15 / 30
ヒメの章
開拓暦586年2月、王城、女王の居室
しおりを挟む
Come back, Hime.
せり上がっていく。せり上がってくる。気持ち悪い。口を開けた。
「――ッカハ!」
水が飛び出し、ひゅっ、と音が鳴った。まだ中に溜まっている。体をくの字に折って吐き出そうとしたら、すっと目を塞がれた。思わず肩が跳ね上がる。
「っ、」
「大丈夫よ。大丈夫。……安心して」
優しい声とともに背中をさすられる。強烈な吐き気がこみあげてきて、ヒメは縮こまって本能に身を任せた。大量の水が溢れだし、それでも足りずに喉の奥に指を突っ込む。一通り出し終えると、今度は寒さに震えた。寒いと感じられることに歓喜した。
「あ、ああ、あっ……!」
涙がこぼれる。目を塞がれたまま抱き寄せられた。誰の胸かもわからないまま、ヒメはしゃくりあげた。耳元に唇が寄せられる。
「もう少しだけこのままで我慢してちょうだいね。あともう少しだけ、ね」
ヒメは頷いた。女性は笑ったようだった。
風が強くなる。ヒメの髪と女性のスカートがはためく。いつの間にか雨はやんでいた。だが、まだ全身はずぶ濡れで、強い風にどんどん体は冷えていって、無意識に内腿を擦り合わせた。そこでヒメは気がついた。
足が地面についていない。
ヒメは飛んでいた。
首を竦めると、女性はヒメを抱く手に力を加えた。
「大丈夫よ。わたしを信じて」
柔らかくて、そのまま沈み込んでいってしまいそうな声だった。ヒメは女性に縋りつき、頭をくったりと預けた。何も考えたくなかった。
「降りるわ」
数十秒後、足が硬い床についた。女性の手が目から離れ、ヒメは飛びこんできた光に目を瞑った。徐々に慣れると、そこが怪物の骨の白い硬質素材でできたバルコニーであることが分かった。
「ここは……?」
「わたしの家」
振り向く。ここで初めてヒメは女性を見た。
美しい人だった。肌は雪よりも白く透き通っていて、あまりのきめの細かさに触ったら吸いついてきそうだ。唇は桜色でふっくらとしている。どことなく自己主張の少ない大人しい顔立ちの中で、目だけが大きく猫のようだ。それなのに、全体的な印象を全く損なっていない。何よりも素晴らしいのが、その髪だった。真珠色だ。緩いうねりに合わせて絶妙に色が変化していて、女性を華やかに仕立てていた。
ぼおっと見惚れていると、女性がくすくすとした。ヒメは恥ずかしくなって真っ赤になった顔を伏せた。伏せると、ヒメの汚してしまったスカートが目に入ってくる。女性は着ているものまで豪華だった。真っ白な絹のドレスとローブだ。ドレスのスカートには金糸で刺繍が施されており、落ち着いていながらも上品な優美さがあった。
ヒメははっと目を見開いた。
刺繍は弓を模したような、この国の紋章だった。
「あ……」
ヒメはこれでもかというくらいに目を見開き、女性を見た。ヒメはその人の姿を見たことはない。ただし、この国の硬貨には彼らの姿がある。〈詐術士〉の予言より姿を現し、〈大嘘吐き〉ニンスンを倒してこの国に繁栄をもたらした、この国最強の魔法使いにして魔法カノンの繰り手、不老不死の兄妹王〈永遠王〉と〈罪負い女王〉――
首を仰向けると、この国の名前の由来となった白い尖塔があった。
「アルビオン……」
この国のどこからでも見える、白い城。それが間近に聳えている。
ヒメは跪いて、頭を垂れていた。
「陛下……」
かろうじてそれだけ言うと、ヒメは〈罪負い女王〉が何か返すのを待った。ヒメは混乱していた。どうして女王がヒメを助けたのかという疑問と、女王にゲロを手伝わせてしまったという恐怖で頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
しかし、いつまで経っても女王は何も言わず、ヒメは困惑してそろそろと顔を上げる。すると、ばっちりと目が合った。
「!」
桜色の口唇が開く。
「違うわよ」
「えっ」
硬直するヒメに女王はふっと笑みをこぼし、うそと言った。
「お会いできて嬉しいわ、ヒメ。あなたのお話はもう届いているのよ。西軍を救った双刀の英雄さん」
つんと頬をつつかれ、ヒメはまた真っ赤になった。何故か彼女に英雄と言われると、嫌悪感ではなく気恥ずかしさがこみあげてくる。それはきっと、彼女がヒメを温かく見下ろしているからだ。
「は、はひ……ありがたき幸せであります……」
「なあに、それ。おもしろい」
肩を揺らして笑われ、ヒメは頭から湯気が出てきそうだった。女王はそんなヒメの手を躊躇することなく取った。
「さ、いらっしゃい。いつまでもそんな格好でいたら風邪を引いてしまうわ。お風呂を今入れさせましょうね」
「お、お、おふろ……?」
目の前が真っ赤に染まった。
「ザ・クリミナル。やはり、エアバニが現れたようだ」
「そう」
広い室内には暖かい光が満ちている。天蓋付きのベッドの端に〈罪負い女王〉アイリーン・ミルは腰掛けていた。膝の上には年老いた白い猫がいて、アイリーンが撫でると気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「ということは、怪物の湖も」
「だろうな。それはあの娘に訊けば早い」
「アンの具合はどう?」
「どうやら、転倒して頭を打ったようだ。まだ目覚めてはいない」
「頭を、ね……」
手が止まる。猫が不満そうにその手に頭を擦りつけて催促した。
「それは、逃げようとして転んだ――そういうこと?」
「それ以外に何がある?」
くっ、くっ、と喉を鳴らしたような低い笑いが起きる。
「アンは兵ではない。何を期待した?」
「なにも?」
アイリーンは小首を傾げて小さく笑う。
