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四章:マン・オブ・スティール

第三十八話:おとこの理

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 それは、ケンタが意識を取り戻した日から数えてちょうど四日目の朝のことだった。
 刻は暁七ツ半午前四時頃
 太陽がまだ山々の峰に隠れ、その姿をはっきりと現してなどいない頃。
 稜線にはうっすらと明けの輝きが顔を出しつつあるが、それはいまだ周囲のすべてを照らすまでに至っていない。
 天空を覆う美しい星空が完全に払拭されるまで、あと半刻約一時間ほどかかるといったところだろうか。
 身を包む大気が、やや肌寒く感じられる。
 早朝と言うにはあまりにも早すぎる時間帯であることに加え、ここは広葉樹の立ち並ぶ山中でもある。
 そのことを考えると、それもまたやむを得ない状況なのだろう。
 樹木の枝々を縫って舞う幻想的な霞の帯も、物理的にその感触を増長して止まなかった。
 もちろん、心安らぐ小鳥のさえずりなどは求めるべくもない。
 ここは、久々野村より北西の方向に位置する丘陵地帯の一角だった。
 それなりに人里と近いとはいえ、長い年月を経たナラやクヌギが数多く自生し野生の熊や猪が食べ物を求めて闊歩するような土地である。
 そんな場所を、それもこのような日の出前の時刻に理由わけもなく訪れる人間は地元の者でもまずいない。
 茂助の家が代々受け継いできた神社の敷地は、およそこのような場所にあった。
 なるほど、こんな立地条件であっては下々の民から忘れ去られてしまうのも仕方があるまい。
 戦国の世に「赤備え」で有名な武田信玄の将・山県昌景が飛騨国へ攻め入った際、戦火に遭わず無事生き延びることのできたのも、左様な条件が優位に働いたゆえであることに疑う余地はなかった。
 だがその社を仮のねぐらとしているケンタたちにとって、いまはそのことが何よりもありがたかった。
 ケンタにボブサプというただでさえ目立つ大男どもが人目から隠れて身を潜めるに、ここはまさしく絶好の要地と評して構わなかったからだった。
 戦による伐採を免れすくすくと肥え太った諸々の大樹によって囲まれた、古い、いまにも朽ち果てんばかりの小さな社。
 それでも丁寧に敷地内が掃き清められ、くすんだりとはいえ十分な朱色を皆々に見せつける鳥居をも有するその姿には、どことなく「カミ」が宿っていてしかりと感じられる威厳が備わっていた。
 そしていま、がっちりと草鞋を履いた古橋ケンタが編み笠を片手にこれまで世話になってきた面々からの見送りを受けていたのは、まさにそのような場所にこそほかならなかった。
「どうしてもお行きなさるのですか」
 石畳の敷き詰められた社の境内にてケンタと向かい合っている者たち──光右衛門、おみつ、茂助、鼓太郎、そしてボブサプと小八兵衛を代表し、半ば諦めたような口振りで水戸屋の隠居は問いかけた。
 その質問に「ええ、まあ」と人事のように答えた大男は、いかにも人好きのする苦笑いを浮かべつつこれに応じる。彼は言った。
「葵さんがあの連中に連れて行かれてから、今日でもう十日になります。さすがにこれ以上あのに待ちぼうけをくらわせてたら、あとになって天国の秋山先生にがつんと叱られてしまいそうですからね」
 それは、発言者たるケンタにとって周囲を和ませるための、いわば軽口として発せられた台詞だったに違いない。
 だがそんな彼なりの不器用な心遣いも、この場を覆う堅苦しい雰囲気を打破するまでには至らなかった。
 苦虫を噛みつぶしたような表情を微塵とも崩すことなく、ふたたび光右衛門が口を開いた。
 「いま一度考え直すおつもりは」と老爺はケンタに改めて翻意を促す。
 しかし、ケンタはこれに対して「すいません」という明確な謝罪の言葉でもって応えた。
 続けざまに放たれた口上が、これ以上の説得は無意味だと暗黙のうちに主張していた。
「皆さんには感謝のしようもありません」
 どこか照れ臭そうに頭を搔きつつ、こともなげな様子でケンタは告げた。
「おかげさまで怪我も癒え、なんとか高山城へ向かえます。これもみんな、あなた方の助けがあってこその結果です……本当に、本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
 そんな彼に向かい、今朝からずっとひどく思い詰めた顔付きのまま無言を貫いていたおみつが、きゅっと噛み締めたその唇をおもむろに開いて何やら語りかけようと試みた。
 「あの……古橋さま……」と、かろうじて紡ぎ出された彼女のそれは、しかしほとんど同時に発せられた光右衛門の言によって誰の耳にも届くことなくあっさり退けられてしまう。
 小さく伸ばした右手とともにほんの少しだけ乗り出したその身体をおみつがびくりと引っ込めるのと入れ替わり、小柄な老爺は大きく一歩前に出た。
