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氷柱

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「……ほら、そんなに目を擦るな。もう十分、赤くなっている」

瞼や、目の辺りの皮膚の感覚がおかしい。
ヒリヒリするようで、何も感じない気もする。
擦りきれてしまいそうな目尻に残った水滴を、触れるか触れないか分からないくらいそっと拭ってくれた。

「……っ、いつからですか……? いつから、そんな……病名は……? 」

唇が震えて自分でもよく聞き取れなかったのに、訊かれることはそれしかないと察してくれたのだろうか。

「詳しくは不明だ。……本当に。症状が似ているものもいくつかあるが、はっきりしない。これが他の者なら、呪いだ祟りだと騒ぐのだろうが、私はそんなものを信じていないしな。せっかく友人に陰陽師がいるというのに、医術で治せと言われてしまった」

どこにも行かせないと、いつの間にかぎゅっと恭一郎様の着物を握りしめていた。
もう何も隠そうとはせず、好きにさせてくれながらも、上からその手を包み込まれた。

「……ただ、恐らく治癒は難しいだろうと。何だかはっきりしないのだから、どうしようもないのだ。もちろん、だからと言って、何もしないわけではないが……あまり、効果はなくてな」

繋がれた手は熱く、震えていて。
ああ、そうだったんだ。
恭一郎様の手が、こんなふうに震えたのは――確かに以前にもあった。
もう何度思ったか知れない、「どうして」を心の中で繰り返した。

だから、だったのだ。
いくら恭一郎様が私のことで手段を選ばないとは言っても、ここ最近の変化はあまりに大きかった。
兄妹ではなくなったことや、告白されたこと、同時期に夢を見る頻度が上がったこと――私は、そんなことに頭を悩ませるばかりで。
巧妙に隠されたとしても、きっと感じ取れた異変に気がつくことができなかった。

「……でも……!! 絶対に何かあるはずです!! これからは、私も一緒に方法を探しますから。だから、だから……」

(諦めないでください。どうか、お願いだから)

そのお願いは、実際に病魔と闘う本人にとって酷だろう。
どこまで自分勝手なのだと罵りながらも、そう乞わずにはいられない。

「ああ、そうだな。頼りにしている……と言いたいところだが、あまり無茶をしないでくれ。お前が今度は何を仕出かすだろうと心配するのは、正直余程寿命が縮む」

不謹慎だ、冗談でも言っていけないことがあると言ってみたかった。
でも、それは紛れもなく本音。
これまでもずっと、私が大丈夫だからと笑って何かをやらかす度、そんな思いだったのだ。ううん、もしかしかしたら、本当に――。

「……小雪」

「……ごめんなさい。でも、私どうしても嫌です。あなたがいなくなるのを、ただ黙って待っているだなんて。絶対、絶対……受け入れられない」

返事をしないでいることに焦れたのか、静かに、しかし強い口調で名を呼ばれた。
それでも、想いは変わらない。
今は熱いこの手が、いつか変わってしまうだなんて、どうして耐えられるだろうか。

「恭一郎様だって、消えようとした私を引き留めたじゃないですか。私だって、全力で止めます。たとえ、御仏の意思とは違っても、私は絶対にあなたをただ行かせたりなんてしたくありません」

たとえ、どんなに神聖な使いが現れたとしても、たとえ、どんなにそこが素晴らしいところだったとしても。
私はこの人を連れて行かれたくないのだ。
そのせいで、私だけ別のところへ堕ちることになったとしても構わない。
恭一郎様が元気になって、少しでも長く一緒にいさせてもらえた後なら。

今まで当たり前にあったものが、これほど突然儚くぼやけてしまうなんて。

(……でも、やっぱり諦められない)

「私の気持ちを、分かってもらえて何よりだ」

「はい。……とても、はっきりと」

だって、まだここにいてくれる。
まだ、こうして触れて、温もりを感じさせてくれる。どんなに朧でも、確かに。

恭一郎様は冗談にしたがるけれど、この状況では無理な話だった。
何より、私は本当にはっきりと知ってしまったのだ。
恐ろしい期限がもうすぐそこに迫っているという頃になって、やっと……こんなにも明確に。

「私は、夢や憧れに拘りすぎていたんですね。もうずっと、あんなにしがみついていたくせに、比べてみれば簡単に手離せたものだったなんて」

狂っていたのは、私の秤の方だ。
いや、量ることすら思いつきもしなかった。
もう何年も、兄様の反対を押し切って夢の正体を暴こうとしていたのに。
不思議な体験をして、雪狐に出会った今になって、あの子との再会も諦めることができた。――それは、これに比べたらずっと……楽なことだったのだ。

