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ヒメの章
【瞬刻】happy birthday dear…
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両親も祖母も早くに亡くなったため、家族との思い出なんてほとんどなかった。忙しい祖父に代わっていつも一緒にいてくれたメアリーも、それでも時折いなくなってしまって、そうなればキリエはいつも独りぼっちだった。年寄りばかりの住む集合住宅は昼間はひどく殺風景で、遊んでくれる人もおらず、早く夜になればいいと願っていた。
その日だけは、一人ではなかった。
メアリーがとびきりのご馳走を作ってくれて、光の粒をたくさん散らしてくれる。祖父も早くに帰ってきて一緒の食卓に並んでくれて、そして、キリエの頭を優しく撫でてくれた。その日だけは特別で、キリエにとってかけがえのない一日で、他のことは忘れてもそのことだけはいつまでも覚えているのだろう。
だからこそ、同じことをしてあげたいと思うのだった。
「うわー、まじかー……」
キリエが廊下に立ち尽くしていると、後ろから思い切り腰を叩かれた。
「いっで!」
「何ぼーっと立ってんのよ。邪魔よ邪魔」
振り返ると、そこにいたのは魔法兵科の少女だった。淡い桃色の髪をふわふわと揺らし、大きな胸を強調するように腕を組んでふんぞり返っている。強気な態度と乱暴な言葉遣いだが、その身長はキリエの腹ほどしかなく、苛立ちよりもほんわかとした気持ちになった。
なんとなく見覚えがあり、キリエは記憶をたどる。
「あー、もしかして、トルンにくっついてたことある?」
「そうよ。魔法兵科七年のニーナ・アリーニナ。ついでに言うなら、私はいつもいるわ。小っちゃくて見えないらしいけどね!」
ぷうと頬を膨らます様は大変愛らしい。しかし、残念なことに十歳くらいの幼女にしか見えず、キリエはまた口元を緩めてしまった。
「そうかそうかー。飴ちゃん、いる?」
「舐めてんじゃないわよ。金玉潰すわよ。あ、飴はもらうわ!」
「……」
幼女は想像以上に過激だった。
がりがりと飴玉を噛み砕くニーナに内心恐々としていると、それで、とニーナが振り返ってくる。思わず肩が跳ねた。
「……ちょっと、何よ今の反応」
「え? なんのことかな?」
「しらじらしいっ……。まあ、いいわ。それで、なんでこんなところに立ち尽くしてたの?」
「ああ」
キリエは眉をハの字にして後頭部を掻きむしると、先ほどヨアヒム先生に渡された手紙を示して見せた。模様の入ったかわいらしい封筒だ。ニーナが送り主の名を読む。
「メアリー・ローズクランス……て、まさか、〈薔薇の魔女〉!?」
キリエが頷くと、ニーナは感激したように何度も文字を指でたどった。
「ふぁぁ、ローゼン・マグと知り合いって、本当だったのね!」
「正確には、おれの育ての親、かな」
ニーナはきらきらと手紙を見つめていたが、その言葉にふっと顔を上げた。
「意外。教えてくれるのね」
「教えるも何も、知ってる奴は結構多いから」
「あ、あら、そう……」
拍子抜けしたような返事に、キリエはくすくすと笑う。ニーナはなぜか顔を真っ赤にして手紙を突き返してきた。
「そ、それでっ、ローゼン・マグが一体どうしたのよ?」
「いや、メアリーは何もないんだ。――ほら、ニーナも知ってるだろうけど、今度トルンの誕生日があるだろ?」
「そ、そういえばそうだったかしら?」
歯切れ悪く視線をさまよわせる姿に、キリエはにやにやとしてしまう。おそらく、ニーナも他の女の子と同じように贈り物を用意しているのだろう。その好意が自分に向かないのはやや惜しかったが、それでも恋する女の子は見ていて気持ちがよかった。
「それで、毎年お祝い会をしてるんだけどね、その時にメアリーに頼んでケーキを送ってもらってるんだよ。だけど、今年は用事が被ったとかで無理そうでさ」
「そうだったのね」
メアリーのケーキは美味しく、トルンも毎年絶賛してくれた。キリエとしても彼女のケーキがないとどこか締まらないような気がして、それでひそかに落ち込んでいたのだった。
しかし、落ち込んでばかりもいられない。やはり、誕生日にはケーキがつきものなのだ。たとえ最高のものが手に入らないのだとしても、なんとかして代わりを工面しなければならない。
「ニーナは、どこかお菓子屋さんがあるか知ってる? おれ、あんまり町に行かないから詳しくなくてさ」
自分よりも詳しそうなニーナに訊くと、彼女は少し考えた後に首を振った。
「駅にケーキを売ってるお菓子屋さんなんてないわ。みんな自分で作っちゃうし、そういうのは中央に行かないと」
「あー、やっぱりそうかー……」
半ば予想していた答えにがっくりと肩を落とす。トルンの誕生日は来週だった。休息日に中央まで買いに行くことはできるが、そのためには外出申請をしなければならず、そしてその期限はとうに過ぎている。すぐそばの西方駅のある中継街までなら申請を出さなくても行けるのだが、お菓子屋がないとなると意味がない。
「いっそのこと、自分で作るか……?」
料理なんてメアリーが作っているところしか見たことがないうえに、彼女は魔法で分量も火加減も操作していたのを思い出し、キリエはごくりと唾を飲み込んだ。どう考えても、自分に同じ作業ができるとは思えない。
キリエが呻っていると、ニーナがどこか緊張した面持ちでぎゅっと手を握りしめ、やや上ずった声を上げた。
「あ、あのっ」
「うん?」
「わ、私が作ってあげましょうか!?」
思いがけない申し出に呆気にとられたのも束の間、キリエはニーナの表情が強張っているのに気づいていやいやと叫んだ。
「ありがたいけど、でも、申し訳ないし、というか、ニーナできるの!? 大丈夫!? だって、料理って、包丁飛んだり火が燃え上がったりするんだよ!?」
「ちょっ、失礼、じゃなくて! あなた何を見て育ってきたの!? そんなの料理じゃないわよ!」
ぎょっと目を剥くニーナに、キリエも顔を引きつらせて叫ぶ。
「だって、メアリーはレシピを見ながら包丁を浮かせて野菜切ったり、火の玉の中に突っ込んで焼いたりしていて……。だから、危ないから絶対に台所に入ってくるなって!」
「ちょ、それは特殊な例よ! ローゼン・マグだからできるの! 浮かせて切るんだったら、包丁に柄なんか必要ないじゃない!」
「た、確かに……!」
ニーナの言うことはもっともで、キリエは目から鱗が落ちたような心地がした。幼い頃からメアリーの魔法料理を見ていたから何も疑問に感じていなかったが、あれは普通ではなかったのだと初めて気が付いたのだった。
「じゃあ、料理ってどうやってやるんだ……?」
「柄を握って野菜切ったり、かまどに火を起こして炒めたりするのよ! まったくもう、そんなんじゃ今から練習したって誕生日には間に合わないわよ。しかも、お菓子作りってご飯作るよりも難しいんじゃないかしら」
「え、そうなの」
さらに衝撃の事実に、キリエはあんぐりと口を開けて固まった。ニーナは溜め息をついてその口を閉じさせると、ほんのりと頬を赤らめて言ったのだった。
「だ、だから、今回は私が作ってあげるわ。簡単なケーキだったら何度か作ったことがあるし、あなたに任せるのは不安だもの」
「でも、トルンにもともと作ろうとしてたんじゃないのか? そうしたら、ニーナが用意する時間が無くなっちゃうんじゃ」
「うっ、それは……、そ、そうよ! あなたが渡してくれたら、トルンも確実に食べてくれる上に、私の手作りだって覚えてくれるでしょ!? だから、これは取引よ。あなただけがおいしい思いをするわけないじゃない!」
「ああ、なるほど!」
ぽんと手を叩くと、ニーナも得意げに胸を張った。そういうことならばますます応援してあげたくなり、キリエはニーナにお願いすることにしたのだった。
教室に戻ってくると、教壇の周りに男子生徒が集まっていた。キリエが近づくと、一番に気が付いたペンダがおおと声を上げた。
「キリエ、どこ行ってたんだ? キリエも参加すんだろ?」
「え? 何が?」
「何がって、パーティーに決まってんだろ!」
そんなあっけらかんと言われても初耳なものは初耳なのだが、楽しそうな気配にキリエも輪の中に入っていった。
「パーティーって、何のパーティーだ? 記念日でもあったっけ」
「ちげえよ、お誕生日ぱーちーだよ!」
別の生徒が答える。滑舌がおかしいのは気付かなかったふりをして、キリエは問い返した。
「誕生日って、トルンのことか?」
「俺だけじゃないぜ。半年分、まとめてやるんだ」
「トルン」
輪の真ん中にいたのは悪友トルン・トマスだった。椅子に座っていても分かるがっしりとした体格はここにいる誰よりも大人として完成していて、そこに整った顔立ちとくれば、ニーナだけでなくいろんな女の子が吸い寄せられていくのも不本意ながら仕方ないと納得させられる。今も数人の女子生徒が離れたところから見守っていて、トルンがにやりと気障な笑みを浮かべるたびに黄色い歓声が上がっていた。
「俺らも今年で最後だろ。そうなったら、次いつ会えるかもわかんねえからな。来週で半年分、年明け後に残りをまとめてやろうかって話してたんだ」
「へえ、それはいいな!」
珍らしくまともな提案に驚きつつ、キリエは迷わず賛同した。
「それ、どこでやるんだ? ここ?」
「いや、食堂借りて飲み食いしようぜって」
「うわ、なにそれ最高じゃん」
そういうことなら、ニーナにもその日に用意してもらったほうがいいだろう。後で連絡しようと決めて、キリエはトルンの隣に割り込んだ。
「んで、全部で何人いるんだ?」
「あー、何人だっけ。手え上げろー」
勢いよく上がった腕を数えてみれば、全部で十二だった。
「で、あと俺だから十三」
「結構いるんだな。歌うとき大変だな」
キリエが笑うと、ペンダが首を傾げた。
「歌? なんで歌が大変なんだ?」
「へ? なんでって、誕生日の歌、歌うだろ? ハッピバースデートゥーユーって」
「は?」
「うぇ?」
ペンダだけでなくその場の全員がぽかんと口を開けるものだから、キリエもぽかんとし返してしまった。トルンだけがそっと俯いて笑いを堪えていた。
「え? 歌わないの? なんで?」
「なんでって言われても……」
困ったように顔を見合わせるクラスメイトたちにキリエも困惑する。トルンがようやく顔を上げた。
「少なくとも、俺の家では祈るだけだったな」
「あ、おれも!」
その言葉に追随するように次々に声を上げだして、キリエは唖然とした。輪から顔を出して女子の方を見れば、こちらもきょとんとして首を振っていた。
「ええー? うそ、おれんちだけ? なんで? おれ、毎年歌ってあげてたじゃん。なんでトルン言わないんだよ?」
「いやあ、水を差すのも悪いかと思ってさ」
