。
 しかし、それほどのことをしても、私の心は埋まらなかった。初めて『おんな』の癒しを知ってより、その滑らかな肌身に何度救いを求めても、胸の奥に開いた穴を塞ぎきることはできなかった。
 すべてのことがどうでもよかった。何がどうなろうとも、いっさい気にならなかった。
 そんな私に転機が訪れたのは、いまより八年ほど遡ったある夏の日のことだった」
 膝の上に載せられていた頼時の手が、一瞬強く握り締められた。
 その唇がかすかに震える。
 彼の中の何かが、それ以上の発言を必死になって阻もうとしていた。
 その束縛は、あたかも頑丈なくびきのごとくであった。
 だが、頼時は一気にそれを振り払った。
 いまの彼を支えている断固たる意志が、立ちはだかる防塞を真正面から打ち破る。
 その胸中に苦渋が満ちるのが見て取れた。
 にもかかわらず、頼時はなお決然として言葉を続けた。
「あろうことか、私のもとへ雅が生きておるとの報せが参ったのだ。罪を犯し高山城下を出奔したとある藩士に養われいまも江戸にて暮らしておると、左様な報せが参ったのだ。
 それは私にとって、まさしく青天の霹靂に等しかった。私は叔父を問い詰めた。あれは死したのではなかったのか、と。何ゆえ、私に嘘偽りを申したのか、と。
 叔父も、ごまかしたままではおれぬと考えられたのだろう。私の詰問に、渋々ながらも答えてくれた。それは、文字どおり我が耳を疑わんばかりの内容だった。
 私はこの時、そなたの母が……私の恋い焦がれた女が、我が腹違いの姉であることを知らされたのだ!
 亡き父が、かつて戯れに手を付けた端女の娘。産後の肥立ちが悪くそのまま息を引き取った母親に成り代わり、叔父の側用人が特別な計らいをもって養女とした私の異母姉。それが、そなたの母・雅であった。
 叔父は私に申された。すべてを忘れよ、と。たとえいかなる気持ちがあろうとも、お互いの再会はただ不幸のみをもたらすに違いない、と。
 いまになって思えば、それは賢者の金言だった。だが、その時の私には、それを理解することができなかった。
 私は周りの反対を押し切るように、あれを高山へと呼び戻した。当時、あれと夫婦同然に暮らしておったかつての藩士、そなたが父・秋山弥兵衛の罪を許すことと引き替えに、私はあの者を手元に置こうと目論んだ。
 決して邪な想いがあったわけではない。ただ、幼き頃の無力だった私とは違ういまの私をあの者に知らせ、その安堵した表情を見てみたかっただけなのだ」
 不意に頼時が言葉を絶した。
 何事があったものかとほかのふたりが訝るのより早く、ふたたびその目から大粒の涙がこぼれ始める。
「だが、そんな子供じみた想いをすら、この時の私はまっとうすることができなかった」
 号泣しながら彼は叫んだ。
「城中にて対面を果たし、熱望していた愛しき女を目の当たりにした私は、あれに……あれに……我がものとなることを求めてしまったのだ!
 すでにあれが、身も心もひとの妻となっておったのはわかっておった!
 どれほどの好餌を並べ立てようと、あれが左様な不貞を了承するわけなどないことも重々承知しておった!
 にもかかわらず、私はおのれを抑えることができなかった!
 おのれの欲望を抑えることができなかった!
