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三章:オールドロード

第二十一話:馬瀬川の鮎

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 峻険な飛騨川の岸辺を右手に益田街道を北上すると見えてくるのが、飛騨・美濃両国の境となる馬瀬川の渡船場だ。
 金山宿を南北に流れる飛騨川へ北西から延びてきた馬瀬川が合流するあたり、それより少しだけ上流へ行ったところにそれはある。
 正直な話、渡船場としてはかなり不便な立地条件だったと言える。
 金山宿より北へ飛騨川に沿って伸びた深い渓谷──俗に「中山七里」と呼ばれる旅の難所などと同様、馬瀬川の両岸もまた、そのほとんどが険しい急斜面によって形作られていたからだ。
 山地ゆえ川の流れ自体も相当に速く、水量も多い。
 後年、欧州からやってきた土木技術者が日本の川を見て「これは川ではない。滝だ」と評したそうだが、まさにその言葉を象徴するかのような地勢だった。
 この場所に渡船場が設けられた理由は、その優れた適性に因るものではなく、単にほかの場所がさらにふさわしくないところであったからに過ぎなかった。
 当然のことながら、人が歩いたり泳いだりしての渡河は極めて危険な行為だった。
 たとえ熟練の船頭が渡し船を操ったとしても、状況によっては「あわや!」と冷や汗を流す場面があることだろう。
 事実、名古屋へ向かう行きの旅路で一度ここを渡ったケンタも、少なからず肝を冷やした覚えがあった。
 さすがに「生きた心地がしなかった」とまでは言わないが、流れに揉まれる小舟に揺られ冷たい飛沫を浴びながらの渡河は、やはり余り気持ちの良いものではなかった。
 よく晴れた風の穏やかな日であってもそうだったのだから、より悪天候の日であればその思いはもっと強いものとなっていただろう。
 そのことを想像するのは実に容易いことだった。
 言うまでもなく、危険な急流を横切って対岸へ渡るという行為は渡す者・渡される者の双方にそれなりの気合を要求する。
 気合とは、言い換えれば心と身体の活力のことだ。
 そして心身に活力をもたらす手段のもっとも端的なものとは、その胃袋を充実させることにほかならない。
 そんなわけだから、渡船場の近くには辻商い、すなわち屋台の飯屋が何軒か小さな見世を張っていた。
 もちろん、渡し舟の船頭や利用者たちが渡河に先立って腹ごしらえすることを当て込んでのものだ。
 辻商いゆえ、たいした料理が振る舞われているわけでもない。
 にもかかわらず、それらの見世のほとんどがなかなかの繁盛ぶりを呈していた。
 その日の午後、ケンタと鼓太郎の師弟が並んで腰を落ち着かせていたのは、そんな飯屋の見世先だった。
 と言う名の壮年女が営んでいるその見世は、もっぱら飛騨川や馬瀬川で採れた川魚を串焼きにして客へ提供している。
 このあたりでよく採れる川魚と言えば「天魚アマゴ」や「岩魚イワナ」などが知られているが、ことこの時期ともなると好まれるのはなんといっても「鮎」だ。
 採れたばかりの新鮮な鮎に竹串を通し、炭火でじっくりと塩焼きにする。
 余分な脂を落としつつ魚の旨味そのものを丁寧に閉じ込めて焼き上げるのはかなりの熟練を要する技だったが、その分きっちりと仕上げられたそれのうまさは、ひと口頬張るだけで感嘆の言葉が飛び出るほどのものだった。
 ケンタたちとてその例外ではなかった。
 風呂上がりに旅籠から貸し出された長着《ながぎ》をまとい着流し姿で外に出たふたりがケンタの言う「飛騨川清流特訓」とやらを試みるため飛騨川ならぬ馬瀬川の川縁に降り立ったのは、いまから二刻ほど前のこと。
