kyrie 涙の国

くり

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ヒメの章

開拓暦586年1月、第一城壁、空き病室2

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 目を開けると、焼きたてのパンの匂いがした。
「ん……あー!」
 飛び起きると、ヒメが蜂蜜の塗ったパンを持って固まった。さっき食べたばかりの気がするのに、腹の虫が盛大に鳴る。ヒメが自分のパンを咥え、バスケットからもう一つ取ってくれた。赤面しつつ受け取ると、ヒメが飲み込んでから聞いてきた。
「もう大丈夫?」
「あー、多分。どこも痛くないし……。もしかしておれ、結構寝てた?」
「今、お昼の一時」
「うわっ、一日もか」
 しかしその分、昨日よりもどこかすっきりとしていて、頭も冴えていた。背中も曲げ伸ばしができるようになっている。治療する前はひどかった。少し動くと炭になって固くなった表面がばりばり割れて、シャツで固定してやっとまともに動いていたのだ。ヒメを心配させたくなくてつい隠してしまったが、どうせばれるなら最初から痛がっておけばよかったかと今さら後悔する。
 温かいパンを口いっぱいに頬張り、尋ねた。
「これ、食堂から?」
「ペンダ直伝、パンくすね」
「ははっ、これでヒメも悪ガキ仲間だな」
「本当? やったー」
 相変わらず口調も表情もおとなしいが、今ではその微妙な変化が手に取るようにわかる。キリエはつい嬉しくなって、もう一口頬張った。
「おいしい」
「どういたしまして。サラミもあるよ」
「豪華だなあ」
 くすりとしてパンを差し出すと、ナイフで薄く切ったサラミを載せてくれた。久し振りの肉に喜んでいるのがばればれだったようで、ヒメが小さく噴き出した。
 昼食を終えると、ヒメに背中の包帯と湿布を替えてもらった。今朝、例の看護師が来て替えを持ってきてくれたらしい。ベッドに寝そべりじっとしていると、ヒメがほっと息を吐くのが聞こえた。
「赤いの、引いてる。腫れもないよ」
「本当?」
「うん。でも、一応貼っとく」
 湿布のひんやりとした感触が広がった。その上に包帯を巻くと、シャツを着直す。上着を探すと、洗濯して元の純白さを取り戻したものを渡された。
「ありがとう」
「今日こそ下も洗うからね」
「えっ、もう二着あるから平気だよ」
 思わず身構えれば、ヒメも首を傾げる。
「? あるのはパンツでしょ。パンツで歩き回るの?」
 今度こそはズボンのことを指していたらしい。
 それでもパンツ一丁への抵抗を諦めきれないキリエは自分のズボンを見て、ヒメのを見た。明らかに大きさも形も違う。そもそも、キリエにあれを借りて履く勇気はない。やっぱり諦めて頭を下げた。
「お願いします」
「うん」
 ヒメは頷いて、次に上着を着やすいように広げてくれた。背中の傷を慮ってくれてのことだとは分かっているのだが、その距離感に今さらながら躊躇してしまう。脳裏にどうしてもペンダの顔が浮かぶ。
「キリエ、早く」
「ああ、うん」
 袖に腕を通すと肩まで持ってきてくれた。ボタンを留めながら、それを口実に俯きながら、キリエはおそるおそるヒメに問う。
「ヒメ……やっぱり、本当に良いのか?」
「大丈夫だよ。私、キリエの服には興味ないし」
「いや、そうじゃな……服には?」
 ぎょっとして見ると、ヒメは小机の脇にまとめておいた武器を指さした。
「キリエがナイフ一本でどうしようとしたのか、とても気になる」
「あ、あー、そういうこと……」
「どういうことだと思ったの?」
「ナイフ、取ってくれる?」
「あ、ごまかした」
「いいから」
「はいはい」
 ナイフを貰う。全体的にすっきりとしてはいるが、矛に取り付けるためにか装飾で妙にでこぼこしている。装飾の下の刀身と柄は白く、よく見ると怪物の骨でできていた。ここに、とキリエはナイフを示してみせた。
「魔法素が溜め込んである」
「魔法素が?」
「触媒魔法だ」
 聞いたことがないようでヒメは首を傾げた。無理もない。今では使う人はほとんどいないはずだ。
「これも詠唱と同じで、〈大嘘吐き〉に対抗するために流行ったんだよ。まだ上手く魔法を使えない人のための補助として使われたんだ。今じゃ、もうそんなの必要ないから誰も使わないんだけどさ」
「それで、何かいいことあるの?」
 キリエは頷いた。
「まず、複合魔法が使いやすくなる。魔法素を分けて集める手間が省けるからだ。まあ、そのためには発動する魔法の数に合わせて触媒も用意しなきゃいけないんだけどさ。でも、魔法発動までの時間を圧倒的に短くできる」
「もう一つは?」
「魔法無効化でも魔法を使える」
 それこそが触媒魔法の使われた大きな理由だった。〈大嘘吐き〉やその配下に追い詰められた時に、逃走あるいは最後の足掻きとして昔の人は必ず携行したのだ。
「ただし、その状況で使えるのは触媒一つにつき一回だけ。魔法素を補充できないからさ」
「でも、なんか、すっごく便利」
「と、思うだろ?」
「違うの?」
「もともと魔法素なんて空気中に漂っているもので、物に宿るものじゃない。だから、大した魔法素を込められなくて、威力も使える時間もそんなにない」
 だから衰退したのだと言うと、ヒメは残念そうにナイフを見つめた。
「でも……メアリーさんは魔女だから、魔法で戦うんでしょ? それがどうして役に立つの?」
