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四章:マン・オブ・スティール

第三十九話:葵の戦い

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 単刀直入に「城」というものの印象を尋ねた場合、多くの人はその直接的な防御施設としての建造物、すなわち石垣や堀、あるいは勇壮な佇まいを持つ城郭それ自体を思い浮かべることだろう。
 しかしながら、大陸におけるいわゆる城郭都市などとは異なり、日本、ことに戦国時代に築かれた「城」という存在は、そのような一般的イメージとはいささか食い違う意味を持つことが大半だ。
 日本における「城」とは、軍事的な拠点としての人口施設だけを表す言葉ではなく、それらを中心において高密度で張り巡らされた防御区域を主に指す言葉なのである。
 一例を挙げるなら、十六世紀後半に甲信地方を制した戦国大名・武田家十九代信玄晴信が言葉、「人は城、人は石垣、人は堀」に基づいて組み上げられた甲斐国の守りがそれに当たると言えようか。
 険しい山々によって囲まれた甲斐国を信玄はそれ自体が「城」であると認識し、おのが領国たる同地を丸ごと防御区域として認定した。
 前述した彼の言葉の本意とは、領国を守る力は人の手によって築かれた軍事拠点そのものなどではなく、そのような施設を柔軟に運用する人にこそあるという、ある意味であたりまえとも言える内容にほかならない。
 甲斐国と似たような境遇にある山国・飛騨を領地とした高山藩初代・金森長近も、おそらく似たような考えを持っていたことだろう。
 織田信長の配下として信玄と同じ時代を生きた彼にとり、かの英雄はまさに心から信奉できる優れた先駆者であったはずだからだ。
 だが長近は、織田の家臣として武田家衰亡に関わった張本人のひとりでもあった。
 かつては戦国の雄とも称された強国の幕切れを直に目の当たりとした彼は、信玄の手法における利をほぼ十二分に認めつつも、その短所をもまた見逃すことはしなかった。
 「人材をもって国の守りの礎と成さん」という信玄の思想における致命的な短所。
 それは人材が、いや正確に言えば人材を動かす人の心が、まこと移ろいやすい不安定なものであるという動かしがたい事実だった。
 信玄の次代たる諏訪四郎勝頼を滅ぼした直接的な要因は、本来ならば身をもって彼を支えなくてはならないはずの重臣たちによる裏切り行為だった。
 武田家にとっての「城」、すなわち領国を守るべく要所に配された彼らは、敵である織田軍の侵攻に呼応したかのごとく雪崩をうって背信し、遂にはその仕えていたはずの主を自害させるまでに追い込んだ。
 現実的な状況把握と柔軟性に富む身の振り方。
 たとえそれが戦国の習いとは言え、そんな美辞麗句で収めてしまうに、それはあまりにも醜悪過ぎる光景だった。
 そして、その時目にした凄惨な情景こそが、はるか越前大野より飛騨口を通って信濃国へと侵攻した長近にとり、何にもまして強く心骨に刻まれた教訓と相成った。
 だからこそ、彼は改めて自らの居城を築くのに手を抜くような真似はしなかった。
 本来ならばこういった山国における根拠地は防御効果を地形に譲り、もっぱら周辺地域との連絡が容易い平坦な館の形としたほうが政にとって何かと都合が良いのである。
 それは、信玄がおのれの本拠を要害の地にではなく躑躅ヶ崎の館に置いたという現実がものの見事に象徴している。
 しかし、その武田家滅亡を目撃した長近には、どうにもそれが危険な選択に思われてならなかったのだろう。
 いまは信頼している重臣どもも、いざとなったら私利私欲むき出しで主家に向かって弓引くやもしれぬ。
