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第六章:少女は異界の賢者を希う
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静かでありながらも慌ただしく人が行き来する廊下を一人の男が歩く。
周囲に見えない境界線があるように、彼の周囲はぽっかりと空いていて、ぶつかる心配は皆無だった。
それは左右に大量の資料が詰まった箱が追随しているためで、彼の片眼鏡の見つめる先には現在処理中の案件が浮遊していたからでもある。
「アイーネへの経済制裁? 立ち上がったばかりの貧困国のはずだが……」
浮遊していた一枚の書類を手にして呟きが漏れる。
添付されている情報は機密に属する国際情勢であり、今後の身の振り方を提示するもの。
国とは領土と民に法を敷いて秩序を保つ地域のことで勝手に主張するだけでは意味がない。
そんなことをすれば個人で勝手に国家を形成して収拾がつかなくなるため、結果的に互いに認め合ってようやく成り立つような制度を形成した。
しかし逆に言えば『他国』に認められさえすれば『国』となれるので、個人でも国を名乗れるという穴もあるのだ。
そしてそうした『強大な個人』は稀に現れ、先触れもなく国盗りを始めてしまったりもする。
国の戦力に匹敵する個人、国主トリニダード=ルル=ガルフが立ち上げた、今回のアイーネの件も同じ。
貧困に喘ぐ国々が密集している地域で『貧困の脱却』を掲げて一つの国を倒してのけた。
アイーネを名乗り、周辺国に武力を背景に認めさせると同時に併呑して勢力を拡大さた。
その手際の良さは背後で大国が糸を引いているなんて陰謀論を囁かれてしまう原因でもある。
しかし順調だったのも最初だけで、元々貧しい国をいくら呑み込んでも養う数が増える一方だ。
気付いた時には既に遅く、大きく育ってしまったアイーネは併呑した国々の文化が交わり切らず、いや、いっそぶつかり合ってしまって単なる紛争地帯へと様変わりしてしまった。
この後味の悪さも、そうした裏側の存在感を……というよりは、間違いなく経済大国が関わっている証左と言える。
これで新たな取引先が増え、また時代遅れの武器が売れるというものだ。
それでもまだトリニダード=ルル=ガルフ率いる中央政府は存在している。
一人で国の戦力を相手取れるのだから仕方ない部分はあるが、国とは組織であり個人ではない。
どれだけの問題に同時に対応し続けられるか、を問われ続ける以上、一人ではどうにもならないのだ。
そこに気付かず武力だけでどうにかしようとしているのでこんな泥沼に陥っているのだろう。
「……で、経済制裁? 貧困国相手に?」
と彼は歩みを止めずに首を傾げる。
経済制裁とは、国際貿易や外貨獲得が必要な相手にこそ意味があるが、今回の相手は貧困国だ。
技術力も特産物もないからこその貧困国であり、どちらかといえば『支援の打ち切り』が最初の一手になるはずだ。
しかし、アイーダはそもそも新興国であるため国際支援など行われていない。
となればこの『経済制裁』とは何を指すのか――
「あぁ、領土の販売禁止か?」
アイーダにとって膨れ上がった領土は邪魔以外の何物でもない。
また、まとめ上げた貧困国の周囲には、ある程度の経済力を持つ国があり、それらの国に領土割譲を名目に金を要求する懸念が出ているようだ。
たしかに本来なら戦争を含め、様々な手段で奪い合う領土を、金だけで手に入れられるのならば安いと考え、乗ってくる国も出てくるかもしれない。
先立って彼が販売禁止にサインすれば、大きな後ろ盾となり、周辺国もおいそれと取引に応じられない。
これはそういう意図を潜ませた通常決裁だということだ。
「そんなことをすれば領土問題がさらに複雑化するだけだろうに……」
と呟き、空中に浮かぶ書類に判を記して認可の箱に放り込む。
できることなら機密扱いにしてすぐに状況が把握できるような資料にしてほしいものだと考えながら。
次に手に取ったのは先日の暴風で破損した公共施設の補修予算の申請書だ。
しかしこれこそ通常業務で処理するような内容なのに、何故『相談役』の元にまで運ばれてくるのか。
何か深い意図があるのかと読み進めるも、最終的には彼の温情を求めての陳述書でしかなかった。
「まったく、私を何だと思っているのか」
溜息を零して呆れる。
横から口を挟む責任を彼が負わなくてはいけない理由もなければ、要・不要の判断も下せない。
不要物件であれば補修以前に取り壊すべきだし、順番待ちが発生するならそう伝えればいい。
画一的な対応ばかりでは組織運営はできないものの、各自が規律を守らなくなれば組織は崩壊してしまう、と却下の箱へ放り込んだ。
ただし関係部署に該当施設へ納得させられる説明を行うように、と知らぬ間に書き加えられていた。
次の資料を取り出した男は、ドアの前で立ち止まって短い黙考を挟んだ。
意を決して中へ入ると、いつものように決裁書や提案書が所せましと鎮座している。
元々こんなにも広い執務室は必要ない、と拒否したはずなのに、威厳や利便性を説かれて押し付けられてしまった。
執務室の主が決めた順番に整理整頓がなされているものの、結果的にこのサイズでなくては入らない『待ち』の仕事量にうんざりし、了承したことを軽く後悔してしまう。
むしろ今もなお秘書官は慌ただしく走り回り、執務室の資料を片っ端から持ち出しては積み直している最中だ。
どれだけ消化しても積み上がる仕事に、この世界には自分しか仕事をしている者が居ないのではないか、と錯覚してしまうほど。
一体どれだけ仕事を回せば気が済むのだろうか、と執務室の主は席について黙々と紙にペンを走らせながら誰に気付かれることもなく息を吐き出した。
怒涛の一カ月を終え、ようやく通常量の業務に戻って来た。
たった一週間席を外しただけで一人が忙殺されるなんてあってはならないのに、未だに改善されないところを見るとやはりこの国はもうダメではない、と諦めが走る。
気付かぬ間に執務室に入っていた秘書官を眺め、男はそういえばと声を掛けた。
「ネフィル、先日伝えたジギルの件はどうなっている?」
「はっ! 近隣国に警戒を促しております!」
男の言葉にビシリ、と姿勢を正してハキハキ返答する。
まるで軍隊の上官に対する所作だ。
「君は相変わらず硬いね?」
「そんなことはありません!」
この秘書官とももう半年ほども顔を突き合わせているのに、ちっとも態度が変わらない。
それはたしかに誠実ではあるのだが、ある意味で外様感を演出してしまうことに本人は気付いていない。
だから彼は少し意地悪をしてみることにしたらしい。
「なるほど、私の意見を否定するわけだね?」
「滅相もありません! 自分は超合金です!」
「まったく何を言っているのだね」
思っていたよりも斜めの返答に男の方が苦笑して折れてしまった。
結局、仕事でしか付き合いがないのだから、仕事の話をするのが建設的なのだろうと考えた男は「では隣国の反応はどうだった?」と続きを促した。
「賢者様の名前で『ジギルとの取引量調整』の通達を出しました。
各国とも生産・産出量ともに輸出力は低いため、ジギルに気取られることもありません。簡単には物資は集まらないことでしょう」
「いや、ちょっと待ちなさい。何故私の名前が使われている?」
「賢者様のご指示では?」
「ネフィル、何度も言うがね。私の言葉はあくまで『意見』でしかない。
もし鵜呑みにするならば、最初から私自身が国を興して王を名乗った方が良いだろう?」
「是非お仕えさせてください!!」
「……いや、私はそういうことを言っているのではなくだね?」
「何でもご命令ください賢者様!」
「どうしよう。話が通じない……」
思わず頭を抱える賢者は、現実逃避に目の前の問題に思索を巡らせる。
名を使われたのは釈然としないが、これで当面の問題は解決したのも事実だ。
ただこのことはジギルにもすぐに伝わるはずで、賢者への敵愾心は増すことになるだろう。
同時に事前に忠告した各国にも『賢者』の存在感は強く印象付けられてしまう。
これでさらにこの国の舵取りは、彼を利用した楽な外交へとシフトしていくだろう。
そう、賢者の名を出して押し通す、非常に一方的な外交が行われかねない。
「それで、ジギル国の動きは?」
「………?」
「その後の経過観察を行っていないのかね?」
「諜報からは続報がありません」
「定期連絡も?」
「『異常なし』とだけ」
「これはやられたな」
「やられた? 諜報部が潰されたと?」
「戦争を吹っ掛けようとして潰されたようなこの時期に『異常なし』なんて送ってくる諜報がまともなわけがない」
賢者は平然と言ってのける。
物資を集めていて、供給を断たれたはずのジギルに『異常なし』なはずがない。
もしも本当に変化が無いなら、刻々と戦争準備は進められているわけで、やはり異常だらけでしかない。
情報の取り違いの可能性も含めて考えても、諜報に何らかの問題が発生した公算は非常に高い。
「ともあれ隣国に注意喚起はしてあるから――」
賢者が安心材料を口にしようとした時――執務室の床に緑の線が走る。
懐かしい床の光を見た賢者の感想は、いささか早すぎるというものだった。
しかしこれを拒むいわれはない。
いや、むしろ歓迎したいほどでもある。
「まさかこれは?!」
「どうやら私はまた呼ばれてしまったようだよ」
ゆっくりと、しかしたしかに広がる新緑を思わせる光る、恐ろしく精緻な線を眺めて目を細める。
浅い色ながら強く灯る線に成長を感じて自然と頬が緩む。
賢者はまたも遭遇してしまった哀れな秘書官に向けて優しく声を掛ける。
「君は本当に間が悪い。私の留守を頼んだよ」
「そんなっ!?」
「あぁ、もう一つ。今度は少し長いかもしれないから心しておいてくれ、と伝えてくれるかな?」
「いやです、賢者様ぁっ!」
残酷な言葉を残して消えようとしていた賢者へ、ネフィルは間にある大きな執務机を飛び越えて縋るように掴み掛かった。
書類を撒き散らして迫るネフィルの暴挙に、落下を予測した賢者は反射的に抱き上げる姿勢を取ったかと思うと……執務室から忽然と姿を消した。
後に残るのは机の上に乗せられていた書類や分類棚が崩れ落ちる音だけがこだまする。
こうして賢者の不在は延長されてしまった。
周囲に見えない境界線があるように、彼の周囲はぽっかりと空いていて、ぶつかる心配は皆無だった。
それは左右に大量の資料が詰まった箱が追随しているためで、彼の片眼鏡の見つめる先には現在処理中の案件が浮遊していたからでもある。
「アイーネへの経済制裁? 立ち上がったばかりの貧困国のはずだが……」
浮遊していた一枚の書類を手にして呟きが漏れる。
添付されている情報は機密に属する国際情勢であり、今後の身の振り方を提示するもの。
国とは領土と民に法を敷いて秩序を保つ地域のことで勝手に主張するだけでは意味がない。
そんなことをすれば個人で勝手に国家を形成して収拾がつかなくなるため、結果的に互いに認め合ってようやく成り立つような制度を形成した。
しかし逆に言えば『他国』に認められさえすれば『国』となれるので、個人でも国を名乗れるという穴もあるのだ。
そしてそうした『強大な個人』は稀に現れ、先触れもなく国盗りを始めてしまったりもする。
国の戦力に匹敵する個人、国主トリニダード=ルル=ガルフが立ち上げた、今回のアイーネの件も同じ。
貧困に喘ぐ国々が密集している地域で『貧困の脱却』を掲げて一つの国を倒してのけた。
アイーネを名乗り、周辺国に武力を背景に認めさせると同時に併呑して勢力を拡大さた。
その手際の良さは背後で大国が糸を引いているなんて陰謀論を囁かれてしまう原因でもある。
しかし順調だったのも最初だけで、元々貧しい国をいくら呑み込んでも養う数が増える一方だ。
気付いた時には既に遅く、大きく育ってしまったアイーネは併呑した国々の文化が交わり切らず、いや、いっそぶつかり合ってしまって単なる紛争地帯へと様変わりしてしまった。
この後味の悪さも、そうした裏側の存在感を……というよりは、間違いなく経済大国が関わっている証左と言える。
これで新たな取引先が増え、また時代遅れの武器が売れるというものだ。
それでもまだトリニダード=ルル=ガルフ率いる中央政府は存在している。
一人で国の戦力を相手取れるのだから仕方ない部分はあるが、国とは組織であり個人ではない。
どれだけの問題に同時に対応し続けられるか、を問われ続ける以上、一人ではどうにもならないのだ。
そこに気付かず武力だけでどうにかしようとしているのでこんな泥沼に陥っているのだろう。
「……で、経済制裁? 貧困国相手に?」
と彼は歩みを止めずに首を傾げる。
経済制裁とは、国際貿易や外貨獲得が必要な相手にこそ意味があるが、今回の相手は貧困国だ。
技術力も特産物もないからこその貧困国であり、どちらかといえば『支援の打ち切り』が最初の一手になるはずだ。
しかし、アイーダはそもそも新興国であるため国際支援など行われていない。
となればこの『経済制裁』とは何を指すのか――
「あぁ、領土の販売禁止か?」
アイーダにとって膨れ上がった領土は邪魔以外の何物でもない。
また、まとめ上げた貧困国の周囲には、ある程度の経済力を持つ国があり、それらの国に領土割譲を名目に金を要求する懸念が出ているようだ。
たしかに本来なら戦争を含め、様々な手段で奪い合う領土を、金だけで手に入れられるのならば安いと考え、乗ってくる国も出てくるかもしれない。
先立って彼が販売禁止にサインすれば、大きな後ろ盾となり、周辺国もおいそれと取引に応じられない。
これはそういう意図を潜ませた通常決裁だということだ。
「そんなことをすれば領土問題がさらに複雑化するだけだろうに……」
と呟き、空中に浮かぶ書類に判を記して認可の箱に放り込む。
できることなら機密扱いにしてすぐに状況が把握できるような資料にしてほしいものだと考えながら。
次に手に取ったのは先日の暴風で破損した公共施設の補修予算の申請書だ。
しかしこれこそ通常業務で処理するような内容なのに、何故『相談役』の元にまで運ばれてくるのか。
何か深い意図があるのかと読み進めるも、最終的には彼の温情を求めての陳述書でしかなかった。
「まったく、私を何だと思っているのか」
溜息を零して呆れる。
横から口を挟む責任を彼が負わなくてはいけない理由もなければ、要・不要の判断も下せない。
不要物件であれば補修以前に取り壊すべきだし、順番待ちが発生するならそう伝えればいい。
画一的な対応ばかりでは組織運営はできないものの、各自が規律を守らなくなれば組織は崩壊してしまう、と却下の箱へ放り込んだ。
ただし関係部署に該当施設へ納得させられる説明を行うように、と知らぬ間に書き加えられていた。
次の資料を取り出した男は、ドアの前で立ち止まって短い黙考を挟んだ。
意を決して中へ入ると、いつものように決裁書や提案書が所せましと鎮座している。
元々こんなにも広い執務室は必要ない、と拒否したはずなのに、威厳や利便性を説かれて押し付けられてしまった。
執務室の主が決めた順番に整理整頓がなされているものの、結果的にこのサイズでなくては入らない『待ち』の仕事量にうんざりし、了承したことを軽く後悔してしまう。
むしろ今もなお秘書官は慌ただしく走り回り、執務室の資料を片っ端から持ち出しては積み直している最中だ。
どれだけ消化しても積み上がる仕事に、この世界には自分しか仕事をしている者が居ないのではないか、と錯覚してしまうほど。
一体どれだけ仕事を回せば気が済むのだろうか、と執務室の主は席について黙々と紙にペンを走らせながら誰に気付かれることもなく息を吐き出した。
怒涛の一カ月を終え、ようやく通常量の業務に戻って来た。
たった一週間席を外しただけで一人が忙殺されるなんてあってはならないのに、未だに改善されないところを見るとやはりこの国はもうダメではない、と諦めが走る。
気付かぬ間に執務室に入っていた秘書官を眺め、男はそういえばと声を掛けた。
「ネフィル、先日伝えたジギルの件はどうなっている?」
「はっ! 近隣国に警戒を促しております!」
男の言葉にビシリ、と姿勢を正してハキハキ返答する。
まるで軍隊の上官に対する所作だ。
「君は相変わらず硬いね?」
「そんなことはありません!」
この秘書官とももう半年ほども顔を突き合わせているのに、ちっとも態度が変わらない。
それはたしかに誠実ではあるのだが、ある意味で外様感を演出してしまうことに本人は気付いていない。
だから彼は少し意地悪をしてみることにしたらしい。
「なるほど、私の意見を否定するわけだね?」
「滅相もありません! 自分は超合金です!」
「まったく何を言っているのだね」
思っていたよりも斜めの返答に男の方が苦笑して折れてしまった。
結局、仕事でしか付き合いがないのだから、仕事の話をするのが建設的なのだろうと考えた男は「では隣国の反応はどうだった?」と続きを促した。
「賢者様の名前で『ジギルとの取引量調整』の通達を出しました。
各国とも生産・産出量ともに輸出力は低いため、ジギルに気取られることもありません。簡単には物資は集まらないことでしょう」
「いや、ちょっと待ちなさい。何故私の名前が使われている?」
「賢者様のご指示では?」
「ネフィル、何度も言うがね。私の言葉はあくまで『意見』でしかない。
もし鵜呑みにするならば、最初から私自身が国を興して王を名乗った方が良いだろう?」
「是非お仕えさせてください!!」
「……いや、私はそういうことを言っているのではなくだね?」
「何でもご命令ください賢者様!」
「どうしよう。話が通じない……」
思わず頭を抱える賢者は、現実逃避に目の前の問題に思索を巡らせる。
名を使われたのは釈然としないが、これで当面の問題は解決したのも事実だ。
ただこのことはジギルにもすぐに伝わるはずで、賢者への敵愾心は増すことになるだろう。
同時に事前に忠告した各国にも『賢者』の存在感は強く印象付けられてしまう。
これでさらにこの国の舵取りは、彼を利用した楽な外交へとシフトしていくだろう。
そう、賢者の名を出して押し通す、非常に一方的な外交が行われかねない。
「それで、ジギル国の動きは?」
「………?」
「その後の経過観察を行っていないのかね?」
「諜報からは続報がありません」
「定期連絡も?」
「『異常なし』とだけ」
「これはやられたな」
「やられた? 諜報部が潰されたと?」
「戦争を吹っ掛けようとして潰されたようなこの時期に『異常なし』なんて送ってくる諜報がまともなわけがない」
賢者は平然と言ってのける。
物資を集めていて、供給を断たれたはずのジギルに『異常なし』なはずがない。
もしも本当に変化が無いなら、刻々と戦争準備は進められているわけで、やはり異常だらけでしかない。
情報の取り違いの可能性も含めて考えても、諜報に何らかの問題が発生した公算は非常に高い。
「ともあれ隣国に注意喚起はしてあるから――」
賢者が安心材料を口にしようとした時――執務室の床に緑の線が走る。
懐かしい床の光を見た賢者の感想は、いささか早すぎるというものだった。
しかしこれを拒むいわれはない。
いや、むしろ歓迎したいほどでもある。
「まさかこれは?!」
「どうやら私はまた呼ばれてしまったようだよ」
ゆっくりと、しかしたしかに広がる新緑を思わせる光る、恐ろしく精緻な線を眺めて目を細める。
浅い色ながら強く灯る線に成長を感じて自然と頬が緩む。
賢者はまたも遭遇してしまった哀れな秘書官に向けて優しく声を掛ける。
「君は本当に間が悪い。私の留守を頼んだよ」
「そんなっ!?」
「あぁ、もう一つ。今度は少し長いかもしれないから心しておいてくれ、と伝えてくれるかな?」
「いやです、賢者様ぁっ!」
残酷な言葉を残して消えようとしていた賢者へ、ネフィルは間にある大きな執務机を飛び越えて縋るように掴み掛かった。
書類を撒き散らして迫るネフィルの暴挙に、落下を予測した賢者は反射的に抱き上げる姿勢を取ったかと思うと……執務室から忽然と姿を消した。
後に残るのは机の上に乗せられていた書類や分類棚が崩れ落ちる音だけがこだまする。
こうして賢者の不在は延長されてしまった。
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