「アンがいなくなったら寂しくなってしまうと思っただけよ?」
「縁もゆかりもないくせに、何をたわけたことを」
「そうかしら?」
その時、ノックの音がした。
「陛下、ヒメ様をお連れしました」
「通してちょうだい」
初老の侍女が大きな観音扉を開け、ヒメににっこりと促す。ヒメは緊張に手を握り締めてから、慌ててその力を抜いて深呼吸をした。なんとなく借りたスカートの裾を払って、ようやく中に入った。
「しっ、失礼します」
半円形の広い部屋だった。円周に当たる所は全て窓とバルコニーになっているようで、今は花柄のカーテンが引かれている。中央に巨大な天蓋付きのベッドがあり、その覆いの隙間から白い手が手招きをしていた。おそるおそる一歩近寄ると、背後で大扉が閉まる。思わずぎょっと振り返ると、華やかな笑い声がした。
「大丈夫よ。さ、早くこちらへ」
「――はい」
意を決し、数重の薄い膜を潜ると、すぐ目の前に女王がいた。女王は上がってと毛布を叩く。サンダルを脱いでそっと膝をつくと、軍の布団とは比べ物にならないほどの柔らかさが包み込んできて、あまりの沈みようにヒメはバランスを崩しかけた。四つん這いで歩くだけでもふわふわと弾んで、気になったヒメは試しに少しだけ跳ねてみた。ふわんと体が浮く。すると、下の方から小さな悲鳴が聞こえた。
「あっ」
真っ白い猫が転がっていた。ころんと転がって起き上がると、ふるふると頭を振る。そのあまりの愛らしさに目が釘付けになっていると、横から手が伸びてきて猫を抱き上げた。
「可愛いでしょう?」
「はい」
猫から目を離さないヒメに、女王はくすりとして猫を差し出した。
「どうぞ」
「いっ、いいんですか?」
「もちろん」
ヒメは猫を貰うと、さっそく抱いて喉や耳の後ろをくすぐった。猫はうっとりと目を細め、自分からヒメの手に擦りつける。ヒメは目を潤ませて歓声を上げ、思わず頬ずりをした。それは嫌がられて肉球で叩かれたが、それすら可愛くて堪らない。これ以上は止まらなくなりそうで、泣く泣く女王に返すと、女王は猫を膝の上に載せながら意外そうに言った。
「もしかして、猫を飼っていたことが?」
「はい。小さい時なんですけど、捨てられてたのを拾ってこっそり育てたんです。でも、こっそりだから中に入れてあげられなくて、元々体が弱かったのもあって冬に死んじゃって……」
「まあ、可哀想に……。ヒメはヒュゲイル孤児院の出身だったかしら」
「はい」
ヒュゲイル孤児院はアスカリプス医師協会傘下の国で唯一の孤児院だ。親を亡くした子供たちのほとんどは親の所属する共同体や親戚に引き取られるが、ヒュゲイルに行き着くのはそれに当てはまらない子供たち、大抵は兵士の子どもだった。この平和な国で人が死ぬというのは事故か戦死のどちらかで、後者の数は圧倒的に多い。城壁で親を亡くした子供たちの中には、まるでその後を追うように軍入隊を選ぶ者がいた。強い意志も無く、ただ幼い頃の痼りを抱えたままに進んでしまった彼らは、長くはもたない。
ヒメもその一人ではあったが、入ったのが随分と小さい時だったのでその前の記憶はなかった。それはある意味、幸運だったとも言える。
「ご両親のお名前は?」
「お母さんは分かんないです。お父さんは確か、ジュン、だったと思います」
「兵士の方?」
「た、ぶん……。よく分かんないけど」
「それもそうね。ごめんなさい」
「そ、そんな」
慌てて首を振ると、女王の手が伸びてきてヒメは今更ながらびくりと固まった。女王はヒメの髪を一房摘まんで、すんと匂いを嗅いだ。
「この石鹸を使ったのね。いい香りでしょう? 心を落ち着かせてくれるのよ」
「そう、なんですか?」
お風呂はこれまで入ったものの中で一番広かった。石鹸も固体と液体、体用と髪用があって、ヒメは手当たり次第に匂いを嗅ぎまくって、一番気に入ったものと使ったことのない液体のものを使ってみた。液体は泡立ちがよく、固体よりも使いやすくて、ヒメはすっかり虜になってしまった。こんな豪華な風呂に入れる機会なんてそうそうないので、いつもよりしっかりと洗ってしまったほどである。
そこでヒメはあることを思いついた。
「あのう……」
「なにかしら?」
「あの石鹸って、どこに行ったら売ってますか?」
すると、女王の目が丸くなり、突然口に手を当てて笑い出した。ヒメが不安そうに身を縮こまらせると、ふわっと抱きついてきて、ヒメをさらに混乱させる。
「えっと、あの……?」
「ふふふ、あはは、ごめんなさいね。ふっふふ。あはは、はあ……。あなた、そんなに気に入った?」
こくこくと頷くと、女王はまた笑いだした。
「ふふふふっ。やっぱりあなた、おもしろいわあ。可愛い」
おもしろいと言われるのは今日だけで二度目で、ヒメは首だけを動かして女王を見つめる。
「おもしろいと、可愛いんですか?」
「いいえ。おもしろくて、可愛いのよ」
「はあ……」
「ねえ、髪をいじってもいいかしら?」
そう言いながら、もう女王の指は三つ編みを始めている。
「ちょっと傷んでるわね。駄目よ、女の子なんだからちゃんと気を遣わなくちゃ。いつもは何を使っているの?」
「えっと、軍の浴場にある固形石鹸と、たまに友達が買ってきたのを借りてます」
「それって、あの滓ばかりの出る? 駄目よ、そんなの。今度、全軍の石鹸を変えようかしら」
「本当に?」
ヒメが目を輝かせると、女王はここの石鹸はねと説明した。
「まだ開発中なの。だから、試験という名目で皆には使ってもらって、そこで問題が無かったら市場に回せるようになるし、価格が安定してきたら今度は軍で購入すればいいのよ」
「へええ」
「これにはモデルがあるのよ」
