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第三章 潜伏する狼
第六節 憧 憬
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しかし玲子が道場や部活で学んだのとは違うナイファンチだ。
空手に限らず武道の型というのは、実戦の流れの一部を切り取って形式化したものである。どのような攻めに対してどのように受け、何を以て反撃するか――それを一つの体系として纏めたのが、武道に於ける型だ。
これを表演して、その出来の良さを判断する試合も、ある。
伝統派では、この型と、試割りと、試合で、総合して選手の実力を見る。
その男がやっているナイファンチは、そうした試合での評価には値しないものであった。
決めがない。
ナイファンチの初めの流れは、右手を身体の横に出し、開いた掌に左の肘をぶつけ、左側に向かって左の下段払いをするというものだ。
この一連の流れは、素早く、鋭くやり、決めるのが、型の評価に繋がる。
だが男の動きは、素早くはあったし、鋭くもあったが、決めていない。
流れるように、次の動作に移る。
流れるように、と言うが、試合の場で行なわれる型の場合は写真に収めれば選手の形の綺麗さが記録出来るが、男の型はシャッタースピードよりも速そうであった。
それでいて実際に相手を想定しての型稽古であるのが、分かる。
例えるならば、それは螺旋だ。
途切れる事なく進み続ける螺旋の軌跡が、男の演武にはあった。
決めがないとは、つまり、死に体にならないという事だ。
仮に実戦の場で、一つの攻撃を受けて反撃し、そのたびに止まっていれば、次の敵につけ入る隙を見せる事になる。
特にナイファンチは、多数の敵を相手にした時の実戦的な動きを取り入れて作られた型であると言われているのだ。
赤毛の巨漢は、その事を意識して、形自体は正確に、そして実戦のように留まる事をせずに、ナイファンチを演じていた。
誰の評価も要らない、ただ自分の身体に、実戦の術理を覚え込ませる為だけの稽古であった。
それが分かったから飛岡は、“凄ぇな”と漏らしたのである。
勿論、男が全身から滝のように流している大量の汗もあって、だが。
「――あッ」
男の型に見惚れていた玲子であったが、その印象的な容姿を思い出して声を上げた。
その声に気付いて、赤毛の巨漢――雅人が動きを止めた。
眠たそうな視線を向けられて、飛岡が自分たちの目的を思い出した。
「すみませーん、ちょっとお話、聞かせて貰っても良いですかね……」
咳払いをし、警察手帳を見せながら、飛岡が近付いて来る。
玲子も同じようにした。
「何すか」
雅人はあからさまに不機嫌そうな調子で言った。稽古の邪魔をされたのに加えて、純粋に警察の事を疎ましく思っているようであった。
「実は、近隣の方から通報がありまして……空手の稽古ですか?」
「ええ、まぁ」
「でしたら、その、こう、御自分の道場ですとか、ジムとか、もう少し人目のない場所でお願いしたいんですけどね……」
「すんませんね、俺、この町の人間じゃないんで」
「ああ、そう……何か、身分証みたいなもの、持っていたりしませんかね」
「身分証……」
雅人は頭を掻いた。頭皮から吹き出した汗が、髪の毛を伝わって掌にべったりと付着する。
「ちょっと、持ち合わせてないかな……」
「はぁ……そうなりますと、ちょっと署までご同行願いたいなーなんて……」
「何にも悪い事、してないッすよ、俺」
雅人は辟易とした様子であった。
飛岡も、この男が何か悪い事をやったようには思われなかった。しかし池田組関連の事件で町がひりひりとした熱を帯び掛けている今、怪しいと思われる人間を放置してはおけない。
「飛岡さん」
玲子が言った。
「ここは、私に任せて下さい。帰って良いですよ」
「え? いや、でも」
「ってか、飛岡さん、初めっから私に任せる気でしたよね。だから、帰って良いです。私はお昼ついでに歩いて帰りますから」
玲子に言われて、すごすごと飛岡が退散してゆく。
それを見送って玲子は、雅人の方を振り返った。
「お久し振りです、明石さん」