「でも、だめです。恭一郎様のことは、私、諦められない」

そうか。
だから、あんなにも心臓の音を聴くのが切なかったのだ。
耳を傾けるのが怖くなるのに、それでも確めずにはいられない。

「……小雪。そう言われては、さすがに私も誤解……」

苦く笑ったのは、私に逃げ道を与える為だ。――知ってる、けど。

「好き、です。本当は好きだったのに……馬鹿ですね。いつだって、私は失いそうになってからしか……それがどれほど大切なのか気づけなくて」

――その優しさは、もう受け取らない。

せめて、この気持ちだけでも、もっと早く気がついていたら。
そう思えば思うほど、とっくに男性として好きなのだと今頃強く刻み込まれる。

「……まだ、ここにある」

好きなのだ。
そうでなければ、この人は兄様だと言い張っていればよかったのだ。
それができず、名前で呼ぶことを躊躇う時点で、この気持ちが何であるのか明白だった。

「私は、こうなることを恐れていた。お前が病のことを知って、私を受け入れようとするのを。そうだとしても、私はそれすら利用せずにはいられないから」

もう何度目だろう。
遠慮がちに頬を留めた指が、離す頃合いを探すように僅かに往復するのも。
でも、たとえ離れていこうとしたって、私はもう迷わない。

「恭一郎様は、私の気持ちを利用なんてできませんよ。あまり、見くびらないでください」

抵抗しないどころか、自分から上向いたのはその指のせいではない。私自身の意思だ。

「それすら、私の思惑どおりかもしれないぞ。だが、私がどうしてお前を見くびれる? こうも、やられっぱなしだというのに」

諦めたのは、私を操ることだと言って。
どうか、ここにあるのだけは諦めないで。

「困ったな。これに見合う情報を、私はお前に差し出せるかどうか」

代わりに囁かれた言葉は、希望とは異なる。
なのに、それを予感したとたんにすぐさま赤く染まった耳を、何とも愛しげに見られ。
耳の側面から耳朶へと触れていく手は、やはりとても熱かった。

「……いかないで。それだけ」

そう、たったそれだけ。
他にそれだけ欲しいものはなかったのに、悟って初めて思い知るのだ。

「……難しいな」

掴まえておかなくちゃ。
そう思って手を伸ばすと、いつも一歩手前で消えてしまうと。

鬼ごっこだって、そう。
私が捕まえることができたのは、きっと自分よりも大きな背中が止まったままでいてくれたから。
それにそもそも、私は鬼の経験はあまりなかった。

必死で何かを追いかけたことが、ずっとなかったんだ。

「言ったじゃないですか。私、絶対にあなたを諦めません。どんなに難しくたって、絶対に」

ぎゅっとしがみつけば、「調子がいいな」と笑う。本当にそうだ。
だって、私はこれまで逃げてばかりだった。

「そういえば、どうして邸に戻られたのですか? 途中で、お加減が悪くなったとか」

「いや。何となく、あいつの行動に気を配ってはいたのだ。ここ最近、特にお前のことを知りたがっていたからな」

最初は、覚えのある妹の頭を撫でるように。
次第に、赤くなった頬を隠す髪にちょっとだけ苛立つように、耳へと掛けるようにすかれた。

「……じゃ……もうお勤めに戻るのですか? 」

「お前にそうまで言われたら、戻る気も失せた。……まったく、女人は……というか、お前は恐ろしいな。兄でいては見れない顔が、こんなにもあるのか」

私だって、自分で信じられない。
でも、今は照れよりも、何が何でも離したくないという気持ちの方が勝っている。
いずれ失ってしまうかもしれないと思うと、怖くて怖くて――恥ずかしがっている暇などないと焦ってしまうから。

「……そういえば、一彰が言っていたのを思い出した」

それで、どうするつもりなのだと見上げれば、まるでたった今思い出したと嘘っぽく言った。

「今日は、あちらは方角が悪い。……つまり、方忌みだ」

嘘でしかあり得ない、嬉しい言い訳。
生真面目なこの人らしくなく、一瞬ぽかんとしてしまったけれど、クスクスと笑ってしまう。

「陰陽師殿が言うなら、仕方ありませんね」

「ああ。致し方ないことだ」

再び降りてきた唇は、先程よりも落ち着いて――どこか、とても急いている。
それでいて、やっぱり優しいのが私の涙を誘う。
それはまるで、どうせこの先、これほど悲しいことはないのだからと言われているようだ。
だからと言って、こんなにも溢れてしまえば、目を閉じたまま器用に拭ってくれる指先まで冷やしてしまう。

――本当に、そんな暇はないの。
どんなに赤く腫らしていたって、この目を必死で開いていなくちゃ。

もっともっと、ずっと――この温もりを感じていたい。
どうかお願いだから、こんなにも急がなくてもいいのだと教えて。
そう懇願する一方で、私もまた真っ白な世界に包まれながら、何も考えられずに急いているのだ。
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