 その深みのある双眸が、しみじみとケンタの相好を凝視する。
「大口を叩いておきながらなんの良案をも思い付きませなんだこの年寄りにこそ責がある。それは重々わかっておるのですが──」
 そう前置いてから彼は尋ねた。
「古橋殿。いまあえて城へと向かいなさるおまえさまに、何かこれといった秘策はあるのですか? 無為無策のまま幾百人ともしれぬ城侍が詰める藩主の城に乗り込むなぞ、暴挙の誹りを免れませんぞ。ましてや、おまえさまは言うまでもなく病み上がりの身。焦る気持ちはわからぬでもありませんが、やはりここはもういくらかの日を置き、しかと良策を練ってこちらの体勢を整えてから打って出るほうがよろしいのではありませんかな?」
「考えは」
 そんな光右衛門にケンタは答えた。
「あるような、ないような……まあとりあえず、今回やってみようと思っていることだけは心に決めてます。そいつがうまくいくかどうかはわかりませんけど、そこのところは行き当たりばったりというところですね。あと──」
「あと?」
「ご隠居さんは俺の体調を心配なされてますけど、それについては何も問題ありません。俺の身体は万全です。万全に決まってます」
「莫迦な」
 自信満々に放ったケンタの物言いを、光右衛門はきつい言葉で否定した。
「それは真意でございますか? あれほどの刀傷がたかだか数日の養生で治癒することなど、本当にあり得ると思っておられるのですか? おまえさまの身体がなまなかの鍛えでないことは、無論、重々承知しております。その頑健が人並み外れていることもまた、重々承知しております。されど、おまえさまはきちんとした医師の手にかかったわけではないのですぞ。いまここでそのような強がりを言ってみたところで、おまえさまにいったいなんの利があるというのです。世迷い言をおっしゃるのも大概になされませい」
「治ってますよ、俺の身体は。治っていないわけがない」
 しかし、ケンタは断言した。
「思い出してください、ご隠居さん。この三日間、いや俺がここに担ぎ込まれてからずっと、俺のこの身体は、あなた方の思いを、祈りを、一身に受け止めてきたんですよ」
「思い? 祈り、ですと?」
「そうです」
 軽く目を見開いた光右衛門に、すかさずケンタが追い打ちをかける。
「俺の命を助けたいというあなた方の『思い』と『祈り』 それがあったからこそ、俺はいまここにこうして立っていられる。立って息をして、自分の為すべきこと、しなければならないことに邁進することができている。そしてそれは、あなた方が今日という日まで必死になって闘って俺のために掴み取ってくれた、何物にも代えがたい大事な大事な『勝利の果実』なんです。
 そんな大層なものが、実を結んでないわけないじゃないですか。実を結ばないなんてわけないじゃないですか。だから、俺の身体は治ってるんです。たとえ誰がなんと言おうと、天地神明、いまの俺は五体満足。万全の状態に間違いない。間違いないんです」
「古橋……殿」
「忘れちゃ駄目ですよ、ご隠居さん。この三日間、あなた方は、あの嵐みたいな『戦場』を立派に勝ち抜いてこられたじゃないですか。だから、自分たちのやり遂げた成果を自分たちが率先して疑うような真似は止めてください。あなた方は、誓って最善を尽くしてくれました。俺はいま、心の底からそう信じてます。たとえ地獄の閻魔さまを前にしたって、胸を張ってそう言ってみせます。俺は、断じて気休めとか強がりで『治ってる』なんて言ってるわけじゃないんです。実際にこの身体が『治ってる』んだから、これはもうそう言うしかないじゃないですか」
 ケンタは、呆れ果てるほどさわやかにそう言ってのけた。
 それは、断じて社交辞令の類いなどではなかった。
 瞬時にしてそのことを悟った光右衛門が、思わずぐっと息を呑む。
 いま目の前に立つ大男の放った言が、当の本人にとって文字どおり嘘偽りなき本心なのだということをはっきり理解されられたからだった。
 古橋ケンタ。
 莫迦者であろうことは見抜いておったつもりだったが、まさかこれほどの大莫迦者であったとは──…
 その事実は、これまで帷幄にうごめく海千の山師どもを相手取ってきたこの老爺をもたちまちのうちに絶句させた。
 理由なく唐突に、ケンタの口にした「戦場」とやらのいち場面が彼の脳裏へまざまざと浮かび上がってくる。
 それはまさしく、今日より数えて一昨昨日さきおとといにあたる日を始まりとする一連の出来事、その情景にこそほかならなかった。

 ◆◆◆

「三日です。三日のうちに、この身体、万全の状態にまで持ってって、俺は葵さんを助けに行きます」
 深手を負ったまま寝床の住人となっていたケンタは、心配そうに彼を見下ろす光右衛門以下の面々に対し、大声で次のごとく言い放った。
 それは、文字どおりの宣戦布告だった。
 眼前に立ちはだかる現実という壁への、まさしく小細工なしの挑戦状。
 彼はそれを聞いて唖然とする周囲の者たちを尻目に、この強大な敵へ真正面から喧嘩を売ったのである。
