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ヒメの章
開拓暦586年2月、西方駅外れ、シュナイダー家
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その日は朝から雨が降っていた。しとしとと長い雨だった。
「……、」
ヒメはキリエの荷物をもって牛車に乗っていた。周りにはコーラショ戦を終えて帰る予備役しかいない。というよりは、帰る彼らにヒメが便乗しているのだった。
一緒にカードをしないかという男の誘いを断り、キリエの鞄を抱く手にぎゅっと力を込める。高いところにある小さな窓から見えるのは、ただひたすら灰色の空のみ。まるでこれから進む先を暗示しているようで、ますます肩に力が入った。
ヒメはこれから西軍代表としてキリエの実家に行く。キリエの荷物を届け、何があったかを説明するために。もちろん、これは特例だ。本来なら一般兵が行くもので、数の少ない白兵を行かせるものではない。だが、ワシリエフ隊長は全てヒメに任せてくれた。
「いいんですか?」
おそるおそる尋ねたヒメの頭を、ワシリエフ隊長はわしゃわしゃ撫でた。
「もう、今から出世も見込めんしのう。若者を後押しするくらいしかジジイにはできんのよ。ついでに、そのまま休暇もとるかえ? ずっと取っとらんじゃろ」
だから行っておいで、ヒメ――。
大きめの石でも踏んだようで、牛車が大きく跳ねる。誰かがカードを落としたらしく、悲鳴が上がった。揺れが大きくなる。減速している。ヒメは早まる鼓動をおさえ、キリエの鞄と矛を持って立ち上がった。
「もう行っちまうのか? ヒメ」
一人が声を掛けると、次々と名を呼ばれた。ヒメは頷いた。
「ここでお別れです」
「寂しいなあ。ケッ、残んのはじじいばっかかよ」
「おめえもだろ!」
「ヒメ、中央に来たら俺の店来な。サービスしてやるよ」
「頑張れよ、ヒメ」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーい」
牛車が完全に停止する。ヒメは飛び下りると、皆に手を振った。
「ありがとう。行ってきます」
扉を閉め、急いで脇に寄った。牛車はまたすぐに動き出す。と、小窓に男たちの顔がいっぱいに並んだ。ヒメ! じゃあな! 元気でな! 知らない人ばかりだったが、それでもヒメの心の中には温かい何かが広がった。
牛車が遠く小さくなると、ヒメは辺りを見回した。ここは中央と西軍の間の西方駅、のさらに外れだ。あるのは広大な畑と牧地ばかりで、ちらちらと倉庫らしきものが点在しており、民家さえない。振り返ると、第一城壁の白亜が思ったよりも近くにあった。西方駅の外れの、さらに外側らしい。
街道を逸れて、南の方に向かう。程なくして、霧雨の向こうに真っ赤な屋根が見えてきた。ヒメは足を速めた。
二階建ての家だった。ぐるりと土塀に囲まれていて、前庭とおそらく裏庭もある。それよりもヒメの目を引いたのは、家の建材だった。〈大嘘吐き〉時代の怪物の骨による白い硬質素材ではない。北方で採れる粘土や石造りでもない。キリエの家は木造だった。
物珍しくてつい見入ってしまったが、制服の肩のあたりが雨を吸って重くなってきて、慌てて玄関を叩いた。
「ごめんください」
「……はいはい!」
一歩後退った時、玄関が開いた。出てきたのはキリエと同じ、金髪に緑色の目の女性だった。女性は初め目を丸くし、ついでヒメのたたずまいを見て、ああと目を伏せた。
「ついに行っちゃったのね、あの子も」
「あ……」
ヒメは声に詰まったが、ややあって頷いた。言おうと思っていた台詞が全て吹っ飛び、なんとか挨拶だけをする。
「はじめまして。西軍白兵隊第一小隊のヒメといいます。……息子さんの荷物をお届けにまいりました」
「ええ、分かってるわ。ありがとう、ヒメ」
女性は微笑んで、扉を大きく開けヒメを招き入れた。
「入ってちょうだい。まだ当分降るだろうから、乾かしてからの方がいいわ。ここへは何で?」
「牛車で来ました」
「じゃあ、結構楽だったのね。帰りも?」
「いえ。雨の具合を見て、歩いて」
「だったら、なおさら休んだ方がいいわ」
女性はヒメを居間へと案内すると、上着を脱がせ、タオルを貸してくれた。ヒメが拭いている間に熱いお茶も淹れてくれた。
「ありがとうございます」
「それより、お口に合うかしら」
カップの中には見たことのない赤茶色の液体が入っていた。普通のお茶よりも香りが強いが、芳醇で優しい香りがする。誘われるように口を付けた。
「おいしい!」
顔を上げると、女性は本当? と嬉しそうに笑った。
「茶葉を発酵させたものなの。ブラック・ティーって言ってね、私の故郷のものなの」
「故郷、ですか」
この国はそれなりの面積を持ってはいるが、地域差が出るほどではない。すると、女性は首を振った。
「私の故郷は向こう側なの」
「えっ?」
驚いて、危うくカップを落とすところだった。慎重に置いてからまじまじと女性を見つめ、もう一度質問した。
「向こう側って、〈偉大なる母〉とか〈大嘘吐き〉とかが元々いたっていう世界?」
「そうよ」
そういえば、まだ自己紹介もしてなかったわねと女性は言った。