「お前、それ確信犯だろ……」
トルンは悪びれた様子もなく肩を竦める。キリエがむっとしてその耳を引っ掴もうとしたところで、ペンダが間に入った。
「で、その歌ってどんなのなんだ?」
「え?」
何やら期待した顔で待っているペンダにキリエは狼狽えた。
「どんなって、え? なにが?」
「なにがじゃねえよ。歌でどんなって言ったら、こんな歌詞だーとか旋律だーとかに決まってんだろ?」
ペンダの目はやけにきらきらとしていて、歌ってみせろと雄弁に語ってくる。キリエは冷や汗を掻きながらそっと目を逸らした。
「歌詞? いや、歌詞は聞いても分かんないんじゃないかな? ひたすら向こうの言葉を繰り返してるだけだし……」
「向こうの言葉!?」
「まじかよ、すげえな!」
途端に食いつきのよくなる一同にキリエはしまったと内心舌打ちした。向こう側は確かにある世界で、キリエたちアルビオンの人々のルーツで、今では伝説にも近い存在だ。ただの伝説や噂ならばこんなに盛り上がらなかったのだろうが、実在するのに触れられないというのが、どうにも人々の心をくすぐるようだった。
キリエのそんな内心に気付いたのか、トルンがまたぶふっと噴き出す。すかさず睨みつけたが、身を乗り出し迫ってくる群れに慌てて手の平を向け牽制した。
「うわっ、ちょ、一斉に来るなよ! 転ぶだろ! 言っとくけど、向こうの言葉だからって全然すごくなんかないからな!? 向こうじゃわりと有名な歌らしいから、きっと他にも知ってる人はいるだろうし。しかも、誕生日おめでとうだぜ? 誕生日おめでとうをただ繰り返してるだけの歌なんか、何が面白いんだよ。分かったらもう聞くな。この話は終わり!」
「ええええええ?」
「そりゃないだろおがよぉぉ!」
「終わりじゃねえよ、勝手に終わらすなー」
「いいじゃん、ちょっとくらい教えてくれたって。俺らは知らないんだからさ」
「ケチ。心狭いぞ、このドケチ」
「狭くて結構だよ」
「うわっ、最低だな」
「サイテーイ! いやーん」
「すっとこどっこーい」
「どすこーい!」
「ぐっ……!」
あー言えばこう言う連中にキリエの口元が静かにひきつる。これだから向こうの話題は面倒なのだ。キリエにとってはごく当たり前のことでも、他の人はすぐに騒いで盛り上がる。引かれたりしないだけましなのだろうが、それでも自分だけ世間と違うというのは妙な居心地の悪さを覚えるものだし、毎回こんな反応ではいい加減飽き飽きとしてしまう。
気がつけば教卓に突っ伏して頭を抱えていた。
「だって、お前らうるさいじゃん……。教えてやっても文句ばっかりで、分からないって言ってんのに聞かないし……。おれだってなんでもかんでも知ってるわけじゃないんだよ……」
「じゃあ、分かる範囲でいいから教えろよ」
「そう言ったそばから、ぶーぶー言うからじゃねえかあああああああ!」
「おお、待て。どうどう」
教卓を蹴り上げながら飛びかかろうとすると、すぐさまトルンに押さえつけられた。がっしりとした腕が首に回って苦しさに呻くと、これまた大きくごつごつとした手に頭を撫でられる。しかも優しく、丁寧に。
「な、なにすんだよ、トルン……? 気持ち悪いぞ……?」
「傷心のお前を労わってやってんじゃねえか」
「え、いらなっ……」
「そうかそんなに撫でてほしかったか」
「うわっ!?」
今度はわっしわっしと豪快かつ乱暴に撫でくりまわされ、首が取れそうなほどに視界が回される。三半規管が揺さぶられる勢いに思わず嘔吐きそうになっていると、トルンが溜め息をつく気配がした。
「お前らも少しは学習しろ。こいつが嫌がるのなんていつものことじゃねえか。殴られそうになってびびるぐらいならやめろ」
「び、……びびってねえし!? なに適当な事言ってんだよトルン、ばーかばー、ごふっ!」
「ぐえっ!?」
トルンはおもむろにキリエを振り回すと、馬鹿と言った生徒の土手っ腹にキリエの頭を直撃させた。首に腕が回ったままだったため痛めることはなかったが、きゅっと気道を絞められてキリエは白目を剥きかけた。
しんとその場が静まり返り、皆がキリエと崩れ落ちた生徒に心配そうなまなざしを向ける。トルンだけは何事もなかったかのように再び大仰な溜め息をついてみせた。
「だから、学習しろって言ってんだよ。こいつがしつこくされて嫌がんのも、沸点が低いのも、今に始まったことじゃねえだろうが」
「それ、お前が言うか……?」
「ブーメランしてるぞブーメラン」
「もう一回言わせる気か」
恐れおののくクラスメイトたちにぴしゃりと言い放てば、もう何も言う者はいなかった。トルンは満足げに鼻息を吐き出し、ようやくキリエを解放した。
「っぐげ、げほっ、ごほっ……!」
「あ? 大丈夫か、キリエ」
「なわけ、あるか……!」
咳き込みながら繰り出したパンチは、当然というべきか、あっさりと躱されてしまう。だが、すぐさま狙った第二撃が椅子の足を払い、トルンは勢いよく引っ繰り返った。椅子を奪い取ってふんぞり返れば、呆れと関心の入り混じった目を向けてくるペンダや他のクラスメイト達と目が合う。
「ほんとお前ら、頑丈というか、よくやるよな……」
「こいつはまだぶっ倒れてんのに」
「さすが、ニクマルに殴られてもけろりとしてるだけのことはあるわ……」
「なに言ってんだよ。ニクマルのパンチ食らって無事な奴がいるわけないだろ」
憮然として言い返せば、何故か奇妙な顔をする一同にキリエはますます眉をひそめる。何もおかしいことは言っていないはずだ。キリエとトルンがヨアヒム先生に殴られ蹴られて悲鳴を上げているのはいつものことなのだから。
「あ! ていうか、トルン、さっきのなんだよ! 人のこと武器代わりにして! なんか最近、やり方がますますニクマルっぽくなってないか?」
「恐ろしいこと言うなよ。誰があんな筋肉達磨になってるっていうんだ」
身震いしながら起き上がったトルンにもダメージを負った様子は見られない。これでもかなり力いっぱいに蹴倒したのだが、全く効いていないようだった。これこそけろりにふさわしいのではないかと口をへの字に曲げていると、トルンは無理矢理キリエを押しのけて強引に椅子に入ってきた。
「なにすんだよ。押すな、狭い狭い」
「大丈夫だって。ニクマル用のだから、絶対いける」
「そりゃ、ニクマルは拳も図体もケツもでかいけどさあ……」
言い合いながらも少し大きめの座面に臀部を押し込んでいると、そんな二人の肩にぽんと手を置く人物がいた。空気が凍り付いた。
「……そうかそうか。随分と楽しそうに話しているから、鐘が鳴り終わっても俺は我慢してやっていたんだがなあ……」
どたばたと脱兎のごとく逃げ出すクラスメイト達。キリエとトルンもそれに続こうとしたがぐっと押さえつけられ、そのまま椅子の歪む嫌な音ともに腰が座面深くに嵌まり込んだ。互いの腰骨と肘掛けに圧迫され、ごりごりと擦られる。
「ぐっ!?」
「でえっ!?」
「器のうの字も出ないどころか、ここまで貶されるとは思わなかったぞ、リー、トマアアアアアアスッ!!」
次の瞬間、ヨアヒム先生お得意の筋肉サンドが炸裂し、二人の悲鳴が教室を越えて校舎中に響き渡った。
そして当然のことながら、怒髪天のヨアヒム先生により食堂の使用許可は却下されたのだった。
数日後。
校舎裏の人目のつかない場所にキリエは呼び出されていた。
「は、はいっ。作ってきたわよっ」
ぶっきらぼうにニーナが差し出してきたのは、茶色の厚紙に包まれたかなり大きな箱だった。差し出された拍子にふわりと甘い香りが漂い、自然と口元がほころぶ。
「うわあ、本当にありがとうニーナ! しかも、こんなに大きいの……」
「そ、そうでもないわよ。食堂の竈って大きいから、火加減さえ気を付ければ一気に焼けたわ!」
頬をピンク色にしながら胸を張るニーナはとても得意げで、とても可愛らしい。男ばかりでむさ苦しい白兵科に比べて、魔法兵科にはこんなに可愛い女の子が溢れているのだと思うと、むくむくとキリエの中に邪心が湧いてくる。すぐに頭を振って追い払い、にこりと笑みを浮かべた。
「でも、これだけの量を作るなんて、やっぱり大変だっただろ? しかも、ニクマルに見つからないように急いでお願いしたし……」
「だから、そうでもないって言ってるじゃない。ヨアヒム先生だって、私のことなんか気づいてなかったわ。なのに、そう頭を下げられると……。と、とにかく! なんだか変な感じがするからやめてちょうだい」
ニーナは困ったようにぷうとほっぺたを膨らませるが、褒められるのもやぶさかではないようで、僅かに口角を上げながら体を左右に揺すっていた。しかし、ニーナの言うことももっともで、キリエは内心で反省すると、そっと厚紙の蓋を開けて中を覗き込む。同じ褒めるなら、工程ではなくケーキそのもののほうがいいだろう。
「あ、ちょっと!」
ひんやりとした空気が蓋の隙間から流れ出てきて、キリエは目を瞠った。
「わあっ、なにこれすっご! え!? これ、生クリームだよね!? どうやって作ったんだ!?」
目に入ったのは、真っ白な雪に覆われた四角いケーキだった。表面にはクリーム以外何もないが、微かに果物の香りもする。間に挟まっているのだろう。想像以上の出来栄えに言葉を失っていると、ニーナが背伸びをして蓋を閉めた。
「ちょっと、せっかく冷やしてあるのに魔法が解けちゃうでしょ!」
「あ、ご、ごめん」
慌てて謝る。閉じられた蓋をつい名残惜しく見つめてしまったが、また夜になれば開けるのだからと言い聞かせて我慢した。
「でも、本当にびっくりした。おれ、生クリームって初めてだよ。あれって、どこかのお店でしか食べられないんだろ?」
キリエが問うと、ニーナはふふんと悪戯っぽく笑った。
「実は、今朝絞りたての牛乳をもらってきたのよ。牛乳ってすぐに加工しないと移動して販売なんてなかなかできないでしょ? しかも、生クリームはすぐ溶けちゃうから、だから市場には出回ってないの。でも、ここはすぐ近くに飼ってるところがあるから」
「まさか、直接交渉に行ったのか?」
「もちろん」
「うわあああ、なんてお礼を言ったらいいか……」
ただでさえトルン以外の分も作ってもらったのに、これだけ高価なものを用意から何もかも任せてしまって、先ほど反省したばかりなのにまたキリエは頭を下げていた。だが、こればかりはお礼を言わずにはいられない。それだけ生クリームというのは高価なのだ。砂糖だって昔に比べればずいぶんと当たり前になったものの、塩に比べればまだまだ値が張る。材料費としていくらか持ってきてはいたが、これで足りるのか自信がなかった。
そんなキリエの腰を、ニーナは勢いよく叩いた。
「だから、お礼はもういいって言ってるでしょ! 私にだって良いことはあったんだから、これくらいどうってことないわ! 寧ろ、ちょうどいい機会だったというか……」
「ニーナ……!」