 無理だ。
 無茶だ。
 無謀だ。
 誰もがそう思った。
 それが自然な反応だった。
 しかしケンタは本気だった。
 激情に突き動かされ、できもしないことを勢いで口にしたというわけでは決してなかった。
 おのれが言葉にしたその決意をなんとしてでも形にするのだ──彼はこの時、そんな風に腹をくくっていた。
 断固たる不退転の覚悟をその胸中に抱いていた。
 そんなケンタの放つ純然たる思いが、周りの者たちの意思を圧した。
 呑んだ、と評してもいい。
 その甚大な圧力が、まずはおみつと茂助を動かした。
 一角が崩れれば、その余波はたちまち全体へと波及する。
 それは、もはや必然的な流れと評しても構わないほどのものだった。
 彼がそのように宣言してからおよそ二刻と経たぬうちに、その眼前には山とこしらえられた料理の数々が所狭しと並べられることとなっていた。
 いや、それらをいわゆる「料理」と評するにはいささかの疑念が生じる。
 大小さまざまな器に雑然と盛られたその品々には、食べる者を喜ばせるために施されるさまざまな工夫がものの見事に省かれていたからである。
 社の主たる茂助が知人の猟師・熊吾郎から頂戴してきた猪を一頭丸々解体し、その肉と皮とを食べられる大きさに切って簡単に火を通しただけという「焼き肉」
 その取り出したばかりの新鮮な臓物をただぶつ切りにして水で煮込み、適当に味噌をぶち込んだだけという「鍋物」
 ほんのわずかに香草の類いが添えられているとはいえ、とても「料理」だなどとは言えそうもないそのような代物を、ケンタは山盛りの玄米御飯を片手に凄まじい勢いで口の中へと掻き込んだ。
 光右衛門を初めとする面々が唖然として見守るなか、目を血走らせ両肩を怒らせつつ、それらを強引に放り込み、咀嚼し、飲み込んだ。
 頬張り、噛み砕き、味わうことなく胃の腑の底へと送り込んだ。
 それはまるで、戦場いくさばのごとき様相だった。
 獅子奮迅する、武人のごとき有様だった。
 おみつと茂助が汗水垂らして用意したそれらの品々は、まさしく見る見る間にと表現すべき速度でもって、次から次へとケンタの腹中へ収められていく。
 まったくもって、常人にはあり得ないと断言できるだけの展開だった。
 いや、もはやそれは人間離れしていると言っても過言ではあるまい。
 いかにケンタが大男とはいえ、一体全体、身体のどこにそれだけの体積が押し込まれているというのだろうか。
 人体とは、かくも不可思議な事象をいとも容易く具現化させうる存在だとでも言うべきなのだろうか。
 ケンタの身に「ひととしての限界」が訪れたのは、彼の周りにいるすべての者があきれ半分にそのようなことを考えていた、まさにその真っ最中のことだった。
 突如として発生した激しい嘔吐感が、ケンタの胸腔で竜巻のごとく荒れ狂った。
 物理的な許容限界に達した内臓が、決定的な拒絶反応を示したのである。
 それは、まさしくはらわたの放つ悲鳴だった。
 体内からの哀訴に直撃され、ケンタの顔色がたちまちのうちに紫色へと変化する。
 酸味を帯びた胃の内容物が、口腔より外界へあふれ出んとして彼の食道を遡ってきた。
 しかし、ケンタは必死になってそれをこらえた。
 器に残った飯と肉とを無理矢理口へと押し込んで、汁と水とで強制的に内臓目がけて流し込む。
 当然、彼の胃腸はそんな持ち主の意向に逆らい、強かなまでに抵抗した。
 ケンタは両手を重ねて口を塞ぎ、その反乱を物理的手段で封じ込める。
 やがて嘔吐の鎮圧に成功した彼は、その巨体をごろりと仰向けに寝転ばせつつ間近にいた鼓太郎を身振り手振りで呼びつけた。
 そして、もぐもぐと言葉にならない苦しげな声でもって、その率直な意向を愛弟子へと告げた。
 食ったから寝る。
 明日もよろしく、と。
 そのような日が、およそ三昼夜続いた。
 その間中、この古ぼけた社の中に身を潜めていたすべての者が、ただ「古橋ケンタの回復」というたったひとつの目的のために文字どおり東奔西走したのである。
 ある者は彼の求める食材を調達せんと四方の村々を駆け回り、またある者はそれらを用いた膳立ての準備に寝る間を惜しんで勤しんだ。
 そしてまたある者は、いまだ何かと不自由な身だったケンタを支え、甲斐甲斐しくも献身的にその身の回りで世話を焼いた。
 それらともすればてんでばらばらになりそうな働きを、あたかも機織りのごとく整然と采配してみせたのが光右衛門だった。
 いわば彼らにとっての総大将役を買って出たと言ってもいい。
 その手綱の取り方はあまりにも見事に過ぎた。
 それは、もとより彼の使用人として仕えていた小八兵衛とボブサプを除く鼓太郎たちが、なんら不平をこぼすことなくその軍配団扇へおのれの意思を委ねたほどのものだった。

 ◆◆◆

 光右衛門は、脳裏へと浮かび上がったその情景を心の奥底で力強く噛み締めた。
 ケンタの言う「勝利の果実」というその意味を、改めて痛烈に理解したからだった。
