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氷柱

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・・・


あれから、幾日か経ち。
恭一郎は、小雪の様子がおかしいことに、もちろん気がついていた。

無理もない。
ここしばらく、実に様々なことが彼女の身に起きた。
雪狐と名乗る妖怪との出会いに始まり、何年も兄だと信頼しきっていた男から告白されたと思ったら、淡い恋心を抱いていた男からは再会を拒まれ――憧れから恋へと移り変わったのが怪しい相手に――本人は否定してくれるだろうが――奪われたのだ。

小雪の性格からして、宣言どおりにじっとしてなどいないだろうし、彼女自身の意思だと言ってくれるのも分かっている。
しかし、どうあっても、混乱と悲しみでごちゃまぜの感情につけこんだのは事実で、否定のしようも、またするつもりも全くなかった。
だから、小雪がこの身を心配してくれて、ぎゅっとしがみつくのも、ごく普通の反応だと思っていたのだが。

(……そういえば)

このところ、あの狐の姿がない。
小雪といない時も、何だかんだと小言を言いに現れていたのに。

「……まさか……」

小雪に頼み込まれ、あの扉を開けようとしているのでは?
どこまで彼女が、記憶を取り戻したのかは分からない。
恐らく、要となる部分はバレていないはずだ。
そうだとしても、それらの端々を繋ぎ合わせ、彼女なりにあの時起きた概要を察しているのでは――。

「小雪……!! 」

女性の部屋に入るには、あまりに乱暴だったかもしれない。
だが、それは要らぬ心配だ。
部屋のどこを見回しても、思った通り小雪の姿はなく。
怯えてみせてくれたのは、もともとこの邸にいた者だけで、長閑は無表情に座ったままだ。

「……狐もいないな。どこへ行った? 」

「……っ、申し訳ありません。でも、私は再三お止めして……」

謝罪が聞きたいのではない。
小雪はたまたま席を外していて、すぐに戻ってくる――そう言ってほしいだけだ。

「既にご存じなのではありませんか。だから、そうして必死に探していらっしゃる。……ここでそうお尋ねになるのは、時間の無駄です」

長閑にしては低く、抑揚のない声だ。
無礼だと声を上げそうな女に手で不要だと告げ、長閑の目を見つめたが、彼女はけして怯まなかった。
いつからか、自分に対して一歩下がってしまうことも増えたもう一人の妹を、残念に思うことも多かった。
だが、今の彼女はどうだ。
引くどころか、寧ろ詰め寄るくらいの覚悟すら感じる。

「なぜ……」

「止められるわけがありませんわ。いいえ、あの子を止められる人間こそ、どうかしている。だって、恭一郎様。小雪は貴方を救いたくて飛び出して行ったのですもの」

どちらが主を軽んじているのだと、長閑は暗に、しかし分かりやすく皮肉ると側の女はぐっと詰まっている。

「私が車を用意させました。そうでもしないと、小雪は自分の足でも、無理なら這ってでもそこへ行ってしまいます。一縷の望みというにも足りない、僅かなものを求めて」

長閑が正しいのだ。
そのとおり、小雪なら這いつくばってでもその場所へ向かうだろう。
自惚れを承知で言うなら、大切に想ってくれるこの男の為に。

「……狐も一緒か? 」

長閑の言うように、ここに小雪を止められる者はいまい。
小雪はここで、この世界で確かに愛されているのだ。

「いいえ、あの子は一人で向かいました。その後、雪狐も煙のようにいなくなって」

小雪は、雪狐にも頼らなかったのか。

強くなった。
いや、強くあろうと、自分の足で立ち、動かねばと。
一緒に裏庭に行こうなどと、もう自分を誘ってくれることもないのだろう。

頼ってくれたら、よかったのに。
自分を助けようと飛び出したのに、こう思うのは矛盾しているか。
それでも、頼って甘えてくれたなら。
そうでないと、小雪の方が儚く解けてしまいそうで恐ろしくなる。

「出掛けてくる」

「……恭一郎様」

確かに、こうしていても時間の無駄だ。
万が一にも、扉が開いてしまったら。
何かの原因で、二度とこちらへ帰ってこられなくなったら――。
そんなことは許さないと、あの日誓ったのだ。
何者だろうと、そんなことは絶対にさせない。

「あの子の幸せに必要なものは、夢ではなかった。小雪はようやくそれに気づいて、取り戻そうと頑張っています。……病のことは、お二人の力だけではどうにもならないのかもしれない。かなりの幸運だって、ご加護だってないと難しいのかもしれません。でも」

――それを、貴方が壊したりしないで。

壊したいものか。
助けたくて、守りたくて、あの日小雪をおぶっていたはず。
その後、抱いたままけして離さなかったことを、正当化するつもりは毛頭ないけれども。



結局、ここに戻ってくるのか。
忌々しいと思っていた、この裏庭に。
ここに未練があるのは、自分の方だった。
大事なものを仕舞いこみ、大切なものから遠く隠して。

だから、進めない。
そんな必要はないのだと、二人でいられるなら、どんな形であろうと幸せだと。
彼女に告げずにそう決めつけるのは、あまりに勝手だと知っていながら。

「……さ……」

《……医師殿》

ともかく、小雪を連れて帰らなければ。
まだ、雪の深いこの季節。
幼い頃の記憶がもう何度目か蘇り、彼女の名前を呼ぼうとした瞬間に遮られた。

《どうするおつもりですか》

「お前こそ、どういうつもりでここにいる。後を追ったのなら、どうして止めない」

小雪は、きっとこの先にいる。
あの大樹の下、風雪に身体を冷やしながら。
あの扉が開くのを待つだけではいられず――泣きながら祈っているのかもしれない。

《私には、姫を見守る義務も責任もあります。何より、私がそうしていたい。……けれど、姫の想いを踏み潰す権利は持ちませぬ》

長閑と似たようなことを言い、辛そうに冷たい土へ目を落とした。
だが、これではいけないと言うようにすぐさま顔を上げると、こちらを鋭く睨んでくる。

《いつまで、ここに踞っているつもりですか。貴方の病は治らないかもしれない。それでも、可能性とも言えない仄かな光を信じて、懸命に探している人がいるのです。……昔の貴方は、それをあれほど求めたというのに》

可能性――そんなものは、無いに等しい。
しかし、小雪はここに賭けたのだ。
おかしな夢や、神隠し。
それに、この前久しぶりに二人で訪れた時、確かにここは光り輝いていた。
小雪が期待し、信じてみたくなるのも無理はない。

《聡い貴方のことです。ほぼすべて承知のうえで、姫を優先する選択をしてきたことでしょう。……けれど、何にせよ、残された時間は少ない。扉が開こうと開くまいと……何ぞ、費えようと。酷なようですが、そろそろ向き合うべきです。本当に、あの姫を想うのならば》

酷い言い方だが、腹は立たなかった。
雪狐の言うように、この命が費えるのにもうそれほど長くはかからない。

《恭一郎殿》

彼にその名を呼ばれたのは、いつが最後だっただろうか。
驚きのあまり、せっかく彼女の方へ向かった足が止まってしまう。

《貴方の姫への愛情は、ずっと見てきた私が一番よく知っています。こう言うと、貴方は心外かもしれませんけれどね。あまりに危うすぎて目が離せないほど、貴方の想いはある意味真っ直ぐすぎる。……でもね、貴方はもう少し、夢を見たっていいのですよ》

狐の優しい細目から目を逸らす。
――行かなくては。
甘い夢なら、もう十分味わったのだから。

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