kyrie 涙の国

くり

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ヒメの章

開拓暦586年2月、城壁の外、湖水地帯1

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 怪物の荒野。そうは言うものの、そもそもこの世界は怪物のものであり、人間の住む二王の城はそのごく僅かな部分を切り取ったに過ぎない。白みがかった灰色の大地がその大半を占めるとされ、特に城の西方は水溜まりの点在する通称湖水地帯である。
 城壁上からの眺めでは分かりにくいが、湖水地帯にはとにかく起伏が多い。大小さまざまな起伏には怪物たちが住み、体を休め、あるいは獲物を待って身を潜めている。起伏のいくつかに水が溜まっており、その周囲では怪物どもの戦いが勃発する。それ以外はいたって静かなものだった。この地帯にはかつて〈大嘘吐きヒポクリス〉に協力した強力な怪物が数多く存在するというが、いまだそのような怪物に遭遇することはなく、ヒメは順調に行程を進んでいく。弱肉強食といわれる世界で、種類も外形も全く異なる怪物がすれ違う姿も見た。城壁で襲い来る一部の怪物だけを見ていては知りえることのない世界だった。風もなく、静寂の支配する世界をヒメは辿っていった。

 城壁を飛び出して三日が経った。
日が暮れる前に、ヒメはキリエを見つけることができた。見つけること自体はとても簡単だった。女王から大体の位置は聞いていたし、時々怪物の湖の力がヒメにキリエの痕跡を教えてくれた。
 だが、これは全く予想していなかった。
「クウウウウウウウウウウウウッ、クッ、クウウウウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウッ……‼」
 キリエがいるらしき窪みの上にピンク色の巨大な猫がいて、長い長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら威嚇している。チャンデス・ハルだ。北寄りの地域に生息する魔法無効化型で大人しい性格をしており、繁殖期で興奮でもしない限り城壁に突撃してこない。キリエの父であるアベル・シュナイダーの発見により、音に敏感なのはヒメでも知っていたが、人に馴れるというのは――そもそもチャンデス・ハルだけでなくすべての怪物に言えることだが――聞いたことがなかった。しかし、このチャンデス・ハルはヒメがキリエに近付こうとするたびにあの長く強靭な尻尾を振りかざすため、ヒメはこうして遠目からキリエを見ることしかできないのだった。
 ヒメは威嚇されながらうろうろと周りをうろつく。
「キリエ、大丈夫かなぁ……」
「クウウウッ! クウウウウウウウウッ!」
「キリエー。キリエーッ。おーいっ」
「クウウウウウウウウウッ!」
「怪我してないよね……?」
「クウ、クウ、クウウウッ……!」
「あぁ、んんっ……」
 もう我慢できない。
 ヒメは頬を両手で包んで叫んだ。
「かわいいっ……‼」
 猫型という時点で十分にヒメの心を掴んでいるというのに、あの鳴き声はどういうことか。とても威嚇とは思えない。おまけにあのもふもふだ。触りたい。もふもふしたい。そんな欲求が抑えきれず熱っぽい視線を送ると、チャンデス・ハルはびくりと震えて余計に牙を剥きだした。はうっ、とヒメは口を押さえた。
「きばっ……‼」
「クウウウウウウウウウウウウッ‼ クウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ‼」
「はぁぁ……ああ、でも、キリエが……」
 もう一度キリエの様子を窺うが、その口調が少し残念そうなのは否めない。またうろうろし始めると、チャンデス・ハルもヒメの方をじっと睨みながら威嚇を続ける。だが、不意にその鳴き声がやんだ。大きな耳がぴくりと動き、ヒメの背後をじっと見つめる。ヒメは兄弟刀に手を添えて振り返った。何もいない。首を傾げた時、再びチャンデス・ハルの威嚇が始まった。風を切る鋭い音にヒメは急いで飛びのいた。何かが頬を掠め、ちりちりと熱くなる。
「ロオヤー……!」
 ヒメははっと目を見開き、唇を突き出すように窄ませて強く息を吹いた。それよりも一瞬早く敵は自らチャンデス・ハルの無効化範囲内に飛び込んできて、隠されていた姿があらわになる。
「コーラショ……⁉」
「キヒヤアアアアアッ!」
「ヒャアアアアーッ!」
 二頭、先日の戦闘の生き残りだろうか、だいぶ傷ついていた。ヒメを挟み込むように迫ってきたのをぎりぎりでかわす。自分も慣れない荒野や野宿に少なからず疲弊していたとはいえど、こんな至近まで接近を許したことにヒメはへこみつつ兄刀で応戦する。