 古橋ケンタは揺らいでいない。
 老爺はその真実を実感した。
 古橋ケンタは揺らいでいない。
 この男が斯様な真似を試みることは、初めからわかりきっていたことだった。
 なれば、自分たちがそれを押し止めることなどは、およそあってはならない所行であろう。
 なぜならば、こうなることが明白であるのにあえてそれを手助けしたという事実は、自分たちが彼の意向に賛意を示したのとまったく同じ意味を持っているということにほかならないからだ。
 自分たちがその思惑を後押ししたのとまったく同じことにほかならないからだ。
 いわばこの場合、ケンタは槍の穂先であり、自分たちはそれを保持する長柄にこそ例えられる関係なのだと言えよう。
 槍そのものの主体たる長柄が、どうして穂先の存在に異議を唱えられるのだろうか。
「わかりました」
 おのれの手中にその権利がないことを悟り、光右衛門は嘆息した。
 「もはや、お止めはいたしますまい」と前置きしつつ、老爺はもう一度、真剣な眼差しを眼前に立つ敬愛すべき愚か者へと送り込んだ。
「されど、ひとつだけおまえさまに伺いたき儀がございます」
 静かな口調で彼は尋ねた。
「いったいおまえさまの中にある何物が、いまのおまえさまを動かしておるのでしょうか? 無論のこと、『悪党どもに捕らわれた親しき娘を助け出す』、そのことの是非をどうこう言おうとは思っておりません。いやむしろ、それは賞賛すべき行いでこそありましょう。
 しかしながら、物事は時と場合によりまする。これからおまえさまが相手取ろうとする敵は、それが三万八千石の小藩なりといえど紛れもなく大名家の城代家老。ともすれば、一国そのものをも左右できる重臣にございますぞ。その力は、ただひとりの男が徒手空拳で立ち向かうにはあまりにも強大。たとえ尻尾を巻いて逃げ出したところで、誰ひとりとしておまえさまを責めたりなどいたしませぬ。
 にもかかわらず、なぜおまえさまは行こうとなされるのです? 戦おうとなされるのです? いったい何が、いまのおまえさまを突き動かしておられるのです?」
 そう問われたケンタは、一瞬、何事かを言おうとしてそれを思い止まった。
 どこか子供のそれを思わせるきょとんとした表情を浮かべながら、ぽりぽりと利き手で頭を搔いてみせる。
 小さくひと呼吸する間だけ何かを思案していた彼は、やがて大きく胸を張り、光右衛門へ、いやこの場にいるすべての者へ次のように告げた。
「ご隠居さん、鼓太郎、おみつさん……それと、ここにいるほかのみんな。俺は、本当ならこの時代にいるはずの人間じゃないんです」
 涼やかな顔付きでもってケンタは言った。
「信じられないかもしれないけど、俺は、神隠しにあっていまから何百年も先の世の中から連れてこられた男なんです」
「古橋殿、いったい何を申されて──」
 唐突に放たれた告白を前に思わず目を見開いた光右衛門ほかの者たちを無言のままに右手で制し、この屈強な若者はなおも言葉を紡いでいく。
「葵さんは『穂高山の大天狗さまが気紛れでなさったこと』って言ってましたけど、俺自身、なんでそうなったのか、なんでそんな目にあったのかはさっぱりわかりません。おそらく、永遠にわかることはないんでしょう。
 でも、俺がこの時代に放り出された時、自分の置かれた立場が理解できた時、はっきりとわかったことがひとつだけあるんです。それはですね、この世界には、俺の友人も知人も、家族も親戚も、いやいやそれどころか俺のことを知る人間は誰ひとりとして存在していないんだってことなんです。
 この世の中で、俺は本当の意味でひとりぼっちでした。もともと俺はそういうことをあまり気にしない人間だったんですけど、あとになってそのことを思い返した時、なんだか急に背筋がぞっとしたんです。誰にも知られず誰にも看取られず、世の中をたったひとりで生きて、そしてたったひとりで死んでいくのは、どう考えたって恐ろしいものですからね。
 で、その時になって俺は初めて思ったんです。なんでそんな大層なことを、いまになって思い至ったんだろうって。答えは簡単でした。この世の中でひとりぼっちだったはずの俺が、実はひとりぼっちなんかじゃなかったからです。
 俺には秋山先生と葵さんがいました。
 秋山先生は、こんなどこの誰かもわからない俺を心から信頼して受け入れてくださいました。葵さんに至っては、こんなどこの誰かもわからない俺を子犬みたいに慕ってさえくれました。あのひとたちは、俺を孤独から救ってくれました。俺自身がそんな大事なことに気付かないほど、自然に、優しく、穏やかに俺のことを包み込んでいてくれてたんです。
 あのひとたちは、俺にとってかけがえのない宝物です。あのひとたちがいなければ、きっといまの俺はありませんでした。そのことは間違いありません。確信してます。
 だから俺は、その恩を返さなくちゃいけないと思うんです。俺がこの世で俺として生きることができている、そんな風に導いてくれた恩を、ひとりの人間としてちゃんと返さなくちゃいけないと思うんです。
 俺が行く理由のひとつ目はそれです。もうひとつは──」
 苦笑しながら彼は言った。
「俺が、やっぱり『おとこ』だからなんでしょうね。『おとこ』だから、目の前にある壁に背を向けたくない。どうせ人間一度は死ぬんだから、越えられない壁を前に回れ右して残りの人生を後悔しながら生きていくよりも、むしろそいつに真っ向から立ち向かって前のめりにぶっ倒れてみたい。どうしても、そんな風に考えてしまうんです。
 『おとこ』だから……いやいや『おとこ』だからこそ、せめて真剣に何かをする時ぐらいは、自分自身に精一杯格好付けてみたいじゃないですか。精一杯見栄張ってみたいじゃないですか。
 そうでしょう? ご隠居さん」
 左様な同意を求められた光右衛門だったが、この時、彼はその言葉に返す術を持ち合わせてなどいなかった。
 その背筋がぶるりと震える。
 悪寒の類いではない。
 武者震いだ。
 湧き起こる興奮が、彼の老いた肉体に過剰な熱量を与えていく。
 それは、この光右衛門が久しく忘れ去っていた「おとこ」としての喜びだった。
 そして、そのような思いを抱いたのは彼だけに留まらなかった。
 この場にいるもうひとりの「おとこ」が、おのれの身を焼くその熱さに耐えきれなくなって弾かれたように前へ出た。
「おいらも連れてってくれ」
 それは鼓太郎だった。
 いまだ齢十に過ぎない少年は、抑えきれない衝動に顔中を真っ赤に染めつつ、おのが師匠に詰め寄った。
「ケンタ師匠が葵姉ちゃんに返さなくちゃならない恩があるって言うんなら、おいらにだって、葵姉ちゃんには助けてもらった恩がある。『おとこ』だからその恩を返さなくちゃいけないって言うんなら、おいらだってそいつを返さなくちゃならないはずだ。おいらだって『おとこ』だ。『おとこ』なんだからな!」
 その勢いたるや、まさしく火山の噴火さながらだった。
 熱風のごとく叩き付けられる言葉の奔流に、さすがのケンタもひるみを見せる。
 それは、とても子供のものとは思えぬほどの胆力だった。
 そのことを自覚しているのかどうかは定かでないが、鼓太郎はおのが師匠に向け、なおも畳みかけるようにして言い放った。
「止めたって無駄だからな。たとえ置いてけぼりを食ったって、おいらは師匠のあとをついて行く。だってそうだろう。おいらは、ほかの誰でもないケンタ師匠の弟子なんだから。師匠が自ら戦いに行こうっていうのに、弟子がそいつを見て見ぬ振りなんてできるかよ! 少なくとも、そんなのおいらは嫌だ。絶対に嫌だ。
 師匠も師匠だ。なんでひと言、『俺のあとをついてこい』って言ってくれないんだよ。水臭いじゃないか。おいら、本当に師匠の弟子なんだよな? 師匠は、おいらのことを本当に自分の弟子だって認めてくれてるんだよな? それとも、そう思っていたのはおいらの勘違いだったのか?
 だったら、おいらにも片棒を担がせておくれよ。おいらにも、恩人を、葵姉ちゃんを助ける手助けをさせておくれよ。師匠と一緒に『おとこ』の見栄を張らせておくれよ!」
 ほとんどひと息にそれだけの台詞を吐き出すと、鼓太郎は両肩を激しく上下させながらきっとケンタの両目を睨み付けた。
 灼熱の温度を保つ純粋な眼差しが、まっすぐケンタを指向する。
 そんな代物に真っ向から双眸を射貫かれたケンタの中で、次の瞬間、何かが音を立てて弾け飛んだ。
 それはたちまち耐え難い哄笑となって、ほとんど爆発的とも言える具合に喉の奥からほとばしり出た。
「ああ、そのとおり。おまえの言うとおりだ」
 ひととおり大笑いしたあと、彼はいまだ猛り続ける少年の頭を右手で軽く叩きながら、なだめるようにこう告げた。
「負けたよ、鼓太郎。完全に俺の負けだ。正直、子供だからと思って、おまえのことをすっかり見くびってた。俺は本当に駄目な師匠だな。おまえのことを一人前の『おとこ』だって認めてやるべきだった。悪かった。心から謝るよ」
「じゃあ、連れてってくれるんだな?」
「ああ。大の男がそう決心したんだ。そいつを無碍にするわけにはいかないだろ」
「そうこなくっちゃ。最初からそう言ってりゃあよかったんだよ、この莫迦師匠」
 照れ隠しなのか、わざとらしく偉そうな口振りで鼓太郎が応えた。
「ま、おいらが一緒に行くからには、大船に乗った気持ちでいてくれよ」
 そのいかにも子供らしいまっすぐな見栄の張り方を目の当たりにして、ケンタは思わず苦笑した。
 そこに、自分たちがとうのむかしに忘れ去った大事な何かがあるように思えて仕方なくなったからだった。
 軽く突き放すように「余計なこと言ってないで、さっさと支度してこい」と鼓太郎をいったん社のほうへと追いやると、彼は改めて光右衛門らと向き合う。
 きっちりと背筋を伸ばしてケンタは言った。
「じゃあ、そういうことなので行ってきます」
 それは、まるで隣村へ使いにでも出るような気軽さだった。
 返事は待たない。
 もとよりそのようなものは期待していなかったのだろうか。
