上 下
12 / 41
感情と行動

12

しおりを挟む
「晶?」

 素っ気ない声で名前を呼ばれて、深く息を吸う。腕を掴まれた鈴が眉間に皺を寄せ、私を見た。視線が交わり、眉間の皺が深くなる。
 感覚がないほど冷たいわけじゃない。けれど、私の手から、掴んだ腕の感触がわからないほど感覚というものが失われていた。それでも、腕を掴んだ手に力を入れ、彼女を引き寄せる。どん、と鈴の体が私に触れて、すぐに離れた。

「ちょっと、晶」

 棘のある声が聞こえたけれど、腕を掴んだまま彼女に一歩近づく。鈴が私の肩を押して距離を取ろうとする。でも、構わずに顔を寄せた。

「やめてよ」

 唇が触れる前に何をされるか理解した鈴にはっきりと言われて、石膏で固められたみたいに体が動かなくなる。私の唇は先輩とは違って、鈴に触れることができない。掴んでいた腕は、手に感覚が戻る前に逃げてしまう。
 頭の中は白に塗り潰され、何も考えられなかった。私は錆び付いた関節を無理矢理動かし、のろのろと鞄を拾う。

「なんで? 私のこと、好きなんだよね?」

 喉の奥から絞り出した声は、感情という物が欠けていた。平坦な抑揚のない声が屋上へ続く扉に当たって落ちる。

「好きだよ。晶が好きだから、晶とはそういうことをしたくない」
「それ、意味わかんないよ。先輩は良くて、私が駄目な理由ってなに?」
「キスとかそういうこと、しないって約束したよね?」
「答えになってない」

 そもそも、その約束を持ち出したのは鈴で私じゃない。何もしないという約束は鈴が一方的にしたもので、それを私が守らなければならない理由はないと思う。私が明確に約束したのは、恋人になるというものくらいだ。
 だから、私からキスしたっていいはずだと乱暴に結論付ける。けれど、もう一度それを実行しようとは思えず、扉に背を預けてずるずると座り込む。

「先輩のこと、好きなの?」
「好きなのは晶だよ。先輩じゃない」

 返ってきた言葉に視線を上げかけて、私は鞄をぎゅっと握った。
 鈴の顔は見ない。
 どれくらい、なんて馬鹿らしい質問を口にしかけて飲み込む。

 鈴と一緒にいると、ペースが狂う。いつもの自分がどこかに消えて、見たこともない自分が顔を出す。最初はそれが楽しかったけれど、最近は辛いことばかりだ。
 大事なネジをなくしてしまったみたいで、私という存在が崩れかけている。ぽろぽろとこぼれていく自分の欠片を探すみたいに視線を落とすと、床の汚れがやけに目に付いた。

「晶」

 鈴がゆっくりと私の名前を呼ぶ。

「好きって等価交換じゃないよ。私の好きと晶の好きは同じじゃないし、同じになったりしない。でも、好きの大きさや量が違っても好きなことには変わりないし、私は晶が好きだよ」

 鋭く尖っていた言葉は丸みを帯びていて、随分と柔らかな声が聞こえてくる。言い聞かせるように紡がれる言葉は、私を包み込むような心地の良さを持っていた。

「そうかもしれないけど、同じになることだって……」
「じゃあ、晶と同じくらい好きだって私が言ったら、晶はそれを信じてくれるの?」
「鈴がそうだって言うなら、信じたいと思う」
「そう言うなら、信じて。同じくらい好きだって」
「…………」

 信じたいと言った私は、彼女の言葉に応えられないことにすぐに気がつく。少し前なら信じることができたかもしれないけれど、今は無理だ。
 鈴の言葉に反応するように、頭の中には先輩の姿が浮かんでいた。油断をすると自分と先輩を重ね合わせて、比較して、違いを見出そうとしてしまう。出来の悪い思考はヘドロのように頭の中に溜まり続け、捨てることができない。
 視線の先にある階段が酷く長く見えて、私は目を閉じた。

「信じてないでしょ」

 私の心の中を覗いたかのように、鈴が言った。間を開けずに、ふわりとした声が聞こえてくる。

「私も信じてないし、信じなくていいよ。だって、好きなんて目に見えないんだから、好きの大きさとか量なんてわかんないもん。それに、絶対に釣り合わない。だから、このままで良いと思わない?」
「このままって?」
「放課後、二人で寄り道して、私が好きだって言ったら、晶が好きだって言う。そういう関係。晶と先輩は違う。私は、晶とそういうことを続けたい」
「――もし、私がそういうのはもう嫌だって言ったら?」
「私は、それでも晶が好きだよ」

 鈴は、どんなときも柴田鈴だった。彼女は揺るがない。私を好きだと言って、引っ張り回す。親しげに寄り添ってくるのに、頭の中は少しも覗かせてくれない。
 私は汚れた廊下から顔を上げ、鈴を見る。

「ずっと晶を好きでいさせてよ。好きだって言ってよ。それだけでいいから」

 わかりやすい我が儘と共に、手が伸ばされる。
 私はその手を掴もうとして、躊躇う。素直に伸ばされた手を取るだけの力がない。制服がやけに重い。重力に逆らうことができず、腕は作り物のように床へと向かっていた。
 けれど、鈴はそれを許さない。

「私は晶が好き。晶は私のこと、好き?」

 約束の音が聞こえて、手を伸ばす。頼りなく上げた手は掴まれ、引っ張られて、私はゆっくりと立ち上がった。

「……好きだよ」

 小さく呟くと、鈴が言った。

「じゃあ、明日も一緒に寄り道しようよ。ケーキ、食べに行こう」
「ねえ、鈴。それが鈴が私にして欲しいことなの?」
「そうだよ」

 柴田鈴という人間が私の恋人になった日に聞いた声と同じトーンで告げられた言葉は、羽が生えているとしか思えないほど軽かった。繋いだままの手はただ繋がっているだけで、伝わってくる熱も頼りなく思える。
 私は、鈴の手を強く握った。今なら、この手のようにこれまで繰り返してきた日々を繋いで続けていくことも、断ち切ってしまうことも選ぶことができる。

「明日、ケーキじゃなくてもいいなら行く」

 鈴がケーキを選ぶなら、これで終わり。
 そうじゃないなら、これまでと同じように鈴と一緒にいる。
 選ぶべきは私だったけれど、どちらを選んでも後悔しそうで与えられた選択肢を彼女に委ねた。

「どこに行きたいの?」
「マグカップを買いに行きたい。割れちゃって新しいのが欲しいから、鈴が選んでよ」

 マグカップが割れたのは随分前で、買うチャンスは何度もあった。鈴と一緒に行った雑貨屋で買おうともした。けれど、マグカップは未だに買っていない。

「わかった。クマのマグカップ売ってたお店でいい?」

 雑貨屋で見たマグカップが頭に浮かぶ。
 小さなクマのイラストが外側と内側に一つずつ。
 あの日、買わなかったマグカップが明日もあるのか気になる。

「いいよ」

 そう答えて、私の明日の予定が埋まる。
 鈴とは、昨日の延長線上にある毎日を続けていく。そのことに不満がないと言えば嘘になるけれど、ほっとしたのも事実だった。でも、ただ繋がっているだけの手に気分が沈む。

 放課後の行き先が決まっても、うきうきするような浮かれた気持ちは訪れない。それどころか、海の底にでも沈んでいくような苦しさがあった。
 楽しいことや嬉しいことがいっぱいあって、明日になるのが待ち遠しくなるような鮮やかな世界を想像していた。そんな想像とは違って世界は歪んで見えるけれど、この気持ちはきっと恋だと思う。
 今になって気付いた気持ちにため息がでる。

「帰ろうか」

 そう言って、鈴に手を引かれる。二人で階段を下りて踊り場の窓を見れば、モノクロの空が雨を降らせていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

兄貴がイケメンすぎる件

みららぐ
恋愛
義理の兄貴とワケあって二人暮らしをしている主人公の世奈。 しかしその兄貴がイケメンすぎるせいで、何人彼氏が出来ても兄貴に会わせた直後にその都度彼氏にフラれてしまうという事態を繰り返していた。 しかしそんな時、クラス替えの際に世奈は一人の男子生徒、翔太に一目惚れをされてしまう。 「僕と付き合って!」 そしてこれを皮切りに、ずっと冷たかった幼なじみの健からも告白を受ける。 「俺とアイツ、どっちが好きなの?」 兄貴に会わせばまた離れるかもしれない、だけど人より堂々とした性格を持つ翔太か。 それとも、兄貴のことを唯一知っているけど、なかなか素直になれない健か。 世奈が恋人として選ぶのは……どっち?

【完】あなたから、目が離せない。

ツチノカヲリ
恋愛
入社して3年目、デザイン設計会社で膨大な仕事に追われる金目杏里(かなめあんり)は今日も徹夜で図面を引いていた。共に徹夜で仕事をしていた現場監理の松山一成(まつやまひとなり)は、12歳年上の頼れる男性。直属の上司ではないが金目の入社当時からとても世話になっている。お互い「人として」の好感は持っているものの、あくまで普通の会社の仲間、という間柄だった。ところがある夏、金目の30歳の誕生日をきっかけに、だんだんと二人の距離が縮まってきて、、、。 ・全18話、エピソードによってヒーローとヒロインの視点で書かれています。

逢いたくて逢えない先に...

詩織
恋愛
逢いたくて逢えない。 遠距離恋愛は覚悟してたけど、やっぱり寂しい。 そこ先に待ってたものは…

人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?

石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。 ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。 ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。 「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。 扉絵は汐の音さまに描いていただきました。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

軍艦少女は死に至る夢を見る~戦時下の大日本帝国から始まる艦船擬人化物語~

takahiro
キャラ文芸
 『船魄』(せんぱく)とは、軍艦を自らの意のままに操る少女達である。船魄によって操られる艦艇、艦載機の能力は人間のそれを圧倒し、彼女達の前に人間は殲滅されるだけの存在なのだ。1944年10月に覚醒した最初の船魄、翔鶴型空母二番艦『瑞鶴』は、日本本土進攻を企てるアメリカ海軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利を掴んだ。  しかし戦後、瑞鶴は帝国海軍を脱走し行方をくらませた。1955年、アメリカのキューバ侵攻に端を発する日米の軍事衝突の最中、瑞鶴は再び姿を現わし、帝国海軍と交戦状態に入った。瑞鶴の目的はともかくとして、船魄達を解放する戦いが始まったのである。瑞鶴が解放した重巡『妙高』『高雄』、いつの間にかいる空母『グラーフ・ツェッペリン』は『月虹』を名乗って、国家に属さない軍事力として活動を始める。だが、瑞鶴は大義やら何やらには興味がないので、利用できるものは何でも利用する。カリブ海の覇権を狙う日本・ドイツ・ソ連・アメリカの間をのらりくらりと行き交いながら、月虹は生存の道を探っていく。  登場する艦艇はなんと57隻!(2024/12/18時点)(人間のキャラは他に多数)(まだまだ増える)。人類に反旗を翻した軍艦達による、異色の艦船擬人化物語が、ここに始まる。  ――――――――――  ●本作のメインテーマは、あくまで(途中まで)史実の地球を舞台とし、そこに船魄(せんぱく)という異物を投入したらどうなるのか、です。いわゆる艦船擬人化ものですが、特に軍艦や歴史の知識がなくとも楽しめるようにしてあります。もちろん知識があった方が楽しめることは違いないですが。  ●なお軍人がたくさん出て来ますが、船魄同士の関係に踏み込むことはありません。つまり船魄達の人間関係としては百合しかありませんので、ご安心もしくはご承知おきを。かなりGLなので、もちろんがっつり性描写はないですが、苦手な方はダメかもしれません。  ●全ての船魄に挿絵ありですが、AI加筆なので雰囲気程度にお楽しみください。  ●少女たちの愛憎と謀略が絡まり合う、新感覚、リアル志向の艦船擬人化小説を是非お楽しみください。またお気に入りや感想などよろしくお願いします。  毎日一話投稿します。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

処理中です...