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第二章 闇の闘士
第十三節 ダブルノックダウン
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山瀬は帯の両端を持って手を交差し、縄跳びをするように正面に放り投げた。帯が作る輪の内側に治郎の頭を入れ、左右の手を引く。帯が治郎の頸に巻き付いた。
治郎は帯を掴んで頸から引き剥がそうとするが、腰を落とした山瀬が掛ける体重には敵わない。打撃なら兎も角、純粋なパワーなら柔道家の山瀬が上である。
山瀬も必至だ。治郎に背中を向けて帯を引く姿は、巨木にチューブを巻いて背負い投げの稽古をする柔道家のそれである。
背中合わせの男たちが、腰を落として膠着している。
しゅぅぅぅ~~~~……と、治郎の唇の間から息が漏れる。
治郎の両腕の血管が、破裂寸前までぱんぱんに膨れ上がった。治郎が身体を正面に折ると、山瀬が僅かに持ち上がって、張り詰めた帯にたるみが出来る。
だが、それで何になるのか。治郎が頸と帯の間に指を入れていたとしても、武道家が自らの実力を証明すべく着用する帯が、千切れよう筈もない。
山瀬は治郎の最後の空しい抵抗に対し、自身も全力で応えるべく息を吸った。
だが、帯のたるみをすぐに解消しなかったのが、反撃のチャンスを生んだ。
ほぼ直立になった山瀬の背後で、治郎もすっと背筋を伸ばしている。背丈はほぼ同じで、肩甲骨が触れ合うような距離である。
治郎は右足を持ち上げた。弧を描いた右足は、背骨と平行になり、自身の耳の横を通り抜け、返った中足を山瀬の後頭部に激突させたのである。
山瀬の意識が一瞬途切れて、帯を掴む力が緩む。
山瀬は鼻先からマットに倒れた。ぐちゃ、という音がして顔の下から赤い液体が染み出してゆく。
治郎も背中から倒れた。喰い縛った歯の隙間から、ぶくぶくとピンク色の泡を吹き出して、眼球を裏返して失神している。
ダブルノックダウン──
会場に、真の沈黙が訪れた。
間もなく、山瀬が血の池から顔を持ち上げて生還した。治郎は倒れたままだ。
山瀬が立ち上がり、握り込めない拳を掲げて勝ち名乗りを上げた。
オクタゴンへ向けて、会場の者たちが一斉に試合終了の声を浴びせ掛けた。
「この役立たずが。みっともない負け犬だ、てめぇは」
控室で意識を取り戻した治郎に、小川は罵声を浴びせ続けた。
山瀬がオクタゴンから出た後、治郎は選手の運搬の為に持ち込まれていた戸板に乗せられて控室に運び込まれ、予め準備していたスタッフによって処置を行なわれた。
治郎は戸板の上で上体を起こし、ぼぅっとしている。
「どうたった、治郎。初めての“暗黒プロレス”は」
榎本司が小川を黙らせ、訊いた。
治郎は答えなかった。
どう答えれば良いのか、分からない。
敗けたらしいが、悔しくはない。敗けた時に意識がなかったからだろう。
いや。
悔しさはある。
自分を敗けさせたのであろう山瀬という男への、憎しみもある。
だが小川たちにいたぶられた時のように、すぐにでも復讐してやろうという黒々とうねる情動は、沸いて来ない。
加瀬とか島田という男たちをぶちのめした後の爽快感と、直後に見た明石雅人と桃城達也との戦いで冷水を浴びせられた気分と、自分の蹴りを受けてもけろりとしていた紀田勝義を見た何とも言えない無力感とがない交ぜになって、巧く出力させられない。
「まぁ、良いわい」
池田享憲が杖を突いて立ち上がった。
「治郎、お主はこれで、儂に借りを作った事になる。今回の取引で、池田組は云千万の損失を出したでな。ま、今日の客入りはそこそこじゃったし、お主への小遣いもだいぶ貰えたから、多少は眼を瞑ってやれるがな」
池田が顎をしゃくると、渋々小川が傍に置いていたアタッシュケースを広げた。
洗面台をいっぱいに出来るくらいの札束が詰め込まれている。治郎が敗けた為に組が出した損失を、違法試合の入場料と選手への個人的なファイトマネーで賄うシステムだ。
「これからは“暗黒プロレス”以外でも働いて貰うぞ。なに、やる事はお主の望むがままじゃ。幾らでも強い奴らと戦わせてやるでな……」
行くぞ、と池田享憲は言った。それに小川が続き、榎本が続く。
治郎は戸板から起き上がると自分の服を掴み、覚束ない足取りのまま三人に続いて控室を出て、黒服に案内されて駐車場まで向かった。
やって来たのと同じ黒塗りの高級車に乗り込んで、榎本道場まで戻った頃には、すっかり夜が明けていた。
治郎は帯を掴んで頸から引き剥がそうとするが、腰を落とした山瀬が掛ける体重には敵わない。打撃なら兎も角、純粋なパワーなら柔道家の山瀬が上である。
山瀬も必至だ。治郎に背中を向けて帯を引く姿は、巨木にチューブを巻いて背負い投げの稽古をする柔道家のそれである。
背中合わせの男たちが、腰を落として膠着している。
しゅぅぅぅ~~~~……と、治郎の唇の間から息が漏れる。
治郎の両腕の血管が、破裂寸前までぱんぱんに膨れ上がった。治郎が身体を正面に折ると、山瀬が僅かに持ち上がって、張り詰めた帯にたるみが出来る。
だが、それで何になるのか。治郎が頸と帯の間に指を入れていたとしても、武道家が自らの実力を証明すべく着用する帯が、千切れよう筈もない。
山瀬は治郎の最後の空しい抵抗に対し、自身も全力で応えるべく息を吸った。
だが、帯のたるみをすぐに解消しなかったのが、反撃のチャンスを生んだ。
ほぼ直立になった山瀬の背後で、治郎もすっと背筋を伸ばしている。背丈はほぼ同じで、肩甲骨が触れ合うような距離である。
治郎は右足を持ち上げた。弧を描いた右足は、背骨と平行になり、自身の耳の横を通り抜け、返った中足を山瀬の後頭部に激突させたのである。
山瀬の意識が一瞬途切れて、帯を掴む力が緩む。
山瀬は鼻先からマットに倒れた。ぐちゃ、という音がして顔の下から赤い液体が染み出してゆく。
治郎も背中から倒れた。喰い縛った歯の隙間から、ぶくぶくとピンク色の泡を吹き出して、眼球を裏返して失神している。
ダブルノックダウン──
会場に、真の沈黙が訪れた。
間もなく、山瀬が血の池から顔を持ち上げて生還した。治郎は倒れたままだ。
山瀬が立ち上がり、握り込めない拳を掲げて勝ち名乗りを上げた。
オクタゴンへ向けて、会場の者たちが一斉に試合終了の声を浴びせ掛けた。
「この役立たずが。みっともない負け犬だ、てめぇは」
控室で意識を取り戻した治郎に、小川は罵声を浴びせ続けた。
山瀬がオクタゴンから出た後、治郎は選手の運搬の為に持ち込まれていた戸板に乗せられて控室に運び込まれ、予め準備していたスタッフによって処置を行なわれた。
治郎は戸板の上で上体を起こし、ぼぅっとしている。
「どうたった、治郎。初めての“暗黒プロレス”は」
榎本司が小川を黙らせ、訊いた。
治郎は答えなかった。
どう答えれば良いのか、分からない。
敗けたらしいが、悔しくはない。敗けた時に意識がなかったからだろう。
いや。
悔しさはある。
自分を敗けさせたのであろう山瀬という男への、憎しみもある。
だが小川たちにいたぶられた時のように、すぐにでも復讐してやろうという黒々とうねる情動は、沸いて来ない。
加瀬とか島田という男たちをぶちのめした後の爽快感と、直後に見た明石雅人と桃城達也との戦いで冷水を浴びせられた気分と、自分の蹴りを受けてもけろりとしていた紀田勝義を見た何とも言えない無力感とがない交ぜになって、巧く出力させられない。
「まぁ、良いわい」
池田享憲が杖を突いて立ち上がった。
「治郎、お主はこれで、儂に借りを作った事になる。今回の取引で、池田組は云千万の損失を出したでな。ま、今日の客入りはそこそこじゃったし、お主への小遣いもだいぶ貰えたから、多少は眼を瞑ってやれるがな」
池田が顎をしゃくると、渋々小川が傍に置いていたアタッシュケースを広げた。
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「これからは“暗黒プロレス”以外でも働いて貰うぞ。なに、やる事はお主の望むがままじゃ。幾らでも強い奴らと戦わせてやるでな……」
行くぞ、と池田享憲は言った。それに小川が続き、榎本が続く。
治郎は戸板から起き上がると自分の服を掴み、覚束ない足取りのまま三人に続いて控室を出て、黒服に案内されて駐車場まで向かった。
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