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第六章 その名は蛟
第三節 正義の始まり
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水門学院大学病院――
花街のリフレマッサージ店のスタッフが呼んだ救急車によって、渋江杏子は運搬された。この時に救急車に同行したのは、パトカーに乗った玲子であった。
杏子は全身に軽い打撲と細かな擦過傷などを幾らか負っていたが、大事を取る以上の意味合いがある入院ではなかった。
病院に運ばれてから一晩が経ち、面会時間になると、玲子が再び訪れた。飛岡を始めとする水門署の刑事たちは、池田組の一斉検挙に向かっていたが、玲子は署内の数少ない婦人警察官として、杏子のアフターケアなどを含めた任務を申し付けられた。
「刑事さんだったんですね」
四人部屋の病室の、窓際のベッドで上体を起こしていた杏子は、見舞いに来た玲子に言った。
玲子とは、『おさんぽ画報』のネタ探しに訪れた喫茶店“こんぴら”で同席している。
「見えませんか……」
玲子は、窓の外から射し込む空の蒼さに眼を細めつつ、苦笑した。里美のように童顔でも、杏子のように大人っぽくもない自覚はあるのだが、いざ身分を明かしてそのように言われると、些か恥ずかしさと悔しさの混じった感情が現れる。
「いえ、そんな事は。佇まいって言うか、雰囲気が凛々しいなぁとは思っていたので、何か武道を学んでいる方だとは思っていましたけれど……」
「まぁ、多少……ですけど」
実際、玲子は署内では随一の腕前を誇っている。単に学生時代、空手の道場に通ったり部活に入っていたりしただけではない実力を備えていた。
というのも、玲子は青蓮院純の専属トレーナーの許で、格闘技の訓練を受けていたからだ。
小川たちに絡まれ、雅人に助け出された翌日、治郎は玲子の前から消えた。
玲子はその日、下校すると警察署へ向かい、昨晩の事を話したのだが被害届を受理される事すらなく、門前払いに近い扱いを受けてしまった。当時はまだ、勝義会と池田組の圧力が強く、それらに関する事件を扱いたくなかったのだろう。
玲子は、しかしいつまでも暴力団に屈する事が正義という風潮が続く筈がない、いつか暴力の齎す黒い雲を引き裂く時が訪れると考え、その先駆けとなるのは自分であると決意をした。
そうして空手部から身を引き、自分が知る中で最も強く、そして公正である人物――青蓮院純に、格闘技を教えて欲しいと頼んだ。悪の暴力には、正義の武術で打ち向かうべきと判断したのだ。
純は拒絶こそしなかったが、彼には他人に教える才能が普段を見ていると驚くくらいに欠落していた。
純は過酷な訓練を積めば積むだけ、スポンジのように技術を習得してしまう。だから他人にもそれを自然と要求してしまい、結果、教えを伝える事が出来ない。
玲子はこの時、初めて治郎の事を理解した。
治郎が、何時間居残り勉強をしても、難しい漢字や、数字とアルファベットの入り混じる公式や、日本史や、元素一覧表や、折り紙で兜を作るやり方を覚えられないでいた時の苦しさを。
それを見るに見かねた、純の専属トレーナーであった祥という女性を始めとする面々が、分かり易く、しかし厳しく玲子を指導すると、見る見るその手に技術を習得して行った。
高等部卒業までの短期間で、純の水準にこそ達しないものの、警察官の中では、どうしても体格差で劣ってしまう男子にも敗けないくらいの武術の実力を、身に着けていたのだ。
そのお陰で、警察学校を出て交番に配属された後、比較的早い段階で事件の捜査などを任せられる刑事に任命される事となったのだ。
こうした経緯もあるので、飛岡とは警察学校に入学した時期こそ異なるのだが、ほぼ同期のような扱いを受けていた。
「渋江さんも何かやってるんですか?」
玲子の佇まいを見てそのように感じたという事は、少しは心得があるという事だ。
「あ……ううん、ちょっと、知り合いに、ね」
杏子ははにかみながら言った。
玲子は、“こんぴら”での事を思い出した。杏子は以前会った事がある誰かに再び会える事を期待して、水門市にやって来たと言っていた。その時の表情と、今の顔は同じだった。
「若しかして、その人っていうのが、前に言っていた……?」
「え? ……ええ、そうね、その人ともう一度……会えるのなら、会いたいから。助けて貰ったのに、お礼を言う間もなくいなくなってしまって……」
杏子には、並々ならぬ思いがあるようだった。
「昨日も……」
「え?」
「でも、あれは幻覚だったのかなぁ。また、あの人が助けてくれたような気がしたんだけど……」
杏子が窓の外を眺めて、切なそうに呟いた。
花街のリフレマッサージ店のスタッフが呼んだ救急車によって、渋江杏子は運搬された。この時に救急車に同行したのは、パトカーに乗った玲子であった。
杏子は全身に軽い打撲と細かな擦過傷などを幾らか負っていたが、大事を取る以上の意味合いがある入院ではなかった。
病院に運ばれてから一晩が経ち、面会時間になると、玲子が再び訪れた。飛岡を始めとする水門署の刑事たちは、池田組の一斉検挙に向かっていたが、玲子は署内の数少ない婦人警察官として、杏子のアフターケアなどを含めた任務を申し付けられた。
「刑事さんだったんですね」
四人部屋の病室の、窓際のベッドで上体を起こしていた杏子は、見舞いに来た玲子に言った。
玲子とは、『おさんぽ画報』のネタ探しに訪れた喫茶店“こんぴら”で同席している。
「見えませんか……」
玲子は、窓の外から射し込む空の蒼さに眼を細めつつ、苦笑した。里美のように童顔でも、杏子のように大人っぽくもない自覚はあるのだが、いざ身分を明かしてそのように言われると、些か恥ずかしさと悔しさの混じった感情が現れる。
「いえ、そんな事は。佇まいって言うか、雰囲気が凛々しいなぁとは思っていたので、何か武道を学んでいる方だとは思っていましたけれど……」
「まぁ、多少……ですけど」
実際、玲子は署内では随一の腕前を誇っている。単に学生時代、空手の道場に通ったり部活に入っていたりしただけではない実力を備えていた。
というのも、玲子は青蓮院純の専属トレーナーの許で、格闘技の訓練を受けていたからだ。
小川たちに絡まれ、雅人に助け出された翌日、治郎は玲子の前から消えた。
玲子はその日、下校すると警察署へ向かい、昨晩の事を話したのだが被害届を受理される事すらなく、門前払いに近い扱いを受けてしまった。当時はまだ、勝義会と池田組の圧力が強く、それらに関する事件を扱いたくなかったのだろう。
玲子は、しかしいつまでも暴力団に屈する事が正義という風潮が続く筈がない、いつか暴力の齎す黒い雲を引き裂く時が訪れると考え、その先駆けとなるのは自分であると決意をした。
そうして空手部から身を引き、自分が知る中で最も強く、そして公正である人物――青蓮院純に、格闘技を教えて欲しいと頼んだ。悪の暴力には、正義の武術で打ち向かうべきと判断したのだ。
純は拒絶こそしなかったが、彼には他人に教える才能が普段を見ていると驚くくらいに欠落していた。
純は過酷な訓練を積めば積むだけ、スポンジのように技術を習得してしまう。だから他人にもそれを自然と要求してしまい、結果、教えを伝える事が出来ない。
玲子はこの時、初めて治郎の事を理解した。
治郎が、何時間居残り勉強をしても、難しい漢字や、数字とアルファベットの入り混じる公式や、日本史や、元素一覧表や、折り紙で兜を作るやり方を覚えられないでいた時の苦しさを。
それを見るに見かねた、純の専属トレーナーであった祥という女性を始めとする面々が、分かり易く、しかし厳しく玲子を指導すると、見る見るその手に技術を習得して行った。
高等部卒業までの短期間で、純の水準にこそ達しないものの、警察官の中では、どうしても体格差で劣ってしまう男子にも敗けないくらいの武術の実力を、身に着けていたのだ。
そのお陰で、警察学校を出て交番に配属された後、比較的早い段階で事件の捜査などを任せられる刑事に任命される事となったのだ。
こうした経緯もあるので、飛岡とは警察学校に入学した時期こそ異なるのだが、ほぼ同期のような扱いを受けていた。
「渋江さんも何かやってるんですか?」
玲子の佇まいを見てそのように感じたという事は、少しは心得があるという事だ。
「あ……ううん、ちょっと、知り合いに、ね」
杏子ははにかみながら言った。
玲子は、“こんぴら”での事を思い出した。杏子は以前会った事がある誰かに再び会える事を期待して、水門市にやって来たと言っていた。その時の表情と、今の顔は同じだった。
「若しかして、その人っていうのが、前に言っていた……?」
「え? ……ええ、そうね、その人ともう一度……会えるのなら、会いたいから。助けて貰ったのに、お礼を言う間もなくいなくなってしまって……」
杏子には、並々ならぬ思いがあるようだった。
「昨日も……」
「え?」
「でも、あれは幻覚だったのかなぁ。また、あの人が助けてくれたような気がしたんだけど……」
杏子が窓の外を眺めて、切なそうに呟いた。
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