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第四章 戦いの狼煙
第十一節 優しい体温
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杏子が、自分の肩を揉みながら、ファミリーレストランから出て来た。
ハンバーガーショップでモーニングセットを頼んでパソコンと向き合ってから、適当な所で切り上げてネットカフェに戻った。そこで暫くパソコンと向き合った後、ネカフェを出ると繁華街の書店に入った。
雑誌や新書などを物色し、興味深そうな文庫本を二冊ばかり買い、店を出る。
町を散策してネタになりそうな店がないかと探していたのだが、特に興味を惹かれる店はなかった。
それで結局、昼食はファミレスで採る事にした。
ドリンクバーと、グラタンセット、デザートにチョコレートパフェを頼み、その後はフライドポテトとサラダをちまちまと摘まみながら、買った本を読んで時間を潰した。
正午を過ぎて暫く経ち、ご近所同士の親睦会の心算かやって来たママ友集団のお喋りを聞いていられなくなり、パソコンを畳んで、最後にメロンソーダを飲み、会計をした。
すると、繁華街の入り口の方が妙に騒がしい。何かと見てみれば、パトカーがサイレンを鳴らして爆走している様子が眼に入った。
カーチェイスかと思ったが、追われている車がない。首を傾げている内に、杏子の眼の前にパトカーが迫って来ていて、それに気付くのに遅れていたら杏子は撥ね飛ばされていた。
パトカーは、ファミレスの入り口に勢い良く突っ込んだ。ガラスが割れ、壁が砕かれ、パトカー自身もバンパーをへこませて、フロントガラスを飛び散らせていた。
跳び退いた拍子に、杏子は足を挫いてしまったらしかった。立ち上がれないでいると、パトカーから降り立った何者かが、杏子の身体を掴んだ。
「ひ……」
杏子は相手の顔を見て、息を呑んだ。髪を逆立てた男の顔には太く血管が浮かび上がり、眼は内出血を引き起こしているのか、真っ赤に染まっていた。開いた口からは生臭い息を漏らしているが、その黄色い犬歯が妙に長く見える。こめかみの辺りが別の生き物であるかのようにぴくぴくと動き、杏子が眼で追える速度で、顎から頸に掛けて濃い髭が覆い始めている。
勿論、杏子はその男が野村寅一であるとは分からない。
変貌した野村寅一は杏子の身体を掴むと、再びパトカーの中に乗り込んでゆき、彼女を助手席に押し込めた。ギアをバックに入れてファミレスから脱出し、何処かへ向けて走り出した。
野村寅一の運転するパトカーは、縦横無尽に道路を走り回り、他の車や歩行者に危害を加えながら暴走した。杏子はその助手席で、自分が巻き込まれた異常事態に怯えるしかない。
杏子の見ている前で、野村寅一の身体は更に変化を続けていた。身体が膨らんで、服が内側から張り裂けそうになっている。身体が妙に前傾して、外の光景が見えているのか分からない。ハンドルを掴む手の甲を毛が覆って、爪が自分の掌を突き刺すように伸びていた。
明らかに、野村寅一の身体が人間ではない何かに変わってゆく過程を、杏子は見ていた。凶暴犯に捕まり、恐ろしい目に遭遇した人間は、稀に相手の事を怪物と幻視する時がある。だが杏子が見ているのは幻覚ではない。実際に大きくなった身体の所為でシートが深く沈み、野村寅一の掌からは血が流れている。
サイレンの音が、他の方向からも聞こえた。本物の警官の乗るパトカーが、野村寅一が運転するパトカーを追い駆けているのだ。
野村は適当な所でハンドルを切り、細い路地に入った。ゴミ箱や室外機を弾き飛ばし、車のミラーを砕いて振り落としながら、野村のパトカーは反対側に出た。
繁華街の裏手は、花街だ。夜と違って、ゴーストタウンのような静けさだ。
その花街を、野村寅一のパトカーは疾走した。そのまま住宅街に入り、追っ手を振り切ってしまえば、隣町への道に進む事が出来る。
すると、そのパトカーの前にふらりと現れた者があった。杏子は割れたフロントガラスの向こうに、三年前の光景を幻視した。燃え立つような赤い髪、彫刻のような逞しい肉体――
しかし三年前、池田組のチンピラが車を止めたのは、彼らの行動が理性的なものであった事の証明であり、彼らは犯罪は行なっても暴走はしなかった。今回、パトカーを運転しているのは人間的な感情を醸さない異形の何ものかだ。ファミレスに突っ込んだのと同じで、ブレーキを掛けるような事はしないらしい。
杏子は眼を瞑った。人が眼の前で、爆走する車に撥ねられる瞬間など見たくない。
杏子の身体を、重々しい衝撃が襲った。車の前に現れた男が、撥ねられたのだ。
だが、止まったのはパトカーの方であった。杏子が眼を開けると、景色は振動するだけで流れてゆかない。エンジンの唸りと、タイヤが地面を擦ろうとする音が、シートから全身に伝わった。
二度目の衝撃があった。今度は正面ではなく、下から突き上げるインパクトだ。
杏子は浮遊感を覚えた。窓の外の景色が、縦方向に動いている。杏子の髪が逆立って、景色が丸ごと上下反転した。
パトカーが下から持ち上げられて、タイヤを空に向けたらしい。
杏子は天井に頭をぶつけ、脳を揺すられた。意識が薄れてゆく。
すると、反転したドアが開かれ、大きな掌が杏子の身体を掴んだ。野村寅一に掴まれた時とは違う、熱くて強く、そして優しい体温を孕んだ掌だ。
ハンバーガーショップでモーニングセットを頼んでパソコンと向き合ってから、適当な所で切り上げてネットカフェに戻った。そこで暫くパソコンと向き合った後、ネカフェを出ると繁華街の書店に入った。
雑誌や新書などを物色し、興味深そうな文庫本を二冊ばかり買い、店を出る。
町を散策してネタになりそうな店がないかと探していたのだが、特に興味を惹かれる店はなかった。
それで結局、昼食はファミレスで採る事にした。
ドリンクバーと、グラタンセット、デザートにチョコレートパフェを頼み、その後はフライドポテトとサラダをちまちまと摘まみながら、買った本を読んで時間を潰した。
正午を過ぎて暫く経ち、ご近所同士の親睦会の心算かやって来たママ友集団のお喋りを聞いていられなくなり、パソコンを畳んで、最後にメロンソーダを飲み、会計をした。
すると、繁華街の入り口の方が妙に騒がしい。何かと見てみれば、パトカーがサイレンを鳴らして爆走している様子が眼に入った。
カーチェイスかと思ったが、追われている車がない。首を傾げている内に、杏子の眼の前にパトカーが迫って来ていて、それに気付くのに遅れていたら杏子は撥ね飛ばされていた。
パトカーは、ファミレスの入り口に勢い良く突っ込んだ。ガラスが割れ、壁が砕かれ、パトカー自身もバンパーをへこませて、フロントガラスを飛び散らせていた。
跳び退いた拍子に、杏子は足を挫いてしまったらしかった。立ち上がれないでいると、パトカーから降り立った何者かが、杏子の身体を掴んだ。
「ひ……」
杏子は相手の顔を見て、息を呑んだ。髪を逆立てた男の顔には太く血管が浮かび上がり、眼は内出血を引き起こしているのか、真っ赤に染まっていた。開いた口からは生臭い息を漏らしているが、その黄色い犬歯が妙に長く見える。こめかみの辺りが別の生き物であるかのようにぴくぴくと動き、杏子が眼で追える速度で、顎から頸に掛けて濃い髭が覆い始めている。
勿論、杏子はその男が野村寅一であるとは分からない。
変貌した野村寅一は杏子の身体を掴むと、再びパトカーの中に乗り込んでゆき、彼女を助手席に押し込めた。ギアをバックに入れてファミレスから脱出し、何処かへ向けて走り出した。
野村寅一の運転するパトカーは、縦横無尽に道路を走り回り、他の車や歩行者に危害を加えながら暴走した。杏子はその助手席で、自分が巻き込まれた異常事態に怯えるしかない。
杏子の見ている前で、野村寅一の身体は更に変化を続けていた。身体が膨らんで、服が内側から張り裂けそうになっている。身体が妙に前傾して、外の光景が見えているのか分からない。ハンドルを掴む手の甲を毛が覆って、爪が自分の掌を突き刺すように伸びていた。
明らかに、野村寅一の身体が人間ではない何かに変わってゆく過程を、杏子は見ていた。凶暴犯に捕まり、恐ろしい目に遭遇した人間は、稀に相手の事を怪物と幻視する時がある。だが杏子が見ているのは幻覚ではない。実際に大きくなった身体の所為でシートが深く沈み、野村寅一の掌からは血が流れている。
サイレンの音が、他の方向からも聞こえた。本物の警官の乗るパトカーが、野村寅一が運転するパトカーを追い駆けているのだ。
野村は適当な所でハンドルを切り、細い路地に入った。ゴミ箱や室外機を弾き飛ばし、車のミラーを砕いて振り落としながら、野村のパトカーは反対側に出た。
繁華街の裏手は、花街だ。夜と違って、ゴーストタウンのような静けさだ。
その花街を、野村寅一のパトカーは疾走した。そのまま住宅街に入り、追っ手を振り切ってしまえば、隣町への道に進む事が出来る。
すると、そのパトカーの前にふらりと現れた者があった。杏子は割れたフロントガラスの向こうに、三年前の光景を幻視した。燃え立つような赤い髪、彫刻のような逞しい肉体――
しかし三年前、池田組のチンピラが車を止めたのは、彼らの行動が理性的なものであった事の証明であり、彼らは犯罪は行なっても暴走はしなかった。今回、パトカーを運転しているのは人間的な感情を醸さない異形の何ものかだ。ファミレスに突っ込んだのと同じで、ブレーキを掛けるような事はしないらしい。
杏子は眼を瞑った。人が眼の前で、爆走する車に撥ねられる瞬間など見たくない。
杏子の身体を、重々しい衝撃が襲った。車の前に現れた男が、撥ねられたのだ。
だが、止まったのはパトカーの方であった。杏子が眼を開けると、景色は振動するだけで流れてゆかない。エンジンの唸りと、タイヤが地面を擦ろうとする音が、シートから全身に伝わった。
二度目の衝撃があった。今度は正面ではなく、下から突き上げるインパクトだ。
杏子は浮遊感を覚えた。窓の外の景色が、縦方向に動いている。杏子の髪が逆立って、景色が丸ごと上下反転した。
パトカーが下から持ち上げられて、タイヤを空に向けたらしい。
杏子は天井に頭をぶつけ、脳を揺すられた。意識が薄れてゆく。
すると、反転したドアが開かれ、大きな掌が杏子の身体を掴んだ。野村寅一に掴まれた時とは違う、熱くて強く、そして優しい体温を孕んだ掌だ。
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