 雅がやんわりと、しかし疑う余地もない拒絶の意志を示した時、私の中で何かが壊れた。音を立てて何かがちぎれた。
 その時の私は、自分が何をしたのかわからなかった。
 だが、すべてが終わったあと、自分が何をしてしまったのかははっきりとわかった。
 私は……そなたの母を、自らの姉を暴力でもって犯したのだ!」
 それは、まさしく血涙溢れんばかりの告白だった。
「あれの心身をむさぼり尽くした私がようやくのことでおのれを取り戻したのは、その夜が明けてからのことだった。
 朝日を浴び、我が身のしでかした罪業に恐れおののくしかない私を、しかし雅は決して責めようとはしなかった。ただ哀しげに微笑みながら、『殿、これをきっかけに良き領主へとおなりなさいませ』と私に告げただけだった。
 私は、そんな雅になんの言葉をもかけてやることができなかった。
 謝罪せねばと思った。許しを請わねばと思った。
 されど、藩主としての立場がそれを認めてはくれなんだ。目下の者へ自ら詫びを入れるなど、仮にも一国の主にとって、およそあってはならないことだったからだ。
 私は悩んだ。何者にも相談できず、たったひとりで煩悶した。
 無論、答えなど出ようはずもなかった。いや、そもそも答えとはなんなのかを形らしきものにすることすら叶わなかった。
 雅の死を知らされたのは、それから数日後のことだった。たまさかの過ちによるものだと聞かされた。
 だが、私にはわかっていた。そう、あれは自ら命を絶ったのだと、私にはわかっていた。
 私はこの時、おのが罪を償うべき相手を失った。私に許しを与えられる、たったひとつの存在をとこしえに失ってしまった。
 涙すら流れなかった。慟哭すら放てなかった。
 弥兵衛の悲しみが手に取るようにわかった。あれが私に向ける殺意が、痛いほどに感じられた。
 あるいは、おとなしく斬られてやればよかったのやもしれぬ。そうすれば、このような苦しみに身悶える必要もなかったのやもしれぬ。
 しかし、私にはその道を選ぶことができなかった。情けなき話ではあるが、贖罪のため、自らの命を投げ出す道を選ぶことはできなかった。
 その日からだ。私はおのれというものをすべて捨てた。
 あれが最後に申した言葉、この私に良き領主になれと申したその言葉をただ忠実に守ることだけが、私の生きる糧、生きるための道標となったのだ。
 妻も、子も、幸せも、いや希望すらももはやいらぬ。
 罪を償うためにおのれを捨て、この身を粉にして、今日という日をひたすら生き続けることだけが、我が生涯の目的となった。そうしなければならぬと心に誓った。
 だがそんな私を、やはり天は許そうとしなかった。
 いま私は病に倒れ、日を置かず死なんとしておる。贖罪の日々をまっとうすることもなく、間もなく地獄へ堕ちんとしておる。
 なればせめて、おのが罪を、この口でもってそなたに伝えておきたかった。
 願わくば、雅の娘たるそなたに恨まれ、憎まれておきたかった。
 葵よ。雅が娘よ。
 いまもしそなたが望むなら、この私を討っても構わぬ。そなたの手にかかるならば、この頼時、喜んで黄泉路へと赴こうぞ。
 そのことで我が罪業を許せとは言わぬ。そのような資格も権利も、この私は持ち合わせてなどおらぬのだから。
 ただ、いまの私は左様なことでしかそなたに報いてやることができぬ。
 生母の仇を討たせてやることでしか、そなたに報いてやることができぬのだ!」
 頭白は、そんな藩主の姿を、哀れみを帯びた目でまんじりともせず見詰めていた。
 彼には理解できた。
 この者は、長きにわたり、償うことすら許されぬおのが罪をたったひとりで背負い続けてきたのだと。
 それがいったいどれほどの重みであるものかを、この白髪の僧侶は痛いほどにわかっていた。
 およそ人並みの罪悪感を備える者にとって、それは法によって与えられる刑罰を、時に上回る苦しみをももたらすのだ。
 肉体と精神に覚える痛みとはまったく異なる、魂への鞭打。
 その苦痛は、ひとの持つ、ひととして決して譲ることのできぬ何かを、とろ火であぶるかのごとくじわりじわりと浸食する。
