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二章:コンスピラシー

第十三話:談合決裂

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 「ブレード」というものは、実に奇妙な一品である。
 狩猟の道具として発展してきた槍や弓、そして工具としての役をも受け持つ鎚や斧などとは異なり、純粋に人体を斬撃するという目的に沿った能力のみ与えられた「兵器ウェポン」でありながら、その独特の美しさは見る者すべてを魅了せずにおかない。
 有用な武器でありながら、なお美術品としても人心を引き付けるそれは、世界広しと言えど極めて希有な存在だと言えた。
 ケンタと葵が旅に出て三日目の夜、秋山弥兵衛はおのれの道場その中央でただひとり座し、眼前で水平に掲げた差し料をまんじりともせず眺めていた。
 すでに深夜と言っていい時間帯だ。
 腰の高さほどある燭台に灯された一本のろうそくが、漆黒の空間内に幻想的な別世界を形作っている。
 美濃の刀匠・兼定の手になる彼の愛刀。
 漆塗りの鞘からわずかに引き抜かれたそれは、いま煌めく刀身を根元からひと掴み分だけあらわにしていた。
 心を込め、丹念に研ぎ澄まされた鋼の刃。
 魂まで吸い込まれそうな透明感を持つ白刃におのが双眸を映しつつ、弥兵衛は過ぎ去った時の流れへ思いを馳せていた。
 生まれて初めて剣を握ってから今日に至るまでの間、弥兵衛の手は数多くの人命を奪ってきた。
 殺生という行為がおよそ罪となるのであれば、死してのち、この身が地獄に堕ちるのもやむを得ないことと覚悟していた。
 好むと好まざるとにかかわらず、ひとたび剣士を志したからには、その手が他者の生死に無関係でいることなど決してあり得ぬ。
 ゆえに、剣の道を歩む者はおのれの行為にすべての責任を負わねばならない。
 それこそが、彼の骨身を支える信念であった。
 弥兵衛が初めて人を殺めたのは、いまから十五年前のことだった。
 手にかけた者の名は、鳥飼とりがい孫兵衛まごべえという。
 当時、同じ藩からの禄を食んでいた親しき剣友のひとりだ。
 年も同じく、ともに剣の道を語り合った弥兵衛にとって好敵手とも呼べる若者だった。
 それは、ある雷鳴轟く雨の日に起きた出来事だった。
 滝のように降り注ぐ雨粒に打たれながら、若き日の弥兵衛は、四間約七メートルを挟んで対峙する友に向け必死に叫んだ。
「いかに藩命と言えど、罪なき少女を殺害するなどという所行、武士として断じて許されるものではない!」
 両手を広げて立ち塞がる彼の背後には、横転した駕籠かごがひとつと、恐怖のあまりへたり込むひとりの少女の姿があった。
 剣友・鳥飼孫兵衛が向ける剣気をその身で阻み、弥兵衛はなおも言い放った。
「我らがやろうとしていることは明らかに間違っている。おまえほどの男でも、そのことがわからぬのかっ!」
「おまえの言っていることは正しい。これが許される行為でないことぐらい、俺にだってわかる」
 叩き付けるように孫兵衛が答えた。
「だが、それでもなお、これが藩命なのだ、弥兵衛!」
 雄叫びとともに突進してきた友を弥兵衛が剣光の下に沈めてから幾星霜、彼は襲い来る幾多の刺客を退けてきた。
 見知らぬ顔とはいえ、その大半はかつては同じ主に仕えていた男たちだった。
 お互いに憎悪などあろうはずもない。
 殺し合う理由を持たない者同士が刃を交え、勝ち残り、生き残った弥兵衛だけがただひとりで原罪を積み重ねてきた。
 追われ、戦い、傷付き、傷付ける年月が無造作に過ぎていった。
 なろうことなら、誰ひとりとして斬りたくなどなかった。
 しかし、おとなしく斬られてやるわけにはいかなかった。
 我が身が大事だからなのではない。
 すべてを賭して守らねばと誓った命を、その背に負っていたからこそだった。
 最初はひとつだけだったそれは、時を経てふたつに増え、いつしか彼にとり人生そのものとも言える大切な存在へと成り上がっていた。
 弥兵衛はおのれの心を殺し、兼定の愛刀を振るい続けた。
 その手にかけた者たち、その顔は二人目以降まったくおぼえていなかった。
 自らの意志でその生を奪った者たちであるにもかかわらず、どうしても思い出すことができなかった。
 ただひとり、そうたったひとりの例外を除いては──…
 それはいまから六年前の出来事だった。
 彼が初めて他者をその手にかけた日と同じく、その日も激しい雨が降っていた。
 それは、剣客として、武士として、そしてひとりの男として、その命を絶つことなどに思いも至らぬ人物だった。
 それは、若い女性だった。
 乱れた髪もそのままに、彼女は我が身へと降りかかった現実をとうとうと立ちすくむ弥兵衛に向けて語った。
「──このまま私が生きておっては、殿がまた道を誤りましょうから」
 やがて、静かに落ち着いた口調で彼女は言った。
「そして、もしこの身に新たな命が宿っていたなら、それは必ず、あなたとあの子にとっての災いとなりましょうから」
 そのひとは、ゆるりと弥兵衛の前にひざまづき、微笑みながら彼を見上げた。
 覚悟を決めた者のみが浮かべうる、そんな清しい表情がそこにはあった。
 やがて、うるんだ彼女の瞳から大粒の涙がはらはらとこぼれ落ちていった。
 弥兵衛は、その顔を生涯忘れまいと思った。
 それがなんの慰めにも贖罪にもならぬと知っていても、なおそうしなくてはならないのだと誓った。
「秋山弥兵衛の妻となれて、幸せでございました」
 それが最後の言葉となった。
 次の瞬間、弥兵衛は刀を持った右手をほんのわずかに突き出していた。
 気付いた時、愛刀の切っ先はそのひとの柔らかい喉を貫いていた。
 絶命の感触が掌に伝わった。
 熱い何かが両眼にあふれ、視界が深紅に染まっていく。
 血の涙だった。
 無言のまま刀を引き抜いた弥兵衛はそのままそれを草地に投げ捨て、そのもの言わぬひとの身体を力の限り抱き締めた。
 血が滲むほどに唇を噛み締め、懸命に嗚咽をこらえる。
 だがそれも、たちまち無駄な努力と化した。
 これが、こんなものが、私の選んだ結末なのか──…
 それは、断じて「後悔」などではなかった。
 そんな二文字で言い表せるような、生温い感情でありはしなかった。
 失意、絶望、無力感。
 それは、そういったものをすべてないまぜとした、文字どおり漆黒の闇であった。
 この瞬間より、彼は生きながらにして死人となった。
 たったひとり残された大切な命を、おだやかで豊かな生に導く──そのためにおのれのすべてを費やすことこそが、我が身に託された責務なのだと理解した。
 あれからもう六年が経ったのか。
 ぱちんと音を立てて、弥兵衛は差し料を鞘に収めた。
 誓約を果たすべき時が訪れたことを、改めて心の奥底に刻み込む。
 それは、いまから数刻前のことだった。
 城代家老・姉倉玄蕃の屋敷へと単身赴いた弥兵衛は、姉倉家用人である生島数馬と差し向かい一対一で談合を行った。
 門人・乾半三郎の従兄弟に当たるこの人物からは、この三月の間、数度の呼び出しを受けている。
 要件はすべて同じものだった。
 当人からのそれではなく城代家老・姉倉玄蕃の名代としてのものであったゆえ、弥兵衛も無碍に断ることなどできなかった。
 彼がこの男と初めて顔を合わせたのは、娘の葵が古橋ケンタを連れてきた数日後のことだった。
 弥兵衛は、初対面の数馬に抱いた率直な不快感をいまでもはっきりと記憶していた。
 対座した相手に断じて腹の底を読ませまいとする不遜な姿勢が、到底ひととして尊敬できるものでなかったからだ。