「キリエの母のアンといいます。よろしくね」
「よろしくお願いします。シュノーのヒメです」
思わず返してしまうと、アンはくすりと肩を揺らした。
「もう聞いたわ。よろしく、ヒメ」
「あ、はい。よろしくお願いします。それで、えっと、アンさんは本当に向こう側から来たんですか?」
「そうだって言ってるじゃない」
アンは頬杖をつき、少しだけ唇を尖らせる。ヒメは慌てて謝ったが、アンの表情に険はなかった。
「ごめんなさい。でも、向こうの人は私達よりも色が濃くて、彫りが深いって聞いたから」
「ああ、確かにそうね。でも、向こうの人はたくさんの種類がいるのよ。黒い人や白い人、のっぺりとした人もいる。私のお父さん、つまりキリエのおじいちゃんも色が薄くて、白くて、のっぺりとしていて、ここの人に似ていたわ」
「そうなんですか」
「私の故郷は新大陸って言ってね、いろんな国からいろんな人が移住してきてたの」
過去を懐かしむように僅かに目を細める。
「私の両親もそうだった。ボストンよりも南の小さな村で出会って、結婚して、私が生まれた。あまり裕福じゃあなかったけど、幸せだった」
「新、たいりく……?」
「海を渡ったの」
「海を?」
当然のことながら、この国の人間は海を見たことがない。南の遥か彼方にあるらしいが、確認した者は誰一人おらず、ヒメの目は自然と輝いてしまった。
「アンさんも、海を見たことがあるんですか?」
「毎日見てたわ。お父さんが船を持っていて、沖の方に出たこともある。船っていうのは、海の上を移動するための乗り物よ。沖は、そう、陸から遠いところ」
「何があるんですか?」
身を乗り出すと、アンは苦笑した。
「何もないわ」
「え?」
「深くて、何も見えないの。ただのしょっぱい水の塊」
「しょっぱい……海はしょっぱいんですね」
「それも知らないのね」
ヒメは素直に頷いた。もっと聞かせてくださいとせがむと、アンは幼子を見守るように少しだけ眉尻を下げた。
「そうね……あとは、そう、海はここと繋がっているの」
「つながって?」
「私はお父さんと船に乗ってた時にここに来たの」
気が付けば、アンの表情はどこか悲しげだった。
「城壁の北西の方。そのとき、私はお父さんを亡くした」
「……」
「お父さんは私を守って死んだわ」
ヒメが何も言えないでいると、アンははっと我に返ったように口元に手を当てた。
「やだ。私ったら、こんな。ごめんなさい。気を悪くしないで。自分では大丈夫と思ったけど、そうじゃなかったのかもしれないわね」
無理もない。ヒメは首を振って、アンの目を見た。
「あの、いやじゃなかったら、私、もっと聞きたいです。アンさんのこと、知りたいです」
「まあ」
アンは目を瞠って、ふっと笑みをこぼした。
「あなた、おもしろいのね。いいわ。でも、今度はあなたの番よ。私もあなたの話を聞きたい」
「はい」
ヒメは話し出した。自分のこと。軍に入って白兵になったこと。第二小隊のこと。コーラショのこと。キリエのこと。何もかも話した。話し終わると、すっかりブラック・ティーもブラック・ティーを淹れるために沸かしたお湯の残りも冷めきっていた。
「それじゃあ、あなたは……キリエを捜しているのね?」
「はい」
「キリエは……」
アンは爪を噛む。
「無事かしら……?」
「キリエが西に向かったのなら、可能性はあると思います。北より魔法無効化型は減るし、〈月夜〉が終わったばかりで魔力に余裕があるはずだから」
そうねとアンは険しい顔で頷いた。アンはきっと気付いているのだろう。その可能性が限りなくゼロに近いことに。やがて、顔を上げてヒメを真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、まだキリエを追うつもり?」
「はい」
「危ないわ。やめなさい。あの子が規則違反をして飛び出したのなら、それはあの子の責任だもの。気持ちはありがたいけど、それをあなたに押し付けるわけにはいかない」
「……押し付けられてるだなんて、私は、そんなこと」
「いいえ。押し付けてしまってる。本当だったら、親である私が行かなきゃいけないのに、このままだとあなたの善意に押し付けることになってしまう」
「……それは」
「だから、行かないで。あなたにまで何かあったら、私はあの子に顔向けできない」
アンの瞳は力強く、どこか有無を言わせない説得力とただならぬ雰囲気があった。苦境にあってもなお深みを増すその緑の瞳に、彼女はやはりキリエの母親なのだと、ヒメはぼんやりとどこか感慨深く思う。
「アンさんは、やっぱりキリエのお母さんなんですね」
「え?」
思わず呟いてしまうと、アンは目を丸くした。
「どうしたの、いきなり」
「あ、すみません。なんか、そう思って」
「……」
「アンさん?」
ヒメが小首を傾げると、アンは何故か困ったように視線を彷徨わせながらヒメに尋ねてきた。
「お母さんに見えるのかしら、私……」
「……? はい」
こっくりと頷く。アンは黙り込んで、ややあってから音もなく息を吐きだした。うつむいたままエプロンの裾を持ち上げて、そっと目の周りにあてる姿にヒメは動揺する。
「アンさん……」
「ごめんなさいね。ごめんなさい、大丈夫よ」