 ケンタは一度清々しく破顔したのち、今度は深々と腰を折って皆に向けて一礼した。
 その唇が言葉を紡ぐ。
 先ほどのものとは打って変わって、どこか神妙な口振りだった。
 彼が口にしたのは次のような台詞だった。
「もしかしたら、皆さんにお会いするのはこれで最後になるかもしれません。これまで本当にお世話になりました。ありがとうございます。どうか、いつまでもお達者でいてください」
 それは、紛れもなく別れの挨拶であった。
 やがてゆっくりと顔を上げたケンタは、鼓太郎を引き連れ、決然と胸を張りつつこの場を去った。
 山肌に生える木々を縫って下里へと降りていくその道は、久々野村にて益田街道へと合流し、高山城下へと伸びていく。
 大男と少年とで成る師弟のつがいは、一度もこちらを振り向くことなく光右衛門らの前からその姿を消した。
 老爺たちは、ただ黙ってそれを見送ることしかできなかった。
 贈る言葉を捧げることさえできなかった。
「たわけ者め……」
 両肩を小刻みに震わせた光右衛門がまるで吐き捨てるようにそうひとりごちたのは、ケンタたちの背中が朝霞の彼方へ消え去って間もなくのことだった。
「おのれを知る者のために、だと。若造が……いったい何様になったつもりだ。まるで楠木正成公ではないか」
 老爺の顔が紅潮していた。
 彼の脳裏に、かつて朝廷に仕えたひとりの武士、その獅子吼する姿がありありと浮かび上がってくる。
 その者の名は楠木くすのき河内守かわちのかみ正成まさしげ
 世が鎌倉時代の終焉を告げる「太平記」の頃、時の帝・後醍醐の知遇を得てその軍勢の一翼を担った稀代の名将である。
「七生報国。狙うは尊氏の首ひとつじゃ! 者ども続けい!」
 おのれが呈した必勝の策を物知らぬ公家どもに退けられ、負けるとわかっていた戦場に従容と赴いた彼は、摂津国・湊川の地にて京へと迫る圧倒多数の足利尊氏軍主力へと突入。
 後世に名を残す奮戦を繰り広げたのち、弟・正季まさすえ以下その手勢すべてとともに戦場の露となって落ちた。
 その伝記を初めて読んだ若き日の光右衛門、いや光圀は、この者を必敗の戦場へと向かわせた原動力がいわゆる武士としての体面などと言う白々しい代物ではなく、ただ河内国の土豪に過ぎなかったおのれを拾い上げ重用してくれた時の帝・後醍醐への恩義によるものだと考えた。
 いざという時、「ひと」の心を動かすものはやはり「ひと」なのだ。
 そのことを深く胸中に刻み込みこれまでを生きてきたこの老爺には、いま目の前から悠然と去って行ったひとりの若者の背中が、その名高き武将の姿と重なって見えたのだった。
 左様な光右衛門の心をふと現実世界へと引き戻したものは、そのすぐ隣から放たれた小さく鼻をすする音だった。
 およそ瞬きすることも忘れ口内に溢れる心地よい虫酸を弄んでいた彼の意識が、すわ何事かとばかりにそちらの側へと向き直る。
 そのを放っていた者は、それまで光右衛門の横でただ立ちすくんでいるだけだった娘・おみつであった。
 老爺の見ている間にも彼女のそれは次第次第に嗚咽へと変わり、両目から流れ出す多量の涙がふっくらとしたその頬をしとどに濡らしていく。
 控えめで自己主張に乏しく、どちらかといえば目立たない娘だと思われていたおみつが見せる感情の発露に、光右衛門は驚き、その名を呼びつつ「どうなさったのですか?」と気遣わしげに声を掛けた。
「なんで行ってしまわれるんですよう……」
 震える声で彼女は言った。
「古橋さま、きっと死んでおしまいになられますよう。おひとりでご家老さまに刃向かうなんて、殺されてしまうに決まってるじゃないですか。そんな簡単なこと、古橋さまだってわかっておられるはずなのに、なんでお城になんて行かれるんですかよう。そんなにお嬢さまのほうがいいんですか? 死んでしまっても構わないって思われるほど、お嬢さまのほうがいいんですか? なんで、あたしじゃ駄目なんですかよう! あたしじゃ、お嬢さまの代わりにはならないんですかよう!」
 おみつの言葉は、終わりには半ば叫びとなっていた。
 まさに激情。
 その激しさは、百戦錬磨の老兵たる光右衛門をすら思わずたじろがせるほどのものだった。
 わずかに声を失ったのち、確かめるように彼は言った。
「おみつさん、あなたもしや──」
「いけませんか?」
 光右衛門の言葉に、おみつがすかさず噛み付いた。
「あたしみたいなのが男の人を好きになっちゃいけないんですかよう。あたしだって夢見たっていいじゃないですかよう。おっきくて、優しくて、力持ちのひとを、あたしみたいなのが好きになっちゃ駄目なんですかよう。
 教えてください、ご隠居さま。なんで古橋さまは、自分から危ない橋を渡ろうとなさるんですかよう? おとこのひとにとって、『格好付ける』とか『見栄を張る』ってのは、そんなに大事なことなんですかよう? 危ない橋を目の前にして、それから逃げ出すってのはそんなにみっともないものなんですかよう?