 少しばかり離れたところに渡船場がうかがえるあたり、人の頭ほどの丸い石がごろごろしている場所をわざわざ選んで、彼らはを実行に移したのだった。
 入念な柔軟体操ストレッチで全身の筋肉を温めたのち、やや過剰とも言えるペースでもってスクワットやプッシュアップなど基礎的なメニューを繰り返す。
 そしてそれがいち段落してから続くのは、付近にいくらでもある大石を用いての筋力トレーニングだ。
 大石を頭上に持ち上げながらのハーフスクワット、大石を胸に抱きながらのシットアップ、大石をバーベルに見立ててのベンチプレスなどなどなど。
 効果のほどはまったくもって不明だが、確かにそれはケンタがわざわざ「特訓」という大仰な冠を付け足すにふさわしいほど激しい内容に満ちあふれていた。
「どうした鼓太郎、もうへばったのか。まだたった百回目じゃないか。そんなことでは高山の星になんてなれないぞ!」
 懸命に汗をかく鼓太郎に向け、若干意味不明の叱咤がケンタの口から幾度となく放たれる。
 彼は「たった百回」などと気軽に言うが、それが単なるスクワットであったとしてもその回数は容易に達成できる数字ではない。
 ましてや、鼓太郎は二十一世紀の世であれば、まだ小学校中学年に過ぎないのだ。
 これはむしろ、無理難題と評すべきレベルであったかもしれない。
 だが鼓太郎は、限界に近いおのれの筋肉を督戦しつつ、歯を食い縛って師の言い付けを守らんと奮迅した。
 弱音も泣き言も一切口にせず、師に求められた回数をこなさんと必死になって尽力した。
 もとよりケンタも、この幼い弟子が自分の要求数を達成することなど期待していなかったようだ。
 数半ばにして力尽きた鼓太郎がそのまま地面にへたり込んだ時、彼はそんな弟子を叱ったり罵ったりなどしなかった。
 「よくやった。よく諦めずに目標を追った」と、その頑張りを褒め称えたくらいだった。
 そんなふたりがおきんの見世を訪れたのは、それから少しの休憩と十分なストレッチとを挟んでからのことだった。
 体を動かせば、あたりまえだが腹が減る。
 前の宿場から金山宿まで歩いたことも付け加えるなら、それはもうなおさらのことだと言っていい。
 食欲というのは、言うまでもなく人間の持つ三大欲求のひとつだ。
 その望みを満たす気軽な道がすぐ目の前にあるというのにあえてそれから目を背けることなど、いまのふたりには到底できる相談ではなかった。
 見世前に置かれた床机しょうぎの上で並んで座り、次々と運ばれてくる塩焼きの鮎に大口を開けてかぶりつく。
 悪く言えば淡白ともとれる鮎本来の味わいに降られた塩のしょっぱさとわたの苦みがよく映えて、食べれば食べるほどどんどん食欲が増してくる。
 まさに見世側の目論みどおりといった有様だったが、だからといってふたりとも一向にその手を止めようとはしなかった。
 知らず知らずのうちに、双方ともが饒舌になる。
「うまいなあ、この鮎って魚。おいら、産まれて初めて食べたよ。こんなにうまいものだったんだ」
「まったくだ。腹が減ってる時に食べると、さらにうまさ倍増だな。どんどん喰えよ、鼓太郎。ちゃんと骨も残すんじゃないぞ。カルシウムってのはレスラーの肉体が必要とする大事な栄養素なんだからな」
「師匠、その『かるしうむ』ってのは、いったいなんなんだい? おいら、そんなの聞いたことないんだけど」
「む……その、なんだ。平たく言えば、骨の材料のことだな、うん。まあ、いまは四の五の言わずにとにかく食べろ。身体を鍛えるのだけじゃなく、きっちり食べて身体を造るのもレスラーの修行のひとつだぞ」
「言われなくたって食べてるさ。ああ、本当にうまいや。おばちゃん、もう一本追加ね」
 床机の上に積まれていく竹串の数が十本を数えようかという頃になって、ようやく彼らの欲求はひと山を越えた。
 腹一杯になったというほどの量を食べ切ったわけではないが、ふたりともが十分以上に満足したという実感を抱いていた。
 いい汗かいて、腹も満たした。
 じゃあ、そろそろ旅籠のほうに帰ろうか、という話になったのは、それからまもなくのことだった。
 勘定を払うべく、ケンタは女主人のおきんを呼んだ。
 久方ぶりの良客であったのだろうか、
 おきんの表情はあからさまな愛想に満ち満ちている。
 いまに揉み手でもしそうな顔付きでもって彼女は告げた。
「締めて二百文になります」
「二百か……結構張るなあ」
 高山城下ではみだらし団子五つでひと串がおよそ四文といったところだから、この二百という数字はかなりのものだ。
 とはいえ、それなりに量産の効く米粉の団子と天然物の鮎を同格に比較するわけにもいかないのもわかる。
 即座にその金額を納得し、いつも懐に入れて持ち歩いている道中財布に手を伸ばした。
「へぇ、二百文もぽんと払えるなんて、師匠って意外と金持ちなんだな」
 鼓太郎が感嘆の声を上げた。
 聞きようによっては皮肉と受け止められなくもない発言だったが、それを口にした彼の目は半分以上が本気だった。
「おいら、てっきりもっと渋々になって払うもんだと思ってたよ」
「意外と、ってのはなんだ? 意外と、ってのは」
 だが、残り半分以下の要素に反応してケンタは唇を捻ってみせた。
「おまえの師匠を莫迦にするなよ、鼓太郎。これでもいろいろやってきて、秋山先生からそれなりの手間賃をもらってたんだからな。たまに贅沢するぐらいの金は俺だって常備してだな……」
 その言葉が不意に中途で途切れて消えた。
 傍らの鼓太郎が訝しそうに眺めるなか、ケンタの顔色がさっと青白く変わっていく。
 瞬きもせず、彼は両手の平で身体のそこいら中をぱんぱんと叩き始めた。
 まるで何かを捜しているような仕草だった。
「どうしたんだい、師匠?」
「……財布がない」
 鼓太郎の問いかけにケンタは応えた。
「たぶん着物と一緒に置いてきたんだ」
「ええっ!」
 鼓太郎が叫んだ。
「それ、まずいじゃん!」
「ああ、まずい。物凄くまずい」
 ケンタは短くそう言うと、すぐ横で血相を変えている新弟子に向かって、「悪いけど、旅籠まで俺の財布を取りに行ってくれないか?」と頼んだ。
 もちろん鼓太郎にも否はない。
 このままでいれば自分も無銭飲食の共犯になってしまう。
 それを回避するためなら、少しぐらいの手間と労力は仕方のないことだ。
 少なくとも、彼はそんな風に考えた。
 即座に立ち上がろうと腰を浮かす。
 だが、おきんのひと言がそれを拒んだ。
「お待ち」
 ぎろりとケンタの顔を睨み付け、両手を腰に彼女は言った。
「あんた、そんな理由で先に子供だけ逃がして、自分はあとになってから力尽くで逃げ出そうって魂胆だろ。残念ながら、そんな手には乗らないよ」
「女将さん、そりゃあ誤解だ!」
 思ってもみなかった言いがかりを受け、ケンタは思わず仰天した。
 必死の形相で弁明を開始する。
「俺たちはあっちのほうにある『清水屋』って旅籠に泊まってて、連れはいまでもそこにいます。食い逃げなんて、これっぽっちも考えてませんってば」
「嘘をお吐き」
 ケンタの言い分をばっさりと切り捨て、鋭い目付きでおきんは言った。
「言うまでもなく、食い逃げは天下の御法度。いま誰かにお役人を呼んできてもらうから覚悟しておくんだね」
「そんなあ、誤解ですってば。信じてくださいよ!」
「信じて欲しかったら、信じてもらえるような何かをしてみせることだね。たとえば、この場でなんか金になる芸をしてみせるとか、さ」
 おきんの顔付きが、不意に性悪猫のそれに変わった。
 その口の端が見事なまでに吊り上がる。
 それは、まるで特上の獲物を捕らえた罠師のごとき表情だった。
 実のところ、いま見せたおきんの態度、そのほとんどは彼女一流のだった。
 こういった辻商いをやっていると、どうしても似たようなことを繰り返す毎日に飽き飽きする瞬間が訪れる。
 そんなとき、おきんは見世を訪れた旅人に他愛のないいたずらを仕掛け、それをもって日常の潤いとするのを何よりの楽しみとしていたのだ。
 ケンタたち師弟は、うまうまと彼女の張った蜘蛛の巣に絡め取られたというわけだった。
 だが当然、彼らふたりがそんな背景を知る由なんてどこにもない。
 宿場役人を呼ばれるかもしれないという具体的な圧力が、ふたりの脳内から冷静な判断力というものを根こそぎ奪い去ってしまっていた。
「金になる芸ったって、いったい何すりゃいいんですか?」
 内心で泣きそうになりつつケンタは尋ねた。
「そうだねぇ」
 にやにやと笑いながらおきんが応える。
「あんたらがさっきまであそこの河原でやってた、あれは金にはならないのかい? ありゃあ、何かの芸なんだろう?」
 おきんの言う「あれ」とは、要するについさっきまでケンタたちが勤しんでいた激しい稽古のことだった。
 当事者らにとっては真剣極まりない「飛騨川清流特訓」であっても、端から見ている部外者──少なくともおきんにとっては芸の一環にしか見えていなかったというわけだ。
 鼓太郎はともかく、その認識はプロレスラーという自分に並々ならぬ誇りと信念を持っているケンタにとって生半可ではない衝撃として受け止められた。
 いや確かに、ケンタの愛する「プロレス」というものは広義の「パフォーマンス」に属するだろう。
 それがどれほど激しい肉体同士のぶつかり合いであったとしても、プロレスがあくまでも観客に見せることを目的としている限り、当事者プロレスラーたちが何を言っても断じてその範疇からは逃れられない。
 だが、その影で積み重ねられている自己鍛錬までもを芸とされるのは、彼にとってはなはだ心外な評価だった。
 流れる汗とともに蓄積される経験と熱量。
 それはプロレスのいわゆる「裏」としての存在でありながら同時に絶対欠いてはいけない「背骨」でもあると、彼は心から信じていたのだった。
「あれはれっきとした修行です!」
 やにわに立ち上がり、ケンタはおきんに食い下がった。
 真っ向からその目を合わせ、両の拳を握り締めて力説する。
「ぱっと目には滑稽に見えるかもしれないけど、俺たちレスラーは日々ああやって身体を鍛えてですね──」
「へぇ、芸は芸でも、あんたたちは武芸者って奴かい」
 ケンタの発言を制するようにおきんが言った。
「だったら、その身に付けた武芸とやらであたしの見世に客を呼んでみせな。そしたらまあ、今回の件は大目に見てやるよ。どうなんだい?」
「わかったよ、おばちゃん」
 そんなおきんの言に応じてみせたのは、ケンタではなく鼓太郎のほうだった。
 おきんに向かって彼は言う。
「つまり、おいらたちがおばちゃんの見世の客寄せをすればいいってことだろ。それで勘弁してくれるってことだろ。違うかい?」
「おい鼓太郎」
 妙に前向きな鼓太郎の態度を訝しんで、師匠のケンタが口を挟む。
「おまえ、そんな気軽に言うけどな。何かいい考えでも浮かんだのかよ」
「もちろんさ、師匠」
 ふんぞり返るように胸を張り、鼓太郎は自信満々に言い放った。
 なおも怪訝な表情を隠そうともしないおのが師に向け、彼は悠々と私案を説く。
「大丈夫、大丈夫。ここは全部おいらに任せてくれよ。これ以上はないってくらいにうまい話を思い付いたんだから。それってのはさ──」
 愛弟子が語る目論見に一抹の不安を覚えながらも、ケンタはこの時、それに乗る以外の選択肢を持ち合わせてはいなかった。
 本当に大丈夫……なのか?
 それが偽らざる彼の本音だった。
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