アンはぱっと顔を上げて、笑顔で首を振った。しかし、すぐに目を背けて、机の上にあったキリエの鞄に手を伸ばした。ぱんぱんに膨らんだ小さな鞄。キリエの荷物はそれだけだった。服や生活必需品だけで、軍の設備が使えるとしてもあまりに少ない。ペンダの机の上にはカードとか雑誌とかいろいろ転がっていたのに、キリエのところにはそういったものはなかった。まるで、意図的に排除されたかのようだった。
「キリエは……」
ヒメは知らず知らずのうちに呟く。
「どうして、自分に厳しくするんだろう」
「きっと、弱い自分が許せないのよ」
思いがけず返事があったが、その声も小さかった。
「お友達を亡くした時からそうなのよ。私、あの時、もっと優しくしてあげればよかった。そうしたら、あの子も私に当たらずに済んだのに」
「え」
「どうして母さんが生きてるんだ、て言われちゃって」
アンはキリエの荷物から手を離し、代わりに胸をぎゅっと押さえた。ヒメは絶句したが、すぐに我に返って、隣に回ってその肩を支えた。
「もうびっくりしちゃって。何も言えなくなっちゃって。私……本当駄目だな」
「そんなこと」
ヒメは首を振って、否定する。
「そんなこと、ないです。だって、変じゃないですか? キリエがそんなことを言う理由が分からないです。アンさんは別にキリエにいじわるしてたわけじゃないでしょう?」
「当たり前よ! 私だって、お父さんに守られて生き残ったのよ? あの子の気持ちをよく分かっているつもりだった。精一杯、あの子にできることをしてあげたつもりだった。なのに、全部無駄だった……」
アンは顔を覆って肩を震わせる。ヒメはそれでも首を振った。
「やっぱり、なんか変です。いくら落ち込んでいたからって、キリエがアンさんの苦痛を分からないわけがない。間違えて言っちゃったとしても、そのまま謝らないなんて、キリエらしくない」
「言い辛いことなんていくらでもあるわ」
「そうかもしれないけど。でも、目の前で大切な人が死んでしまったら、きっとキリエだって自分を責めたはずです。私だって、どうして自分が生きてるんだろうって、すごく悩んだことがありました。キリエだって、絶対そう思うんじゃ」
「もうやめて」
ヒメは口を噤んだ。アンの声は落ち着いたものだったが、何とも言えぬ凄みがあった。
「もうやめてちょうだい……。あなたの言葉が正しかったとしても、私があの子のことを全然分かっていなかったことに変わりはないもの」
「そんな……」
「ごめんなさい。少し一人にしてくれないかしら」
アンはキリエの荷物を持って――結局、アンは鞄の中を開けなかった――、ヒメを連れて二階へ上がった。矛は重いのでヒメが代わった。角の部屋に入り、カーテンを開ける。雨だからたいして明るくはならなかった。
「キリエの部屋よ。よかったら見てあげて」
「はい」
「それじゃ……私は下にいるから」
アンは静かにドアを閉めていなくなった。ヒメは一人取り残された。
矛を壁に立てかけ、ベッドに腰掛ける。少しだけ埃が舞い、鼻がむずむずとした。あまり掃除をしていないらしい。親子の間にかわされたやり取りを想像してしまい、ヒメの胸を重くした。
ヒメはなんとなく寝具をはたき、窓を開けてみた。さっきより雨は弱まったようだ。冷気が流れ込み、鳥肌が立った。
机に座る。部屋に入った時から殺風景だと思っていたが、実家にも物はなかった。抽斗も開けてみる。一段目には筆記用具しかなかった。二段目に至っては何もない。三段目。三段目で違和感を覚え、ヒメは抽斗の底を撫でた。角に窪みを見つけると、爪をひっかけて引っ張った。かぽっ――と板が外れた。二重底だった。鼓動が速くなる。ヒメはゆっくりと板を取り、中を覗いた。
「絵……?」
ブレザーを着た男女が三列にずらりと並んでいる。右下に『第二学校第四十七期卒業生』と黒で書いてあった。入っていたのはその絵だけだった。抽斗から出して両手で持ってみると、思ったよりも大きい。少しだけ腕を伸ばして全体を眺めた。
キリエはすぐに見つかった。最前列の一番端で椅子に座り、逃げ出さないように背後からヨアヒム先生に肩を押さえられている。ヨアヒム先生の手はその隣の青年も押さえていた。短い金髪。青い瞳。がたいがよく、おそらく盾戦士だろう。彼がトルン・トマスで間違いなかった。
絵を裏返す。小さく書いてある日付は六月だ。
キリエもトルンも笑顔だった。
「……」
何故だか悔しくなって、ヒメは絵をもとに戻そうとして直前で思いとどまった。代わりに小さく折りたたんでズボンのポケットにねじ込んだ。
抽斗の中をもう一度さらったが、何も出てこなかった。クローゼットや本棚も見たが、手掛かりになりそうなものは何一つ見つからなかった。
諦めて再びベッドに座る。ここまで何も出ないと、キリエがわざとそうしたようにしか思えなくなってきて、ヒメは頭を抱えた。気が滅入りそうだった。
「キリエ……」
膝を抱え、顔を埋める。
「どこに行ったの……?」
「キャアアアアアアアアァァアァァァァァァァァァァアアアッ!!」
ヒメははっと顔を上げた。ベッドから飛び降り、廊下に出る。
「アンさんっ?」
返事が返ってこない。ヒメは階段を駆け下り、居間に飛び込んだ。
「アンさっ――!!?」
振り向く人影。ヒメは息を呑んだ。
それは全身毛むくじゃらだった。手足は長く、太く、背はもちろんヒメより高い。人間なら頭があるだろう場所には何もなく、真っ平になっている。
窓際に立つそいつは、どこからどう見ても怪物だった。
「なっ、えっ、あっ、――」
口をぱくぱくとさせていると、怪物が一歩踏み出した。反射的に腰に手を伸ばすと、そこに兄弟刀はなく、ただ空を掴んだ。城壁内での武器の携帯は基本禁止されており、今日は置いてきたのだった。腹の底がひやりとした。怪物はそんなヒメに構わず、ずるずると近付いてくる。ヒメは後退り、ばっと踵を返して走り出した。
二階に上がると、キリエの部屋に戻り、置きっぱなしになっていた矛を取った。廊下に顔を出すと、ちょうど上がってきた怪物がこちらを見たような気がした。ドアを閉め、鍵をかける。次の瞬間、ドアがどんっと揺れた。木製のドアは作りが弱い。ヒメは思わず固まったが、恐怖をねじ伏せ、ドアが破られると同時に窓から外に躍り出た。
下は土でしかも雨で柔らかくなっていたため、着地は難なくいった。立ち上がるなり指先を天に突き付け、ヒメは叫んだ。
「命じる!」
魔法素が反応し、手の先に集まっていく。
「敵を貫き、すさまじい音は遠くまで届く――焦げろ!」
怪物も窓から飛び出す。その時、空がちかっと光った。耳を押さえ走り出した瞬間、衝撃と閃光が降り注いだ。
轟。
怪物目掛けて落ちたのは雷霆の塊だった。ヒメも吹き飛ばされ、ごろごろと転がって止まる。鼓膜がきぃんとし、視界が眩んだが、これだけの威力なら最低でも気絶はしているに違いない。中央に向かっている牛車と西軍にも異変は伝わったはずだ。そう半ば確信して、起き上がった時だった。
ぴちゃり、と音がした。
「っ!?」
咄嗟に矛を振るう。手応えはない。目の見えないままヒメは全速力で逃げ出した。後ろからひたひたと足音が迫ってくる。距離が開かない。ようやく視界がかすむ程度まで回復してきて、最初より走りやすくなったのに、足音は小さくなるどころか余計に迫ってきていた。ヒメは涙目で必死に足を動かした。恐怖に押し潰されそうだった。それでも走るのをやめなかったのは、ここが城壁の中だからだった。軍の助けが来る前にヒメが死んだら、怪物は近くの畑や牧場で働いている人を喰うかもしれない。西方駅まで到達して、そこにいる住人にも手を出すかもしれない。ひょっとすると、もうなっているかもしれない――。やめることなんてできなかった。
不意に前に出した足が何かに当たり、ヒメはつんのめった。
「いっ……!?」
手を出すと少し低い位置に木の板があったが、手をついた瞬間に割れてその下の空洞に吸い込まれた。ヒメは落ちた。だが、がくんっ、と矛が引っ掛かって、ヒメは中に宙ぶらりんになった。
「つうっ……!」
歯を食い縛る。穴の中は外よりも少し暗く、じめじめとしていて、すぐにどこか分かった。井戸だった。
ヒメは足を内壁にかけ、片手を縁に伸ばす。穴の上に乗っているだけの矛がぐらぐらと動き、なかなか縁を掴めないでいると、誰かが矛を押さえた。
「え……?」
よく見えないが、その手は大きく、ごつごつしていて、毛だらけのようで、そして指先から何か鋭く尖ったものが生えていて……首のない胴体がにゅっと覗いた。
ヒメは叫んだ。
手が滑り、落下が始まる。数秒後、水の中に叩きつけられた。
「がぶっ、かっ、ぐぶっ、っあ!」
足がつかない。口の中に水が入って思い切り飲み込み、ヒメは浮き上がろうと必死に手足をじたばたとさせた。しかし、もがけばもがくほど体は沈み、頭の中が真っ白になっていった。海のないこの国で育ったヒメにとって、風呂よりも深い水溜まりは初めてだ。どうしたらいいのか分かる訳がない。間違っているとは分かっていながら、そうするよりほかになく、ヒメはもがき続けた。次第に手足が重くなり、じわじわと落ちていく。
「だれっ、かっ」
助けを呼ぶと、遠い頭上の穴から誰かが覗き込んでいるのが微かに見えた。ただヒメをじっと見て、全く微動だにしない。絶望と共に水が流れ込んできた。
「あぷっ、がっ、ひっ――」
とぷんと頭頂部がつかる。ヒメの中も外も水でいっぱいになってさらに沈んでいく。茫然とする頭にキリエの顔が浮かんだ。
もう一度会うと決めたのに。
こんなところで終わるのか。
腕が上へ上へと伸ばされる。
いやだ。
そんなのいやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……――
キリエ。
どうして。
『違うっ……!』
鼻を啜る音が聞こえる。
『これも、これも……! なんでだよ……!?』
見たことのある部屋だった。
床や壁や天井は全て木でできており、ベッドと机とクローゼットと本棚がある。
キリエの部屋だった。
床には大量の紙屑と壊れた玩具と割れたガラスの破片と、その他様々なごみで溢れかえっていた。
『これも偽物なのにっ……!』
その中央で、少年は丸くなって震えていた。
あの卒業記念の絵を両手で握り締めていた。
『これしかないなんてっ……!』
おれが死ねばよかったんだ。
呪いのようにその言葉は繰り返し垂れ流された。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが……おれが……
おれが…………
母さんが生き返ったことを喜んだから。
(ッ!?)