 たとえご自分の無力を感じなさったとしても、いったいそれのどこが悪いことなのか、あたしにはさっぱりわかんないです。身の程をわきまえて、自分のできることを自分の手の届く範囲でこなしていくことの、どこにいったい非があるって言うんですかよう。残りの人生を後悔しながら生きていったっていいじゃないですか。死んじまってなんもかもなくしてしまうより、そのほうが全然いいじゃないですか。毎日あたりまえみたいに起きて、あたりまえみたいに寝て、あたりまえみたいに年を取ることの、いったいどこが悪いって言うんですかよう。
 古橋さまがおひとりになるのは嫌だっておっしゃるなら、お嬢さまの代わりにあたしがずっと側にいますよう。朝には朝餉の用意して、夕には夕餉の用意して、いっぱいいっぱい身の回りのお世話いたしますよう。一生かけて尽くしますよう。お望みなら、子供だって何人でも産んで差し上げますよう。
 なのに、なんでですよう。なんで行ってしまわれるんですよう。あたしにはわかんないです。全然、全然わかんないですよう!」
 嗚咽の声は、瞬く間に号泣へと変わった。
 ひとたび震えだしたひとの想いは、もはや容易なことで収まりを見せるものではない。
 ましてや、その発信者が年若き女性であるとくるなら、それはなおさらのことだと言えた。
 この事態に直面した者がケンタであれば、おそらくあからさまに混乱するしかなかっただろう。
 これが秋山弥兵衛であったとしても、多かれ少なかれ彼と同様の道を辿ったことに疑いはない。
 しかし、光右衛門は違っていた。
 聡明であることについてはおよそ右に出る者などいないであろうこの老爺は、おのれのすぐ側に立つ純朴な娘が放った思いの丈を文字どおり余すことなく真っ正面から受け止めたのだった。
「おみつさんや」
 優しく諭すように彼は告げた。
「『おとこ』という生き物にはのう、その生涯に一度は必ず、おのれの真価を問われる刻というものが訪れるものなのですよ」
「おのれの真価……で、ごぜえますか?」
「左様」
 穏やかに微笑みながら、光右衛門はゆっくり大きく頷いた。
「『おとこ』という生き物には、おのれの信じるもの、おのれの護るべきもののために、たとえ生きて帰れぬとわかっている戦場であっても、あえて赴かねばならぬ刻があるのです。到底敵わぬとわかっている相手であっても、望んで挑まねばならぬ刻があるのです。そのような困難を前にしてもなお、おのれ自身を奮い立たせ、毅然として前に踏み出さねばならぬ刻があるのです。
 その行いを単に愚かと評すのは、あまりにも簡単なことでありましょう。いや確かに、それはまさしく愚かと評すべき行いなのやもしれません。されど、おみつさん。少しだけ考えてみてはくださらぬか。たとえばでございますが、おまえさまは、敵の前におまえさまたちを置き去りにして逃げだした者を心の底から認めることができますかの? もしその者が『おのれは対峙する敵に到底及ばぬ』と悟ったのだとしたら、『戦えばおのれは生きて帰れぬ』と考えたのだとしたら、その卑怯千万なる行いも見方によれば『賢明』で『理に適った』ものと捉えることができましょう。しかしおまえさまは、果たしてそれを正しきこととして受け入れることができますかの?
 世に愚かしき行いは、それこそ星の数ほどございます。そしてその大半は、まことの意味で愚かしき行いであることに疑う余地などありますまい。さりとて、それらはあくまで愚かゆえに間違っているというわけではないのです。愚かしい行いであるから、それらのすべてが正しくないというわけではないのです。
 およそ『ひと』などというものは、はなはだ不完全な代物にございましてな。ことと次第によっては、正しきを成そうとするがゆえにあえて愚かな道を選ばねばならぬ刻があるのです。そして、おみつさん。そのことを肌で解することが適うか否かで、『おとこ』という生き物は、『真の男』と『男のような何物か』のふたつに分かたれるのでありますよ」
「そんなの、あんまりにも手前勝手な理屈でねえですか!」
 泣きながらおみつは叫んだ。
「そんなの、残されたもんの気持ち考えてない、手前勝手な理屈でねえですか!」
「まことにそのとおり」
 しかし、光右衛門はその感情的な抗議を否定することなく受け入れた。
「ですが、おみつさん。その手前勝手こそが、これすなわち『おとこの理』なのですよ。時として我が身を捨て、おのれの大切な何かに殉じることこそが、『真の男』の持って生まれた『理』なのですありますよ」
 その禅問答のごとき言い開きに、おみつはなおも「わかんねえですよう」を繰り返す。
「そんなのわかんねえですよう。わかりたくもねえですよう」
「わからなくともよいのです」
 そんなおみつに、光右衛門は特上級の笑顔で応じた。
「なれど、古橋殿はそのことをわかっておられた。頭ではなくその胸底によって理解しておられた。あの御仁こそ、いまどき珍しい『真の男』でございましょう。かつて戦国の時代には掃いて捨てるほどおられたのであろう、『真の男』にてございましょう。左様な仁を理解せよと申すほうが難しい話。わからぬがあたりまえにてございます。しかしながら──」
 老爺は告げた。
「左様な仁だからこそ、おまえさまはあの方に好意を抱かれたのではありませぬかな? その身に付けたなんらかの『利』に惹かれたのではなく、彼の御仁の奥底に潜む左様愚かしい心根にこそ魅せられたのではありませぬかな?」
 おみつは一瞬言葉を失うと、小さく、しかしはっきりとした態度で彼の言葉を肯定した。
 「左様でごぜえます」とその唇が微笑みとともに言葉を紡ぐ。
 光右衛門もまた、改めて相好を崩すことでそれに応じた。
「なんとも潔い話ではありませぬか」
 彼は言う。
「神君・家康公が江戸に幕府を開かれてから早九十年近く。天下は泰平の世に溺れ、ひとの道の手本となるべき武士ですらが、いまや世間の巷より汚れだしている始末。『おとこ』たるに値する者は、みるみるその数を減らして行っております。『おとこ』という生き物が意地を張るにはあまりにも生きにくいこの世の中。あるいは、この老骨が目の黒いうちにその途絶えるを目の当たりにしてしまうのでは、と内心案じておったものでした。
 されど私は、彼の御仁を知ることでまこと深々と安堵することができました。なんと、いまより数百年も経ったのちの日の本に、まだあれほどの『おとこ』が息吹いておったというのです。まだあれほどの『おとこ』が生き抜いておったというのです。
 なんともまあ、愉快な話ではございませんか。痛快な話ではございませんか。愚直なまでにおとこらしくを生きようとする『真の男』が、少なくともひとり、はるか時を隔てた先で腐ることなく腕を撫しておったというのです。私もまたひとりの『おとこ』として、これを喜ばずにはおられません。心奮わさずにはおられません」
「ご隠居さまは、あの夢物語みたいなお話を信じなさるのですか?」
 おみつが尋ねる。
「古橋さまのおっしゃった、あの信じられねえお話を」
「無論、信じますとも」
 光右衛門は言い切った。
「それとも、おみつさんはあの御仁の言を信じなさらぬのですかな?」
 「いいえ」とおみつは首を振った。
「信じますです」
 それを見た老爺のまなじりが、大きく大きく垂れ下がった。
 次いで彼は身体ごとあの大男が去って行った方角へと向き直り、しゃんと背筋を伸ばしながら独言する。
「そもそも『おとこ』たる者の生きざまは、断じて言葉などではなく、すべからくその背中にて語られるべき代物じゃ」
 彼は言った。
「であるからこそ、その道程はのちの世に連綿と語り継がれ、次の代へ、そしてまたその次の代へと、その者を語るひとの想いとともに受け渡されていく。だが、左様な真似の叶う『真の男』が、果たしていまの世の中、いったいどれほどおろうものか。やはり、ただ死なせるには惜しい。あまりにも惜しい」
 そう言い終えた瞬間、光右衛門の表情が傍目にも一変した。
 それはもはや、「ちりめん問屋の隠居」が被る温厚極まる好々爺の仮面などでありはしなかった。
 これまで、しかと奥底にしまい込まれていた猛禽の眼光があらわとなり、同時に彼はおのれの本性を誰隠すことなく表に出した。
 つわものとしてのおのれ、武士もののふとしてのおのれの本性を、だ。
「小八兵衛、ボブサプ!」
 光右衛門は、我に付き従うふたりの男の名を叩き付けるように呼び叫んだ。
「我らも行くぞ。これよりすぐじゃ。急ぎ支度いたせい」
「へい。どこへでごぜえやす、ご隠居」
「知れたことよ、高山城じゃ」
 彼は決然として言い放った。
「なんとしても……そう、なんとしてもあの者を犬死にさせるわけにはいかぬのじゃ! ことは一刻を争う。さっさとせんかぁ!」
「御意!」
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