「モデル?」
「向こう側よ」
驚いて振り向くと、動いちゃだめと戻された。ヒメは大人しく従いながら、どういうことかと訊いた。ただ向こう側の品物を真似しただけにしては、その言い方に引っかかりを覚えた。
「そうねえ……。昨日の戦闘で使った工房会の作品を覚えている?」
「はい。発条式対大型怪物用兵器と、試作品の兜です」
「それも向こう側をモデルにしているの。どちらかというと、こちらが主流ね。向こう側の武器を参考に造って、そのついでに日用品も開発しているというかたち」
「それは……向こう側にも怪物がいるということ、ですか」
「いいえ」
続く言葉にヒメは慄然とした。
「殺すのは、人よ」
「え……?」
「人と人が殺し合いをするために造られたの」
女王の言葉の意味を呑み込めず、頭の中が真っ白になった。人を殺すのは怪物だ。怪物は食料としてもそうだが、なんといっても魔法を操るために人間を殺して喰らう。それは生きるためだ。それをやめるということはできない。だから、人間は戦う。だが、人を殺して、殺した人間は一体何を得られるというのか。ヒメの頭の中を疑問がぐるぐると渦巻いた。
「な、なんで?」
「そうね……。例えば、あなたが今一文無しだったとしましょう。あなたはとても重い病気を患っているわ」
「? はい……」
「病院に行きたいけどお金を払えない。目の前にはお金持ちがいる。お金持ちを殺せば、あなたはその人のお金を手に入れて治療を受けることができるわ」
「……その前に役所に行って補助金の申請をするべきだと思います」
いまいち理解の追いつかないヒメは、とりあえずそう言い返す。
「あら。それじゃあ、補助金が貰えなかったとしましょう。そうね、お金を貸してくれる人もいないわ。そうしたら、あなたはどうする? お金持ちを殺す? 殺さない?」
ヒメは首を振ろうとしてまた怒られ、いいえと答えた。
「誰かの命を奪ってまで生きたくないです」
「わたしもよ」
その言葉にほっとしたのも束の間、女王はまだ続ける。
「でも、もし病気にかかっているのが大切な人だったらどうしましょう。今すぐ治療を受けさせなければ死んでしまうかもしれない。そんな状態で『助けて』なんて言われたら……」
「っ……!」
何故か咄嗟に頭に浮かんだのはキリエだった。ヒメは身を強張らせ、結局、答えることはできなかった。
「でも、そんなことで人が殺されたなんて話、聞いたことないでしょう?」
「……はい」
「補助申請もそうだし、困っていれば必ず誰かが助けてくれる仕組みが整っているものね。今は。……百年前は違ったのよ」
女王の口調は変わらない。だが、ヒメの髪をいじる手に僅かに力がこもったような気がした。
「〈大嘘吐き〉は怪物からの庇護と土地は与えたけど、あとは搾取するだけだった。わたし達は貧富や飢餓に喘いだけれど、わたし達を守ってくれている〈大嘘吐き〉に収穫を捧げるのは当たり前だと思い、代わりに殺人や強盗が多くはないけれど起こっていたわ。〈詐術士〉が真実を暴かなければ、わたし達はきっと変わっていなかったでしょう。――〈大嘘吐き〉を倒して、わたし達がまずしたことは、富の再分配と法の整備だった。そうやって貧困をなくしていって、今のわたし達の暮らしがあるのよ」
「地区学校で似たような話は聞いたことがあります。……殺人は、何も言ってなかったけど」
「それだけわたし達の中から殺人の概念が薄れている証だわ。殺人は悪よ」
ヒメが同意すると、でもね、ヒメ、と女王は言った。
「今の暮らしを手に入れるために、わたし達は〈大嘘吐き〉を殺すという罪を犯しているの……。わたし達全員が罪を背負っているんだわ。日常と悪は紙一重よ。今もそう」
「今も……」
故に、彼女は永遠に名乗り続ける。生きる記憶として。戒めとして。
〈罪負い女王〉と。
「どんな些細な事で一線を越えてしまうか分からないわ。特に、手段を持つ者は危険よ。軍紀で対人戦闘が禁止されていたでしょう」
「はい」
「誰にもその気がなくても対人戦闘についての項目が消えないのは、そういうことよ。同じことはアスカリプスの誓いにも言えるわ」
「医者なのに?」
「医者だからよ。――ああ、できたわ」
言い終わるや否や、詠唱も何もなく急速に魔法素が凝集し、ヒメの頭の前後に鏡が発生した。左右に作った細い三つ編みを後ろで合わせている。せっかく可愛い髪型なのに、鏡の中の人は釈然としないというような膨れっ面をしていた。
「やだわ。そんな顔しないで。とっても可愛いのに」
「あ、ごめんなさい」
「ふふっ。いいわ。素直だから許してあげる」
ふっと鏡が消える。あっという間だった。見事な魔法に嘆息していると、猫がもぞもぞと女王の膝から起き上がってベッドから飛び降りた。思わずその行方を目で追うと、ヒメの前に戻った女王が、不思議じゃない? と小首を傾げた。ふわりと真珠色の波が揺れて視界を覆った。
「随分と遠回りをしてしまったわね。さあ、思い出してちょうだい。今回の対大型怪物用兵器。あれは向こう側の武器から着想を得たもの。だけれど、人を殺すというより、城を壊すのに向いているとは思わない?」
「城を?」
確かに、あんなに大きな鉄棒が命中すれば人なんてひとたまりもないが、それにはあそこまでの大きさと威力は必要ないはずだ。なにより、人を狙うには図体が大きく重すぎて向いていない。
「それじゃあ、あれは人、を殺す用ではないんですか」
「向こう側の攻城兵器と呼ばれるものよ。あれと同じだけの威力を持って、人一人でも動かせる武器もあることにはあるの。でも、そうしたらそれは人に悪を抱かせかねない。それさえあれば、魔法を使えない人でも、確実に、簡単に、人を殺せてしまうのだから」