『俺が取り戻す』
『トルン』
ごめん。母さん。
さようなら。
Come back, Hime.
「……、」
ヒメはキリエの荷物をもって牛車に乗っていた。周りにはコーラショ戦を終えて帰る予備役しかいない。というよりは、帰る彼らにヒメが便乗しているのだった。
一緒にカードをしないかという男の誘いを断り、キリエの鞄を抱く手にぎゅっと力を込める。高いところにある小さな窓から見えるのは、ただひたすら灰色の空のみ。まるでこれから進む先を暗示しているようで、ますます肩に力が入った。
ヒメはこれから西軍代表としてキリエの実家に行く。キリエの荷物を届け、何があったかを説明するために。もちろん、これは特例だ。本来なら一般兵が行くもので、数の少ない白兵を行かせるものではない。だが、ワシリエフ隊長は全てヒメに任せてくれた。
「いいんですか?」
おそるおそる尋ねたヒメの頭を、ワシリエフ隊長はわしゃわしゃ撫でた。
「もう、今から出世も見込めんしのう。若者を後押しするくらいしかジジイにはできんのよ。ついでに、そのまま休暇もとるかえ? ずっと取っとらんじゃろ」
だから行っておいで、ヒメ――。
大きめの石でも踏んだようで、牛車が大きく跳ねる。誰かがカードを落としたらしく、悲鳴が上がった。揺れが大きくなる。減速している。ヒメは早まる鼓動をおさえ、キリエの鞄と矛を持って立ち上がった。
「もう行っちまうのか? ヒメ」
一人が声を掛けると、次々と名を呼ばれた。ヒメは頷いた。
「ここでお別れです」
「寂しいなあ。ケッ、残んのはじじいばっかかよ」
「おめえもだろ!」
「ヒメ、中央に来たら俺の店来な。サービスしてやるよ」
「頑張れよ、ヒメ」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーい」
牛車が完全に停止する。ヒメは飛び下りると、皆に手を振った。
「ありがとう。行ってきます」
扉を閉め、急いで脇に寄った。牛車はまたすぐに動き出す。と、小窓に男たちの顔がいっぱいに並んだ。ヒメ! じゃあな! 元気でな! 知らない人ばかりだったが、それでもヒメの心の中には温かい何かが広がった。
牛車が遠く小さくなると、ヒメは辺りを見回した。ここは中央と西軍の間の西方駅、のさらに外れだ。あるのは広大な畑と牧地ばかりで、ちらちらと倉庫らしきものが点在しており、民家さえない。振り返ると、第一城壁の白亜が思ったよりも近くにあった。西方駅の外れの、さらに外側らしい。
街道を逸れて、南の方に向かう。程なくして、霧雨の向こうに真っ赤な屋根が見えてきた。ヒメは足を速めた。
二階建ての家だった。ぐるりと土塀に囲まれていて、前庭とおそらく裏庭もある。それよりもヒメの目を引いたのは、家の建材だった。〈大嘘吐き〉時代の怪物の骨による白い硬質素材ではない。北方で採れる粘土や石造りでもない。キリエの家は木造だった。
物珍しくてつい見入ってしまったが、制服の肩のあたりが雨を吸って重くなってきて、慌てて玄関を叩いた。
「ごめんください」
「……はいはい!」
一歩後退った時、玄関が開いた。出てきたのはキリエと同じ、金髪に緑色の目の女性だった。女性は初め目を丸くし、ついでヒメのたたずまいを見て、ああと目を伏せた。
「ついに行っちゃったのね、あの子も」
「あ……」
ヒメは声に詰まったが、ややあって頷いた。言おうと思っていた台詞が全て吹っ飛び、なんとか挨拶だけをする。
「はじめまして。西軍白兵隊第一小隊のヒメといいます。……息子さんの荷物をお届けにまいりました」
「ええ、分かってるわ。ありがとう、ヒメ」
女性は微笑んで、扉を大きく開けヒメを招き入れた。
「入ってちょうだい。まだ当分降るだろうから、乾かしてからの方がいいわ。ここへは何で?」
「牛車で来ました」
「じゃあ、結構楽だったのね。帰りも?」
「いえ。雨の具合を見て、歩いて」
「だったら、なおさら休んだ方がいいわ」
女性はヒメを居間へと案内すると、上着を脱がせ、タオルを貸してくれた。ヒメが拭いている間に熱いお茶も淹れてくれた。
「ありがとうございます」
「それより、お口に合うかしら」
カップの中には見たことのない赤茶色の液体が入っていた。普通のお茶よりも香りが強いが、芳醇で優しい香りがする。誘われるように口を付けた。
「おいしい!」
顔を上げると、女性は本当? と嬉しそうに笑った。
「茶葉を発酵させたものなの。ブラック・ティーって言ってね、私の故郷のものなの」
「故郷、ですか」
この国はそれなりの面積を持ってはいるが、地域差が出るほどではない。すると、女性は首を振った。
「私の故郷は向こう側なの」
「えっ?」
驚いて、危うくカップを落とすところだった。慎重に置いてからまじまじと女性を見つめ、もう一度質問した。
「向こう側って、〈偉大なる母〉とか〈大嘘吐き〉とかが元々いたっていう世界?」
「そうよ」
そういえば、まだ自己紹介もしてなかったわねと女性は言った。
「キリエの母のアンといいます。よろしくね」
「よろしくお願いします。シュノーのヒメです」
思わず返してしまうと、アンはくすりと肩を揺らした。
「もう聞いたわ。よろしく、ヒメ」
「あ、はい。よろしくお願いします。それで、えっと、アンさんは本当に向こう側から来たんですか?」