「も、もうっ、そんな子犬みたいな目で見てくるのやめなさい! きゅ、きゅんきゅんしちゃうじゃないっ……」
顔を真っ赤にするニーナに、キリエも感極まって顔を真っ赤にしてしまう。こんなに良い子なのだから、きっと彼女の恋は実るに違いないと確信した。
「でも、本当に、何度でも伝えさせてくれ。ニーナ。ありがとう。絶対、いや、まだ食べてないのに何言ってんだって感じだけど、絶対に美味しいよ。おれが断言する。こんなに美味しくて、見た目も綺麗なケーキを作ってくれて、本当にありがとう。大切に味わうよ」
「はうあっ!」
胸を押さえてぱくぱくと口を開けるニーナは、こんな時でも可愛らしい。キリエは心の内で身悶えまくりつつ、精一杯の感謝と決意を伝えた。
「ありがとう、ニーナ。これなら、絶対トルンも美味しいって言うよ。あいつの耳にタコができるぐらい、何度でもニーナが作ったって言ってくるから!」
もしもつまらない反応を示すようだったら、必ずやあの木偶の坊を吊し上げて袋叩きの刑にしてくれる。こんなことまではさすがに言えなかったけれども、キリエはぐっと拳を握ってそう誓ったのだった。
ニーナが何故か頭を抱えた。
「ああ、もう、これ絶対伝わってないわね……」
「ん? どうかした?」
「いいえ、なんでもないわ」
顔を上げたニーナはいつも通りの完璧な美幼女だった。キリエは首を傾げたが、すぐにあることを思いついた。
「そうだ。よかったらニーナも参加する? 今日の夜に寮の一階なんだけど、どうせなら直接おめでとうって伝えたほうがよくないか?」
正確にはトルンの誕生日は明日なのだが、ヨアヒム先生が現れない限りは日付を越えるまで続くことは目に見えており、それならニーナが一番にお祝いを伝えられるかもしれなかった。なにより、ケーキを作ったのは彼女なのだ。男だったら多少は渋るかもしれないが、彼女なら参加しても誰も文句は言わないだろう。
キリエはそう思ったが、予想に反してニーナは首を振った。
「いいえ。遠慮しておくわ。ヨアヒム先生に怒られたくはないもの」
「あっはは、いざって時は真っ先に逃がすよ」
「それはそれで楽しそうだけど。でも、やっぱりいいわ」
「ん、そっか」
キリエたちはよくても、男の中に女の子一人はやはり嫌なのだろう。それ以上は無理に誘わず、キリエは最後にもう一度感謝を述べると、夜の準備のために再び走り出したのであった。
数時間後。
夜陰に紛れて待機場所に向かうと、茂みの陰に伏せている人物がいた。足を忍ばせてその隣に滑り込むと、その人は顔を上げる。
「お、来たか。キリエ」
「トルン。なんでここにいるんだよ」
パーティーの主役の一人としてトルンは会場に残っているはずだった。だが悪友はにやりと口元を歪めて、キリエの頭を小突く。
「俺ら以外にこんなことできる奴がいるかよ」
「無理矢理置いてきたのか?」
「むしろ、代われっつったら喜ばれた」
「まじか」
気持ちは分からなくもなく、二人でひっそりと笑いを噛み殺す。それだけ二人が今からやろうとしていることは危険で、同時にはらはらとした高揚感を味わえる特別なものだった。今までもごまんと繰り広げてきたことだが、それでもこの瞬間はいつでもどきどきする。心臓が高鳴り、手足が震え、来るその瞬間に笑いが止まらなくなる。それをぐっと堪えるからこそ、その後の達成感ははかり知れないものとなるのだが。
「でも、なにやるか分かってんのか」
「分かってるから来たに決まってんだろ」
大体、作戦を考えたのは俺だという言葉に、それもそうかと頷く。しばし地面に転がり待機していると、遠くから微かな気配が近づいてくるのが分かった。足音は全く聞こえないが、お互いが緊張したことで確信を深める。そのままじっと死んだように伏せていると、大きな影が二人の上を横切り、食堂へと向かっていった。
「……」
「……」
すっと顔を上げ、視線だけを送る。ただし直接は当てず、そっと逸らす形で。敵は敏感だ。少しでも注意が向けられたと分かれば、怪物並みの反射速度で二人を捕らえにかかる。
「……やっぱり、まずはそっちに行ったな」
「よし、回り込むぞ」
茂みを離れ、音もなく移動を開始する。消えそうな気配に注意を払いながら、食堂の裏口へと駆け込むと、トルンが先行し、手を組み合わせて振り返った。キリエはそのまま勢いよく走りこみ、手前で大きく跳躍してトルンを踏み台にして飛び上がる。トルンも合わせて腕を跳ね上げ、キリエは難なく屋根の上まで上昇した。
「っと、」
少々よろけかけるもののバランスを取り、すぐさま後ろを振り返る。眼下の暗闇でトルンが親指を立てているのが分かった。キリエも返し、そこからは単独で屋根伝いに食堂の表を目指す。
屋根を駆け回るのももうお手の物で、あっという間に表に到達すると、すぐそばに見えた影に慌てて身を伏せた。ちょうどぴったりだ。やがて影はキリエの死角に入り、なにも分からなくなったが、がちゃがちゃと鍵を確認する音がして今度は裏口へと回ったのが見えた。
たっぷり十数秒を数えてから地面へと飛び降りる。膝を柔らかくたゆませて衝撃を吸収すると、事前に用意しておいた鎖と南京錠を取り出して手早く表口の把手に巻き付けた。何重にも雁字搦めにし、それでも物足りず、軒下に放置されたままだったメニュー板を拝借してそれも差し込む。なにかと粗暴ですぐ手の出ることで敵は有名だが、教師としての意地なのか器物損壊だけは避けようと頑張っていた――かなりの確率で失敗しているが。なので、今回も頭に血が上る前に気が付くよう、あえて文字を内側に向けて差し込んでおいた。
「これでよし、と――」
「ごうおるああああああああああああああっ!! やっぱり来たなトマアアアアアアアアアアーーーーーースッッ!!」
「うわっ」
突如鳴り響いた大音声に鼓膜がびりびりと震え、キリエは耳を押さえた。衝撃にメニュー板がかくんとずれ落ちる。とうとうトルンは見つかったらしい。もともとそういう作戦だったとはいえ、まさかこんな怪物じみた砲声を至近距離で浴びせかけられるとは、トルンもついていないとキリエは気の毒に感じた。
だが、キリエにもまだやることがある。敵――ヨアヒム先生はそのままトルンに任せてその場を走りだすと、今度は校舎へと向かった。
塼造りの校舎は〈大嘘つき〉時代ではなく二王の世になってから建てられたものだが、中央の集合住宅を除くとほとんど唯一といって言いほどの高層建築となる。階数は三、横に長く、屋上もついている。だが、この高さならヨアヒム先生は最上階に到達するより早くに外壁をよじ登れてしまうことだろう。だから、屋上ではなく最上階の目星をつけておいた部屋に目掛けて、キリエは人差し指を向けた。
「twilight, dancing」
魔法素は集まらない。そもそも、まだこの位置では目標まで遠すぎる。にもかかわらず、室内にはぽおっと無数の光の粒が浮かび上がり、そのままぐるぐると回りだした。色とりどりの眩しい光の応酬は、まるでそこに誰かがいるように錯覚させる。
触媒魔法。
事前に仕込んでおいた触媒に、あとは火をつけるだけ。あまり離れていると起動しないが、この程度の距離ならば問題はない。
メアリー直伝のそれは、本当は誕生日パーティー用にとっておいたものだが、まあいいかとキリエは笑った。これだけ眩しければ、もしかしたら寮からも見えるかもしれない。
来た道を引き返すと、光の粒は食堂までは十分に届いていた。よしと拳を握った直後、どおおおおんっ……! と足元が揺れる。慌てて正面を向けば、揺れているのは食堂の方だった。裏口に戻ると、トルンが必死の形相で瓶の入った籠を扉の前に積み上げている。どおおおおおおおおんっ……! と再び地鳴り。扉が枠ごとがたがたと悲鳴を上げ、ぱらぱらと粉塵が舞う。どうやら、閉じ込めには成功したらしい。
駆け付けたキリエにトルンが気付き、切羽詰まった声を上げた。
「ちょ、おい、キリエ、おせえよ! 早く手伝え!」
「うわ、名前呼ぶなよ!? おれもいるってばれるだろ!」
「どうせ、最初からばれてるに決まってんだろ!」
「当たり前だぁぁぁ、トマァス、リィィィーッ……!」
扉の奥から獣のような低い唸り声が聞こえてくる。
「ここ数日食材が消えるというから巡回を強化してみれば、やっぱりお前たちかああああああああっ! 備品で俺を封じ込めようとは、いい度胸だなああああ!?」
ぎりぎりぎりぎりとおよそ人とは思えないような激しい歯軋りまで聞こえてきて、キリエは相変わらずの超人ぶりに肩を竦めた。
「やだなあ、先生。実は今、瓶が崩れてきちゃったんですよー」
「嘘を吐け。お前ら、表にも何か仕掛けただろうが」
「ええっ、そんなことするわけないじゃないですかー?」
「やめとけ、キリエ。いくらなんでも、それは棒読み過ぎる」
トルンが呆れた顔で呟く。
「というわけなんで、先生。もとはと言えば健全なパーティーを邪魔したのはそっちなんで、ここでおとなしく水でも飲んでてください」
「逆にお前には、もう少し、かわいげってもんはないのか……」
あまりに明け透けな物言いに、今度はヨアヒム先生が呆れた声を出す。トルンははははと乾いた笑い声を出した。
「えー? なに言ってんすか。こんなに可愛げがあってやんちゃで成績も優秀な子どもが他にいるわけないでしょう?」
「そういうところが憎たらしいと言っているんだっ」
「可愛さ余って憎さ百倍ってやつですね。分かります分かります」
「こっの……! ああ言えばこう言う……!」
それでも憎いだけとは言わないのが、なんともヨアヒム先生らしかった。そうしてヨアヒム先生が地団太を踏んでいる間に瓶を積み上げ終わると、トルンは再び声をかけた。
「それじゃあ、気付いているとは思うんすけど、ここ開けると瓶が全部倒れて明日の飲み物がなくなるんで、くれぐれも気をつけろよ。ニクマル」
「じゃあねー、ニクマル。後でお裾分けしてあげるよ。残ったら、だけど」
「ぐっ、行くんじゃない、この馬鹿者! これをさっさとどけんかああああああああ!!」
見えているわけもないがひらひらと手を振って、二人は爆笑しながら走って逃げだした。寮まで全速力で駆けながら、思い切り手を打ち合わせる。
「作戦、だい、せい、こう! 完封勝ち!」
「はっ! いつまでもやられて黙ってる俺たちじゃねえんだよ!」
食料調達はとうに終わっている。ヨアヒム先生の封じ込めにも成功した。他の先生も今頃は校舎の光に夢中になっていることだろう。あとはヨアヒム先生が救出されるまでの間に騒ぎを終わらせて撤収してしまえばいいのだ。
寮まで戻ってくると、玄関ホールで待ち構えていたクラスメイト達がわっと歓声を上げた。
「お帰り、トルン! キリエ!」
「作戦成功か!?」
「あったりめえだろ!」
うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおっ……!
床を踏み鳴らす音と手拍子がこだまする。さっそく飲み物とケーキ――ニーナのケーキだ。勝手に開封して切り分けておいたらしい――が配られて、お互いの肩に溢すのも厭わずに円陣を組んだ。キリエもその輪に入ろうとして、ペンダに押し出される。ちゃぷんと、ただでさえ溢れそうな中身が一気に半分飛び出した。
「ちょ、ペンダ」
「キリエは真ん中だろ。大将」
「大将って。それならトルンの方が合ってるんじゃないか」
他の誕生日を迎えた生徒と並んで肩を組んでいるのを指さすと、ペンダは首を振った。
「でも、今日はあいつは主役だから。それならお前が引っ張るのがふさわしいだろ?」
そうして、キリエの耳元に口を寄せて囁く。
「それに、せっかく練習したしな」
「ええっ、あれ本当にやるのか」
「だってあれ、特別なんだろ。なら、特別な日にやらなきゃ」
「おいおい、何の話だ?」
耳に入ったのか、トルンがきょとんと目をしばたかせる。ペンダはにっかりと歯を剥き出して、キリエの肩を強く叩いた。また中身が飛び出した。もう四分の一しかない。
「さいっこうのお祝いだよ! ほら、キリエ」
「ったく。しょうがないな……」
全員が円陣を組んだのを確認してから、キリエはこほんと一つ咳払いをした。視線が集中し、僅かに緊張しながらも、愛すべき仲間たち一人一人と目を合わせていく。一年生の時からずっと変わらぬこの顔触れに、もう本当に今年で最後なんだという気持ちが湧き上がってくる。いろいろなことがあった。最初は互いの出自や性格のことでぎくしゃくしたりもした。怒りも苛立ちも嫌悪も感じた。それなのに、今となっては愛おしさばかりが溢れてくる。
最後にトルンと目が合った。
トルンはその空色の瞳で、いつだってキリエの世界を広げてくれたその輝きで、大きく頷いてくれた。
「――歌いますっ!」
「いきなりかよ!」
面倒くさい前口上も何もかもすっ飛ばしてコップを振り上げたキリエに、全員苦笑しながらも続いてくれた。本当は今だって気恥ずかしい。それでも、これがキリエにとっての誕生日だし、最高のお祝いだから。
そして、そんなキリエのやり方にみんな賛同してくれたから。
ハッピバースデートゥーユー……
慣れない言葉に幾人かは適当にごまかしながらも、メロディーだけは必ず合わせてくる。短い、ひたすら同じ単語を繰り返すばかりの歌。ディアの後には十三人分の名前を早口で列挙して、一時爆笑とともに歌が止まる。
「せーのっ」
ハッピバースデー、トゥーユー……
「もういっちょ!」
やっぱり一人だけ真ん中というのは性に合わない。トルンの隣に強引に入り込んで、もはや中身のないコップを振り回しながらキリエは誰よりも大きな声で歌った。
ハッピバースデーディーア、……、……、……、……トールンー。
「せーのっ」
ハッピバースデー、トゥーユー……!
ぽんっと誰かが炭酸の瓶の蓋を飛ばした。コンコンと小気味よい音を立てて次々と天井に当たる。泡が降り注ぎ、大口を開けて受け止めながらしきりに笑いあった。フォークを取り忘れて直接ケーキにかぶりつき、こってりとした生クリームの甘さとぶどうの瑞々しい甘酸っぱさの美味しさに感動して、白い髭をつけたまま脇目も振らずに完食した。豆飛ばし大会が始まったようで、鼻糞のついた豆が魔法によって加速されてびゅんびゅん飛び交い、下卑た笑いと悲鳴が巻き起こっている。
「おいおい、はめ外しすぎだろ……」
トルンはきれいに平らげた皿とコップを持って、そんな喧騒を避けるように端へと寄っていった。キリエもそれについていき、二人で広間の隅っこに胡坐をかく。
「あっはは、まあいいじゃん。なかなか、こんなことできないし。おれやトルンと違って普段はおとなしいからさ、なんかいろいろ爆発してるんだろ」
「お前もやってきていいんだぞ」
「トルンこそ」
入りたい気持ちはある。しかし、なぜだか既にお腹いっぱいで、今はこのままでいいと感じていた。
まさか、ここまで学校生活が充実するとは思わなかった。
「俺もだよ」
「え?」
振り向くと、トルンは目の前をもつれるように通り過ぎっていった生徒の皿をさりげなく奪い、一人だけ二切れ目のケーキに突入していた。
「あ、ずりい!」
「食うか? これ、ぶどうだから、お前好きだろ」
「う、ううううう、いい。我慢する」
「本当に?」
目の前をちらちらと横切るケーキに、思わず涎が垂れた。
「でも、今日はトルンが誕生日だから」
「いや、その顔で言うなよ。説得力皆無だぞ」
「これは汗です」
「あのなあ……」
トルンはさっさとケーキを半分にすると、止める間もなく片方をキリエの皿に乗せてしまった。
「俺がいいって言ってんだから食え。それに、ニーナだってお前の感想が聞きたいんじゃないのか」
「いや、なに言ってんの。おれじゃなくてお前のために作ったんだから、お前が言えよ」
「……でも、どうせ、またあとで会うんだろ。だったら、もっと味わっとけよ」
「むう……」
口車に乗せられたようで悔しく、それでも食べたいという欲求には抗えなくて、キリエは大きくかぶりついた。
「ううううううううううう、んんまああーっ!」
やっぱりニーナのケーキは最高だった。夢中になって頬張っていると、トルンにハンカチを差し出された。
「ついてる」
「あとでいい」
「きたねえ」
「だって、まだ皿舐めてない!」
「舐めるな」
「やだ、舐める」
「おい」
「あのさ、トルン」
トルンは動きを止めて、それからどうしたと返してくれた。
「おれ、さ。本当に、ここ来てよかったよ」
「……」
「トルンや、みんなと、会えてよかった」
「……はあ」
トルンは顔面を覆う。ちらりと覗いた頬は、がらにもなく色づいているようにも見えた。
「それは、こっちの台詞だ。馬鹿」
「馬鹿じゃないし」
「馬鹿だろ。それでごまかせるとでも思ったか」
「あーっ!」
「あんたたちっ!!」
いそいそと隠そうとしていた皿を取られるのと、その声が響いたのはちょうど同時だった。
数人の男子の悲鳴が上がり、振り向くと、階段の手前にずらりと箒を構えた女子生徒たちが勢揃いしていた。その様は圧巻で、狂ったように盛り上がっていた場が一気に静まり返る。
先頭に立っていた女子はぐるりと睥睨すると、キリエとトルンを見つけてきっと眦を吊り上げた。
「一体、何時だと思ってんの! またあんたね、リー! トマス! 少しは目を瞑っていてあげようと思ったけど、もう我慢できないわ! ヨアヒム先生に突き出してやる!」
「うげ、お局じゃん」
お局はキリエたちと同じ白兵科七年のクラスメイトで、女子の首席だ。基本は彼女とも仲が良いのだが、さすがにこのどんちゃん騒ぎには逆鱗に触れたらしい。彼女の号令の下に襲い掛かってくる箒集団に、それまで浮かれきっていて、一部はズボンまで脱いでいた男子たちは、なすすべもなく駆逐されていった。
「やべえな。ずらかるか」
「だな」
そんな級友たちを囮にして、キリエとトルンはさっさと逃げ出すことにする。どうせ、ヨアヒム先生にあとで説教されることは確定済みなのだ。ここで余計なとばっちりは食らいたくない。今回騒いでいたのは、ほぼ他の生徒たちなのだから。
しかし、彼女はそうは思わないようで、進路上にいる別の男子を薙ぎ払いながらこちらへとずんずん向かってきた。
「待ちなさい! リー、トマス!」
「うわ、来たぞトルン」
「しょうがない、いったん外に――」
しかし、そこでトルンの歩みが止まる。思わず鼻をぶつけそうになったキリエは慌てて立ち止まった。
「ちょ、急に止まるなよ。何があったん、」
「リイイイイイイイイイイー、トマァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァスゥゥ……」
地獄の底から這いずってくるような低い低い声。玄関の向こうからのっそりと現れる小山のような影に、自然と顔が引きつっていった。
「え、早くね……?」
「しかも、このタイミングって……」
まさに前門の虎に後門の狼、ならぬ筋肉と箒集団。他に逃げ場もないような場所で前後から挟まれ、二人はそっと目配せした。
「どっちの方がましだと思う」
「後ろはやばい。前もやばいけど、後ろに行ったら絶対後がやばい」
「だよなあ」
絶体絶命の危機的状況に再び目配せを交わすと、二人はすうっと息を吐き出し、身構えた。こうなったらやるしかない。
ほぼ同時に、相手の背中を突き飛ばしていた。
「よし、囮は頼んだ!」「お前がニクマルをひきつけろ! おれは後から合流する!」
「「……」」
結局、二人してヨアヒム先生に頭から突っ込んでいく形になり、数秒遅れて絶叫する。
「「なにすんだ、てめえええええええ!!」」
「ほう、ずいぶんと余裕だな、貴様ら」
そして、筋肉の筋をびくびくと浮かせたヨアヒム先生の強烈なパンチが炸裂したのであった。
twilight.