 複合魔法を使いやすくなるといっても、メアリーこそが複合魔法の大家だ。ナイフ一本で対抗できるとは思えない。そして、そもそも魔法戦ならば、たとえメアリーが魔法無効化魔法を使えたとしても、自らその状況を作りだすわけがないのだ。
 キリエは首を振った。
「違うんだ。メアリーと戦うと、勝手に魔法無効化が起きるんだ」
「?」
「周辺の魔法素が枯れるんだよ」
 どういうことなのか呑み込めず、ヒメはまばたきを繰り返した。
「枯れたら……、他から流れてくるよ」
「流れてこないんだ、向こう側は。ヒメ、おれたちがこれから行くのは、向こうの世界だ。向こう側は信じられないほど魔法素の量が少なくて、だから魔法素を根こそぎ持ってかれて、初めて戦った時、全く魔法を使えなかった」
 ヒメは軽く目を瞠り、息を呑む。
「その時は、ナイフじゃなかったの?」
「学校の槍を借りた。でも、あれじゃあ触媒としては厳しい。だから、今回はナイフを持って行って、メアリーの魔法が尽きるまで粘るつもりだったんだ。けど、さ……」
 散々な結果に苦笑するしかない。この五年間でいろいろ経験を積んできたつもりだったが、それでもまだ届かなかった。苦笑しながら、唇を噛む。
 ヒメは何やら考え込むように顎に指先を添えていた。それなのに、ぼーっとしているようにしか見えないのはある意味すごいなとキリエはひそかに感心する。
「キリエ」
「あ、うん、なに」
「メアリーさんの魔法が尽きたら、どうするつもりだったの?」
「ばあちゃんの時間が元通りに進むまでメアリーを押さえて、そうしたら、全部が変わる直前まで戻るんじゃないかと思う。おれはまた学生になって、それで……メアリーを、連れて帰るよ」
 決意を込めて宣言し、ちらりと反応を窺うと、ヒメはキリエを見てすらいなかった。なんだか空回りしたようで拗ねていると、ヒメが躊躇うように口を開いた。
「キリエ……」
「なに、ヒメ」
「キリエ。キリエって、もしかして……」
「もしかして?」
「……馬鹿?」
「…………はい?」
 ややあって、キリエは耳元に手を当てた。
「もう一回言ってみて?」
「キリエって、馬鹿?」
「……」
「キリエって、」
「馬鹿じゃない! 畜生、まさかヒメにそんなこと言われる日が来るなんて思わなかった! 馬鹿! ヒメの馬鹿!」
 確かに、キリエの決意は甘いと言われてしまえばその通りでしかない。一度敵となった以上、また同じことを繰り返させないようにするには倒してしまうのが確実だ。
 それでも、キリエにはそんなことはできなかった。全て覚悟したうえで、決めたのだ。
 しかし、面と向かって言われると心に刺さるものがあり、思わずベッドに突っ伏して叫ぶと、ヒメも心外そうに唇を尖らせた。
「だって、キリエ、秀才ではないでしょ」
「おれ、頭良いし!」
「良いのに、どっか抜けてるよね。残念」
「残念系男子とかやめろ!」
「私、そこまで言ってな……もしかして、言われたことあるの?」
「あるよ! あるとも! ああ、ありますよ! 昔、告ったら言われたんだよ!」
「……」
「なんか反応してくれよぉ!」
 ますます枕にしがみつくキリエの頭を、ヒメはそっと撫でた。
「残念だけど、可愛いと思う」
「嬉しくない!!」
 ひとしきり騒いだら落ち着いてきて、キリエはそっぽを向きながら話を戻した。
「でも、しょうがないだろ。おれはメアリーのことをどうしても憎めないんだ。それに、メアリーのことはよく知っている。ちゃんと話せば、きっと戻ってきてくれるはずなんだ」
「そうなの?」
「そうなの、って……。そういう話をしてたんだろ」
「え?」
「はい?」
 沈黙が流れる。
 また自分は何か勘違いをしたのかとキリエが思い至ると、ヒメが困ったように頬を掻きながら言った。
「えっと、メアリーさんとの戦い方の話だよね? 要はメアリーさんの魔法さえ抑えられればいいみたいだから、私は、もっと簡単な方法があるよって言おうと思ったんだけど」
「え、そうなの? そんな方法があるの? すごいなあ、全然思いつかなかったなあ。で、どんな方法?」
 我ながらかなりの棒読みに、ヒメがものすごく残念なものを見る目でキリエを見てきた。
「やめろそんな目でおれを見るな」
「……キリエ」
「で? どんな方法なんだよ。魔法を抑えるったって、おれ達に魔法無効化は使えない。他に何があるんだ」
 無理矢理軌道を修正すると、ヒメはまだ何か言いたげだったが、キリエは無視して考え込んだ。
 魔法無効化の技術はまだ魔法兵だけが独占している。しかも、最後のコーラショ戦で動員された魔法兵の数を考えると、おそらく一人二人で発動できるものではない。つまり、キリエもヒメも魔法無効化を起こすことは不可能なのだ。
 そこまで考えて、キリエは別の可能性に思い当たった。
「――あ。……いや、でも」
「何がでもなの?」
「だって、それは」
 キリエは口を噤む。何も言葉が浮かんでこない。戸惑うキリエの頭をヒメがまた撫でた。
「キリエは、やっぱりお馬鹿」
「うるさい」
「一人で思いつめすぎ」
「……だってさ」
 さすがにそのことに対する反論はできず、口をへの字にすると、ヒメにぽこりと叩かれた。
「もう駄目だよ。じゃんじゃん、私に頼ってくれないと。怒るよ」
 全然その気のなさそうなヒメにつられて、キリエはふっと笑みを浮かべていた。
「はい」
「よし」
 ヒメも微笑んで、キリエの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
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