「そうだって言ってるじゃない」
アンは頬杖をつき、少しだけ唇を尖らせる。ヒメは慌てて謝ったが、アンの表情に険はなかった。
「ごめんなさい。でも、向こうの人は私達よりも色が濃くて、彫りが深いって聞いたから」
「ああ、確かにそうね。でも、向こうの人はたくさんの種類がいるのよ。黒い人や白い人、のっぺりとした人もいる。私のお父さん、つまりキリエのおじいちゃんも色が薄くて、白くて、のっぺりとしていて、ここの人に似ていたわ」
「そうなんですか」
「私の故郷は新大陸って言ってね、いろんな国からいろんな人が移住してきてたの」
過去を懐かしむように僅かに目を細める。
「私の両親もそうだった。ボストンよりも南の小さな村で出会って、結婚して、私が生まれた。あまり裕福じゃあなかったけど、幸せだった」
「新、たいりく……?」
「海を渡ったの」
「海を?」
当然のことながら、この国の人間は海を見たことがない。南の遥か彼方にあるらしいが、確認した者は誰一人おらず、ヒメの目は自然と輝いてしまった。
「アンさんも、海を見たことがあるんですか?」
「毎日見てたわ。お父さんが船を持っていて、沖の方に出たこともある。船っていうのは、海の上を移動するための乗り物よ。沖は、そう、陸から遠いところ」
「何があるんですか?」
身を乗り出すと、アンは苦笑した。
「何もないわ」
「え?」
「深くて、何も見えないの。ただのしょっぱい水の塊」
「しょっぱい……海はしょっぱいんですね」
「それも知らないのね」
ヒメは素直に頷いた。もっと聞かせてくださいとせがむと、アンは幼子を見守るように少しだけ眉尻を下げた。
「そうね……あとは、そう、海はここと繋がっているの」
「つながって?」
「私はお父さんと船に乗ってた時にここに来たの」
気が付けば、アンの表情はどこか悲しげだった。
「城壁の北西の方。そのとき、私はお父さんを亡くした」
「……」
「お父さんは私を守って死んだわ」
ヒメが何も言えないでいると、アンははっと我に返ったように口元に手を当てた。
「やだ。私ったら、こんな。ごめんなさい。気を悪くしないで。自分では大丈夫と思ったけど、そうじゃなかったのかもしれないわね」
無理もない。ヒメは首を振って、アンの目を見た。
「あの、いやじゃなかったら、私、もっと聞きたいです。アンさんのこと、知りたいです」
「まあ」
アンは目を瞠って、ふっと笑みをこぼした。
「あなた、おもしろいのね。いいわ。でも、今度はあなたの番よ。私もあなたの話を聞きたい」
「はい」
ヒメは話し出した。自分のこと。軍に入って白兵になったこと。第二小隊のこと。コーラショのこと。キリエのこと。何もかも話した。話し終わると、すっかりブラック・ティーもブラック・ティーを淹れるために沸かしたお湯の残りも冷めきっていた。
「それじゃあ、あなたは……キリエを捜しているのね?」
「はい」
「キリエは……」
アンは爪を噛む。
「無事かしら……?」
「キリエが西に向かったのなら、可能性はあると思います。北より魔法無効化型は減るし、〈月夜〉が終わったばかりで魔力に余裕があるはずだから」
そうねとアンは険しい顔で頷いた。アンはきっと気付いているのだろう。その可能性が限りなくゼロに近いことに。やがて、顔を上げてヒメを真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、まだキリエを追うつもり?」
「はい」
「危ないわ。やめなさい。あの子が規則違反をして飛び出したのなら、それはあの子の責任だもの。気持ちはありがたいけど、それをあなたに押し付けるわけにはいかない」
「……押し付けられてるだなんて、私は、そんなこと」
「いいえ。押し付けてしまってる。本当だったら、親である私が行かなきゃいけないのに、このままだとあなたの善意に押し付けることになってしまう」
「……それは」
「だから、行かないで。あなたにまで何かあったら、私はあの子に顔向けできない」
アンの瞳は力強く、どこか有無を言わせない説得力とただならぬ雰囲気があった。苦境にあってもなお深みを増すその緑の瞳に、彼女はやはりキリエの母親なのだと、ヒメはぼんやりとどこか感慨深く思う。
「アンさんは、やっぱりキリエのお母さんなんですね」
「え?」
思わず呟いてしまうと、アンは目を丸くした。
「どうしたの、いきなり」
「あ、すみません。なんか、そう思って」
「……」
「アンさん?」
ヒメが小首を傾げると、アンは何故か困ったように視線を彷徨わせながらヒメに尋ねてきた。
「お母さんに見えるのかしら、私……」
「……? はい」
こっくりと頷く。アンは黙り込んで、ややあってから音もなく息を吐きだした。うつむいたままエプロンの裾を持ち上げて、そっと目の周りにあてる姿にヒメは動揺する。
「アンさん……」
「ごめんなさいね。ごめんなさい、大丈夫よ」
アンはぱっと顔を上げて、笑顔で首を振った。しかし、すぐに目を背けて、机の上にあったキリエの鞄に手を伸ばした。ぱんぱんに膨らんだ小さな鞄。キリエの荷物はそれだけだった。服や生活必需品だけで、軍の設備が使えるとしてもあまりに少ない。ペンダの机の上にはカードとか雑誌とかいろいろ転がっていたのに、キリエのところにはそういったものはなかった。まるで、意図的に排除されたかのようだった。