日没後、あるいは日の出前の薄明のこと。
その日だけは、一人ではなかった。
メアリーがとびきりのご馳走を作ってくれて、光の粒をたくさん散らしてくれる。祖父も早くに帰ってきて一緒の食卓に並んでくれて、そして、キリエの頭を優しく撫でてくれた。その日だけは特別で、キリエにとってかけがえのない一日で、他のことは忘れてもそのことだけはいつまでも覚えているのだろう。
だからこそ、同じことをしてあげたいと思うのだった。
「うわー、まじかー……」
キリエが廊下に立ち尽くしていると、後ろから思い切り腰を叩かれた。
「いっで!」
「何ぼーっと立ってんのよ。邪魔よ邪魔」
振り返ると、そこにいたのは魔法兵科の少女だった。淡い桃色の髪をふわふわと揺らし、大きな胸を強調するように腕を組んでふんぞり返っている。強気な態度と乱暴な言葉遣いだが、その身長はキリエの腹ほどしかなく、苛立ちよりもほんわかとした気持ちになった。
なんとなく見覚えがあり、キリエは記憶をたどる。
「あー、もしかして、トルンにくっついてたことある?」
「そうよ。魔法兵科七年のニーナ・アリーニナ。ついでに言うなら、私はいつもいるわ。小っちゃくて見えないらしいけどね!」
ぷうと頬を膨らます様は大変愛らしい。しかし、残念なことに十歳くらいの幼女にしか見えず、キリエはまた口元を緩めてしまった。
「そうかそうかー。飴ちゃん、いる?」
「舐めてんじゃないわよ。金玉潰すわよ。あ、飴はもらうわ!」
「……」
幼女は想像以上に過激だった。
がりがりと飴玉を噛み砕くニーナに内心恐々としていると、それで、とニーナが振り返ってくる。思わず肩が跳ねた。
「……ちょっと、何よ今の反応」
「え? なんのことかな?」
「しらじらしいっ……。まあ、いいわ。それで、なんでこんなところに立ち尽くしてたの?」
「ああ」
キリエは眉をハの字にして後頭部を掻きむしると、先ほどヨアヒム先生に渡された手紙を示して見せた。模様の入ったかわいらしい封筒だ。ニーナが送り主の名を読む。
「メアリー・ローズクランス……て、まさか、〈薔薇の魔女〉!?」
キリエが頷くと、ニーナは感激したように何度も文字を指でたどった。
「ふぁぁ、ローゼン・マグと知り合いって、本当だったのね!」
「正確には、おれの育ての親、かな」
ニーナはきらきらと手紙を見つめていたが、その言葉にふっと顔を上げた。
「意外。教えてくれるのね」
「教えるも何も、知ってる奴は結構多いから」
「あ、あら、そう……」
拍子抜けしたような返事に、キリエはくすくすと笑う。ニーナはなぜか顔を真っ赤にして手紙を突き返してきた。
「そ、それでっ、ローゼン・マグが一体どうしたのよ?」
「いや、メアリーは何もないんだ。――ほら、ニーナも知ってるだろうけど、今度トルンの誕生日があるだろ?」
「そ、そういえばそうだったかしら?」
歯切れ悪く視線をさまよわせる姿に、キリエはにやにやとしてしまう。おそらく、ニーナも他の女の子と同じように贈り物を用意しているのだろう。その好意が自分に向かないのはやや惜しかったが、それでも恋する女の子は見ていて気持ちがよかった。
「それで、毎年お祝い会をしてるんだけどね、その時にメアリーに頼んでケーキを送ってもらってるんだよ。だけど、今年は用事が被ったとかで無理そうでさ」
「そうだったのね」
メアリーのケーキは美味しく、トルンも毎年絶賛してくれた。キリエとしても彼女のケーキがないとどこか締まらないような気がして、それでひそかに落ち込んでいたのだった。
しかし、落ち込んでばかりもいられない。やはり、誕生日にはケーキがつきものなのだ。たとえ最高のものが手に入らないのだとしても、なんとかして代わりを工面しなければならない。
「ニーナは、どこかお菓子屋さんがあるか知ってる? おれ、あんまり町に行かないから詳しくなくてさ」
自分よりも詳しそうなニーナに訊くと、彼女は少し考えた後に首を振った。
「駅にケーキを売ってるお菓子屋さんなんてないわ。みんな自分で作っちゃうし、そういうのは中央に行かないと」
「あー、やっぱりそうかー……」
半ば予想していた答えにがっくりと肩を落とす。トルンの誕生日は来週だった。休息日に中央まで買いに行くことはできるが、そのためには外出申請をしなければならず、そしてその期限はとうに過ぎている。すぐそばの西方駅のある中継街までなら申請を出さなくても行けるのだが、お菓子屋がないとなると意味がない。
「いっそのこと、自分で作るか……?」
料理なんてメアリーが作っているところしか見たことがないうえに、彼女は魔法で分量も火加減も操作していたのを思い出し、キリエはごくりと唾を飲み込んだ。どう考えても、自分に同じ作業ができるとは思えない。
キリエが呻っていると、ニーナがどこか緊張した面持ちでぎゅっと手を握りしめ、やや上ずった声を上げた。
「あ、あのっ」
「うん?」
「わ、私が作ってあげましょうか!?」
思いがけない申し出に呆気にとられたのも束の間、キリエはニーナの表情が強張っているのに気づいていやいやと叫んだ。
「ありがたいけど、でも、申し訳ないし、というか、ニーナできるの!? 大丈夫!? だって、料理って、包丁飛んだり火が燃え上がったりするんだよ!?」
「ちょっ、失礼、じゃなくて! あなた何を見て育ってきたの!? そんなの料理じゃないわよ!」
ぎょっと目を剥くニーナに、キリエも顔を引きつらせて叫ぶ。
「だって、メアリーはレシピを見ながら包丁を浮かせて野菜切ったり、火の玉の中に突っ込んで焼いたりしていて……。だから、危ないから絶対に台所に入ってくるなって!」
「ちょ、それは特殊な例よ! ローゼン・マグだからできるの! 浮かせて切るんだったら、包丁に柄なんか必要ないじゃない!」
「た、確かに……!」
ニーナの言うことはもっともで、キリエは目から鱗が落ちたような心地がした。幼い頃からメアリーの魔法料理を見ていたから何も疑問に感じていなかったが、あれは普通ではなかったのだと初めて気が付いたのだった。
「じゃあ、料理ってどうやってやるんだ……?」
「柄を握って野菜切ったり、かまどに火を起こして炒めたりするのよ! まったくもう、そんなんじゃ今から練習したって誕生日には間に合わないわよ。しかも、お菓子作りってご飯作るよりも難しいんじゃないかしら」
「え、そうなの」
さらに衝撃の事実に、キリエはあんぐりと口を開けて固まった。ニーナは溜め息をついてその口を閉じさせると、ほんのりと頬を赤らめて言ったのだった。
「だ、だから、今回は私が作ってあげるわ。簡単なケーキだったら何度か作ったことがあるし、あなたに任せるのは不安だもの」
「でも、トルンにもともと作ろうとしてたんじゃないのか? そうしたら、ニーナが用意する時間が無くなっちゃうんじゃ」
「うっ、それは……、そ、そうよ! あなたが渡してくれたら、トルンも確実に食べてくれる上に、私の手作りだって覚えてくれるでしょ!? だから、これは取引よ。あなただけがおいしい思いをするわけないじゃない!」
「ああ、なるほど!」
ぽんと手を叩くと、ニーナも得意げに胸を張った。そういうことならばますます応援してあげたくなり、キリエはニーナにお願いすることにしたのだった。
教室に戻ってくると、教壇の周りに男子生徒が集まっていた。キリエが近づくと、一番に気が付いたペンダがおおと声を上げた。
「キリエ、どこ行ってたんだ? キリエも参加すんだろ?」
「え? 何が?」
「何がって、パーティーに決まってんだろ!」
そんなあっけらかんと言われても初耳なものは初耳なのだが、楽しそうな気配にキリエも輪の中に入っていった。
「パーティーって、何のパーティーだ? 記念日でもあったっけ」
「ちげえよ、お誕生日ぱーちーだよ!」
別の生徒が答える。滑舌がおかしいのは気付かなかったふりをして、キリエは問い返した。
「誕生日って、トルンのことか?」
「俺だけじゃないぜ。半年分、まとめてやるんだ」
「トルン」
輪の真ん中にいたのは悪友トルン・トマスだった。椅子に座っていても分かるがっしりとした体格はここにいる誰よりも大人として完成していて、そこに整った顔立ちとくれば、ニーナだけでなくいろんな女の子が吸い寄せられていくのも不本意ながら仕方ないと納得させられる。今も数人の女子生徒が離れたところから見守っていて、トルンがにやりと気障な笑みを浮かべるたびに黄色い歓声が上がっていた。
「俺らも今年で最後だろ。そうなったら、次いつ会えるかもわかんねえからな。来週で半年分、年明け後に残りをまとめてやろうかって話してたんだ」
「へえ、それはいいな!」
珍らしくまともな提案に驚きつつ、キリエは迷わず賛同した。
「それ、どこでやるんだ? ここ?」
「いや、食堂借りて飲み食いしようぜって」
「うわ、なにそれ最高じゃん」
そういうことなら、ニーナにもその日に用意してもらったほうがいいだろう。後で連絡しようと決めて、キリエはトルンの隣に割り込んだ。
「んで、全部で何人いるんだ?」
「あー、何人だっけ。手え上げろー」
勢いよく上がった腕を数えてみれば、全部で十二だった。
「で、あと俺だから十三」
「結構いるんだな。歌うとき大変だな」
キリエが笑うと、ペンダが首を傾げた。
「歌? なんで歌が大変なんだ?」
「へ? なんでって、誕生日の歌、歌うだろ? ハッピバースデートゥーユーって」
「は?」
「うぇ?」
ペンダだけでなくその場の全員がぽかんと口を開けるものだから、キリエもぽかんとし返してしまった。トルンだけがそっと俯いて笑いを堪えていた。
「え? 歌わないの? なんで?」
「なんでって言われても……」
困ったように顔を見合わせるクラスメイトたちにキリエも困惑する。トルンがようやく顔を上げた。
「少なくとも、俺の家では祈るだけだったな」
「あ、おれも!」
その言葉に追随するように次々に声を上げだして、キリエは唖然とした。輪から顔を出して女子の方を見れば、こちらもきょとんとして首を振っていた。
「ええー? うそ、おれんちだけ? なんで? おれ、毎年歌ってあげてたじゃん。なんでトルン言わないんだよ?」
「いやあ、水を差すのも悪いかと思ってさ」
「お前、それ確信犯だろ……」
トルンは悪びれた様子もなく肩を竦める。キリエがむっとしてその耳を引っ掴もうとしたところで、ペンダが間に入った。
「で、その歌ってどんなのなんだ?」
「え?」
何やら期待した顔で待っているペンダにキリエは狼狽えた。
「どんなって、え? なにが?」
「なにがじゃねえよ。歌でどんなって言ったら、こんな歌詞だーとか旋律だーとかに決まってんだろ?」
ペンダの目はやけにきらきらとしていて、歌ってみせろと雄弁に語ってくる。キリエは冷や汗を掻きながらそっと目を逸らした。
「歌詞? いや、歌詞は聞いても分かんないんじゃないかな? ひたすら向こうの言葉を繰り返してるだけだし……」
「向こうの言葉!?」
「まじかよ、すげえな!」
途端に食いつきのよくなる一同にキリエはしまったと内心舌打ちした。向こう側は確かにある世界で、キリエたちアルビオンの人々のルーツで、今では伝説にも近い存在だ。ただの伝説や噂ならばこんなに盛り上がらなかったのだろうが、実在するのに触れられないというのが、どうにも人々の心をくすぐるようだった。
キリエのそんな内心に気付いたのか、トルンがまたぶふっと噴き出す。すかさず睨みつけたが、身を乗り出し迫ってくる群れに慌てて手の平を向け牽制した。
「うわっ、ちょ、一斉に来るなよ! 転ぶだろ! 言っとくけど、向こうの言葉だからって全然すごくなんかないからな!? 向こうじゃわりと有名な歌らしいから、きっと他にも知ってる人はいるだろうし。しかも、誕生日おめでとうだぜ? 誕生日おめでとうをただ繰り返してるだけの歌なんか、何が面白いんだよ。分かったらもう聞くな。この話は終わり!」
「ええええええ?」
「そりゃないだろおがよぉぉ!」
「終わりじゃねえよ、勝手に終わらすなー」
「いいじゃん、ちょっとくらい教えてくれたって。俺らは知らないんだからさ」
「ケチ。心狭いぞ、このドケチ」
「狭くて結構だよ」
「うわっ、最低だな」
「サイテーイ! いやーん」
「すっとこどっこーい」
「どすこーい!」
「ぐっ……!」
あー言えばこう言う連中にキリエの口元が静かにひきつる。これだから向こうの話題は面倒なのだ。キリエにとってはごく当たり前のことでも、他の人はすぐに騒いで盛り上がる。引かれたりしないだけましなのだろうが、それでも自分だけ世間と違うというのは妙な居心地の悪さを覚えるものだし、毎回こんな反応ではいい加減飽き飽きとしてしまう。
気がつけば教卓に突っ伏して頭を抱えていた。
「だって、お前らうるさいじゃん……。教えてやっても文句ばっかりで、分からないって言ってんのに聞かないし……。おれだってなんでもかんでも知ってるわけじゃないんだよ……」
「じゃあ、分かる範囲でいいから教えろよ」
「そう言ったそばから、ぶーぶー言うからじゃねえかあああああああ!」
「おお、待て。どうどう」
教卓を蹴り上げながら飛びかかろうとすると、すぐさまトルンに押さえつけられた。がっしりとした腕が首に回って苦しさに呻くと、これまた大きくごつごつとした手に頭を撫でられる。しかも優しく、丁寧に。
「な、なにすんだよ、トルン……? 気持ち悪いぞ……?」
「傷心のお前を労わってやってんじゃねえか」
「え、いらなっ……」
「そうかそんなに撫でてほしかったか」
「うわっ!?」
今度はわっしわっしと豪快かつ乱暴に撫でくりまわされ、首が取れそうなほどに視界が回される。三半規管が揺さぶられる勢いに思わず嘔吐きそうになっていると、トルンが溜め息をつく気配がした。
「お前らも少しは学習しろ。こいつが嫌がるのなんていつものことじゃねえか。殴られそうになってびびるぐらいならやめろ」
「び、……びびってねえし!? なに適当な事言ってんだよトルン、ばーかばー、ごふっ!」
「ぐえっ!?」
トルンはおもむろにキリエを振り回すと、馬鹿と言った生徒の土手っ腹にキリエの頭を直撃させた。首に腕が回ったままだったため痛めることはなかったが、きゅっと気道を絞められてキリエは白目を剥きかけた。
しんとその場が静まり返り、皆がキリエと崩れ落ちた生徒に心配そうなまなざしを向ける。トルンだけは何事もなかったかのように再び大仰な溜め息をついてみせた。
「だから、学習しろって言ってんだよ。こいつがしつこくされて嫌がんのも、沸点が低いのも、今に始まったことじゃねえだろうが」
「それ、お前が言うか……?」
「ブーメランしてるぞブーメラン」
「もう一回言わせる気か」
恐れおののくクラスメイトたちにぴしゃりと言い放てば、もう何も言う者はいなかった。トルンは満足げに鼻息を吐き出し、ようやくキリエを解放した。
「っぐげ、げほっ、ごほっ……!」
「あ? 大丈夫か、キリエ」
「なわけ、あるか……!」
咳き込みながら繰り出したパンチは、当然というべきか、あっさりと躱されてしまう。だが、すぐさま狙った第二撃が椅子の足を払い、トルンは勢いよく引っ繰り返った。椅子を奪い取ってふんぞり返れば、呆れと関心の入り混じった目を向けてくるペンダや他のクラスメイト達と目が合う。
「ほんとお前ら、頑丈というか、よくやるよな……」
「こいつはまだぶっ倒れてんのに」
「さすが、ニクマルに殴られてもけろりとしてるだけのことはあるわ……」
「なに言ってんだよ。ニクマルのパンチ食らって無事な奴がいるわけないだろ」
憮然として言い返せば、何故か奇妙な顔をする一同にキリエはますます眉をひそめる。何もおかしいことは言っていないはずだ。キリエとトルンがヨアヒム先生に殴られ蹴られて悲鳴を上げているのはいつものことなのだから。
「あ! ていうか、トルン、さっきのなんだよ! 人のこと武器代わりにして! なんか最近、やり方がますますニクマルっぽくなってないか?」
「恐ろしいこと言うなよ。誰があんな筋肉達磨になってるっていうんだ」
身震いしながら起き上がったトルンにもダメージを負った様子は見られない。これでもかなり力いっぱいに蹴倒したのだが、全く効いていないようだった。これこそけろりにふさわしいのではないかと口をへの字に曲げていると、トルンは無理矢理キリエを押しのけて強引に椅子に入ってきた。
「なにすんだよ。押すな、狭い狭い」
「大丈夫だって。ニクマル用のだから、絶対いける」
「そりゃ、ニクマルは拳も図体もケツもでかいけどさあ……」
言い合いながらも少し大きめの座面に臀部を押し込んでいると、そんな二人の肩にぽんと手を置く人物がいた。空気が凍り付いた。
「……そうかそうか。随分と楽しそうに話しているから、鐘が鳴り終わっても俺は我慢してやっていたんだがなあ……」
どたばたと脱兎のごとく逃げ出すクラスメイト達。キリエとトルンもそれに続こうとしたがぐっと押さえつけられ、そのまま椅子の歪む嫌な音ともに腰が座面深くに嵌まり込んだ。互いの腰骨と肘掛けに圧迫され、ごりごりと擦られる。
「ぐっ!?」
「でえっ!?」
「器のうの字も出ないどころか、ここまで貶されるとは思わなかったぞ、リー、トマアアアアアアスッ!!」
次の瞬間、ヨアヒム先生お得意の筋肉サンドが炸裂し、二人の悲鳴が教室を越えて校舎中に響き渡った。
そして当然のことながら、怒髪天のヨアヒム先生により食堂の使用許可は却下されたのだった。
数日後。
校舎裏の人目のつかない場所にキリエは呼び出されていた。
「は、はいっ。作ってきたわよっ」
ぶっきらぼうにニーナが差し出してきたのは、茶色の厚紙に包まれたかなり大きな箱だった。差し出された拍子にふわりと甘い香りが漂い、自然と口元がほころぶ。
「うわあ、本当にありがとうニーナ! しかも、こんなに大きいの……」
「そ、そうでもないわよ。食堂の竈って大きいから、火加減さえ気を付ければ一気に焼けたわ!」
頬をピンク色にしながら胸を張るニーナはとても得意げで、とても可愛らしい。男ばかりでむさ苦しい白兵科に比べて、魔法兵科にはこんなに可愛い女の子が溢れているのだと思うと、むくむくとキリエの中に邪心が湧いてくる。すぐに頭を振って追い払い、にこりと笑みを浮かべた。
「でも、これだけの量を作るなんて、やっぱり大変だっただろ? しかも、ニクマルに見つからないように急いでお願いしたし……」
「だから、そうでもないって言ってるじゃない。ヨアヒム先生だって、私のことなんか気づいてなかったわ。なのに、そう頭を下げられると……。と、とにかく! なんだか変な感じがするからやめてちょうだい」
ニーナは困ったようにぷうとほっぺたを膨らませるが、褒められるのもやぶさかではないようで、僅かに口角を上げながら体を左右に揺すっていた。しかし、ニーナの言うことももっともで、キリエは内心で反省すると、そっと厚紙の蓋を開けて中を覗き込む。同じ褒めるなら、工程ではなくケーキそのもののほうがいいだろう。
「あ、ちょっと!」
ひんやりとした空気が蓋の隙間から流れ出てきて、キリエは目を瞠った。
「わあっ、なにこれすっご! え!? これ、生クリームだよね!? どうやって作ったんだ!?」
目に入ったのは、真っ白な雪に覆われた四角いケーキだった。表面にはクリーム以外何もないが、微かに果物の香りもする。間に挟まっているのだろう。想像以上の出来栄えに言葉を失っていると、ニーナが背伸びをして蓋を閉めた。
「ちょっと、せっかく冷やしてあるのに魔法が解けちゃうでしょ!」
「あ、ご、ごめん」
慌てて謝る。閉じられた蓋をつい名残惜しく見つめてしまったが、また夜になれば開けるのだからと言い聞かせて我慢した。
「でも、本当にびっくりした。おれ、生クリームって初めてだよ。あれって、どこかのお店でしか食べられないんだろ?」
キリエが問うと、ニーナはふふんと悪戯っぽく笑った。
「実は、今朝絞りたての牛乳をもらってきたのよ。牛乳ってすぐに加工しないと移動して販売なんてなかなかできないでしょ? しかも、生クリームはすぐ溶けちゃうから、だから市場には出回ってないの。でも、ここはすぐ近くに飼ってるところがあるから」
「まさか、直接交渉に行ったのか?」
「もちろん」
「うわあああ、なんてお礼を言ったらいいか……」
ただでさえトルン以外の分も作ってもらったのに、これだけ高価なものを用意から何もかも任せてしまって、先ほど反省したばかりなのにまたキリエは頭を下げていた。だが、こればかりはお礼を言わずにはいられない。それだけ生クリームというのは高価なのだ。砂糖だって昔に比べればずいぶんと当たり前になったものの、塩に比べればまだまだ値が張る。材料費としていくらか持ってきてはいたが、これで足りるのか自信がなかった。
そんなキリエの腰を、ニーナは勢いよく叩いた。
「だから、お礼はもういいって言ってるでしょ! 私にだって良いことはあったんだから、これくらいどうってことないわ! 寧ろ、ちょうどいい機会だったというか……」
「ニーナ……!」
「も、もうっ、そんな子犬みたいな目で見てくるのやめなさい! きゅ、きゅんきゅんしちゃうじゃないっ……」
顔を真っ赤にするニーナに、キリエも感極まって顔を真っ赤にしてしまう。こんなに良い子なのだから、きっと彼女の恋は実るに違いないと確信した。
「でも、本当に、何度でも伝えさせてくれ。ニーナ。ありがとう。絶対、いや、まだ食べてないのに何言ってんだって感じだけど、絶対に美味しいよ。おれが断言する。こんなに美味しくて、見た目も綺麗なケーキを作ってくれて、本当にありがとう。大切に味わうよ」
「はうあっ!」
胸を押さえてぱくぱくと口を開けるニーナは、こんな時でも可愛らしい。キリエは心の内で身悶えまくりつつ、精一杯の感謝と決意を伝えた。
「ありがとう、ニーナ。これなら、絶対トルンも美味しいって言うよ。あいつの耳にタコができるぐらい、何度でもニーナが作ったって言ってくるから!」
もしもつまらない反応を示すようだったら、必ずやあの木偶の坊を吊し上げて袋叩きの刑にしてくれる。こんなことまではさすがに言えなかったけれども、キリエはぐっと拳を握ってそう誓ったのだった。
ニーナが何故か頭を抱えた。
「ああ、もう、これ絶対伝わってないわね……」
「ん? どうかした?」
「いいえ、なんでもないわ」
顔を上げたニーナはいつも通りの完璧な美幼女だった。キリエは首を傾げたが、すぐにあることを思いついた。
「そうだ。よかったらニーナも参加する? 今日の夜に寮の一階なんだけど、どうせなら直接おめでとうって伝えたほうがよくないか?」
正確にはトルンの誕生日は明日なのだが、ヨアヒム先生が現れない限りは日付を越えるまで続くことは目に見えており、それならニーナが一番にお祝いを伝えられるかもしれなかった。なにより、ケーキを作ったのは彼女なのだ。男だったら多少は渋るかもしれないが、彼女なら参加しても誰も文句は言わないだろう。
キリエはそう思ったが、予想に反してニーナは首を振った。
「いいえ。遠慮しておくわ。ヨアヒム先生に怒られたくはないもの」
「あっはは、いざって時は真っ先に逃がすよ」
「それはそれで楽しそうだけど。でも、やっぱりいいわ」
「ん、そっか」
キリエたちはよくても、男の中に女の子一人はやはり嫌なのだろう。それ以上は無理に誘わず、キリエは最後にもう一度感謝を述べると、夜の準備のために再び走り出したのであった。
数時間後。
夜陰に紛れて待機場所に向かうと、茂みの陰に伏せている人物がいた。足を忍ばせてその隣に滑り込むと、その人は顔を上げる。
「お、来たか。キリエ」
「トルン。なんでここにいるんだよ」
パーティーの主役の一人としてトルンは会場に残っているはずだった。だが悪友はにやりと口元を歪めて、キリエの頭を小突く。
「俺ら以外にこんなことできる奴がいるかよ」
「無理矢理置いてきたのか?」
「むしろ、代われっつったら喜ばれた」
「まじか」
気持ちは分からなくもなく、二人でひっそりと笑いを噛み殺す。それだけ二人が今からやろうとしていることは危険で、同時にはらはらとした高揚感を味わえる特別なものだった。今までもごまんと繰り広げてきたことだが、それでもこの瞬間はいつでもどきどきする。心臓が高鳴り、手足が震え、来るその瞬間に笑いが止まらなくなる。それをぐっと堪えるからこそ、その後の達成感ははかり知れないものとなるのだが。
「でも、なにやるか分かってんのか」
「分かってるから来たに決まってんだろ」
大体、作戦を考えたのは俺だという言葉に、それもそうかと頷く。しばし地面に転がり待機していると、遠くから微かな気配が近づいてくるのが分かった。足音は全く聞こえないが、お互いが緊張したことで確信を深める。そのままじっと死んだように伏せていると、大きな影が二人の上を横切り、食堂へと向かっていった。
「……」
「……」
すっと顔を上げ、視線だけを送る。ただし直接は当てず、そっと逸らす形で。敵は敏感だ。少しでも注意が向けられたと分かれば、怪物並みの反射速度で二人を捕らえにかかる。
「……やっぱり、まずはそっちに行ったな」
「よし、回り込むぞ」
茂みを離れ、音もなく移動を開始する。消えそうな気配に注意を払いながら、食堂の裏口へと駆け込むと、トルンが先行し、手を組み合わせて振り返った。キリエはそのまま勢いよく走りこみ、手前で大きく跳躍してトルンを踏み台にして飛び上がる。トルンも合わせて腕を跳ね上げ、キリエは難なく屋根の上まで上昇した。
「っと、」
少々よろけかけるもののバランスを取り、すぐさま後ろを振り返る。眼下の暗闇でトルンが親指を立てているのが分かった。キリエも返し、そこからは単独で屋根伝いに食堂の表を目指す。
屋根を駆け回るのももうお手の物で、あっという間に表に到達すると、すぐそばに見えた影に慌てて身を伏せた。ちょうどぴったりだ。やがて影はキリエの死角に入り、なにも分からなくなったが、がちゃがちゃと鍵を確認する音がして今度は裏口へと回ったのが見えた。
たっぷり十数秒を数えてから地面へと飛び降りる。膝を柔らかくたゆませて衝撃を吸収すると、事前に用意しておいた鎖と南京錠を取り出して手早く表口の把手に巻き付けた。何重にも雁字搦めにし、それでも物足りず、軒下に放置されたままだったメニュー板を拝借してそれも差し込む。なにかと粗暴ですぐ手の出ることで敵は有名だが、教師としての意地なのか器物損壊だけは避けようと頑張っていた――かなりの確率で失敗しているが。なので、今回も頭に血が上る前に気が付くよう、あえて文字を内側に向けて差し込んでおいた。
「これでよし、と――」
「ごうおるああああああああああああああっ!! やっぱり来たなトマアアアアアアアアアアーーーーーースッッ!!」
「うわっ」
突如鳴り響いた大音声に鼓膜がびりびりと震え、キリエは耳を押さえた。衝撃にメニュー板がかくんとずれ落ちる。とうとうトルンは見つかったらしい。もともとそういう作戦だったとはいえ、まさかこんな怪物じみた砲声を至近距離で浴びせかけられるとは、トルンもついていないとキリエは気の毒に感じた。
だが、キリエにもまだやることがある。敵――ヨアヒム先生はそのままトルンに任せてその場を走りだすと、今度は校舎へと向かった。
塼造りの校舎は〈大嘘つき〉時代ではなく二王の世になってから建てられたものだが、中央の集合住宅を除くとほとんど唯一といって言いほどの高層建築となる。階数は三、横に長く、屋上もついている。だが、この高さならヨアヒム先生は最上階に到達するより早くに外壁をよじ登れてしまうことだろう。だから、屋上ではなく最上階の目星をつけておいた部屋に目掛けて、キリエは人差し指を向けた。
「twilight, dancing」
魔法素は集まらない。そもそも、まだこの位置では目標まで遠すぎる。にもかかわらず、室内にはぽおっと無数の光の粒が浮かび上がり、そのままぐるぐると回りだした。色とりどりの眩しい光の応酬は、まるでそこに誰かがいるように錯覚させる。
触媒魔法。
事前に仕込んでおいた触媒に、あとは火をつけるだけ。あまり離れていると起動しないが、この程度の距離ならば問題はない。
メアリー直伝のそれは、本当は誕生日パーティー用にとっておいたものだが、まあいいかとキリエは笑った。これだけ眩しければ、もしかしたら寮からも見えるかもしれない。
来た道を引き返すと、光の粒は食堂までは十分に届いていた。よしと拳を握った直後、どおおおおんっ……! と足元が揺れる。慌てて正面を向けば、揺れているのは食堂の方だった。裏口に戻ると、トルンが必死の形相で瓶の入った籠を扉の前に積み上げている。どおおおおおおおおんっ……! と再び地鳴り。扉が枠ごとがたがたと悲鳴を上げ、ぱらぱらと粉塵が舞う。どうやら、閉じ込めには成功したらしい。
駆け付けたキリエにトルンが気付き、切羽詰まった声を上げた。
「ちょ、おい、キリエ、おせえよ! 早く手伝え!」
「うわ、名前呼ぶなよ!? おれもいるってばれるだろ!」
「どうせ、最初からばれてるに決まってんだろ!」
「当たり前だぁぁぁ、トマァス、リィィィーッ……!」
扉の奥から獣のような低い唸り声が聞こえてくる。
「ここ数日食材が消えるというから巡回を強化してみれば、やっぱりお前たちかああああああああっ! 備品で俺を封じ込めようとは、いい度胸だなああああ!?」
ぎりぎりぎりぎりとおよそ人とは思えないような激しい歯軋りまで聞こえてきて、キリエは相変わらずの超人ぶりに肩を竦めた。
「やだなあ、先生。実は今、瓶が崩れてきちゃったんですよー」
「嘘を吐け。お前ら、表にも何か仕掛けただろうが」
「ええっ、そんなことするわけないじゃないですかー?」
「やめとけ、キリエ。いくらなんでも、それは棒読み過ぎる」
トルンが呆れた顔で呟く。
「というわけなんで、先生。もとはと言えば健全なパーティーを邪魔したのはそっちなんで、ここでおとなしく水でも飲んでてください」
「逆にお前には、もう少し、かわいげってもんはないのか……」
あまりに明け透けな物言いに、今度はヨアヒム先生が呆れた声を出す。トルンははははと乾いた笑い声を出した。
「えー? なに言ってんすか。こんなに可愛げがあってやんちゃで成績も優秀な子どもが他にいるわけないでしょう?」
「そういうところが憎たらしいと言っているんだっ」
「可愛さ余って憎さ百倍ってやつですね。分かります分かります」
「こっの……! ああ言えばこう言う……!」
それでも憎いだけとは言わないのが、なんともヨアヒム先生らしかった。そうしてヨアヒム先生が地団太を踏んでいる間に瓶を積み上げ終わると、トルンは再び声をかけた。
「それじゃあ、気付いているとは思うんすけど、ここ開けると瓶が全部倒れて明日の飲み物がなくなるんで、くれぐれも気をつけろよ。ニクマル」
「じゃあねー、ニクマル。後でお裾分けしてあげるよ。残ったら、だけど」
「ぐっ、行くんじゃない、この馬鹿者! これをさっさとどけんかああああああああ!!」
見えているわけもないがひらひらと手を振って、二人は爆笑しながら走って逃げだした。寮まで全速力で駆けながら、思い切り手を打ち合わせる。
「作戦、だい、せい、こう! 完封勝ち!」
「はっ! いつまでもやられて黙ってる俺たちじゃねえんだよ!」
食料調達はとうに終わっている。ヨアヒム先生の封じ込めにも成功した。他の先生も今頃は校舎の光に夢中になっていることだろう。あとはヨアヒム先生が救出されるまでの間に騒ぎを終わらせて撤収してしまえばいいのだ。
寮まで戻ってくると、玄関ホールで待ち構えていたクラスメイト達がわっと歓声を上げた。
「お帰り、トルン! キリエ!」
「作戦成功か!?」
「あったりめえだろ!」
うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおっ……!
床を踏み鳴らす音と手拍子がこだまする。さっそく飲み物とケーキ――ニーナのケーキだ。勝手に開封して切り分けておいたらしい――が配られて、お互いの肩に溢すのも厭わずに円陣を組んだ。キリエもその輪に入ろうとして、ペンダに押し出される。ちゃぷんと、ただでさえ溢れそうな中身が一気に半分飛び出した。
「ちょ、ペンダ」
「キリエは真ん中だろ。大将」
「大将って。それならトルンの方が合ってるんじゃないか」
他の誕生日を迎えた生徒と並んで肩を組んでいるのを指さすと、ペンダは首を振った。
「でも、今日はあいつは主役だから。それならお前が引っ張るのがふさわしいだろ?」
そうして、キリエの耳元に口を寄せて囁く。
「それに、せっかく練習したしな」
「ええっ、あれ本当にやるのか」
「だってあれ、特別なんだろ。なら、特別な日にやらなきゃ」
「おいおい、何の話だ?」
耳に入ったのか、トルンがきょとんと目をしばたかせる。ペンダはにっかりと歯を剥き出して、キリエの肩を強く叩いた。また中身が飛び出した。もう四分の一しかない。
「さいっこうのお祝いだよ! ほら、キリエ」
「ったく。しょうがないな……」
全員が円陣を組んだのを確認してから、キリエはこほんと一つ咳払いをした。視線が集中し、僅かに緊張しながらも、愛すべき仲間たち一人一人と目を合わせていく。一年生の時からずっと変わらぬこの顔触れに、もう本当に今年で最後なんだという気持ちが湧き上がってくる。いろいろなことがあった。最初は互いの出自や性格のことでぎくしゃくしたりもした。怒りも苛立ちも嫌悪も感じた。それなのに、今となっては愛おしさばかりが溢れてくる。
最後にトルンと目が合った。
トルンはその空色の瞳で、いつだってキリエの世界を広げてくれたその輝きで、大きく頷いてくれた。
「――歌いますっ!」
「いきなりかよ!」
面倒くさい前口上も何もかもすっ飛ばしてコップを振り上げたキリエに、全員苦笑しながらも続いてくれた。本当は今だって気恥ずかしい。それでも、これがキリエにとっての誕生日だし、最高のお祝いだから。
そして、そんなキリエのやり方にみんな賛同してくれたから。
ハッピバースデートゥーユー……
慣れない言葉に幾人かは適当にごまかしながらも、メロディーだけは必ず合わせてくる。短い、ひたすら同じ単語を繰り返すばかりの歌。ディアの後には十三人分の名前を早口で列挙して、一時爆笑とともに歌が止まる。
「せーのっ」
ハッピバースデー、トゥーユー……
「もういっちょ!」
やっぱり一人だけ真ん中というのは性に合わない。トルンの隣に強引に入り込んで、もはや中身のないコップを振り回しながらキリエは誰よりも大きな声で歌った。
ハッピバースデーディーア、……、……、……、……トールンー。
「せーのっ」
ハッピバースデー、トゥーユー……!
ぽんっと誰かが炭酸の瓶の蓋を飛ばした。コンコンと小気味よい音を立てて次々と天井に当たる。泡が降り注ぎ、大口を開けて受け止めながらしきりに笑いあった。フォークを取り忘れて直接ケーキにかぶりつき、こってりとした生クリームの甘さとぶどうの瑞々しい甘酸っぱさの美味しさに感動して、白い髭をつけたまま脇目も振らずに完食した。豆飛ばし大会が始まったようで、鼻糞のついた豆が魔法によって加速されてびゅんびゅん飛び交い、下卑た笑いと悲鳴が巻き起こっている。
「おいおい、はめ外しすぎだろ……」
トルンはきれいに平らげた皿とコップを持って、そんな喧騒を避けるように端へと寄っていった。キリエもそれについていき、二人で広間の隅っこに胡坐をかく。
「あっはは、まあいいじゃん。なかなか、こんなことできないし。おれやトルンと違って普段はおとなしいからさ、なんかいろいろ爆発してるんだろ」
「お前もやってきていいんだぞ」
「トルンこそ」
入りたい気持ちはある。しかし、なぜだか既にお腹いっぱいで、今はこのままでいいと感じていた。
まさか、ここまで学校生活が充実するとは思わなかった。
「俺もだよ」
「え?」
振り向くと、トルンは目の前をもつれるように通り過ぎっていった生徒の皿をさりげなく奪い、一人だけ二切れ目のケーキに突入していた。
「あ、ずりい!」
「食うか? これ、ぶどうだから、お前好きだろ」
「う、ううううう、いい。我慢する」
「本当に?」
目の前をちらちらと横切るケーキに、思わず涎が垂れた。
「でも、今日はトルンが誕生日だから」
「いや、その顔で言うなよ。説得力皆無だぞ」
「これは汗です」
「あのなあ……」
トルンはさっさとケーキを半分にすると、止める間もなく片方をキリエの皿に乗せてしまった。
「俺がいいって言ってんだから食え。それに、ニーナだってお前の感想が聞きたいんじゃないのか」
「いや、なに言ってんの。おれじゃなくてお前のために作ったんだから、お前が言えよ」
「……でも、どうせ、またあとで会うんだろ。だったら、もっと味わっとけよ」
「むう……」
口車に乗せられたようで悔しく、それでも食べたいという欲求には抗えなくて、キリエは大きくかぶりついた。
「ううううううううううう、んんまああーっ!」
やっぱりニーナのケーキは最高だった。夢中になって頬張っていると、トルンにハンカチを差し出された。
「ついてる」
「あとでいい」
「きたねえ」
「だって、まだ皿舐めてない!」
「舐めるな」
「やだ、舐める」
「おい」
「あのさ、トルン」
トルンは動きを止めて、それからどうしたと返してくれた。
「おれ、さ。本当に、ここ来てよかったよ」
「……」
「トルンや、みんなと、会えてよかった」
「……はあ」
トルンは顔面を覆う。ちらりと覗いた頬は、がらにもなく色づいているようにも見えた。
「それは、こっちの台詞だ。馬鹿」
「馬鹿じゃないし」
「馬鹿だろ。それでごまかせるとでも思ったか」
「あーっ!」
「あんたたちっ!!」
いそいそと隠そうとしていた皿を取られるのと、その声が響いたのはちょうど同時だった。
数人の男子の悲鳴が上がり、振り向くと、階段の手前にずらりと箒を構えた女子生徒たちが勢揃いしていた。その様は圧巻で、狂ったように盛り上がっていた場が一気に静まり返る。
先頭に立っていた女子はぐるりと睥睨すると、キリエとトルンを見つけてきっと眦を吊り上げた。
「一体、何時だと思ってんの! またあんたね、リー! トマス! 少しは目を瞑っていてあげようと思ったけど、もう我慢できないわ! ヨアヒム先生に突き出してやる!」
「うげ、お局じゃん」
お局はキリエたちと同じ白兵科七年のクラスメイトで、女子の首席だ。基本は彼女とも仲が良いのだが、さすがにこのどんちゃん騒ぎには逆鱗に触れたらしい。彼女の号令の下に襲い掛かってくる箒集団に、それまで浮かれきっていて、一部はズボンまで脱いでいた男子たちは、なすすべもなく駆逐されていった。
「やべえな。ずらかるか」
「だな」
そんな級友たちを囮にして、キリエとトルンはさっさと逃げ出すことにする。どうせ、ヨアヒム先生にあとで説教されることは確定済みなのだ。ここで余計なとばっちりは食らいたくない。今回騒いでいたのは、ほぼ他の生徒たちなのだから。
しかし、彼女はそうは思わないようで、進路上にいる別の男子を薙ぎ払いながらこちらへとずんずん向かってきた。
「待ちなさい! リー、トマス!」
「うわ、来たぞトルン」
「しょうがない、いったん外に――」
しかし、そこでトルンの歩みが止まる。思わず鼻をぶつけそうになったキリエは慌てて立ち止まった。
「ちょ、急に止まるなよ。何があったん、」
「リイイイイイイイイイイー、トマァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァスゥゥ……」
地獄の底から這いずってくるような低い低い声。玄関の向こうからのっそりと現れる小山のような影に、自然と顔が引きつっていった。
「え、早くね……?」
「しかも、このタイミングって……」
まさに前門の虎に後門の狼、ならぬ筋肉と箒集団。他に逃げ場もないような場所で前後から挟まれ、二人はそっと目配せした。
「どっちの方がましだと思う」
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「だよなあ」
絶体絶命の危機的状況に再び目配せを交わすと、二人はすうっと息を吐き出し、身構えた。こうなったらやるしかない。
ほぼ同時に、相手の背中を突き飛ばしていた。
「よし、囮は頼んだ!」「お前がニクマルをひきつけろ! おれは後から合流する!」
「「……」」
結局、二人してヨアヒム先生に頭から突っ込んでいく形になり、数秒遅れて絶叫する。
「「なにすんだ、てめえええええええ!!」」
「ほう、ずいぶんと余裕だな、貴様ら」
そして、筋肉の筋をびくびくと浮かせたヨアヒム先生の強烈なパンチが炸裂したのであった。
twilight.
日没後、あるいは日の出前の薄明のこと。
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