 彼が新たに築くおのれの城を要害堅固な山城としたのは、それがおそらく理由であった。
 飛騨高山藩主である金森家が居城・高山は、おおよそこういった経緯により誕生した。
 それは安土桃山時代に確立した権威の象徴としての役割を濃厚に有しながらも、軍事施設たる能力に不満を感じさせない縄張りにもまた細心の注意を払って構築されていた。
 かつての千早赤阪攻防戦をあげるまでもなく、およそ山城というものは平地に築かれた同種の城と比較して守りやすく攻めづらいものだ。
 その理由の最たるものは、攻城側が展開できる兵力が峻険な地形によって制限されてしまうことである。
 近代的な砲兵が存在しない時代、城を攻めるには守る側におよそ十倍する戦力が必要との経験則があった。
 城塞の周囲にそれらを有効に配置する空間的な余裕がなければ、その条件を満たすことが物理的に難しくなる。
 それは、まさしくもって自明の理と言えた。
 標高六百八十六メートルの臥牛山に本丸を設けた高山城は、その北東から北西にかけてを木々の生えた山地によってぐるりと囲まれ、大軍をもって攻めかかるには北側に広がる傾斜地を利用するしかないという地形的に極めて有利な位置を占めていた。
 そして本丸より大きく下がった傾斜地の中腹には主防御陣地たる東西ふたつの二の丸が築かれ、東の二の丸からさらに下った麓の平野には、城壁をともなった三の丸と武家屋敷群、城下町を形成する各種建築物が前衛陣地としての役割をもって広がっていた。
 これを真正面から攻略するには、おそらく千を越える兵力が必要とされるであろう。なまなかな乱のごときでこれを揺るがすこと叶わぬは、素人目にも明らかだった。
 その日の朝、飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃が用人たる生島数馬をともなって訪れていたのは、左様な城塞の一角だった。
 臥牛山の頂上に建つ城の本丸。
 その中心に位置する望楼型二重三階の天守。
 見るからに非実戦的な古い御殿風建築の一階部分に彼らはいた。
「ついにこの日が訪れたか」
 日々丹念に磨き上げられいまや艶やかな輝きをすら帯びるようになった年代物の板張り廊下を傲然と胸を張りつつ歩きながら、鷲鼻の城代家老はおのが傍らに付き従う忠実な家臣に向かって感慨深げにそう述べた。
「思えばこれまで何かと忍耐の日々であったのう。だが斯様無様に逼塞しておるのも、もうしばらくの辛抱じゃ。飛騨金森三万八千石のことごとくを我が手中に収めるも、もはや夢物語ではなくなった。その時こそ、まさしく栄耀栄華は思いのままぞ。数馬、それらすべてはおぬしの功績じゃ。機会とき来たらば、篤く報いるゆえ期待致しておれ」
「もったいなきお言葉」
 生島数馬は、いかにも恭しい態度でおべっかを使った。
「しかしながら、ここまで辿り着けたは私ごときの功績などではなく、ひとえに御家老のご尽力と天の采配がゆえにてのこと。それがしは、非才な身がらわずかにそのお手伝いをさせていただいただけでございます」
「そう謙遜せずとも良い」
 ほぼ完璧に近い数馬の追従に満更でもない喜びを覚えたものか、玄蕃はにやりと相好を崩した。
 その鷲鼻を小さく鳴らし、上から見下ろすかのごとき尊大な態度でもって彼は告げる。
「これからも、いままでどおりわしの片腕となって働いてくれ。頼んだぞ」
「承ってございます」
 おのが仕える主の言葉に改めて数馬は頭を下げてみせたが、その内心では皮肉の虫が明確な蠢きを開始していた。
 玄蕃に悟られぬよう口の端を吊り上げ、しかし表面上は眉ひとつ動かすことなく彼は思った。
 すべてがこの男の尽力と天の采配によるものだと?
 ふん、笑わせてくれる。
 この俺も、よくそれだけのべんちゃらを口にできたものだ。
 それは、紛れもなくいまの数馬の抱いている本心だった。
 いま此奴がこの場所に立っていられるのも、もとを正せばこの俺がさまざまなお膳立てをしてやったからではないか。
 この男の功績などというものは、それと比べるなら実に些細な代物でしかない。
 確かに此奴は、これから飛騨高山にて演じられようとしている大舞台の主役であるやもしれぬ。
 だが裏で人知れずその台本を書き連ねている者は、誰あろうこの俺、生島数馬にほかならぬというわけだ。
 いまの俺には、それだけの自負と誇りとがある。
 無論、この俺をいまの立場に引き上げてくれたことには心から感謝している。
 だが、それとこれとは話が別だ。
 互いに互いを利用しながらここまで来た以上、俺と此奴とはどちらかがどちらかを一方的に使役するといった関係ではない。
 俺はこれまでどおりこの男の地位と権力とを利用し、この男はおのれの野心を満たすために俺の才能を活用する。
 主役なくして舞台の黒幕は存在し得ぬというのが真理ならば、黒幕なくして舞台の主役が存在し得ぬのもまたしかりなのだからな。
 言葉にできない数馬の呟きは、しかし、どこか自分自身に無理矢理言い聞かせているような響きがあった。
 それは、過日よりちらほらと目立ち始めた玄蕃による独断専行が、彼の心根を揺るがし始めたことによるものだった。
 本人は認めたくなかったのだろうが、数馬は心底不安だったのだ。
 狡兎死して走狗烹らる。
 主君が政治的な目的を果たしたおり、それまで尽くしてきた功臣はその有能さゆえに疎まれて、有能さゆえに切り捨てられる。
 過去幾多の歴史で演じられてきた物語を知る数馬には、我が身ににじり寄ってきているその兆しを受け入れることが何よりも恐ろしかったのかもしれない。
 そういえば、あのおりのこともそうであったな。
 先だって玄蕃が葵を陵辱しようと試みた事実を思いだし、数馬はふと背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
 この時代において、武家の娘が我が身を汚されることを理由におのが命を絶つという行為は、非難されるどころかむしろ推奨されるべき行いのひとつだった。
 そうすることで我が身と我が家の名誉を守ることが、彼女らに求められた「おんなとしての誠意」だと信じられていたからである。
 ゆえに、あの時、もしこの鷲鼻の男が自らの欲望を全うしていたなら、彼らにとって切り札となるべきあの娘が自身を害する道を選んだ可能性は決して低いものではなかった。
 そして仮にそのようなことと相成れば、これまで数馬が丹念に積み重ねてきたすべての策謀は根こそぎ水泡に帰することとなったであろう。
 これまでの此奴であったなら、あのように軽率な真似をするはずもなかったのだが。
 ましてや、この俺にひと言の相談もなく、とは……
 あるいはこの男は、もはや俺を必要な人材として考えておらぬのやもしれぬ。
 世の中のすべてが、まさにおのれの思うがままに動くものと錯覚してしまっておるのやもしれぬ。
 だとしたら、あまりにも危険だ。
 危険に過ぎる。
 それなりに有能ではあるが時として欲望が理を上書きすることのあるこの男にとって、手綱取る知恵袋の存在なき単独の壮挙はそのまま重大な陥穽に成り代わりかねない。
 おりをみて強く諫めてやらねばなるまい。
 無論、断じてこの男ごときのためにではない。
 何よりも、この俺自身の明日のために、だ。
 しばらく歩いてふたりがやって来たのは、複数の襖で仕切られた大きな座敷の前だった。
 板張りの広い廊下に面する戸の表面には、一面に渡って金箔をふんだんに用いた華麗な障壁画が描かれてある。
 足利将軍家の御用絵師・狩野永徳に端を発する、いわゆる狩野派一門の手になる作品だ。
 書院造りの特色とされる豪華絢爛なその装飾は、いわば所有者の地位権力を誇示する重要な演出としての意味を持っていた。
 この座敷は、本来、藩主たる金森家の当主が主従関係にある者との対面や宴席の場として用いてきた大広間、その入り側の部屋であった。
 この場所からはうかがい知ること叶わないが、いくつかの座敷が連なったその最奥部には金森が家長たる者のみ座することの許される場所が設えられている。
 だが藩主である出雲守頼時が篤い病に伏したのち、この大広間を用いる者はこれまで誰ひとりとしていなかった。
 そもそも当の頼時自身が天守最上部の一室にて床に就いたまままともに藩政を司ること適わぬ身となれば、その彼の権威を家中の者どもに知らしめるべき催し事をこの場で開くわけなどならぬのも、まこと自明の理とでもいうべきであった。
 およそそのような部屋の襖戸を、玄蕃はなんの躊躇もなく引き開けた。
 たちまち左側から鋭い視線が投げかけられてくる。
 黒ずくめの僧衣を身にまとった白髪の法師──頭白こと柳生蝶之進からのものだった。
 彼は座敷の隅で膝を折りながら、この招かれざる侵入者目がけて獰猛な眼光を注ぎ続けている。
 それは、あたかも忠実な番犬のごとくにであった。
 いや、ごとくに、という表現にはいささかの語弊があろう。
 少なくともここ数日にわたる頭白の行動は、文字どおり忠実な番犬そのものとしか言いようのない代物であったからだ。
 彼はおのれに許された時間のすべてを、自身の守護すべき者のために残さず使い切っていた。
 その姿勢は、半ば常軌を逸しているとさえ言えるかもしれない。
 おそらく、徳川将軍を守る小姓の者どもであっても、いまの頭白の行いを知れば心底感嘆してみせるに違いなかった。
 そう思われるほどの献身であった。
 そんな彼の存在を至近に見付けた玄蕃は、思わず小さな舌打ちをした。
 過日、この男から受けた仕打ちをありありと思い出したからだ。
 忌々しげにその姿を一瞥する。
 それは間違いなく、唾棄すべき敵手に向けられる嫌悪の眼差しだった。
 だがこの時、玄蕃はかろうじて湧き上がる激情を押さえ込んだ。
 傍らにいる腹心の存在も無論大きかったのだろうが、それを成し遂げ得た最大の理由は単純な恐怖によるものであった。
 文字どおりひとりの男としてこの者とおのれとの間に横たわる物理的な力の差を思い知らされていた玄蕃にとって、いかに煮え湯を飲まされた相手とはいえ、さしでこれに立ち向かうよう腹をくくるという行為はまったく無理な相談だった。
 小者の分際で、と心中にて吐き捨てるのが彼にできる唯一の攻撃だった。
 それは、卑小な自尊心を守るために必要な精一杯の背伸びであった。
 ぷいとわざとらしく異形の僧侶から目線を反らした玄蕃は、改めて座敷の中央へと顔を向けた。
 艶やかな朱の打掛を羽織ったひとりの少女がそこにいた。
 来訪者の登場にもいっさいの反応を見せることなくおよそ身動きひとつすらしないその姿は、まるで魂を持たぬ置物のようですらあった。
 凜と背筋を伸ばした姿勢で背を向けたままの彼女に対し、鷲鼻の城代家老は朗々たる声でもって呼びかけた。
「葵よ。我が義娘むすめよ」
 意図して殊更に仰々しく彼は告げた。
「すでに申し伝えてあったとおり、これより金森の殿へお目通りが叶うことと相成った。重ねて失礼のなきよう、心してこれに応じるが良い。次第理解したか?」
「はい。義父上ちちうえ
 まったく生気のない声で短く左様に返事しつつ、少女は音もなく立ち上がった。
 ゆるりと流れるような動きで身体ごと振り向く。
 それは、過日その身を暴力によって虜にされ、いまは姉倉家の養女たる身分を強いられるようになった秋山葵そのひとだった。
 いや、当人の意思に構わずその立場へと収まった義父・姉倉玄蕃の指示により、秋山という姓は彼女の名前から永遠に削除されてしまっている。
 いまはただの「葵」、いや姉倉家の養女たる「姉倉葵」こそが彼女に許された公の名前だった。
 「秋山などという家は、すでになくなってしまったのだ。おまえはこれより、我が姉倉の娘として金森の家に輿入れすることのなるのじゃ」と、鷲鼻の家老は葵に言った。
 有無を言わせぬその物言いに、しかし葵は抵抗らしい抵抗を見せることがなかった。
 わずかにその丹精な眉を動かしただけで、この小柄な少女は押し付けられた言葉に「はい」と応えた。
 その有様を見る限り、葵はおのれの運命を甘受してしまったかのようにうかがえた。
 もはやその双眸からは、かつての彼女にあふれかえっていたあの目映いばかりの煌めきを汲み取ることはできなかった。
 まさしく「死んだ魚のごとき」とでも評されるべきその瞳。
 そこから感じ取れる唯一の代物は、ただ諦観と絶望とに満たされた鉛色の魂だけだった。
 新しい義父親《ちちおや》たる玄蕃に引き連れられ、葵はしずしずと天守に登った。
 美しい桃色の着物に豪奢な朱の打掛を羽織り、これまで差したことのない金のかんざしでもって結い直された黒髪を飾る彼女の姿は、なるほど大名家の姫君然とした高貴な趣をその全身から放っていた。
 しかしながら、それがあくまで造られた仮の姿であることもまた、見る者の目には明らかだった。
 ただ打算的な欲望を叶えるため、巧妙にうわべだけを彩られた生き人形。
 そう嘲笑されるべき位置付けこそが、まさしくいまの葵には相応しかった。
 階下に残った数馬に代わり、そんなふたりの供をしたのは頭白だった。
 城代家老たる玄蕃はいまにも一喝しそうなほどの勢いでその意思を拒絶しようと試みたのだが、葵の希望がそんな彼を掣肘した。
 「頭白さまがご一緒なされねば、葵はこの場を動きたくございません」と主張した少女の意向に、渋々ながら玄蕃が妥協した形になる。
 やむを得まい。
 内心で苦虫を噛みつぶしつつ玄蕃は思った。
 あの時はそれが正しいと確信していたが、年端もいかぬ女子おなごを暴力で支配しようと試みたはやはり早計だったのやもしれぬ、と。
 彼が本来なら一蹴したであろう義娘の意志をあえて受け入れてみせたのは、そう思い直したがゆえのことだった。
 無論、「それももとより、御家老があのような真似をなされたがためではございませぬか。自業自得にござる。譲歩なさりませ」という数馬の苦言がその背を強烈に後押ししたことは言うまでもない。
 藩主・頼時が伏せているであろう天守の間へと辿り着いた三名を最初に向かえたのは、座敷の前に控える凜々しい面持ちを持ったひとりの若侍だった。
 藩主たる者に仕える小姓のひとりである。
 おそらくは葵とそれほど違いのない年齢だと思われるその小姓は、おのが眼前にやって来た玄蕃の姿を認めるやいなや、廊下の上に膝を折ったままの姿勢で恭しく一礼してみせた。
 彼の訪問は、あらかじめ伝えられていたものだったのだろう。
 やや冷たささえ感じられる小姓の表情からは、いささかの乱れも見て取ることはできなかった。
「殿。姉倉玄蕃にございまする」
 座敷の前でおのれ以下すべての者が並んで膝を折り終えたのを確認して、鷲鼻の家老は部屋の中にいる自身の主に呼びかけた。
 それは、どこか芝居がかった口振りだった。
 「入れ」という短い応答が返ってきたのは、その直後のことだ。
 自らの両脇で座している葵や頭白をちらりと眺め、玄蕃はおもむろに目の前の襖へ手を伸ばす。
 いらぬ音を立てないよう十分な注意を払いながら、彼はゆっくりとそれを引き開けた。
 飛騨高山藩六代藩主・金森頼時は、座敷中央に敷かれた寝床の上にはいなかった。
 白い清潔な寝間着に紫色の病鉢巻きを締めた彼は、玄蕃らに背を向けるような格好で障子戸が開け広げられた窓際から遠く外の様子を眺めていた。
 凜と背筋を伸ばし直立するその姿は、とても病に倒れた者のそれとは思えなかった。
 みなぎるような精気こそ感じられないものの、その周囲には一種独特の緊張感が充ち満ちている。
 そんなぴりっとした空気に肌を打たれ、一同は礼儀正しく一斉に頭を下げた。
「ご機嫌はいかがにございますか?」
 彼らのうち、最初に顔を上げたのは玄蕃であった。
 このよく肥えた中年男は明らかに造られたものとわかる愛想笑いを自らの顔面に貼り付けると、あからさまに形式張った挨拶言葉を口にした。
「ことさらに良い」
 それを受けた頼時が、振り向きもせず玄蕃に応えた。
「この澄み切った晴天ゆえか、今朝は吹き込む風がなんとも言えず快い。まさしくこれがいまを生きるということなのだと、改めて実感しておる次第だ。世の中には失って初めてそのかけがえのない価値に気付くということがままあるものだが、私はいまになってそのひとつをじっくりと噛み締めることが叶った。あるいは、それもまた幸せなことなのやもしれぬ」
 篤い病に冒されているとのことだったが、頼時の声にはまだ瑞々しい張りが十分に感じられた。
 普通に聞けば、とても死に瀕した者の放つ声には聞こえまい。
 しかしその一方で、実際に紡ぎ出された発言の内容からは、彼が抱えている冷たい覚悟のようなものをはっきりと感じ取ることができた。
 それは、半ばおのれを諦めた者だけが宿す乾いた情念の表れだったのかもしれない。
「──先日お話ししたとおり」
 だがそのような主の心情を、鷲鼻の家老はまさしく一顧だにしなかった。
 ただ自身の都合のみを優先して、彼は一方的におのが物言いを開始する。
 長年に渡り金森の禄を食む重臣としては、なんとも無礼極まる態度と言えた。
 一抹のためらいすら見せることなく、玄蕃は蕩々と我が言い分だけを語り始める。
「金森が将来のことを案じ我ら重臣一同かねてより談合仕っていたところ、やはり殿にお世継ぎたる子を相応しい他家より迎えていただくのが最善であると、このたび意見のまとまりを得申しました。ことここに及んでは、何卒、殿御自身よりご裁可を承りたく、この玄蕃、こうして金森家中を代表し御身の前にまかりこした次第にございます」
「母上と重詰、左京家の叔父御はなんと言っておる?」
「すでに『やむを得ぬこと』とご了承をいただいております」
「巧みなことよな」
 いささか皮肉めいた口振りで頼時は言った。
「金森さえ続けば文句のない母上あたりならともかく、何かとしきたりにうるさい叔父御であれば血の繋がらぬ養子に本家のあとを継がせることにもっと反意を示すと思うておったが……おぬし、どのようなあやかしをもって左京の家を説き伏せたのだ?」
「左京近供ちかとも殿には、お迎えする若君にこちらから嫁を与えることを提案いたしました」
「嫁、だと」
「はっ」
 玄蕃は答えた。
「それも、金森本家の血を引く紛れもない金森の姫を、でございます」
「莫迦な」
 身体ごと振り返った頼時が、驚いたような声を上げた。
「いまの金森に左様妙齢な娘などひとりもおらぬわ。玄蕃。おぬし気でも違うたのではあるまいな?」
「一分の疑いもなく正気にござる」
 自信満々に玄蕃は告げた。
「殿。殿は、先代・頼業よりなり公が端女に産ませた娘がおることをご存じでありましょう?」
 それを聞いた頼時の目が、驚愕の余り見開かれた。
 思惑通りの反応に、玄蕃もまたにやりと口元を吊り上がらせる。
 彼は「これ」と目で合図しながら呼びかけて、おのれの横で平伏する少女に次の行動を促した。
 伏せられていた少女の顔がゆっくりと上げられ、その目線が頼時のそれと交差した。
 直後、凍り付いていた藩主の魂は一瞬にして幼き頃へ、そして八年前の、決して忘れることのできぬあの瞬間へと逆行した。
 怒濤のごとく押し寄せてきた狼狽と慚愧の思いとが、激しくも苦しく彼の心根を痛打する。押し殺していたはずの情が否応なしにあふれかえり、堅固に築き上げられてきたその理性をたちまち決壊寸前にまで追い込んだ。
「雅……」
 立ちすくんだままの頼時が、呆然とその名前を口にした。
 彼にとってそれは、断じて忘却の許されぬ名前であった。
 おのれの生涯そのすべてを費やしてもなお償いきれぬ、それほどの業をこの手で背負わせてしまったひとりの女性の名前であった。
 若き領主の胸中に、それまで奥底で押さえ込んでいたはずの何かが走馬燈のように蘇ってきた。
 春風の、夏風の、秋風の、冬風の──さまざまな彩りをともなった無数の思い出が、かすかな懐かしさを引き連れて彼の心臓を乱打する。
 だが、かつては温もりを備えていたであろうそれらも、いまの頼時にとっては深々と心身を切り刻む氷の刃に等しかった。
 思わずその膝が震えた。
 群雲のごとく湧き上がる罪悪感が、強烈な肉体的反応となって彼の身体に襲いかかったのだった。
「思い出されましたかな」
 そんな藩主の姿をどこか哀れみのこもった目で眺めつつ、なんとも楽しげな口振りでもって玄蕃は告げた。
「いまは我が養女たるこの者は、その娘、すなわち殿の腹違いの姉君が忘れ形見にてございます。いわば、殿の姪御ということになりますな。名は『葵』 歳は今年で十五となります」
「雅の……娘?」
「いかにも」
 当惑の極みにある頼時に向け、鷲鼻の家老がなおも畳みかけるように語りかける。
「祖母の側に端女の血が混じるとはいえ、この者は紛うことなき殿の姪御。すなわち先代・頼業公の外孫でありますれば、これはもう由緒正しき金森が血を引く者として十分な資質を持つこと疑う余地はございませぬ。さすればこそ、殿がお迎えになる継子の嫁として、まこと相応しき娘と考える次第にてございます。いかがでございましょう。ここは殿御自身のお考えを聞かせていただきとう存じまする」
 いまにも崩れ落ちそうだった頼時がようやくおのれを取り戻し得たのは、それからたっぷりひと呼吸を置いてからのことだった。
 彼は領主たるの尊厳を保つためか、「重詰や叔父御は、このことを存じておるのか?」と下腹に無理矢理力を込めつつ玄蕃に尋ねた。
 「無論にてございます」と、鷲鼻の家老は意識して大きな声で返答する。
 その内容は嘘ではなかった。
 藩主がまったくうかがい知らぬところで、すっかり根回しは済まされていたからだった。
「そうか」
 力なく両肩を落とし、頼時は応えた。
「良きに計らうがいい」
 聡明なる彼は、いまのおのれが置かれた位置というものを迅速に察した。
 それはつまり、金森家中の者どもにとって自分はもう亡者同然なのだという、動かしがたい現実だった。
 もちろん、そのような扱いは理解しているつもりだった。
 飛騨高山三万八千石のこれからを憂えるならば、病に倒れいつ身罷るかすらわからぬ藩主の明日などというものは、およそ宙に舞う羽毛程度の重みも持たない。
 当然だ。
 そもそも領主たる者とは、治める国、そこに住む民百姓の所有者などではない。
 むしろその逆。自らが支配する者たちに仕える第一の「しもべ」に過ぎないのだ。
 そして領主という「しもべ」の役をも果たせなくなった存在は、後身にそれを委ねて速やかに舞台を退くほかはない。
 責任を持っていまを生きる者たちにとり、役に立たなくなった手駒をいつまでも養っている余裕などどこにもないからである。
 わかっている。
 わかっている。
 納得していたはずだ。