「んー……? おたく、何処かで会った事……」
「三年前、チンピラから助けて貰いました、この町で」
「三年前……」
雅人は顎に手を当てて目線を明後日の方向にやってから、思い出したように言った。
「ああ、あの時の――」
三年前、雅人は水門市の繁華街で、小川たちに絡まれていた治郎を助けた。その時、彼女が傍にいたのである。
雅人は治郎の事は印象に残っていたが、玲子とはこれと言った会話をしていないので、思い出すのに時間が掛かったのだ。
「へぇ、まさか刑事さんになっていたとはね。国家公務員、安定した職業だ」
「……多少なりと、貴方の影響かもしれません」
「俺の?」
「はい。ああいう人たちに、臆せずに向かってゆく貴方に、少しだけ憧れて」
「駄目なパターンだな」
「――」
「俺だって、あいつらと大して変わらないチンピラだぜ」
「そんな事ないです。あの人たちは、ヤクザですから」
「だったら猶更だ。堅気じゃなくたって、あいつらにはあいつらなりの仕事があって、それで金を稼いで飯を喰ってる。俺は仕事も家もない、風来坊って奴さ。社会的地位ってのか、そういうものなら、あいつらの方が上だよ。俺のようなのとは、天と地程の差がある」
乾いた笑みを、汗だくの顔に浮かべる雅人。
玲子は首を横に振ったが、雅人は認めなかった。
「そーいや、三年前、ここで同じような話をしたっけな」
「え?」
「その時は確か、あいつもいたっけ。あ、そうそう、君、あいつと今も付き合ってるの?」
「あいつって?」
「治郎だよ。そういうあれじゃないのか?」
「ち、違いますよ! 私と治郎くんは。……っていうか、暫く会ってませんし……」
「ふぅん。でも、あいつも元気そうで良かったよ。昨日も、楽しそうにしてたからな」
玲子は以前から良くされた勘違いを否定しようとしたのだが、その前に雅人の言葉が気に掛かった。昨日も――楽しそうにしていたというのは、どういう事か。
「昨日、女みたいな顔した奴と、楽しそうにやり合ってたんだよ。顔にかっちょいい傷なんか付けてさー、かなりの修羅場を潜って来たみたいだな、ありゃ」
「そ……その話、もっと詳しく聞かせてくれませんか?」
玲子は真剣な顔をして、雅人に訊いた。
空手に限らず武道の型というのは、実戦の流れの一部を切り取って形式化したものである。どのような攻めに対してどのように受け、何を以て反撃するか――それを一つの体系として纏めたのが、武道に於ける型だ。
これを表演して、その出来の良さを判断する試合も、ある。
伝統派では、この型と、試割りと、試合で、総合して選手の実力を見る。
その男がやっているナイファンチは、そうした試合での評価には値しないものであった。
決めがない。
ナイファンチの初めの流れは、右手を身体の横に出し、開いた掌に左の肘をぶつけ、左側に向かって左の下段払いをするというものだ。
この一連の流れは、素早く、鋭くやり、決めるのが、型の評価に繋がる。
だが男の動きは、素早くはあったし、鋭くもあったが、決めていない。
流れるように、次の動作に移る。
流れるように、と言うが、試合の場で行なわれる型の場合は写真に収めれば選手の形の綺麗さが記録出来るが、男の型はシャッタースピードよりも速そうであった。
それでいて実際に相手を想定しての型稽古であるのが、分かる。
例えるならば、それは螺旋だ。
途切れる事なく進み続ける螺旋の軌跡が、男の演武にはあった。
決めがないとは、つまり、死に体にならないという事だ。
仮に実戦の場で、一つの攻撃を受けて反撃し、そのたびに止まっていれば、次の敵につけ入る隙を見せる事になる。
特にナイファンチは、多数の敵を相手にした時の実戦的な動きを取り入れて作られた型であると言われているのだ。
赤毛の巨漢は、その事を意識して、形自体は正確に、そして実戦のように留まる事をせずに、ナイファンチを演じていた。
誰の評価も要らない、ただ自分の身体に、実戦の術理を覚え込ませる為だけの稽古であった。
それが分かったから飛岡は、“凄ぇな”と漏らしたのである。
勿論、男が全身から滝のように流している大量の汗もあって、だが。
「――あッ」
男の型に見惚れていた玲子であったが、その印象的な容姿を思い出して声を上げた。
その声に気付いて、赤毛の巨漢――雅人が動きを止めた。
眠たそうな視線を向けられて、飛岡が自分たちの目的を思い出した。
「すみませーん、ちょっとお話、聞かせて貰っても良いですかね……」
咳払いをし、警察手帳を見せながら、飛岡が近付いて来る。
玲子も同じようにした。
「何すか」
雅人はあからさまに不機嫌そうな調子で言った。稽古の邪魔をされたのに加えて、純粋に警察の事を疎ましく思っているようであった。
「実は、近隣の方から通報がありまして……空手の稽古ですか?」
「ええ、まぁ」
「でしたら、その、こう、御自分の道場ですとか、ジムとか、もう少し人目のない場所でお願いしたいんですけどね……」
「すんませんね、俺、この町の人間じゃないんで」
「ああ、そう……何か、身分証みたいなもの、持っていたりしませんかね」
「身分証……」
雅人は頭を掻いた。頭皮から吹き出した汗が、髪の毛を伝わって掌にべったりと付着する。
「ちょっと、持ち合わせてないかな……」
「はぁ……そうなりますと、ちょっと署までご同行願いたいなーなんて……」
「何にも悪い事、してないッすよ、俺」
雅人は辟易とした様子であった。
飛岡も、この男が何か悪い事をやったようには思われなかった。しかし池田組関連の事件で町がひりひりとした熱を帯び掛けている今、怪しいと思われる人間を放置してはおけない。
「飛岡さん」
玲子が言った。
「ここは、私に任せて下さい。帰って良いですよ」
「え? いや、でも」
「ってか、飛岡さん、初めっから私に任せる気でしたよね。だから、帰って良いです。私はお昼ついでに歩いて帰りますから」
玲子に言われて、すごすごと飛岡が退散してゆく。
それを見送って玲子は、雅人の方を振り返った。
「お久し振りです、明石さん」
「んー……? おたく、何処かで会った事……」
「三年前、チンピラから助けて貰いました、この町で」
「三年前……」
雅人は顎に手を当てて目線を明後日の方向にやってから、思い出したように言った。
「ああ、あの時の――」
三年前、雅人は水門市の繁華街で、小川たちに絡まれていた治郎を助けた。その時、彼女が傍にいたのである。
雅人は治郎の事は印象に残っていたが、玲子とはこれと言った会話をしていないので、思い出すのに時間が掛かったのだ。
「へぇ、まさか刑事さんになっていたとはね。国家公務員、安定した職業だ」
「……多少なりと、貴方の影響かもしれません」
「俺の?」
「はい。ああいう人たちに、臆せずに向かってゆく貴方に、少しだけ憧れて」
「駄目なパターンだな」
「――」
「俺だって、あいつらと大して変わらないチンピラだぜ」
「そんな事ないです。あの人たちは、ヤクザですから」
「だったら猶更だ。堅気じゃなくたって、あいつらにはあいつらなりの仕事があって、それで金を稼いで飯を喰ってる。俺は仕事も家もない、風来坊って奴さ。社会的地位ってのか、そういうものなら、あいつらの方が上だよ。俺のようなのとは、天と地程の差がある」
乾いた笑みを、汗だくの顔に浮かべる雅人。
玲子は首を横に振ったが、雅人は認めなかった。
「そーいや、三年前、ここで同じような話をしたっけな」
「え?」
「その時は確か、あいつもいたっけ。あ、そうそう、君、あいつと今も付き合ってるの?」
「あいつって?」
「治郎だよ。そういうあれじゃないのか?」
「ち、違いますよ! 私と治郎くんは。……っていうか、暫く会ってませんし……」
「ふぅん。でも、あいつも元気そうで良かったよ。昨日も、楽しそうにしてたからな」
玲子は以前から良くされた勘違いを否定しようとしたのだが、その前に雅人の言葉が気に掛かった。昨日も――楽しそうにしていたというのは、どういう事か。
「昨日、女みたいな顔した奴と、楽しそうにやり合ってたんだよ。顔にかっちょいい傷なんか付けてさー、かなりの修羅場を潜って来たみたいだな、ありゃ」
「そ……その話、もっと詳しく聞かせてくれませんか?」
玲子は真剣な顔をして、雅人に訊いた。
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