 いや、むしろそれは不愉快ですらあった。
 たとえそれが家老の用人として必要な能力であったのだとしても、できれば二度と会いたくはない人物のひとりだった。
 だが彼と数馬との談合は、それ以降、執拗なまでに執り行われた。
 数馬は主人・玄蕃に成り代わって姉倉家からの要求を告げ、弥兵衛は言を左右してそれに対する明確な回答を先延ばししてきた。
 実りのない話し合いは、そこから一方的な利を得ようとする側に必然的な苛立ちをもたらす。
 弥兵衛が最終的な回答を約束したのは、隠忍の限界に達した数馬が恫喝という手法を会話の中に織り込みだしたちょうどその頃であった。
 今日、さほど大きくはない座敷に通されその場で数馬と対座した弥兵衛は、この酷薄そうな男に向かってきっぱりとおのれの答えを告げてみせた。
 それは、誤解のしようがない拒絶の言であった。
「お断り申す」
 弥兵衛は言った。
「いかに申されようとも、拙者、おのが娘を狒々ひひの養女に出す気など毛頭ござらぬ」
「狒々だと」
 それを聞いた数馬の顔色が、見る見るうちにどす黒く変わった。
「御家老さまを猿の化け物にたとえるか。無礼であろう!」
「恐れながら、昨今の御家老さまがなさりよう、ひとのものとは到底思えませぬ」
 数馬の叱責にも弥兵衛は自説を曲げなかった。
「御家老さまは殿が病床にあることをよいことに藩政を私なされておると、この弥兵衛、側聞しております。主をないがしろとしそれをもっておのが欲求を満たそうとは、臣として人として断じて正しき道とは申せますまい」
「ふん」
 歯に衣を着せぬ弥兵衛の物言いに口の端を引きつらせつつ、数馬は弥兵衛に嫌味を述べた。
「藩命に背き、ひとたびはお尋ね者として追われる身となったそこもとの言葉とも思えぬな、秋山弥兵衛」
「拙者がいかな過去を持とうと、間違っているものは間違っているとしか言いようはござらぬ」
 しかし、弥兵衛は動じなかった。
「国替えののち、新たな領地にて剣術指南役のお役目と五百石の禄高。拙者のような剣術つかいにとっては、間違いなく過ぎた厚遇でござる。されど──」
「されど?」
「この世には利のみで動かぬ者もおるのだと、用人殿もご記憶なされるがよかろう。これより先の談合は不要。失礼させていただく」
 弥兵衛は、数馬の心中が手に取るようにわかっていた。
 彼は、生者がことごとく現世の利によって動くと信じているのだ。
 その柱となっているのは、知識としての「ことわり」だった。
 いわば、人心を算盤そろばん勘定で左右できると謳う学問のことである。
 確かに、その思想は九分九厘まで正しかった。
 弥兵衛も、そうした事実を頭から否定するつもりはない。
 だが、九分九厘はあくまで九分九厘であって、決してパーフェクトとイコールではない。
 人間の決断を左右する要素は「理」だけでなく、「義」や「情」といった感情もまたしかりなのだ。
 数馬にはそれが理解できなかったとみえた。
 おそらく彼にとって「義」や「情」という代物などは、あってはならない、もしくはあったとしても速やかに排除すべき不具合だったに違いない。
「そなたは父親として、ひとり娘が一生のことを安んじる気はないのか?」
 立ち上がり背を向けた弥兵衛に向かって、数馬は言葉を投げ付けた。
「いまをときめく姉倉さまの養女となり、いずれは金森の家に輿入れも叶おうというのだ。女として生まれ、これ以上の幸福などありはせぬぞ。それをおぬしは──」
「我が娘の幸せは、拙者ではなく、我が娘本人が自らその手で掴みまする」
 襖戸に手をかけたまま肩越しに振り返った弥兵衛が、蔑むような口調で答えた。
「ましてや、あれを政争の具としてしか思うておられぬ方々に、父娘おやこの情をどうこう言われる由縁はござらぬ」
 御免、とひと言言い残し、弥兵衛は姉倉家の屋敷を退出した。
 おのれの算段を最後の最後で痛烈に覆された数馬の顔が、屈辱のあまり真っ赤に染まって震えていた。
 その眼光には明確な殺意すらうかがえたが、弥兵衛はあえてそれを無視した。
 この身を斬りにくるか。
 道場の中でふたたび現実に立ち返った弥兵衛は、そんな風に自問した。
 そして、いや、それはまずありえないことだ、と自答する。
 生島数馬は知恵者だ。
 我が娘・葵が国境くにさかいを越えたこともとっくに察しているだろう。
 あれが他国に出れば直接手を出すことが難しくなるにもかかわらず今回それを阻もうととしなかった理由は、自分との談合がうまく行くと確信していたからだ。
 弥兵衛は、そのように数馬の動きを分析していた。
 もっとも、数馬が彼を掌で転がしていると誤解するよう弥兵衛は意図して猫を被っていたのだから、それも一面ではやむを得ない話だった。
 「策士、策に溺れる」という格言どおり、要は弥兵衛がいち枚上手だったというだけのことだ。
 そして、それがゆえに数馬は自分を斬りに来ないはず、と弥兵衛は断じていた。
 数馬は、葵たちをこの地にふたたび呼び寄せるための「餌」としてこの自分を利用するだろう。
 そのように彼は思っていた。
 怒りにまかせて血を流しても、そのことは彼らになんの利益ももたらさない。
 知恵者を自認する数馬がそのような無様な真似を選ぶとは、まずもって考えられなかった。
 そして、そこにこそ付け入る隙が生じると弥兵衛は目論んでいた。
 葵に持たせた手紙を読めば、聡明な柳喜十郎は彼なりの手段できちんとした対応を講じてくれるだろう。
 それでもなお姉倉玄蕃がおのれの野心を捨て去らず強硬な対応を辞さぬのであれば、その時は、あの者をこの手で斬り捨てるのみ。
 生島数馬は知恵者ゆえに、窮鼠が猫を噛むという事態を想定しておるまい。
 ましてや、それが当初より身を捨てての覚悟であるならなおさらのことだ。
 雅、これで良いのだな。
 弥兵衛は呟き、そして眼前にかざした差し料を静かに床の上へと置いた。
 心の中で彼は語る。
 心配ない。
 あれには古橋殿を付けてある。
 いささか風変わりな御仁ではあるが、この三月の間ともに暮らし、ようわかったことがある。
 あの仁は、紛れもなくおのれではない誰かのために修練を積み、そして戦いの場に臨んできたお人だ。
 その両肩に現世利益の伴わぬひとの想いを乗せながら、なお悠然とこれまでの人生を歩いて来なさった人物だ。
 そのような御仁は、決して他者を裏切らぬ。
 たとえ力及ばず受けた期待を果たせぬことがあろうとも、おのれの意志でそれらを捨て去ることだけは絶対にない。
 古橋殿のごとき仁とこのような時に巡り会うたは、まさしく天の導き。
 葵もまた、あの仁のことを好いておるようだ。
 預けて後悔するようなことだけはあるまいよ。
 いまはそれでいい。
 それで十分だ。
 それで。
 そう、それだけで……
 弥兵衛は改めて背筋を伸ばし、しばしの間まぶたを閉じた。
 そのままじっとしていると、心の中が徐々に澄み、やがては何も考えられなくなる。
 時の流れすらが静まり、我が身が空に溶け込むのを自覚できるようになる。
 そして、その自覚さえもが虚空に失われたその瞬間──…
「いやぁっ!」
 弥兵衛はいったん床上に置いた愛刀をふたたび手に取るやいなや、裂帛の気合とともにその刀身を引き抜いた。
 白刃が水平に一閃し、刹那ののちふたたび鞘の中へと収められる。
 ちん、と鯉口が鳴り、わずかに遅れて両断された燭台のろうそくがすっと別れて床へと落ちた。
 弥兵衛の目が、落ちてなおゆらゆらと揺れる灯火を反射して、妖しい光を放っていた。
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