 だが、いざそういったむき出しの本音を眼前に突き付けられたとき、平然とそれを受け入れられるだけの人物などは、過去の歴史をあさってみてもさほど多くは見られない。
 それもまた論のなき事柄であろう。
 どれほど強大な権力を振るう立場にあろうとも、しょせん領主もひとりの人間。
 ひとが感情というものに支配される不完全な生き物である以上、それはもうやむを得ないと言える帰結であった。
 頼時もまた、その例外ではいられなかった。
 幼き頃より藩主たるの地位に就き、将軍家・側用人としても抜擢された英邁な若者をもってしても、そのひととしてのくびきを断ち切ることは叶わなかった。
 だがこの時、彼の心を真に押しつぶさんとしていたものは、そのような冷たい現実の重みなどではなく、ただひたすらこの若き藩主を支え続けてきた、とある個人的な約束事、その破綻にともなう痛烈な悔恨の情であった。
 すまぬ。
 頼時は、自らが約定を捧げたその者に対し心の中で密かに詫びた。
 唐突に胸中へと浮かび上がってきたひとりの女性が、哀しそうな表情で彼に微笑む。
 殿。
 良きご領主とおなりあそばせ。
 その女性が彼に告げる。
 言葉の槍が胸に刺さった。
 おびただしい無力感が押し寄せ、頼時の四肢から急速に力というものを奪い去っていく。
 あたかも最後の糸が切れた操り人形を思わせる、そんな藩主の反応を目にした瞬間、玄蕃はにやりと口の端を吊り上げた。
 獲物を前にした肉食系爬虫類のごとき、なんとも嫌らしい笑いだった。
 その表情そのものが、「いま我が意を得たり」というこの者の本音をあからさまに表している。
「殿のご裁可、確かに承りましてございます」
 わざとらしく頭を垂れ、玄蕃は藩主の言葉に恭しく応じた。
 前後して、自ら口上述べるよう傍らの養女を急き立てる。
「これ、葵。改めてそなたからも、殿によろしゅうご挨拶せぬか」
 その発言を受け、それまで能面のように眉ひとつ動かすことのなかった少女は、わずかな間を置いたのち、しずしずと口を開いた。
 桜色をした艶やかな唇が、ゆっくりと、しかし確かなテンポで彼女自身の言葉を紡ぐ。
「金森の殿」
 揺るぎないまっすぐな眼差しを若き藩主に向けたまま、きっぱりと葵は名乗った。
「お初にお目にかかります。葵にございます」
 その名乗りを耳にした玄蕃の顔が一瞬にして醜く引きつった。
 自身の養女として紹介したばかりのこの娘が、あろうことかおのが「姉倉」の姓ではなく、彼の手で奪い去った「秋山」のそれを自らの名に冠したからだ。
 玄蕃の顔色が一気に青ざめ、次いで見る見るうちに紅潮を始める。
 それは、衝動的な怒りの感情によるものだった。
 彼は、ここが主の御前だということも忘れ、やにわにすっくと立ち上がるや否や、叩き付けるような叱責を足下に座したままの養女に放った。
「何を言う、葵! この痴れ者が。そなたはとうに秋山なる家の者ではなく、我が養女、すなわち我が姉倉の娘となったのだと、あれほどきつく申しておいたではないか!」
 だがしかし、その怒声は続く葵の言明によって完膚なきまでかき消された。
 見るからに小柄な身体のいったいどこにこれだけの声量を発する力が秘められていたものか。
 それを訝るほどの勢いで、彼女は玄蕃に向けてではなくただ目の前の藩主にだけ向けて、断固たるおのが意志を美事なまでに表明して見せたのだった。
「殿!」
 達人の野太刀がすっぱりと巻藁を両断するがごとく、少女は毅然として言い放った。
「我が父の名は弥兵衛。母の名は雅。私は、この髪の一本一本に至るまでふたりの娘。誰疑うことなき秋山の娘にございます。殿! お願いでございます。私を金森の姫としてではなく、秋山の娘として死なせてくださいませ!」
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