「キリエは……」
ヒメは知らず知らずのうちに呟く。
「どうして、自分に厳しくするんだろう」
「きっと、弱い自分が許せないのよ」
思いがけず返事があったが、その声も小さかった。
「お友達を亡くした時からそうなのよ。私、あの時、もっと優しくしてあげればよかった。そうしたら、あの子も私に当たらずに済んだのに」
「え」
「どうして母さんが生きてるんだ、て言われちゃって」
アンはキリエの荷物から手を離し、代わりに胸をぎゅっと押さえた。ヒメは絶句したが、すぐに我に返って、隣に回ってその肩を支えた。
「もうびっくりしちゃって。何も言えなくなっちゃって。私……本当駄目だな」
「そんなこと」
ヒメは首を振って、否定する。
「そんなこと、ないです。だって、変じゃないですか? キリエがそんなことを言う理由が分からないです。アンさんは別にキリエにいじわるしてたわけじゃないでしょう?」
「当たり前よ! 私だって、お父さんに守られて生き残ったのよ? あの子の気持ちをよく分かっているつもりだった。精一杯、あの子にできることをしてあげたつもりだった。なのに、全部無駄だった……」
アンは顔を覆って肩を震わせる。ヒメはそれでも首を振った。
「やっぱり、なんか変です。いくら落ち込んでいたからって、キリエがアンさんの苦痛を分からないわけがない。間違えて言っちゃったとしても、そのまま謝らないなんて、キリエらしくない」
「言い辛いことなんていくらでもあるわ」
「そうかもしれないけど。でも、目の前で大切な人が死んでしまったら、きっとキリエだって自分を責めたはずです。私だって、どうして自分が生きてるんだろうって、すごく悩んだことがありました。キリエだって、絶対そう思うんじゃ」
「もうやめて」
ヒメは口を噤んだ。アンの声は落ち着いたものだったが、何とも言えぬ凄みがあった。
「もうやめてちょうだい……。あなたの言葉が正しかったとしても、私があの子のことを全然分かっていなかったことに変わりはないもの」
「そんな……」
「ごめんなさい。少し一人にしてくれないかしら」
アンはキリエの荷物を持って――結局、アンは鞄の中を開けなかった――、ヒメを連れて二階へ上がった。矛は重いのでヒメが代わった。角の部屋に入り、カーテンを開ける。雨だからたいして明るくはならなかった。
「キリエの部屋よ。よかったら見てあげて」
「はい」
「それじゃ……私は下にいるから」
アンは静かにドアを閉めていなくなった。ヒメは一人取り残された。
矛を壁に立てかけ、ベッドに腰掛ける。少しだけ埃が舞い、鼻がむずむずとした。あまり掃除をしていないらしい。親子の間にかわされたやり取りを想像してしまい、ヒメの胸を重くした。
ヒメはなんとなく寝具をはたき、窓を開けてみた。さっきより雨は弱まったようだ。冷気が流れ込み、鳥肌が立った。
机に座る。部屋に入った時から殺風景だと思っていたが、実家にも物はなかった。抽斗も開けてみる。一段目には筆記用具しかなかった。二段目に至っては何もない。三段目。三段目で違和感を覚え、ヒメは抽斗の底を撫でた。角に窪みを見つけると、爪をひっかけて引っ張った。かぽっ――と板が外れた。二重底だった。鼓動が速くなる。ヒメはゆっくりと板を取り、中を覗いた。
「絵……?」
ブレザーを着た男女が三列にずらりと並んでいる。右下に『第二学校第四十七期卒業生』と黒で書いてあった。入っていたのはその絵だけだった。抽斗から出して両手で持ってみると、思ったよりも大きい。少しだけ腕を伸ばして全体を眺めた。
キリエはすぐに見つかった。最前列の一番端で椅子に座り、逃げ出さないように背後からヨアヒム先生に肩を押さえられている。ヨアヒム先生の手はその隣の青年も押さえていた。短い金髪。青い瞳。がたいがよく、おそらく盾戦士だろう。彼がトルン・トマスで間違いなかった。
絵を裏返す。小さく書いてある日付は六月だ。
キリエもトルンも笑顔だった。
「……」
何故だか悔しくなって、ヒメは絵をもとに戻そうとして直前で思いとどまった。代わりに小さく折りたたんでズボンのポケットにねじ込んだ。
抽斗の中をもう一度さらったが、何も出てこなかった。クローゼットや本棚も見たが、手掛かりになりそうなものは何一つ見つからなかった。
諦めて再びベッドに座る。ここまで何も出ないと、キリエがわざとそうしたようにしか思えなくなってきて、ヒメは頭を抱えた。気が滅入りそうだった。
「キリエ……」
膝を抱え、顔を埋める。
「どこに行ったの……?」
「キャアアアアアアアアァァアァァァァァァァァァァアアアッ!!」
ヒメははっと顔を上げた。ベッドから飛び降り、廊下に出る。
「アンさんっ?」
返事が返ってこない。ヒメは階段を駆け下り、居間に飛び込んだ。
「アンさっ――!!?」
振り向く人影。ヒメは息を呑んだ。
それは全身毛むくじゃらだった。手足は長く、太く、背はもちろんヒメより高い。人間なら頭があるだろう場所には何もなく、真っ平になっている。
窓際に立つそいつは、どこからどう見ても怪物だった。
「なっ、えっ、あっ、――」
口をぱくぱくとさせていると、怪物が一歩踏み出した。反射的に腰に手を伸ばすと、そこに兄弟刀はなく、ただ空を掴んだ。城壁内での武器の携帯は基本禁止されており、今日は置いてきたのだった。腹の底がひやりとした。怪物はそんなヒメに構わず、ずるずると近付いてくる。ヒメは後退り、ばっと踵を返して走り出した。
二階に上がると、キリエの部屋に戻り、置きっぱなしになっていた矛を取った。廊下に顔を出すと、ちょうど上がってきた怪物がこちらを見たような気がした。ドアを閉め、鍵をかける。次の瞬間、ドアがどんっと揺れた。木製のドアは作りが弱い。ヒメは思わず固まったが、恐怖をねじ伏せ、ドアが破られると同時に窓から外に躍り出た。
下は土でしかも雨で柔らかくなっていたため、着地は難なくいった。立ち上がるなり指先を天に突き付け、ヒメは叫んだ。
「命じる!」
魔法素が反応し、手の先に集まっていく。
「敵を貫き、すさまじい音は遠くまで届く――焦げろ!」
怪物も窓から飛び出す。その時、空がちかっと光った。耳を押さえ走り出した瞬間、衝撃と閃光が降り注いだ。
轟。
怪物目掛けて落ちたのは雷霆の塊だった。ヒメも吹き飛ばされ、ごろごろと転がって止まる。鼓膜がきぃんとし、視界が眩んだが、これだけの威力なら最低でも気絶はしているに違いない。中央に向かっている牛車と西軍にも異変は伝わったはずだ。そう半ば確信して、起き上がった時だった。
ぴちゃり、と音がした。
「っ!?」
咄嗟に矛を振るう。手応えはない。目の見えないままヒメは全速力で逃げ出した。後ろからひたひたと足音が迫ってくる。距離が開かない。ようやく視界がかすむ程度まで回復してきて、最初より走りやすくなったのに、足音は小さくなるどころか余計に迫ってきていた。ヒメは涙目で必死に足を動かした。恐怖に押し潰されそうだった。それでも走るのをやめなかったのは、ここが城壁の中だからだった。軍の助けが来る前にヒメが死んだら、怪物は近くの畑や牧場で働いている人を喰うかもしれない。西方駅まで到達して、そこにいる住人にも手を出すかもしれない。ひょっとすると、もうなっているかもしれない――。やめることなんてできなかった。
不意に前に出した足が何かに当たり、ヒメはつんのめった。
「いっ……!?」
手を出すと少し低い位置に木の板があったが、手をついた瞬間に割れてその下の空洞に吸い込まれた。ヒメは落ちた。だが、がくんっ、と矛が引っ掛かって、ヒメは中に宙ぶらりんになった。
「つうっ……!」
歯を食い縛る。穴の中は外よりも少し暗く、じめじめとしていて、すぐにどこか分かった。井戸だった。
ヒメは足を内壁にかけ、片手を縁に伸ばす。穴の上に乗っているだけの矛がぐらぐらと動き、なかなか縁を掴めないでいると、誰かが矛を押さえた。
「え……?」
よく見えないが、その手は大きく、ごつごつしていて、毛だらけのようで、そして指先から何か鋭く尖ったものが生えていて……首のない胴体がにゅっと覗いた。
ヒメは叫んだ。
手が滑り、落下が始まる。数秒後、水の中に叩きつけられた。
「がぶっ、かっ、ぐぶっ、っあ!」
足がつかない。口の中に水が入って思い切り飲み込み、ヒメは浮き上がろうと必死に手足をじたばたとさせた。しかし、もがけばもがくほど体は沈み、頭の中が真っ白になっていった。海のないこの国で育ったヒメにとって、風呂よりも深い水溜まりは初めてだ。どうしたらいいのか分かる訳がない。間違っているとは分かっていながら、そうするよりほかになく、ヒメはもがき続けた。次第に手足が重くなり、じわじわと落ちていく。
「だれっ、かっ」
助けを呼ぶと、遠い頭上の穴から誰かが覗き込んでいるのが微かに見えた。ただヒメをじっと見て、全く微動だにしない。絶望と共に水が流れ込んできた。
「あぷっ、がっ、ひっ――」
とぷんと頭頂部がつかる。ヒメの中も外も水でいっぱいになってさらに沈んでいく。茫然とする頭にキリエの顔が浮かんだ。
もう一度会うと決めたのに。
こんなところで終わるのか。
腕が上へ上へと伸ばされる。
いやだ。
そんなのいやだ。
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……――
キリエ。
どうして。
『違うっ……!』
鼻を啜る音が聞こえる。
『これも、これも……! なんでだよ……!?』
見たことのある部屋だった。
床や壁や天井は全て木でできており、ベッドと机とクローゼットと本棚がある。
キリエの部屋だった。
床には大量の紙屑と壊れた玩具と割れたガラスの破片と、その他様々なごみで溢れかえっていた。
『これも偽物なのにっ……!』
その中央で、少年は丸くなって震えていた。
あの卒業記念の絵を両手で握り締めていた。
『これしかないなんてっ……!』
おれが死ねばよかったんだ。
呪いのようにその言葉は繰り返し垂れ流された。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが死ねばよかったんだ。
おれが……おれが……
おれが…………
母さんが生き返ったことを喜んだから。
(ッ!?)
『俺が取り戻す』
『トルン』
ごめん。母さん。
さようなら。
Come back, Hime.
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