「それなら、そもそも武器自体を作らない方がいいんじゃないでしょうか?」
「じゃあ、そうしなければいけない理由はなんだかわかる?」
「理由があるんですか?」
「ええ」
あなたにこそわかってほしい問題だわ。そう言って女王はにっこりと微笑む。ヒメは必死に考えたが何も浮かばず、ずっと唸っていると、女王はそもそも待とうという気はなかったのか至極あっさりと答えを述べた。
「答えは、白兵が弱いから」
「え……?」
はじめはぽかんと固まっていたものの、しかし徐々にヒメの目元がきつくなる。
「どういうことですか」
確かに、白兵の数は多いとは言えない。だが、その中にもキリエ・シュナイダーやコンドル、そして亡くなったセジュン・キムのような者たちはいて、不測の事態にも対応してきていた。そんな共に戦った手練れを否定されたようで、ヒメの眉は自然と吊り上がった。
「弱いだなんて簡単に言わないで。みんながどれだけ努力しているかも知らないで」
「知ってるわ。だから、あなたたちはコーラショに勝ったのでしょう? ――でも、実際、白兵の人数の少なさと武具の遅れは深刻だわ」
「……ん?」
きょとんとするヒメに、女王は苦笑して訂正する。
「あなたたちの実力は素晴らしいものよ。でも、少ない人数で対応するのにはどうしても限界があるもの。それを補うために一般兵の装備に力を入れて、あなたたちへの供給が遅れてしまっているのよ。あなたの刀も毎回手入れをしているのでしょう? 汚れをふき取り、刃を研いで。でも、正しい配給がなされていれば、あなたの刀はずっと前に怪物の骨に変わっているはず。怪物の骨は汚れを弾きやすくて、摩耗にも強いわ。それに軽くて、長期戦になっても潰れずに済む。武器が違うだけでとっても変わるのよ。今のままじゃ、あなたたちは劣悪な環境で優秀な人材を次々と失ってしまうことになる」
「あ……あ、はい」
ヒメは赤くなって頷いた。
「私も、そう思います」
「かといって、すぐに白兵を増やすこともできない。だから作ったのよ、怪物の骨とあなたたちの戦力に変わる、魔法の力のいらない武器を」
「そう、なんですね……」
説明が終わると、小さな衝撃がヒメを包んだ。一般兵の盾も鎧も全て怪物の骨特有の白だ。これまではそのことに何の疑問も抱いたことはなかった。それが、コーラショに対応できなかったことの原因の一つだと聞かされると、なんともやるせない気持ちがじわじわと湧き上がってきた。
「でも、これから変わっていくんですよね?」
幾ばくかの希望をこめて問うと、返ってきたのは否定の言葉だった。
「もう間に合わないわ」
「間に合わない……? 何に?」
「新種の怪物の襲来に」
「コーラショのことですか」
「もっとたくさんよ」
「また、来るんですか」
唾を飲み込む。城壁から最も遠い場所にあるとはいえど、誰よりもこの国を見てきた人物の言葉には妙な重圧があった。
「そうよ。〈大嘘吐き〉と彼女と手の組んだ怪物がいなくなってからずいぶん経つわ。これから見たことのない怪物がたくさん来る。そうしたら、ゆっくり準備なんかしている暇はないの」
「なんとかならないんですか」
縋りつくような視線を向けると、女王は目を伏せ、ふっと下を見た。いつの間にか猫が戻ってきていた。口に何かを咥えている。女王が手を差し出すと、その上に吐き出した。濡れてしわくちゃになった紙だった。
「あら、すっかり固まって……。もう開かないわね。ヒメ。これ、あなたのポケットにあったものよ」
「あっ」
キリエの卒業記念の絵だ。ポケットに入れたまま井戸に落ちたのだった。閑散とした部屋を思い出して申し訳なくなりながら、受け取ると、やはり開くのは困難な状態となっていた。仕方なくそのままスカートのポケットにしまおうとした時だった。
おれが死ねばよかったんだ。
「!!」
思わず紙を取り落とす。シーツの上に転がったそれをまじまじと見つめると、女王が優しく訊いてきた。
「何が見えたの?」
「き……」
おそるおそる紙を拾うと、今度は何も感じなかった。しかし、あの言葉は本物だと訴えかける何かがあった。
「キリエが……」
女王に誘導されるままに、ヒメはたどたどしく説明する。女王の顔はだんだんと険しくなり、そして明るいものへと変わっていった。ようやく話し終えて一息つくと、その間もなく女王は震えるヒメの手を掴んできた。
「ああ、ヒメ。よくやったわ。――これでわたしたちは救われる」
せり上がっていく。せり上がってくる。気持ち悪い。口を開けた。
「――ッカハ!」
水が飛び出し、ひゅっ、と音が鳴った。まだ中に溜まっている。体をくの字に折って吐き出そうとしたら、すっと目を塞がれた。思わず肩が跳ね上がる。
「っ、」
「大丈夫よ。大丈夫。……安心して」
優しい声とともに背中をさすられる。強烈な吐き気がこみあげてきて、ヒメは縮こまって本能に身を任せた。大量の水が溢れだし、それでも足りずに喉の奥に指を突っ込む。一通り出し終えると、今度は寒さに震えた。寒いと感じられることに歓喜した。
「あ、ああ、あっ……!」
涙がこぼれる。目を塞がれたまま抱き寄せられた。誰の胸かもわからないまま、ヒメはしゃくりあげた。耳元に唇が寄せられる。
「もう少しだけこのままで我慢してちょうだいね。あともう少しだけ、ね」
ヒメは頷いた。女性は笑ったようだった。
風が強くなる。ヒメの髪と女性のスカートがはためく。いつの間にか雨はやんでいた。だが、まだ全身はずぶ濡れで、強い風にどんどん体は冷えていって、無意識に内腿を擦り合わせた。そこでヒメは気がついた。
足が地面についていない。
