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第六章 その名は蛟
第十節 ごち、そう…さま
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治郎が、いずみが起きた気配を察知しながらも布団の中にいると、鼻孔をくすぐる匂いがあった。
味噌汁だ。
それに、炊き立てのご飯の匂いもする。
フライパンの上で油が弾けて、割り入れた卵が固まってゆく音も聞こえた。
治郎を起こしたいずみは、台所へ戻ってゆく。
「お布団、畳んで干して置いてねー。今日は天気が良いからねぇ。それから、テーブルも用意してね!」
いずみが台所から言った。
カーテンを開け放って見れば、中天に達した太陽が真っ直ぐに射し込んで来る。治郎は陽射しの眩しさと、そして空の蒼さに眼を細めた。
ベランダの物干し竿に、いずみに言われた通り布団を干した治郎は、テーブルも部屋の中央に持って来て、その場に腰を下ろしていた。
「お待たせー、お腹空いたでしょ」
いずみが小さなお盆に乗せて持って来たのは、ご飯茶碗とみそ汁のお茶碗、ご飯をよそった深めのお皿と、みそ汁を入れたマグカップ、卵焼きを載せた平皿だ。納豆のパックが二つに、乾燥ネギの小袋も二つ。透明な皿には切り分けた林檎があった。
「ごめんね、お客さん用の器とかお箸とか、用意してなくて……」
割り箸を受け取った治郎は、文句を言う事はなかった。
「頂きます」
治郎とテーブル越しに向かい合って、いずみが手を合わせる。治郎も包帯できつく縛り付けた手で、同じようにした。
いずみは納豆にタレとカラシと乾燥ネギを入れ、そつなく掻き回すのだが、治郎はタレの袋を破ればこぼれ、カラシを指にべったりとくっつけ、掻き回そうとすると箸でパックの底を突き破ってしまう。
箸の持ち方も下手で、平皿から卵焼きを取ると畳に落としてしまった。
「治郎くん、手、痛む?」
加瀬の顔を殴打した時、手の骨が折れていたのではなかっただろうか。いずみは心配して訊いたのだが、治郎は首を横に振った。
ならば、本当に箸の持ち方が分からないのだろう。それ以外も、マナー講座で教壇に立つ人間が見たら、発狂しかねないくらいに行儀が悪かった。
それも治郎にとっては、必要のない事なのだろう。
いずみは治郎に箸の持ち方くらいは教えてやりたかったが、治郎にまた自分を莫迦にされていると思わせては悪いと、黙っている事にした。
畳にご飯粒をこぼし、口の端や茶碗の外側を伝ったみそ汁でシャツを汚しながら、治郎は食事を終えた。
「ごち、そう……さ、ま」
「お粗末さま。美味しかった?」
「ん……」
治郎は小さく、手で拭った顎を引いた。いずみは薄く微笑んで、食器を片付け始める。
普段の食事の量からすると物足りないが、それを口に出す程の図々しさも語彙力も、治郎は持っていない。
また、窓の外を眺めていた。
食器の片付けを終えたいずみが、治郎の背中に声を掛ける。
「治郎くん、私、お店に行って来るね。昨日の今日じゃ、流石に営業出来ないし、でも来てくれる人がいたら悪いから……あ、若し人が来ても、出ちゃ駄目よ。若しかしたら池田組の人かもしれないから。お布団も仕舞って、少し息苦しいかもしれないけど、窓の鍵とカーテンも。良い? 治郎くんはまだ、あの人たちに狙われているんだから、目立つような事、しちゃ駄目よ」
いずみは治郎に詰め寄って、有無を言わせぬ勢いで捲し立てた。治郎はその様子に何となく玲子を思い出しながら、彼女以上の強制力を感じた。
「それじゃあ、大人しくしていてね。そうだ、あれだけじゃ物足りないでしょ? 何か美味しいもの、買って来るから楽しみに待ってて!」
いずみはそう言うと、アパートの玄関から出て行った。治郎は、窓を閉め、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で暫くぼぅっとしていたが、日課のトレーニングをしていないのを思い出した。
流石にハードなトレーニングは出来ないし、昨夜の疲労も残っているので、柔軟運動に終始する事になった。
立ち上がった治郎は、足を左右に開いてゆき、そのまま股間を床に着ける事が出来る。当然、身体を前に倒して胸を付ける事も容易だ。ヨーガの行者のように、足をうなじに引っ掛ける事も可能である。
直立した状態で、片足を天井に向かって上げ、手で固定する事なく身体と平行に保つ事も難しくない。その上で眼を瞑って、何分か姿勢を保つ事さえこなしてしまった。
体力を消費しないようにやっていたが、続けている内に身体が更なる負荷を求めるようになり、補強トレーニングこそ行わないものの、治郎の身体は薄っすらと汗を掻き始めていた。
治郎が、いずみが持っていた男物のシャツとスウェットが汗だくになっているのに気付くのと、カーテンの隙間から射し込む光がなくなっているのを感じたのは、殆ど同時であった。
夜から明け方までやっている店に出勤した訳ではないいずみが、この時間までに帰って来ない事への違和感を覚えた治郎は、箪笥から大柄のジャケットを取り、アパートから飛び出した。
味噌汁だ。
それに、炊き立てのご飯の匂いもする。
フライパンの上で油が弾けて、割り入れた卵が固まってゆく音も聞こえた。
治郎を起こしたいずみは、台所へ戻ってゆく。
「お布団、畳んで干して置いてねー。今日は天気が良いからねぇ。それから、テーブルも用意してね!」
いずみが台所から言った。
カーテンを開け放って見れば、中天に達した太陽が真っ直ぐに射し込んで来る。治郎は陽射しの眩しさと、そして空の蒼さに眼を細めた。
ベランダの物干し竿に、いずみに言われた通り布団を干した治郎は、テーブルも部屋の中央に持って来て、その場に腰を下ろしていた。
「お待たせー、お腹空いたでしょ」
いずみが小さなお盆に乗せて持って来たのは、ご飯茶碗とみそ汁のお茶碗、ご飯をよそった深めのお皿と、みそ汁を入れたマグカップ、卵焼きを載せた平皿だ。納豆のパックが二つに、乾燥ネギの小袋も二つ。透明な皿には切り分けた林檎があった。
「ごめんね、お客さん用の器とかお箸とか、用意してなくて……」
割り箸を受け取った治郎は、文句を言う事はなかった。
「頂きます」
治郎とテーブル越しに向かい合って、いずみが手を合わせる。治郎も包帯できつく縛り付けた手で、同じようにした。
いずみは納豆にタレとカラシと乾燥ネギを入れ、そつなく掻き回すのだが、治郎はタレの袋を破ればこぼれ、カラシを指にべったりとくっつけ、掻き回そうとすると箸でパックの底を突き破ってしまう。
箸の持ち方も下手で、平皿から卵焼きを取ると畳に落としてしまった。
「治郎くん、手、痛む?」
加瀬の顔を殴打した時、手の骨が折れていたのではなかっただろうか。いずみは心配して訊いたのだが、治郎は首を横に振った。
ならば、本当に箸の持ち方が分からないのだろう。それ以外も、マナー講座で教壇に立つ人間が見たら、発狂しかねないくらいに行儀が悪かった。
それも治郎にとっては、必要のない事なのだろう。
いずみは治郎に箸の持ち方くらいは教えてやりたかったが、治郎にまた自分を莫迦にされていると思わせては悪いと、黙っている事にした。
畳にご飯粒をこぼし、口の端や茶碗の外側を伝ったみそ汁でシャツを汚しながら、治郎は食事を終えた。
「ごち、そう……さ、ま」
「お粗末さま。美味しかった?」
「ん……」
治郎は小さく、手で拭った顎を引いた。いずみは薄く微笑んで、食器を片付け始める。
普段の食事の量からすると物足りないが、それを口に出す程の図々しさも語彙力も、治郎は持っていない。
また、窓の外を眺めていた。
食器の片付けを終えたいずみが、治郎の背中に声を掛ける。
「治郎くん、私、お店に行って来るね。昨日の今日じゃ、流石に営業出来ないし、でも来てくれる人がいたら悪いから……あ、若し人が来ても、出ちゃ駄目よ。若しかしたら池田組の人かもしれないから。お布団も仕舞って、少し息苦しいかもしれないけど、窓の鍵とカーテンも。良い? 治郎くんはまだ、あの人たちに狙われているんだから、目立つような事、しちゃ駄目よ」
いずみは治郎に詰め寄って、有無を言わせぬ勢いで捲し立てた。治郎はその様子に何となく玲子を思い出しながら、彼女以上の強制力を感じた。
「それじゃあ、大人しくしていてね。そうだ、あれだけじゃ物足りないでしょ? 何か美味しいもの、買って来るから楽しみに待ってて!」
いずみはそう言うと、アパートの玄関から出て行った。治郎は、窓を閉め、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で暫くぼぅっとしていたが、日課のトレーニングをしていないのを思い出した。
流石にハードなトレーニングは出来ないし、昨夜の疲労も残っているので、柔軟運動に終始する事になった。
立ち上がった治郎は、足を左右に開いてゆき、そのまま股間を床に着ける事が出来る。当然、身体を前に倒して胸を付ける事も容易だ。ヨーガの行者のように、足をうなじに引っ掛ける事も可能である。
直立した状態で、片足を天井に向かって上げ、手で固定する事なく身体と平行に保つ事も難しくない。その上で眼を瞑って、何分か姿勢を保つ事さえこなしてしまった。
体力を消費しないようにやっていたが、続けている内に身体が更なる負荷を求めるようになり、補強トレーニングこそ行わないものの、治郎の身体は薄っすらと汗を掻き始めていた。
治郎が、いずみが持っていた男物のシャツとスウェットが汗だくになっているのに気付くのと、カーテンの隙間から射し込む光がなくなっているのを感じたのは、殆ど同時であった。
夜から明け方までやっている店に出勤した訳ではないいずみが、この時間までに帰って来ない事への違和感を覚えた治郎は、箪笥から大柄のジャケットを取り、アパートから飛び出した。
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