 それにしても、たったの二頭でよく生き残れたものだとヒメは感心した。結局、コーラショは襲撃に失敗し、満足な力を得られなかったどころか群れそのものが崩壊した。群れることにより身を守ってきたコーラショがたったの二頭で、いくらヒメの想像よりも怪物の荒野が穏やかな世界だったとしても、ここまで来るのは相当大変だったはず――、そこまで考え、ヒメは首を振った。そんなはずはない。確かに、怪物の荒野は穏やかだった。魑魅魍魎の跋扈する世界ではあれど、慎重に進めば多少の危機は回避できる。だが、全くの無傷では済まない。ヒメだってすべては回避しきれなかったのに、それよりも襲いやすい手負いの獲物をみすみす逃すはずはないのだ。別の怪物が潜んでいる可能性がある。コーラショを泳がせておくことで、漁夫の利を得ようと企む狡賢い怪物が。
 ヒメは唇を噛んだ。だとしたら、それはヒメのせいだ。ヒメが来て耳の良いチャンデス・ハルが気を取られている隙に、コーラショどもは接近してきたのだ。ますますチャンデス・ハルに近付かせることはできない。必ず仕留めると、刀を握り直した時だった。
 ギャンッ! という悲鳴が聞こえてきた。
「ニャーちゃん!」
 チャンデス・ハルの腹に何か巨大な口を持つ怪物が齧りついている。どうやら、ここまで来て我慢ができなくなったらしい。チャンデス・ハルの尻尾が鞭のようにしなり、怪物を殴打する。怪物は吹っ飛ばされた。だが、すぐに立ち上がって、キリエを守るように構えるチャンデス・ハルと正対する。
「キヒッ」
「あっ!」
 気をとられた隙に一頭のコーラショがヒメの攻撃をすり抜け、チャンデス・ハルに躍りかかった。噛みつかれた腹部にべちょっと張り付き、がじがじと傷口を齧る。堪らず身悶えるチャンデス・ハルに大口怪物が体当たりし、三者はごろごろと転がっていった。キリエを覆う盾が、なくなった。
「キリエ!」
 キリエに駆け寄ろうとすると、横合いからもう一体が飛んでくる。遅い。ヒメは前に出した足をそのままに踏み込み、腰を捻って鋭く一閃させた。
「しっ!」
「キヒャッ――」
 腰を真っ二つにされ、コーラショは白目を剥いてぼとぼとと地面に落ちる。ヒメは今度こそキリエに走り寄った。
「キリエ!」
 キリエは大地の窪みにすっぽりと収まっていた。頬は青褪め、手は冷たいが、しっかり生きている。上下に動く胸にほっと一息つくと、立ち上がり、今度は両刀を抜いた。まだ、チャンデス・ハルが戦っている。チャンデス・ハルの頭を押さえつけて背中に噛みつく大口怪物目掛けてヒメは助走すると、その硬くがりがりの体を駆け上がった。あっという間に口ばかりの頭頂部に到達し、点のように小さく濁った黄色い複眼を狙って二刀を突き立てる。
 ンモオオオオオオオオオオッ……、とまるで牛のような咆哮が上がった。黄色い液体がびちゃびちゃと噴き上がる。チャンデス・ハルが身を捩り、大口怪物を払いのけた。大口怪物がひっくり返ったところをすかさず踏みつけて、鋭い叫び声をあげながら何度も何度も尻尾を振り落とす。同時に落とされたコーラショも慌てふためき逃げ出そうとしたが、巻き添えを食らって一緒に叩き潰された。
 寸前で飛び下りていたヒメは、刀を鞘に納めてようやく一息ついた。チャンデス・ハルは既にぴくりともしない大口怪物をまだ叩く、叩く、振り下ろす。びゅっと風を切る音の次の瞬間にはずしん、ずしん、と地響きの音がし、ぐちゃぐちゃになった皮膚や内臓、臼歯のような歯の欠片が飛び散った。唸り声の漏れる牙は歯肉が見えるほどに剥き出しになり、鼻筋には険しい縦皺が刻まれている。ヒメに威嚇していた時よりもあまりの剣幕と執拗さに、よほど痛かったのだろうかと呆気にとられていると、ぐらりとチャンデス・ハルの頭が傾いだ。あっと思った時には、チャンデス・ハルは倒れていた。
「ニャーちゃん!」
 駆け寄ると、チャンデス・ハルは小さく牙を剥きだしてただ唸った。間近で見るチャンデス・ハルの顔はやはり猫とは違った。目には瞼ではなく、透明な鱗が被さっている。ヒメは濡れた鼻を撫でると、腹の方に回った。大きくて深い歯形がくっきりと残り、コーラショが齧った箇所からの出血が特に酷い。背嚢から出したガーゼや包帯と合わせてみたが、到底足りるわけもなかった。ひくひくという痙攣に合わせて茶色い血が流れていく。ヒメは治癒魔法を使えない。使えたとしても、チャンデス・ハルの魔法無効化に打ち消されてしまう。ヒメはどうしていいか分からず、じっと流れる血を凝視した。
「ど、どうしよう……」
「――ヒメ?」
 ヒメは振り向いた。目を見開いてこちらを見るキリエに向かって走り、その首根っこに飛びついた。
「うわっ!」
 キリエはよろけて、ヒメを受けとめたまま倒れた。やがておずおずと声がかけられる。
「……ヒメ?」
「……うん」
「本当に?」
 キリエの手がヒメの髪をおそるおそるといった手つきで触ってくる。ヒメはキリエの肩口に鼻を擦りつけた。
「うん」
「夢じゃない?」
「どうしてそんなに疑うの?」
「だって……」
 ヒメを抱く腕にぎゅっと力がこもり、
「夢を見てたからさ。ヒメに会う夢を」
「本当?」
「本当」
「嬉しい」
「なんで?」
「やっぱり、キリエは私をちゃんと見てくれてたんだなって」
「――――当たり前だろっ……っ」
 キリエの涙は静かに零れた。息すらも殺すような静かな涙だった。それがなんだか嬉しくて、ヒメはふへへと笑いながらキリエの頬に自分のを寄せた。
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