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第三話 平和の代償
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ダリアはゆっくりと、瞼を開いた。
見慣れた天蓋。窓から差し込む夕陽。使い慣れた枕と、ベッドの感触。
夫婦の寝室で寝かされていたようだ。まだぼんやりとする脳で、倒れる前の記憶を辿る。
「目が覚めたか。具合はどうだい、ダリア」
ベッドの端に腰掛けたジョセフが手を伸ばし、ダリアの髪を額から耳のほうへと優しく流す。その背後には、心配そうに覗き込むローシェンナの姿があった。
「なんともない……と思う。それより、その……子どもたちには……」
「大丈夫。君が倒れたのは皆が大広間を出た後だった。秘密は、守られているよ」
ジョセフの言葉に「そうか」と安堵する。
いつかこの秘密が明るみに出る日が来るとしても、きっと今ではない。少なくともダリアは、そう思っていた。
「しかし、あまり不在にしては皆が困るだろう。執務室に……」
起き上がろうとしたダリアの肩を、二つの腕が素早く抑え込んだ。眼前には、涙を瞳いっぱいに溜めた、ローシェンナの顔。
「いけません、ダリア様。島主家の仕事はちゃんと回っています。そのためにエルを呼び戻したのでしょう?私もできる限りのことはします。ジョセフ様もいらっしゃいます」
ローシェンナは崩れ落ちるように、ダリアに少し体重をあずけ、その身に抱き着くように覆いかぶさる。
「ダメです。ぜったいに、ダメです。倒れる頻度が以前より明らかに増えています。シディアたちは彼のもとに行かせたのでしょう?お願いします、その間だけでもどうか休んでください。ダリア様に何かあったら、私は……」
お願いします、と消え入りそうな声でもう一度懇願し、ローシェンナはダリアの胸元に顔を埋めた。肩を掴む両手が震えている。
ふぅ、と短く息を吐き、ダリアは微笑んだ。
まったく。出会ったあの日からどんなに立派に成長しても、大人になり人の親になっても、こういうところは変わっていない。
器用で、俊敏で、しっかり者で、そして泣き虫な少女のままだ。
「わかった、休むよ。あとは頼んでいいか、ロシェ」
ポンポン、と結い上げた赤いお団子を叩くと、ローシェンナは俯いたまま頷く。
「お任せください」
涙声でそう言いながらも、部屋を出ていく背中から、泣き虫な少女は消えていた。
「どう思う、ジョセフ」
「ああ、記録を見ても倒れる頻度は増えてる。ローシェンナの言う通りだよ」
ジョセフは白衣からノートを取り出し、ページをめくった。
何事もメモを取るのはジョセフの癖である。
対象に興味を持ち、観察し、記録し、納得のいく答えが出るまで研究する。
今でこそ天才発明家、などと言われてはいるが、もともと彼は生粋の研究者であった。
その彼が、妻の異常事態をただ黙って見ているなどあり得ない。
既に手は尽くしていた。研究者では畑違いだと分かっていても、諦めたことはなかった。
しかし専門家でなくともわかるほど、ダリアの身体は徐々に、確実に蝕まれている。
これが、平和の代償。
魔王を封印した勇者が受ける「呪い」なのだ。
「嫌な、予感がするんだ」
ダリアは神妙な顔で天蓋を見つめ、手を伸ばす。
夫ジョセフと、三人の子どもたち。もはや姉妹同然のローシェンナに、その家族。
島主家の使用人たち、島民たち。かつての冒険で世話になった者たち。
守りたいものはたくさんあるのに、この手はどうしてこんなに小さいのだろう。
それでも。
(あたしは、強欲な勇者なんだ。ひとつも取りこぼしてたまるか)
*****
夢を、見た。
地に倒れ込む姉オリヴィア。
その身を沈痛な面持ちで抱き抱える、姉が師匠と慕う男。
オリヴィアの柔らかで豊かな胡桃色の髪が、地面に流れるように広がる。
だらりと投げ出された白い腕から、生気は感じられない。
「姉さん!」
駆け寄りたいのに、足は泥に埋まっているかのように重たくて。
手を伸ばせば伸ばすほど、光景は遠のいていく。
「ねぇ、シディア」
いつの間にか隣に立っていたアリスが、震える声で話しかけてくる。
「姉様、大丈夫だよね……?」
「あの人はそんなやわじゃない。俺とアリスが一番よく知ってるだろ」
平静を装い、妹の手を握った。先に取り乱すわけにはいかないと、兄としてのプライドが顔を出す。汗ばんでいるのが自分の手か、妹の手か、シディアには判別がつかなかった。
無事なのだろうか。無事であってほしい、という想いが心臓の鼓動を速める。
いったい、オリヴィアが何をしたというのだろう。
ずっと島のために、世界のために闘ってきた。
平和な世を願い、「聖女」なんて仰々しい呼び名も笑って受け入れて、崇拝に近い期待を一身に背負って、ただただ人々のために尽くしてきた。それなのに。
シディアの心を猛烈な悔しさが襲う。
力があれば、と思った。自分が強くあれば、姉のように皆を守れる力があれば、きっと姉が傷つくことはなかった。妹が肩を震わせて泣くこともなかったのだと。
にわかに、動かぬオリヴィアの身体を黄金の光が包んだ。
光は徐々に収束し、体を離れ、輝く光の玉となって宙を漂う。
ふわふわとこちらに向かって飛んできたそれがアリスの顔の前で止まった。輝きが強まり、視界が白くなっていく。
「頼む。俺だって守りたいんだ」
口が勝手に動き紡いだ言葉に、驚いたのはシディア自身だった。
表情どころか顔の無い光の玉と、なぜか目が合った───気がした。
*****
「ここいらは波で揺れるよ、坊ちゃんたち!割れ物には注意してくんなァ」
御者の陽気な声で目を覚ました。
微かに聞こえる、蹄が水面を蹴る独特の音で、ここがケルピー船の中だということを思い出す。
くわぁ、と口から欠伸が漏れ出た。ぼんやりとした視界が更に滲んで、もう一度夢の中に戻りたくなる。どんな夢を見ていたか、さっぱり思い出せないけれど。
「割れ物はとくにないけど、荷物が放り出されちゃったらヤバイよね。シディア、これ持ってて」
「ええ……これアリスの荷物だろ」
「いいから、ちゃんと持っててよ」
これは従ったほうがいいパターンだ、と悟ったシディアは二度寝を諦め、大人しくトランクの持ち手を握った。基本は無邪気で素直な妹だが、言い出すと聞かない一面もある。そして機嫌を損ねると少なからず面倒なのだ。
「見て!なんか跳ねた!わーー、ヤバくない?なんの魚かな?知らない水魔だったりする?ヤバイ楽しい!」
何でも「ヤバイ」と表現してしまうのはアリスの口癖でもあり、語彙力の無さでもあり、それだけ興奮しているという指標でもある。
幼い子どものようにはしゃぐアリスにいたたまれない気持ちになり、反対側の窓に目をやった。
客は兄妹だけであるとわかっていても、少々恥ずかしかった。これでは「初めて島外に出た子ども」丸出しだ。たしかにシディアも興奮してはいるのだが、二人してはしゃぐのはなんだか気が引ける。
ケルピー船とは、馬に似た水魔であるケルピー───正しくはケルピーの亜種だが、一般的に区別はされていない───が引く、主に移動用の船のことだ。
ケルピー「船」という名称ではあるが、その「船」のかたちはシディアたちが乗っている小さな馬車型から、数十人が乗れる大型の物まで様々だ。馬車型はケルピー船の中では最古であり、誰もが知る一般的なかたちと言える。
最近は大型の豪華客船風ケルピー船も出てきたと聞くが、シディアはお目にかかったことがない。船員は複数人必要だろうし、肝心のケルピーも、馬車型と同じ二頭なんかじゃ当然足りないのだろう。
海面を蹴り軽やかに走るケルピーたちの青いたてがみを見つめていたシディアの肩を、アリスが興奮したように叩く。
「ねぇ、こんだけ走っても、まだ小さく見えてるよ、うちの島!」
数時間は走ったはずだが、確かにまだ見える範囲に、シディアたちの島は佇んでいた。
ベーヌス島。
別名───針山島。
港に面した居住区以外のほとんどが、針のように尖った山々で覆われている。
シディアたちの住む街───首都ベーヌス以外にも、小さな居住区が僅かに存在しているが、住みやすい環境とは言えないと聞く。大陸に近いほどの広さに対して、人口が少ないのはそのためだ。
島内でも行ったことのない場所だらけなのは、首都ベーヌスから出る手段が水路しかないからである。
ぐらり。大きめの波にケルピー船が揺れる。
トランクを慌てて持ち直したシディアの表情は「期待に胸膨らませる少年」そのものであった。
第三話 平和の代償 <終>
見慣れた天蓋。窓から差し込む夕陽。使い慣れた枕と、ベッドの感触。
夫婦の寝室で寝かされていたようだ。まだぼんやりとする脳で、倒れる前の記憶を辿る。
「目が覚めたか。具合はどうだい、ダリア」
ベッドの端に腰掛けたジョセフが手を伸ばし、ダリアの髪を額から耳のほうへと優しく流す。その背後には、心配そうに覗き込むローシェンナの姿があった。
「なんともない……と思う。それより、その……子どもたちには……」
「大丈夫。君が倒れたのは皆が大広間を出た後だった。秘密は、守られているよ」
ジョセフの言葉に「そうか」と安堵する。
いつかこの秘密が明るみに出る日が来るとしても、きっと今ではない。少なくともダリアは、そう思っていた。
「しかし、あまり不在にしては皆が困るだろう。執務室に……」
起き上がろうとしたダリアの肩を、二つの腕が素早く抑え込んだ。眼前には、涙を瞳いっぱいに溜めた、ローシェンナの顔。
「いけません、ダリア様。島主家の仕事はちゃんと回っています。そのためにエルを呼び戻したのでしょう?私もできる限りのことはします。ジョセフ様もいらっしゃいます」
ローシェンナは崩れ落ちるように、ダリアに少し体重をあずけ、その身に抱き着くように覆いかぶさる。
「ダメです。ぜったいに、ダメです。倒れる頻度が以前より明らかに増えています。シディアたちは彼のもとに行かせたのでしょう?お願いします、その間だけでもどうか休んでください。ダリア様に何かあったら、私は……」
お願いします、と消え入りそうな声でもう一度懇願し、ローシェンナはダリアの胸元に顔を埋めた。肩を掴む両手が震えている。
ふぅ、と短く息を吐き、ダリアは微笑んだ。
まったく。出会ったあの日からどんなに立派に成長しても、大人になり人の親になっても、こういうところは変わっていない。
器用で、俊敏で、しっかり者で、そして泣き虫な少女のままだ。
「わかった、休むよ。あとは頼んでいいか、ロシェ」
ポンポン、と結い上げた赤いお団子を叩くと、ローシェンナは俯いたまま頷く。
「お任せください」
涙声でそう言いながらも、部屋を出ていく背中から、泣き虫な少女は消えていた。
「どう思う、ジョセフ」
「ああ、記録を見ても倒れる頻度は増えてる。ローシェンナの言う通りだよ」
ジョセフは白衣からノートを取り出し、ページをめくった。
何事もメモを取るのはジョセフの癖である。
対象に興味を持ち、観察し、記録し、納得のいく答えが出るまで研究する。
今でこそ天才発明家、などと言われてはいるが、もともと彼は生粋の研究者であった。
その彼が、妻の異常事態をただ黙って見ているなどあり得ない。
既に手は尽くしていた。研究者では畑違いだと分かっていても、諦めたことはなかった。
しかし専門家でなくともわかるほど、ダリアの身体は徐々に、確実に蝕まれている。
これが、平和の代償。
魔王を封印した勇者が受ける「呪い」なのだ。
「嫌な、予感がするんだ」
ダリアは神妙な顔で天蓋を見つめ、手を伸ばす。
夫ジョセフと、三人の子どもたち。もはや姉妹同然のローシェンナに、その家族。
島主家の使用人たち、島民たち。かつての冒険で世話になった者たち。
守りたいものはたくさんあるのに、この手はどうしてこんなに小さいのだろう。
それでも。
(あたしは、強欲な勇者なんだ。ひとつも取りこぼしてたまるか)
*****
夢を、見た。
地に倒れ込む姉オリヴィア。
その身を沈痛な面持ちで抱き抱える、姉が師匠と慕う男。
オリヴィアの柔らかで豊かな胡桃色の髪が、地面に流れるように広がる。
だらりと投げ出された白い腕から、生気は感じられない。
「姉さん!」
駆け寄りたいのに、足は泥に埋まっているかのように重たくて。
手を伸ばせば伸ばすほど、光景は遠のいていく。
「ねぇ、シディア」
いつの間にか隣に立っていたアリスが、震える声で話しかけてくる。
「姉様、大丈夫だよね……?」
「あの人はそんなやわじゃない。俺とアリスが一番よく知ってるだろ」
平静を装い、妹の手を握った。先に取り乱すわけにはいかないと、兄としてのプライドが顔を出す。汗ばんでいるのが自分の手か、妹の手か、シディアには判別がつかなかった。
無事なのだろうか。無事であってほしい、という想いが心臓の鼓動を速める。
いったい、オリヴィアが何をしたというのだろう。
ずっと島のために、世界のために闘ってきた。
平和な世を願い、「聖女」なんて仰々しい呼び名も笑って受け入れて、崇拝に近い期待を一身に背負って、ただただ人々のために尽くしてきた。それなのに。
シディアの心を猛烈な悔しさが襲う。
力があれば、と思った。自分が強くあれば、姉のように皆を守れる力があれば、きっと姉が傷つくことはなかった。妹が肩を震わせて泣くこともなかったのだと。
にわかに、動かぬオリヴィアの身体を黄金の光が包んだ。
光は徐々に収束し、体を離れ、輝く光の玉となって宙を漂う。
ふわふわとこちらに向かって飛んできたそれがアリスの顔の前で止まった。輝きが強まり、視界が白くなっていく。
「頼む。俺だって守りたいんだ」
口が勝手に動き紡いだ言葉に、驚いたのはシディア自身だった。
表情どころか顔の無い光の玉と、なぜか目が合った───気がした。
*****
「ここいらは波で揺れるよ、坊ちゃんたち!割れ物には注意してくんなァ」
御者の陽気な声で目を覚ました。
微かに聞こえる、蹄が水面を蹴る独特の音で、ここがケルピー船の中だということを思い出す。
くわぁ、と口から欠伸が漏れ出た。ぼんやりとした視界が更に滲んで、もう一度夢の中に戻りたくなる。どんな夢を見ていたか、さっぱり思い出せないけれど。
「割れ物はとくにないけど、荷物が放り出されちゃったらヤバイよね。シディア、これ持ってて」
「ええ……これアリスの荷物だろ」
「いいから、ちゃんと持っててよ」
これは従ったほうがいいパターンだ、と悟ったシディアは二度寝を諦め、大人しくトランクの持ち手を握った。基本は無邪気で素直な妹だが、言い出すと聞かない一面もある。そして機嫌を損ねると少なからず面倒なのだ。
「見て!なんか跳ねた!わーー、ヤバくない?なんの魚かな?知らない水魔だったりする?ヤバイ楽しい!」
何でも「ヤバイ」と表現してしまうのはアリスの口癖でもあり、語彙力の無さでもあり、それだけ興奮しているという指標でもある。
幼い子どものようにはしゃぐアリスにいたたまれない気持ちになり、反対側の窓に目をやった。
客は兄妹だけであるとわかっていても、少々恥ずかしかった。これでは「初めて島外に出た子ども」丸出しだ。たしかにシディアも興奮してはいるのだが、二人してはしゃぐのはなんだか気が引ける。
ケルピー船とは、馬に似た水魔であるケルピー───正しくはケルピーの亜種だが、一般的に区別はされていない───が引く、主に移動用の船のことだ。
ケルピー「船」という名称ではあるが、その「船」のかたちはシディアたちが乗っている小さな馬車型から、数十人が乗れる大型の物まで様々だ。馬車型はケルピー船の中では最古であり、誰もが知る一般的なかたちと言える。
最近は大型の豪華客船風ケルピー船も出てきたと聞くが、シディアはお目にかかったことがない。船員は複数人必要だろうし、肝心のケルピーも、馬車型と同じ二頭なんかじゃ当然足りないのだろう。
海面を蹴り軽やかに走るケルピーたちの青いたてがみを見つめていたシディアの肩を、アリスが興奮したように叩く。
「ねぇ、こんだけ走っても、まだ小さく見えてるよ、うちの島!」
数時間は走ったはずだが、確かにまだ見える範囲に、シディアたちの島は佇んでいた。
ベーヌス島。
別名───針山島。
港に面した居住区以外のほとんどが、針のように尖った山々で覆われている。
シディアたちの住む街───首都ベーヌス以外にも、小さな居住区が僅かに存在しているが、住みやすい環境とは言えないと聞く。大陸に近いほどの広さに対して、人口が少ないのはそのためだ。
島内でも行ったことのない場所だらけなのは、首都ベーヌスから出る手段が水路しかないからである。
ぐらり。大きめの波にケルピー船が揺れる。
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