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雪解けの始まり

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フミさんとのお茶会の1か月後。

桜が咲き乱れ、新しい季節に差し掛かろうとしていた。

なんとなく自分の中で答えが出た気がしたので
学校を終えて帰宅をし、久しぶりにバイオリンを弾いてみた。

幼少期からずっと一緒に育ってきたバイオリンを5か月以上も弾かなかったのはこれが始めてだ。

普通、春になって夏に差し掛かり暖かくなってきているのでそんなに長い期間触らなかったら弦が緩んでしまっているものだが、
日々の習慣というものだろうか。

手入れだけは欠かさずやっていたのでバイオリンは綺麗に保存されていた。
ゆっくり丁寧に調弦から始める。

部屋に幼少期からの歴代のバイオリンが飾られおり、自分を作ってきたものに日々見守られてきた。
自分はこんなに大きくなったんやなあと今のバイオリンを見てしみじみと感じる。

そうだ。自分は日々成長している。
それは一番自分がよくわかっている。
そうだろう?
何を迷っていたのだろうとほんの少しだけ気持ちが吹っ切れた気がした。

弦をバイオリンにあてて音を奏でる。
曲目はヘルガーの愛の挨拶。
幼少期に初めて舞台の上で弾いた曲目。
あの時の高揚感、緊張感。
すべて手に取るように思い出せた。

俺が自信を無くしたのはどこからやったろうか?
確か、バイオリンの先生に自分の音楽をすべて否定されたことだった気がする。

譜面通りに弾いて好きな曲は弾いてはいけない。
君には才能があるからこの曲を弾きなさい。
私の言うことが聞こえないのですか?

あの時言われた言葉が頭の中を巡り、くらくらするが負けじと弾く。

2年前に口うるさい先生が病気で亡くなり、実は心底ほっとした。
今までできなかった曲の編曲、譜面の編曲、すべてやった。
音楽がまた楽しいと感じたのも、BARで弾き始めたのも、そのころだった。

でも、心にずっと抱えてた影は消えなかった。
自分はダメ人間だったと長い間思い込まされてきた低い自尊心が顔を出しては
隠して生きてきた。

やっと、やっと、あの異国の青年のおかげで向上心が生まれた気がする。

負けたくない。

自分の生活に音楽がないなんて信じられない。

わかっていたはずなのに逃げていたことを悔やみ、反省する。

久しぶりに音楽喫茶にでも行こうか。と少しだけ軽やかになった足取りで部屋から出ると
母親が涙を流して立っていた。

「やっと、やっと、音楽をしてくれる気になったんね」

「母さん、心配かけてごめん。でもまだわからへん、俺。本当に音楽続けていいのかどうか」

「あんたの部屋からバイオリンが聞こえなくなってどれだけ、どれだけ心配したか」

「ほんまにごめんな、心配かけて」

「思い詰めてることがあるなら相談したらええやん」

「出来んかってん。ほんまにめんどくさい性格してるのう、俺」

「あんたは昔からそう、弱音を吐かない性格やったしなあ」

「だからってせんせにまでわざわざ相談しに行かんでええやろ。びっくりしたわ」

「あら、話されてたん?恥ずかし」

「恥ずかしいならせんせに相談なんかせんとったらええやろやかましい」

「あんたもちいとは親心ってもんをのお。まあええわ。音楽喫茶行くんやろ。その前に夕飯だけ食べてったらええやん」

「わかった」

今日の母親の手料理はほんの少しだけしょっぱい気がした。

音楽喫茶に久方ぶりに顔を出すと常連客みんなに出迎えられた。
なしたん?心配してたんやで!と口々に声をかけられる。

「すまんな。ちいと体調崩しててん」

「あほ抜かせえ。せんせが毎日学校来とる言うとったで」

「せやせや。何事もなく学校には来るし課題もちゃんとこなすけど顔は暗い言うてたで」

「最近せんせ、ちとやつれたよなあ?」

「アキラ、お前心配かけたるなよせんせに」

俺に話したことをどうやら常連客に白状したようだ。
相変わらず過保護な先生やなあと苦笑してしまう。

「ほら、みんなお前のことちゃんと待ってたぞ」

マスターにそういわれ、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになってしまう。

「久しぶりに弾くけど何がええ?」

バイオリンをケースの中から取り出すとみな口々にリクエストが来る。

「ま、春やしなあ。ヴェートーベンの春にしよか」

リクエストの中から春をチョイスし、ゆっくりと弾き始める。
暖かい日差しの中で穏やかに流れる川のような音。
鳥のさえずる音のなどののどかな風景が弾きながら浮かんでくる。

豊かな自然の恵みを想像しながらバイオリンで1音1音丁寧に弾いていく。

すべてを弾き終わった後、音楽喫茶のみんなの顔を見ると、呆気にとられたような顔をしていた。

「な、なしたん?」

沈黙の中、音楽喫茶のマスターがゆっくりと口を開く。

「いや、お前、音が全然ちゃうで」

「え!?調弦してきたはずなんやけど!?」

「そういう意味やない。音に深みが増してる。自分の過去と心としっかり向き合ってきたものにしか奏でられない、そんな音」

「……せやったんかな」

自分の本心とこの半年前、確かにずっと向き合ってきた。

ずっと楽しんで音楽を続けてきたけれど、いつも心の奥底では自分にはもったいない、まだまだと
人からの賛辞を受け入れてこなかった。

自分には才能がないとあの日の出来事で悟ったと思い込んでいた。

「居場所があるってええもんなんやな」

「せやせや!あんたはやればできるんやからやったらええのに!」

少し酔っぱらっている赤いドレスに身を包んだ常連の女性。

「ありがとな。誉め言葉は受け取っとくけど水ちゃんと飲んでや」

誇らしげにほほ笑み、常連に注意するアキラとそれを見て笑う常連。
アキラの心の雪解けが少しずつ、少しずつ始まっていた。
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