ヒメは飛んでいた。
首を竦めると、女性はヒメを抱く手に力を加えた。
「大丈夫よ。わたしを信じて」
柔らかくて、そのまま沈み込んでいってしまいそうな声だった。ヒメは女性に縋りつき、頭をくったりと預けた。何も考えたくなかった。
「降りるわ」
数十秒後、足が硬い床についた。女性の手が目から離れ、ヒメは飛びこんできた光に目を瞑った。徐々に慣れると、そこが怪物の骨の白い硬質素材でできたバルコニーであることが分かった。
「ここは……?」
「わたしの家」
振り向く。ここで初めてヒメは女性を見た。
美しい人だった。肌は雪よりも白く透き通っていて、あまりのきめの細かさに触ったら吸いついてきそうだ。唇は桜色でふっくらとしている。どことなく自己主張の少ない大人しい顔立ちの中で、目だけが大きく猫のようだ。それなのに、全体的な印象を全く損なっていない。何よりも素晴らしいのが、その髪だった。真珠色だ。緩いうねりに合わせて絶妙に色が変化していて、女性を華やかに仕立てていた。
ぼおっと見惚れていると、女性がくすくすとした。ヒメは恥ずかしくなって真っ赤になった顔を伏せた。伏せると、ヒメの汚してしまったスカートが目に入ってくる。女性は着ているものまで豪華だった。真っ白な絹のドレスとローブだ。ドレスのスカートには金糸で刺繍が施されており、落ち着いていながらも上品な優美さがあった。
ヒメははっと目を見開いた。
刺繍は弓を模したような、この国の紋章だった。
「あ……」
ヒメはこれでもかというくらいに目を見開き、女性を見た。ヒメはその人の姿を見たことはない。ただし、この国の硬貨には彼らの姿がある。〈詐術士〉の予言より姿を現し、〈大嘘吐き〉ニンスンを倒してこの国に繁栄をもたらした、この国最強の魔法使いにして魔法カノンの繰り手、不老不死の兄妹王〈永遠王〉と〈罪負い女王〉――
首を仰向けると、この国の名前の由来となった白い尖塔があった。
「アルビオン……」
この国のどこからでも見える、白い城。それが間近に聳えている。
ヒメは跪いて、頭を垂れていた。
「陛下……」
かろうじてそれだけ言うと、ヒメは〈罪負い女王〉が何か返すのを待った。ヒメは混乱していた。どうして女王がヒメを助けたのかという疑問と、女王にゲロを手伝わせてしまったという恐怖で頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
しかし、いつまで経っても女王は何も言わず、ヒメは困惑してそろそろと顔を上げる。すると、ばっちりと目が合った。
「!」
桜色の口唇が開く。
「違うわよ」
「えっ」
硬直するヒメに女王はふっと笑みをこぼし、うそと言った。
「お会いできて嬉しいわ、ヒメ。あなたのお話はもう届いているのよ。西軍を救った双刀の英雄さん」
つんと頬をつつかれ、ヒメはまた真っ赤になった。何故か彼女に英雄と言われると、嫌悪感ではなく気恥ずかしさがこみあげてくる。それはきっと、彼女がヒメを温かく見下ろしているからだ。
「は、はひ……ありがたき幸せであります……」
「なあに、それ。おもしろい」
肩を揺らして笑われ、ヒメは頭から湯気が出てきそうだった。女王はそんなヒメの手を躊躇することなく取った。
「さ、いらっしゃい。いつまでもそんな格好でいたら風邪を引いてしまうわ。お風呂を今入れさせましょうね」
「お、お、おふろ……?」
目の前が真っ赤に染まった。
「ザ・クリミナル。やはり、エアバニが現れたようだ」
「そう」
広い室内には暖かい光が満ちている。天蓋付きのベッドの端に〈罪負い女王〉アイリーン・ミルは腰掛けていた。膝の上には年老いた白い猫がいて、アイリーンが撫でると気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「ということは、怪物の湖も」
「だろうな。それはあの娘に訊けば早い」
「アンの具合はどう?」
「どうやら、転倒して頭を打ったようだ。まだ目覚めてはいない」
「頭を、ね……」
手が止まる。猫が不満そうにその手に頭を擦りつけて催促した。
「それは、逃げようとして転んだ――そういうこと?」
「それ以外に何がある?」
くっ、くっ、と喉を鳴らしたような低い笑いが起きる。
「アンは兵ではない。何を期待した?」
「なにも?」
アイリーンは小首を傾げて小さく笑う。
「アンがいなくなったら寂しくなってしまうと思っただけよ?」
「縁もゆかりもないくせに、何をたわけたことを」
「そうかしら?」
その時、ノックの音がした。
「陛下、ヒメ様をお連れしました」
「通してちょうだい」
初老の侍女が大きな観音扉を開け、ヒメににっこりと促す。ヒメは緊張に手を握り締めてから、慌ててその力を抜いて深呼吸をした。なんとなく借りたスカートの裾を払って、ようやく中に入った。
「しっ、失礼します」
半円形の広い部屋だった。円周に当たる所は全て窓とバルコニーになっているようで、今は花柄のカーテンが引かれている。中央に巨大な天蓋付きのベッドがあり、その覆いの隙間から白い手が手招きをしていた。おそるおそる一歩近寄ると、背後で大扉が閉まる。思わずぎょっと振り返ると、華やかな笑い声がした。
「大丈夫よ。さ、早くこちらへ」
「――はい」
意を決し、数重の薄い膜を潜ると、すぐ目の前に女王がいた。女王は上がってと毛布を叩く。サンダルを脱いでそっと膝をつくと、軍の布団とは比べ物にならないほどの柔らかさが包み込んできて、あまりの沈みようにヒメはバランスを崩しかけた。四つん這いで歩くだけでもふわふわと弾んで、気になったヒメは試しに少しだけ跳ねてみた。ふわんと体が浮く。すると、下の方から小さな悲鳴が聞こえた。
「あっ」
真っ白い猫が転がっていた。ころんと転がって起き上がると、ふるふると頭を振る。そのあまりの愛らしさに目が釘付けになっていると、横から手が伸びてきて猫を抱き上げた。
「可愛いでしょう?」
「はい」
猫から目を離さないヒメに、女王はくすりとして猫を差し出した。
「どうぞ」
「いっ、いいんですか?」
「もちろん」
ヒメは猫を貰うと、さっそく抱いて喉や耳の後ろをくすぐった。猫はうっとりと目を細め、自分からヒメの手に擦りつける。ヒメは目を潤ませて歓声を上げ、思わず頬ずりをした。それは嫌がられて肉球で叩かれたが、それすら可愛くて堪らない。これ以上は止まらなくなりそうで、泣く泣く女王に返すと、女王は猫を膝の上に載せながら意外そうに言った。
「もしかして、猫を飼っていたことが?」
「はい。小さい時なんですけど、捨てられてたのを拾ってこっそり育てたんです。でも、こっそりだから中に入れてあげられなくて、元々体が弱かったのもあって冬に死んじゃって……」
「まあ、可哀想に……。ヒメはヒュゲイル孤児院の出身だったかしら」
「はい」
ヒュゲイル孤児院はアスカリプス医師協会傘下の国で唯一の孤児院だ。親を亡くした子供たちのほとんどは親の所属する共同体や親戚に引き取られるが、ヒュゲイルに行き着くのはそれに当てはまらない子供たち、大抵は兵士の子どもだった。この平和な国で人が死ぬというのは事故か戦死のどちらかで、後者の数は圧倒的に多い。城壁で親を亡くした子供たちの中には、まるでその後を追うように軍入隊を選ぶ者がいた。強い意志も無く、ただ幼い頃の痼りを抱えたままに進んでしまった彼らは、長くはもたない。
ヒメもその一人ではあったが、入ったのが随分と小さい時だったのでその前の記憶はなかった。それはある意味、幸運だったとも言える。
「ご両親のお名前は?」
「お母さんは分かんないです。お父さんは確か、ジュン、だったと思います」
「兵士の方?」
「た、ぶん……。よく分かんないけど」
「それもそうね。ごめんなさい」
「そ、そんな」
慌てて首を振ると、女王の手が伸びてきてヒメは今更ながらびくりと固まった。女王はヒメの髪を一房摘まんで、すんと匂いを嗅いだ。
「この石鹸を使ったのね。いい香りでしょう? 心を落ち着かせてくれるのよ」
「そう、なんですか?」
お風呂はこれまで入ったものの中で一番広かった。石鹸も固体と液体、体用と髪用があって、ヒメは手当たり次第に匂いを嗅ぎまくって、一番気に入ったものと使ったことのない液体のものを使ってみた。液体は泡立ちがよく、固体よりも使いやすくて、ヒメはすっかり虜になってしまった。こんな豪華な風呂に入れる機会なんてそうそうないので、いつもよりしっかりと洗ってしまったほどである。
そこでヒメはあることを思いついた。
「あのう……」
「なにかしら?」
「あの石鹸って、どこに行ったら売ってますか?」
すると、女王の目が丸くなり、突然口に手を当てて笑い出した。ヒメが不安そうに身を縮こまらせると、ふわっと抱きついてきて、ヒメをさらに混乱させる。
「えっと、あの……?」
「ふふふ、あはは、ごめんなさいね。ふっふふ。あはは、はあ……。あなた、そんなに気に入った?」
こくこくと頷くと、女王はまた笑いだした。
「ふふふふっ。やっぱりあなた、おもしろいわあ。可愛い」
おもしろいと言われるのは今日だけで二度目で、ヒメは首だけを動かして女王を見つめる。
「おもしろいと、可愛いんですか?」
「いいえ。おもしろくて、可愛いのよ」
「はあ……」
「ねえ、髪をいじってもいいかしら?」
そう言いながら、もう女王の指は三つ編みを始めている。
「ちょっと傷んでるわね。駄目よ、女の子なんだからちゃんと気を遣わなくちゃ。いつもは何を使っているの?」
「えっと、軍の浴場にある固形石鹸と、たまに友達が買ってきたのを借りてます」
「それって、あの滓ばかりの出る? 駄目よ、そんなの。今度、全軍の石鹸を変えようかしら」
「本当に?」
ヒメが目を輝かせると、女王はここの石鹸はねと説明した。
「まだ開発中なの。だから、試験という名目で皆には使ってもらって、そこで問題が無かったら市場に回せるようになるし、価格が安定してきたら今度は軍で購入すればいいのよ」
「へええ」
「これにはモデルがあるのよ」
「モデル?」
「向こう側よ」
驚いて振り向くと、動いちゃだめと戻された。ヒメは大人しく従いながら、どういうことかと訊いた。ただ向こう側の品物を真似しただけにしては、その言い方に引っかかりを覚えた。
「そうねえ……。昨日の戦闘で使った工房会の作品を覚えている?」
「はい。発条式対大型怪物用兵器と、試作品の兜です」
「それも向こう側をモデルにしているの。どちらかというと、こちらが主流ね。向こう側の武器を参考に造って、そのついでに日用品も開発しているというかたち」
「それは……向こう側にも怪物がいるということ、ですか」
「いいえ」
続く言葉にヒメは慄然とした。
「殺すのは、人よ」
「え……?」
「人と人が殺し合いをするために造られたの」
女王の言葉の意味を呑み込めず、頭の中が真っ白になった。人を殺すのは怪物だ。怪物は食料としてもそうだが、なんといっても魔法を操るために人間を殺して喰らう。それは生きるためだ。それをやめるということはできない。だから、人間は戦う。だが、人を殺して、殺した人間は一体何を得られるというのか。ヒメの頭の中を疑問がぐるぐると渦巻いた。
「な、なんで?」
「そうね……。例えば、あなたが今一文無しだったとしましょう。あなたはとても重い病気を患っているわ」
「? はい……」
「病院に行きたいけどお金を払えない。目の前にはお金持ちがいる。お金持ちを殺せば、あなたはその人のお金を手に入れて治療を受けることができるわ」
「……その前に役所に行って補助金の申請をするべきだと思います」
いまいち理解の追いつかないヒメは、とりあえずそう言い返す。
「あら。それじゃあ、補助金が貰えなかったとしましょう。そうね、お金を貸してくれる人もいないわ。そうしたら、あなたはどうする? お金持ちを殺す? 殺さない?」
ヒメは首を振ろうとしてまた怒られ、いいえと答えた。
「誰かの命を奪ってまで生きたくないです」
「わたしもよ」
その言葉にほっとしたのも束の間、女王はまだ続ける。
「でも、もし病気にかかっているのが大切な人だったらどうしましょう。今すぐ治療を受けさせなければ死んでしまうかもしれない。そんな状態で『助けて』なんて言われたら……」
「っ……!」
何故か咄嗟に頭に浮かんだのはキリエだった。ヒメは身を強張らせ、結局、答えることはできなかった。
「でも、そんなことで人が殺されたなんて話、聞いたことないでしょう?」
「……はい」
「補助申請もそうだし、困っていれば必ず誰かが助けてくれる仕組みが整っているものね。今は。……百年前は違ったのよ」
女王の口調は変わらない。だが、ヒメの髪をいじる手に僅かに力がこもったような気がした。
「〈大嘘吐き〉は怪物からの庇護と土地は与えたけど、あとは搾取するだけだった。わたし達は貧富や飢餓に喘いだけれど、わたし達を守ってくれている〈大嘘吐き〉に収穫を捧げるのは当たり前だと思い、代わりに殺人や強盗が多くはないけれど起こっていたわ。〈詐術士〉が真実を暴かなければ、わたし達はきっと変わっていなかったでしょう。――〈大嘘吐き〉を倒して、わたし達がまずしたことは、富の再分配と法の整備だった。そうやって貧困をなくしていって、今のわたし達の暮らしがあるのよ」
「地区学校で似たような話は聞いたことがあります。……殺人は、何も言ってなかったけど」
「それだけわたし達の中から殺人の概念が薄れている証だわ。殺人は悪よ」
ヒメが同意すると、でもね、ヒメ、と女王は言った。
「今の暮らしを手に入れるために、わたし達は〈大嘘吐き〉を殺すという罪を犯しているの……。わたし達全員が罪を背負っているんだわ。日常と悪は紙一重よ。今もそう」
「今も……」
故に、彼女は永遠に名乗り続ける。生きる記憶として。戒めとして。
〈罪負い女王〉と。
「どんな些細な事で一線を越えてしまうか分からないわ。特に、手段を持つ者は危険よ。軍紀で対人戦闘が禁止されていたでしょう」
「はい」
「誰にもその気がなくても対人戦闘についての項目が消えないのは、そういうことよ。同じことはアスカリプスの誓いにも言えるわ」
「医者なのに?」
「医者だからよ。――ああ、できたわ」
言い終わるや否や、詠唱も何もなく急速に魔法素が凝集し、ヒメの頭の前後に鏡が発生した。左右に作った細い三つ編みを後ろで合わせている。せっかく可愛い髪型なのに、鏡の中の人は釈然としないというような膨れっ面をしていた。
「やだわ。そんな顔しないで。とっても可愛いのに」
「あ、ごめんなさい」
「ふふっ。いいわ。素直だから許してあげる」
ふっと鏡が消える。あっという間だった。見事な魔法に嘆息していると、猫がもぞもぞと女王の膝から起き上がってベッドから飛び降りた。思わずその行方を目で追うと、ヒメの前に戻った女王が、不思議じゃない? と小首を傾げた。ふわりと真珠色の波が揺れて視界を覆った。
「随分と遠回りをしてしまったわね。さあ、思い出してちょうだい。今回の対大型怪物用兵器。あれは向こう側の武器から着想を得たもの。だけれど、人を殺すというより、城を壊すのに向いているとは思わない?」
「城を?」
確かに、あんなに大きな鉄棒が命中すれば人なんてひとたまりもないが、それにはあそこまでの大きさと威力は必要ないはずだ。なにより、人を狙うには図体が大きく重すぎて向いていない。
「それじゃあ、あれは人、を殺す用ではないんですか」
「向こう側の攻城兵器と呼ばれるものよ。あれと同じだけの威力を持って、人一人でも動かせる武器もあることにはあるの。でも、そうしたらそれは人に悪を抱かせかねない。それさえあれば、魔法を使えない人でも、確実に、簡単に、人を殺せてしまうのだから」
「それなら、そもそも武器自体を作らない方がいいんじゃないでしょうか?」
「じゃあ、そうしなければいけない理由はなんだかわかる?」
「理由があるんですか?」
「ええ」
あなたにこそわかってほしい問題だわ。そう言って女王はにっこりと微笑む。ヒメは必死に考えたが何も浮かばず、ずっと唸っていると、女王はそもそも待とうという気はなかったのか至極あっさりと答えを述べた。
「答えは、白兵が弱いから」
「え……?」
はじめはぽかんと固まっていたものの、しかし徐々にヒメの目元がきつくなる。
「どういうことですか」
確かに、白兵の数は多いとは言えない。だが、その中にもキリエ・シュナイダーやコンドル、そして亡くなったセジュン・キムのような者たちはいて、不測の事態にも対応してきていた。そんな共に戦った手練れを否定されたようで、ヒメの眉は自然と吊り上がった。
「弱いだなんて簡単に言わないで。みんながどれだけ努力しているかも知らないで」
「知ってるわ。だから、あなたたちはコーラショに勝ったのでしょう? ――でも、実際、白兵の人数の少なさと武具の遅れは深刻だわ」
「……ん?」
きょとんとするヒメに、女王は苦笑して訂正する。
「あなたたちの実力は素晴らしいものよ。でも、少ない人数で対応するのにはどうしても限界があるもの。それを補うために一般兵の装備に力を入れて、あなたたちへの供給が遅れてしまっているのよ。あなたの刀も毎回手入れをしているのでしょう? 汚れをふき取り、刃を研いで。でも、正しい配給がなされていれば、あなたの刀はずっと前に怪物の骨に変わっているはず。怪物の骨は汚れを弾きやすくて、摩耗にも強いわ。それに軽くて、長期戦になっても潰れずに済む。武器が違うだけでとっても変わるのよ。今のままじゃ、あなたたちは劣悪な環境で優秀な人材を次々と失ってしまうことになる」
「あ……あ、はい」
ヒメは赤くなって頷いた。
「私も、そう思います」
「かといって、すぐに白兵を増やすこともできない。だから作ったのよ、怪物の骨とあなたたちの戦力に変わる、魔法の力のいらない武器を」
「そう、なんですね……」
説明が終わると、小さな衝撃がヒメを包んだ。一般兵の盾も鎧も全て怪物の骨特有の白だ。これまではそのことに何の疑問も抱いたことはなかった。それが、コーラショに対応できなかったことの原因の一つだと聞かされると、なんともやるせない気持ちがじわじわと湧き上がってきた。
「でも、これから変わっていくんですよね?」
幾ばくかの希望をこめて問うと、返ってきたのは否定の言葉だった。
「もう間に合わないわ」
「間に合わない……? 何に?」
「新種の怪物の襲来に」
「コーラショのことですか」
「もっとたくさんよ」
「また、来るんですか」
唾を飲み込む。城壁から最も遠い場所にあるとはいえど、誰よりもこの国を見てきた人物の言葉には妙な重圧があった。
「そうよ。〈大嘘吐き〉と彼女と手の組んだ怪物がいなくなってからずいぶん経つわ。これから見たことのない怪物がたくさん来る。そうしたら、ゆっくり準備なんかしている暇はないの」
「なんとかならないんですか」
縋りつくような視線を向けると、女王は目を伏せ、ふっと下を見た。いつの間にか猫が戻ってきていた。口に何かを咥えている。女王が手を差し出すと、その上に吐き出した。濡れてしわくちゃになった紙だった。
「あら、すっかり固まって……。もう開かないわね。ヒメ。これ、あなたのポケットにあったものよ」
「あっ」
キリエの卒業記念の絵だ。ポケットに入れたまま井戸に落ちたのだった。閑散とした部屋を思い出して申し訳なくなりながら、受け取ると、やはり開くのは困難な状態となっていた。仕方なくそのままスカートのポケットにしまおうとした時だった。
おれが死ねばよかったんだ。
「!!」
思わず紙を取り落とす。シーツの上に転がったそれをまじまじと見つめると、女王が優しく訊いてきた。
「何が見えたの?」
「き……」
おそるおそる紙を拾うと、今度は何も感じなかった。しかし、あの言葉は本物だと訴えかける何かがあった。
「キリエが……」
女王に誘導されるままに、ヒメはたどたどしく説明する。女王の顔はだんだんと険しくなり、そして明るいものへと変わっていった。ようやく話し終えて一息つくと、その間もなく女王は震えるヒメの手を掴んできた。
「ああ、ヒメ。よくやったわ。――これでわたしたちは救われる」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
不遇な王妃は国王の愛を望まない
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝ある時、クラウン王国の国王カルロスの元に、自ら命を絶った王妃アリーヤの訃報が届く。王妃アリーヤを冷遇しておきながら嘆く国王カルロスに皆は不思議がる。なにせ国王カルロスは幼馴染の側妃ベリンダを寵愛し、政略結婚の為に他国アメジスト王国から輿入れした不遇の王女アリーヤには見向きもしない。はたから見れば哀れな王妃アリーヤだが、実は他に愛する人がいる王妃アリーヤにもその方が都合が良いとも。彼女が真に望むのは愛する人と共に居られる些細な幸せ。ある時、自国に囚われの身である愛する人の訃報を受け取る王妃アリーヤは絶望に駆られるも……。主人公の舞台は途中から変わります。
※設定などは独自の世界観で、あくまでもご都合主義。断罪あり。ハピエン🩷
※稚拙ながらも投稿初日からHOTランキング(2024.11.21)に入れて頂き、ありがとうございます🙂 今回初めて最高ランキング5位(11/23)✨ まさに感無量です🥲

あなたがそう望んだから
まる
ファンタジー
「ちょっとアンタ!アンタよ!!アデライス・オールテア!」
思わず不快さに顔が歪みそうになり、慌てて扇で顔を隠す。
確か彼女は…最近編入してきたという男爵家の庶子の娘だったかしら。
喚き散らす娘が望んだのでその通りにしてあげましたわ。
○○○○○○○○○○
誤字脱字ご容赦下さい。もし電波な転生者に貴族の令嬢が絡まれたら。攻略対象と思われてる男性もガッチリ貴族思考だったらと考えて書いてみました。ゆっくりペースになりそうですがよろしければ是非。
閲覧、しおり、お気に入りの登録ありがとうございました(*´ω`*)
何となくねっとりじわじわな感じになっていたらいいのにと思ったのですがどうなんでしょうね?

「おまえを愛することはない!」と言ってやったのに、なぜ無視するんだ!
七辻ゆゆ
ファンタジー
俺を見ない、俺の言葉を聞かない、そして触れられない。すり抜ける……なぜだ?
俺はいったい、どうなっているんだ。
真実の愛を取り戻したいだけなのに。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる