80 / 232
第六章 その名は蛟
第八節 組織の男
しおりを挟む
三年前の水門市にも、蛟の姿はあった。
眼鏡の奥にガラスよりも冷たい瞳を隠した美青年が初めて姿を現したのは、勝義会の事務所となっているアミューズメントホテル”SHOCKER”であった。
明け方まで、建物の中では多くのフロアが店を開いていた。ゲームをやる店、女を抱く店、ダンスを踊る店、シャブを売ったり買ったりする店、そして酒を飲む店。
桃城達也を、渋江杏子の追跡に送り出した紀田勝義は、キャバレーのフロアで大きな身体をどっかりとソファに乗せ、美しく、煽情的に着飾った女たちを侍らせて、酒を飲んでいた。
殆ど紐のような衣装で局部をどうにか隠しているだけの女の尻を揉み、がっつりと開いた襟元から見える乳房の谷間に札束をねじ込み、一番高い酒を頼んでは女たちに振る舞っている。
その眼の前に、蛟が現れた。
「紀田会長、少し、お話をしても、よろしいですか」
「誰だ、お前は」
紀田は座った眼で、蛟に言った。
「桃城達也が敗けました」
蛟はいきなり、そう告げた。
紀田勝義は眉を顰めた。
「何だと……さては、お前が桃城の言っていた……?」
紀田はシャンパンボトルの首を掴んで逆さに持ちながら、立ち上がろうとした。
蛟は首を左右に振った。
「美野秋葉のディスクを持っている女……渋江杏子を守った男ではありませんよ」
美野秋葉の名前が出た途端、女たちの顔が強張った。彼女は市内のクラブで働いており、この中には秋葉のいた店から引き抜かれて来たホステスもいる。秋葉がこの紀田勝義によってどのような目に遭わされたのか知らぬ者はいないし、それを口に出す者もいない。
「場所を変えよう」
「酒が不味くなりますか。自分で肛門を引き裂いた女の話題は……」
蛟は唇をV字に吊り上げた。じろりと、紀田が睨みを利かせる。
二人は賑やかなキャバレーから、物静かなバーのあるフロアへ移動した。紀田はいつもカウンター席を使うが、この時は窓に面した奥の席に座り、蛟とローテーブル越しに向かい合った。
音量を絞ったジャズが、皮膚に触れるくらいに流れている。バーテンダーが、紀田がいつも注文する梅のカクテルと、蛟が頼んだ柚子のカクテルを運んで来た。
「男の名は、明石雅人。空手家と思われます。しかし空手選手ではありません。卓越した反射神経と、相手の骨を平然とした顔で折る事の出来る胆力を持っています。特に、桃城氏の胸骨を破壊した正拳突きは見事でした。まさに、一撃必殺……」
蛟は言った。
雅人と桃城達也の戦いを、何処かで見ていたものらしい。
「何で空手家なんぞが、渋江杏子とかいう女を守る?」
「さて、それは皆目見当が付きません。しかし彼が、貴方に敵意を見せている事は間違いありませんよ、紀田勝義会長」
「その男は、美野秋葉の関係者か何かなのか」
「そのような話も聞いていませんねぇ……」
「ふん、要は貴様、何も知らないんじゃないのか、その男の事を。ただ偶然、桃城とその男が戦っていた所に通り掛かっただけという訳だろう」
「桃城氏の事はその通りです。しかし、私と貴方とは決して無関係ではありません」
蛟は懐からアンプルを取り出した。紀田は見覚えがあった。勝義会で売り捌いている“アンリミテッド”という薬を内包したアンプルだ。
「お前は……そうか、アヴァイヴァルティカの手の者か。一体、組織の人間が何の用だ」
蛟は、勝義会が“アンリミテッド”の取引をしている組織の人間であるらしかった。
アヴァイヴァルティカは海外の麻薬密輸団体だ。噂では奇妙な妖術を生業とするカルト教団であるという。その邪教の儀式に使用されている“ソーマ”、或いは“アムリタ”と呼ばれる薬の成分を利用して生成したのが、“アンリミテッド”であるらしい。
「金は払っている筈だぞ」
「一応、商売道具がどのように使われているのか、チェックして来いと言われまして。そうしたら何やら、面白そうな事になっているではありませんか……」
アンプルを懐に戻した蛟は、カクテルグラスを傾けた。アルコール度数は比較的高めのものが使われているらしく、お湯割りの酒よりも若干温度の低いくらいの酒がベースだ。立ち昇って来るアルコールの匂いを、柚子の香りが中和していて、咽喉に流すだけながら酒を飲めない人間でも心地良くやれそうだ。
「どうです? あんな役立たずより、私を雇ってみませんか」
「お前を? 桃城を倒した男に、そんな細腕で勝てるのか」
「勿論。貴方の事、お守りしますよ」
「ふん……お前は何か勘違いをしているみたいだな? 俺が渋江杏子の一件を桃城に任せたのは、俺が動くような事ではないと思ったからだ。桃城を倒した男がどれだけのものか知らないが、俺が桃城よりも弱いと思って貰っては困る」
紀田勝義は不敵に笑うと、拳を振り上げてローテーブルに叩き込んだ。ローテーブルの中心に亀裂が走り、音を立てて左右に別れ、倒れてゆく。
無造作な拳の打ち下ろしで、高級木材のテーブルを割ってしまえる人間は、空手家の中にもそうそういないだろう。
「それともう一つ、俺がこっちに席を変えたのは酒が不味くなるからじゃねぇ。俺はあの女の悲鳴を肴に酒を飲める男だぜ。あんな所であの時の事を思い出しだら、飲み過ぎちまって店の女共がどうなるか分からねぇからな」
「……成程」
蛟はテーブルが倒れる前に咄嗟に伸ばした手で、両手に二人分のグラスを持っていた。それを駆け寄って来たバーテンに渡すと、ソファからすくっと立ち上がった。
「でしたら益々、私を雇うのがよろしいかと。貴方のお手を煩わせる事なく、渋江杏子からディスクを取り戻し、明石雅人なる男を倒して見せますとも」
蛟は紀田の前に開いた右手の甲を見せた。そうして左手で、その小指を包み込んでしまうと、表情も変えずに外側へ折り曲げてしまった。
ぱきっ、という音がして、左手が退かされたそこには、手の甲へ向かって反り返った蒼黒い小指が、紀田の方へ指の腹を見せていた。
「人を壊すのには、これだけの胆力があれば良いという事を、教えて差し上げます」
眼鏡の奥にガラスよりも冷たい瞳を隠した美青年が初めて姿を現したのは、勝義会の事務所となっているアミューズメントホテル”SHOCKER”であった。
明け方まで、建物の中では多くのフロアが店を開いていた。ゲームをやる店、女を抱く店、ダンスを踊る店、シャブを売ったり買ったりする店、そして酒を飲む店。
桃城達也を、渋江杏子の追跡に送り出した紀田勝義は、キャバレーのフロアで大きな身体をどっかりとソファに乗せ、美しく、煽情的に着飾った女たちを侍らせて、酒を飲んでいた。
殆ど紐のような衣装で局部をどうにか隠しているだけの女の尻を揉み、がっつりと開いた襟元から見える乳房の谷間に札束をねじ込み、一番高い酒を頼んでは女たちに振る舞っている。
その眼の前に、蛟が現れた。
「紀田会長、少し、お話をしても、よろしいですか」
「誰だ、お前は」
紀田は座った眼で、蛟に言った。
「桃城達也が敗けました」
蛟はいきなり、そう告げた。
紀田勝義は眉を顰めた。
「何だと……さては、お前が桃城の言っていた……?」
紀田はシャンパンボトルの首を掴んで逆さに持ちながら、立ち上がろうとした。
蛟は首を左右に振った。
「美野秋葉のディスクを持っている女……渋江杏子を守った男ではありませんよ」
美野秋葉の名前が出た途端、女たちの顔が強張った。彼女は市内のクラブで働いており、この中には秋葉のいた店から引き抜かれて来たホステスもいる。秋葉がこの紀田勝義によってどのような目に遭わされたのか知らぬ者はいないし、それを口に出す者もいない。
「場所を変えよう」
「酒が不味くなりますか。自分で肛門を引き裂いた女の話題は……」
蛟は唇をV字に吊り上げた。じろりと、紀田が睨みを利かせる。
二人は賑やかなキャバレーから、物静かなバーのあるフロアへ移動した。紀田はいつもカウンター席を使うが、この時は窓に面した奥の席に座り、蛟とローテーブル越しに向かい合った。