 この者にとって、葵殿から憎悪され軽蔑されることすらが、いまは救いと感じられるのやもしれぬな──…
 彼は童のように泣きじゃくる飛騨高山三万八千石の領主を前に、ふとそんな感想を思い描いた。
 それは、これまで近似の道を歩んできた他者に対する、形を変えた同族感であったのかもしれない。
 一方、葵は今日初めて顔を合わせる実の叔父からの告白を、文字どおり無言のままに受け止めていた。
 中途でそこに言葉を挟むこともせず、まんじりともしないでただじっと耳を傾け続けていた。
 その喜怒哀楽が失せ消えた表情からは、彼女が心中に抱いているであろう思いをうかがい知ることはできなかった。
 ぴんと張り詰めた空気が場を支配し、その中をもっとも身分高き者の放つ嗚咽が足音を忍ばせつつゆっくりと流れていく。
 どれほどの時間が経過したものであろうか。
 止まっていた三人の時をふたたび動かし始めたものは、ぽつりと紡ぎ出された葵からのひと言だった。
「殿。さぞかしお辛うございましたのでしょうね」
 うつむきながら鼻をすする叔父に向かい、彼女は左様に語りかけた。
 はっと顔を上げた頼時の目に、はらりと頬を伝って落ちる涙の滴が光って映った。
「葵……」
 頼時が応えた。
「この私を恨まぬのか? 憎まぬのか?」
「恨みませぬ。憎みませぬ」
 頭を振って葵は答えた。
「殿はこれまで、ただおひとりで苦しんでこられたのでしょう? 誰ともその苦しさを分かち合えず、ただおひとりで御自身の罪の重さに悶えてこられたのでしょう? なれば、左様な御方を、この私のごときがいったいどうできるというのでしょう。
 母・雅が死してより八年。それだけの月日をひたすら苦悶し続けてきた御方をなお鞭打ち、おのが溜飲を下げようとする恥ずかしい真似をいたしては、私が黄泉路の父母より叱られてしまいます」
「黄泉路の父母、だと?」
 頼時が、思わず目をむく。
「弥兵衛は、そなたの父は健在ではなかったのか?」
「父は昨日さくじつ、見事斬り死にいたしました」
 そんな彼に葵が告げた。
「父は私たちを逃がすため、襲い来る多数の曲者どもを相手にたったひとりで立ち向かわれたのです。ここにいる頭白さまより、それは立派な最期であったとうかがっております」
「ああ、弥兵衛は……弥兵衛までもが死んだのか!」
 聡明なことでは人後に落ちない頼時は、その言葉からいま目の前にいる少女の身にいったい何が起きたものかを迅速に理解した。
 この娘は、おのが家中の者どもの手により、その意に反して無理矢理この場へ連れてこられたのだ、と。
 おそらくはあの姉倉玄蕃らが水面下で企み、金森家が命脈の保持を口実におよそ道理に合わぬ不埒を働いたのであろう。
 その根本原因たるがやはり病に倒れたおのれ自身であることを痛感し、頼時は改めて唇をかみ締めた。
 藩主たる立場にありながら、ここに至ってなお想い人の血族を不幸にし続けている我が身の無力を、彼は心の底から呪わずにいられなかった。
 そんな頼時の心情を知ってか知らずか、葵は続けざまに言を発する。
「殿、改めてお願いがございます」
 彼女は言った。
「この私を、何卒、秋山の娘のまま逝かせてくださいませ。それが叶わぬのなら、せめて殿が身罷られた時、この葵を殿にご一緒させてくださいませ」
「ならん!」
 そんな葵の懇願を頼時はひと言のもとに切り捨てた。
「それはならんぞ、葵。そなたは若い。まだ妻にも母にもなっておらぬ身ではないか。おんなの幸せを知らぬまま、自ら早々に死を選んでなんとする。自らの手で明日を投げ捨て、いったいどうしようというのだ!」
「葵は、殿のような強い人間ではございません」
 頼時の言葉に彼女は応えた。
「たったひとりで過去だけを見詰め、そんな我が身をなお律しながら生きていくことなど、私には到底できる相談ではありません。
 殿。私は、殿と違って弱い娘なのです。情けない娘なのです。もし左様な明日を迎えねばならぬなら、左様な明日しか来ないことがわかっているなら、私は今日を終えたいなどとは思えない、そんな意気地なしの娘なのです。父母の待つ黄泉路へ赴きたいと、そう強く思ってしまうような娘なのです」
「ひとり、だなどと」
 顔をしかめ頼時が言う。
「そなた、好いた男はおらぬのか? 心許し、生涯を共にしたいと望んだ相手はおらぬのか?」
「おります」
 その問いに葵は即答した。
「ひとりだけ、そうあれかしと心から願う御方が私の中におられます」
「なれば──」
「その方もまた、すでにこの世の人ではあるまいと聞きました」
 叔父の言葉を遮るように、少女は短く言い放った。
「殿。それがゆえにございます。
 左様な方が私の胸中におられるからこそ、身も心も捧げて悔いのないその方がいまなお私の心を掴み離さないでいてくださるからこそ、葵はその方を裏切ることはできません。ひとりのおんなとして、その方への想いを捨て去り、誰とも知らぬ殿方の妻となることはできないのです。
 葵は、その方とこそ生涯を添い遂げたいと思いました。願わくばその方の子を産み、妻としてその方に尽くす明日を迎え続けたいと思いました。
 その想いは、いまなお寸分も陰ることなく私の中で輝いております。決して揺らぐことなく、私の心胆を照らし続けてくれています。
 殿。いまの私にとって、愛すべき両親と心委ねたその御方がいる黄泉路へと旅立つは、むしろ存外の喜びとなっているのです。何卒、私の中にあるこの輝きが邪な力によって光を失ってしまう前に、よろしく葵の望みを叶えてやってくださいませ」
 この時、頼時は彼女の懇願に答えることができずにいた。
 否定も肯定もそこにはない。
 ただ沈黙をもって応じることだけが、彼の為し得るすべてだった。
 当然だろう、と震える心で頭白は思った。
 ひとりのひととしてわずかにでも他者への共感を持ち合わせている者であるなら、それはむしろあたりまえとも評し得るいわずもがなの反応だったからだ。
 おそらくは、鋭い刃に胸を刺されるような苦痛をいまこの男は味わっているのだろう。
 その刃の名は罪悪感と言う。
 この世の中でただ人間だけが保有することを許された、おのれを貫く氷の刃。
 その切っ先を迷わず我が身に向けられるかどうかで、ひととひとならざるものとは完全にその道を分かつのだ。
 罪の意識を持つことは、いわばひとの持って生まれた業であり、同時にひとがひとであるために必要とされる大切な要素でもある。
 賢明であることについては疑う余地のない頭白もまた、そんなひとたるのさだめから逃れることはできなかった。
 御仏よ。
 一分の揺るぎもなくおのが死を望む葵の姿を目の当たりにし、彼は唇をかみ締めながらおのが信仰の対象へと祈った。
 御仏よ。
 いま、ひとりの罪なき娘が現世うつしよとの決別を望んでおります。
 おのれの責なきいわれにより、おのが生きる世に絶望しております。
 御身の胸に本当の大慈悲の心あるなら、何卒、いまそれがしにこの者を救う知恵をお授けくだされ。
 御身のおわす天上より、たった一度の奇跡をお与えくだされ。
 後生でござる。
 後生でござる。
 うめくように何度も何度もその嘆願を繰り返す頭白の耳がその音を捉えたのは、およそ次の瞬間の出来事だった。
 ぴーという妙に甲高い音だった。
 呼子の笛だ。
 かなり遠くから聞こえてくる。
 おそらく、常人であれば認識できないほどの距離であろう。
 幼きより武に親しみ、おのれの五感を研ぎ澄まし続けてきた頭白なればこそ、その音を聞き逃さずに済んだのだ。
 前後して、けたたましい足音を立て何者かが階下より駆け上がってくる。
 その者は、座敷の前に到着するや否や、藩主目がけて襖越しに呼びかけてきた。
 艶やかな響きのある若い男の声だった。
 彼は言った。
「殿。火急の報せにございます」
「何事だ」
 涙で濡れた顔を片袖で拭い一国の当主たる最低限の体裁を整えた頼時が、やにわに立ち上がりつつそのように応じた。
 すっと滑らかに襖戸が開き、そこに控えていたひとりのりりしい若侍が平伏しながら主に告げる。
「申し上げます。城内に曲者が侵入したとのよしにございます」
「何、曲者だと!」
 一瞬にして私人の顔を忘れ去った高山藩主が鋭く叫んだ。
「それは確かな報せか? 曲者の数は? いったいどこから入られたというのだ?」
 だが頼時から直々に向けられた質問に、若侍はわずかの間口ごもった。
 「はっ……それが……」と言葉を濁す素振りさえ見せようとする。
 結局、彼が明確な回答を口にしたのは「何をしておる。早く申さぬか!」という叱責が主の口からもたらされた、その次の刹那のことだった。
「く、曲者の数は、童を連れた大男がただひとり。それも三の丸正門より堂々と。話がある、殿に合わせよ、とのみ強硬に申しております」
「三の丸?……正門?」
 頼時は絶句した。
曲輪くるわの真正面ではないか!」
 彼が言葉を失ったのも無理はなかった。
 高山城の三の丸正門と言えば、階段型に縦深配置された城の縄張における、まさに最前列と評すべき場所であるからだ。
 城塞をひとつの建物として考えるなら、それは文字どおり正面玄関そのものにあたるだろう。
 改めて言うまでもないことだが、そこは城の中枢たる本丸からもっとも遠く、したがって一番防御力の高い箇所でもある。
 だが、いま城内に侵入を果たしたというこの曲者は、よりにもよってそのような場所を選んで破ったというのである。
 およそ考えられない暴挙と言えた。
 それは、金品目当ての盗賊が、わざわざ門番の詰める表門から館の中へ踏み込もうとしているに等しい行いであったからだ。
 頼時には、その者がいったいなんの目的をもって左様な真似をしでかしたものか、皆目見当が付かなかった。
 少なくとも、物盗りや隠密の類いでないことだけは確かだ。
 人目に触れず忍ぶことを旨とする彼らであれば、白昼堂々と城の正面口を攻めるような行為に自ら及ぶわけもない。
 ではなんだ?
 直訴か?
 そう考えるのが自然なように思われた。
 報せを素直に信じるならば、曲者たるその男は何やらこの自分に言いたいことがあるらしい。
 しかしながら、それにしてはやり方があまりにも稚拙に過ぎた。藩主の居城に真っ向から訪れるとは、我が身の窮状を訴える民草の振る舞いとは並外れてほど遠い。
 これではまるで、直訴の作法など心得ぬ世捨て人の行いだ。
 だが、そんな頼時の困惑をよそに、頭白の脳裏には、そして葵の脳裏には、その「およそ考えられない暴挙」をあえて実行してしまいそうな、ひとりの男の姿があった。
 「大きく」「強く」「逞しく」、それでいて「驕らず」「猛らず」「清しい」、そんなひとりの大男──…
 彼の風貌がふたりの心中で明確な形を成した瞬間、双方の表情、ことに秋山葵のそれは、たちまちのうちに色めき立った。
 傍目にも隠しきれない動揺が、その小さな身体を喜色に震わす。
 それは彼女にとって、まったく無意識のうちの反応だった。
 だが、頼時はそんな彼女の変化を見逃さなかった。
 葵──言葉に出さず、彼はおのれの姪に語りかける。
 この曲者は、もしやそなたの知る者か?
 そなたの知る、そなたを絶望の孤独より救い出し得る者なのか?
 なるほど、そうか……そうなのだな、葵。
 あいわかった。
 なれば、そなたの叔父たるこの私の為すべきことも、いままたここに定まった!
 それまでどこか死人の雰囲気を携えていた頼時の顔付きが、俄然生気溢れるそれへと返じた。
 それはひょっとすると、若くして大名家の当主にまで登り詰めた男の有する真の姿の片鱗だったのかもしれない。
「よし、会おう」
 朗々と響き渡る声で彼は言った。
「中段屋形側の石段前だ。そこで、私が直々にその者の話を聞こう」
「とっ、殿!」
 若侍が狼狽する。
「なりません。なりませんぞ、殿。何卒、何卒、御再考を!」
「黙れ!」
 頼時はそんな臣下を文字どおり一喝した。
「我が意向を、この飛騨高山藩主・金森頼時が意向を聞けぬと申すか。構わぬから、早々にその者を言うたとおりに言うた場所へ、無傷のままに案内いたせ。もはや何人たりとも手出しは無用。逆らう者あれば速やかに斬って捨てよ!」
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