音量を絞ったジャズが、皮膚に触れるくらいに流れている。バーテンダーが、紀田がいつも注文する梅のカクテルと、蛟が頼んだ柚子のカクテルを運んで来た。
「男の名は、明石雅人。空手家と思われます。しかし空手選手ではありません。卓越した反射神経と、相手の骨を平然とした顔で折る事の出来る胆力を持っています。特に、桃城氏の胸骨を破壊した正拳突きは見事でした。まさに、一撃必殺……」
蛟は言った。
雅人と桃城達也の戦いを、何処かで見ていたものらしい。
「何で空手家なんぞが、渋江杏子とかいう女を守る?」
「さて、それは皆目見当が付きません。しかし彼が、貴方に敵意を見せている事は間違いありませんよ、紀田勝義会長」
「その男は、美野秋葉の関係者か何かなのか」
「そのような話も聞いていませんねぇ……」
「ふん、要は貴様、何も知らないんじゃないのか、その男の事を。ただ偶然、桃城とその男が戦っていた所に通り掛かっただけという訳だろう」
「桃城氏の事はその通りです。しかし、私と貴方とは決して無関係ではありません」
蛟は懐からアンプルを取り出した。紀田は見覚えがあった。勝義会で売り捌いている“アンリミテッド”という薬を内包したアンプルだ。
「お前は……そうか、アヴァイヴァルティカの手の者か。一体、組織の人間が何の用だ」
蛟は、勝義会が“アンリミテッド”の取引をしている組織の人間であるらしかった。
アヴァイヴァルティカは海外の麻薬密輸団体だ。噂では奇妙な妖術を生業とするカルト教団であるという。その邪教の儀式に使用されている“ソーマ”、或いは“アムリタ”と呼ばれる薬の成分を利用して生成したのが、“アンリミテッド”であるらしい。
「金は払っている筈だぞ」
「一応、商売道具がどのように使われているのか、チェックして来いと言われまして。そうしたら何やら、面白そうな事になっているではありませんか……」
アンプルを懐に戻した蛟は、カクテルグラスを傾けた。アルコール度数は比較的高めのものが使われているらしく、お湯割りの酒よりも若干温度の低いくらいの酒がベースだ。立ち昇って来るアルコールの匂いを、柚子の香りが中和していて、咽喉に流すだけながら酒を飲めない人間でも心地良くやれそうだ。
「どうです? あんな役立たずより、私を雇ってみませんか」
「お前を? 桃城を倒した男に、そんな細腕で勝てるのか」
「勿論。貴方の事、お守りしますよ」
「ふん……お前は何か勘違いをしているみたいだな? 俺が渋江杏子の一件を桃城に任せたのは、俺が動くような事ではないと思ったからだ。桃城を倒した男がどれだけのものか知らないが、俺が桃城よりも弱いと思って貰っては困る」
紀田勝義は不敵に笑うと、拳を振り上げてローテーブルに叩き込んだ。ローテーブルの中心に亀裂が走り、音を立てて左右に別れ、倒れてゆく。
無造作な拳の打ち下ろしで、高級木材のテーブルを割ってしまえる人間は、空手家の中にもそうそういないだろう。
「それともう一つ、俺がこっちに席を変えたのは酒が不味くなるからじゃねぇ。俺はあの女の悲鳴を肴に酒を飲める男だぜ。あんな所であの時の事を思い出しだら、飲み過ぎちまって店の女共がどうなるか分からねぇからな」
「……成程」
蛟はテーブルが倒れる前に咄嗟に伸ばした手で、両手に二人分のグラスを持っていた。それを駆け寄って来たバーテンに渡すと、ソファからすくっと立ち上がった。
「でしたら益々、私を雇うのがよろしいかと。貴方のお手を煩わせる事なく、渋江杏子からディスクを取り戻し、明石雅人なる男を倒して見せますとも」
蛟は紀田の前に開いた右手の甲を見せた。そうして左手で、その小指を包み込んでしまうと、表情も変えずに外側へ折り曲げてしまった。
ぱきっ、という音がして、左手が退かされたそこには、手の甲へ向かって反り返った蒼黒い小指が、紀田の方へ指の腹を見せていた。
「人を壊すのには、これだけの胆力があれば良いという事を、教えて差し上げます」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる