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ヒメの章
開拓暦586年1月、第三城壁、前線
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真っ暗な室内に、こんこんというノックの音が響いた。
「ミリア……起きてる……?」
聞き覚えのある声だった。彼女がドアを開けて入ってくる気配はない。中にいる人物に気を遣い、静かに語りかけてくる。
「すごく、その、辛いと思うんだけど、聞いてほしいの……」
暗闇の中、ミリアは被っていた毛布から僅かに顔を出した。ぼさぼさとほつれた髪。生気の失せた瞳。かさかさとした肌。老婆のように窶れ、ベッドの上で丸くなっている。もう一つのベッドは空だった。少し前までは違った。ここも他と同じように二人部屋で、いつもミリアを引っ張ってくれた年上の女性隊員がいた。
「今ね……また来たの。あの……あいつらが。今、上で第一と第五が戦ってる。……ヒメもだよ」
びくりとミリアは震えた。掠れた声でひめと呟いた。
「戦況はね、まだよく分かんないけど、多分、よくないと思う……。ねえ、ミリア……」
叩く音ではない。彼女はおそらく、手の平をドアに押し付けた。
「最低だなって、本当、最悪だなって……思うんだけど、でも、こんなことしか私は言えないの……。大丈夫になったら、出てきてほしいの…………私達は、まだちょっとの情報しか持ってない。ワシリエフ隊長はそっとしてあげてって言うけど、正直、待つことなんてできない。私は、仲間に死んでほしくないから。みんな、第二小隊にはなりたくないから。分かるでしょう? だから、ミリア。お願い、出てきて、ミリア……!」
彼女の声は必死だった。それだけに痛かった。ミリアは耳を塞ぎ、顔を歪め、掠れた喉を震わせた。
「ぃ、……ゃ……」
「ミリア――」
「いやああああぁあぁアアアアアアアアッ――!!」
顔面を覆って毛布の中に戻り、きえろきえろと繰り返す。こんな呪詛しか吐き出せない世界に絶望した。
「ごめん……ミリア……」
やがて、押し殺したような小さな声がした。
「ごめん。本当にごめん。もう言わない。……あのね、ミリア。ごめん。今朝ね、ペレが目を覚ましたの」
ミリアの動きが止まった。顔面を覆う手の下で口だけが動いた。
「黙ってて、ごめん。まず、こっちを言うべきだったのに……ごめんっ、ミリアッ……」
彼女は逃げるように走り去っていった。ミリアは微動だにしなかった。そのまま永遠に時が止まったような沈黙を経て、ミリアは再び毛布から顔を出した。
「ぺ……れ……」
〈大嘘吐き〉ニンスンの時代、この国への侵入経路は第一城壁の五つの星の頂点にある大門だけだった。城壁の上は国の中央にある王城の塔の通称魔法カノンの射程範囲にあって、誰も通ることができなかったのである。現在、〈大嘘吐き〉に代わって魔法カノンを動かす二王、〈永遠王〉と〈罪負い女王〉も稀代の魔法使いであるが、残念ながらその魔力は〈大嘘吐き〉に劣っている。怪物は城壁上の一定の範囲なら通過できるようになった。その範囲というのが中央から最も遠い星の頂点であり、軍はその防衛のために生まれたのである。
第三城壁もその時に生まれた。戦場を狭い第一城壁から広げ、防衛線を広げるためである。
城壁上に上がると、北の方から喊声が聞こえてきた。既に突破されたらしい。ヒメとキリエはがちゃがちゃと白い鎧を鳴らして走り回る一般兵の隙間を縫うように、彼等よりずっと速く駆けた。甲冑を身に纏い同色の大きな盾と剣を持つ一般兵と違い、白兵は身軽だ。装備は胸当てなどの簡単なものしかない。そうでなければ、喰われてしまう。怪物の動きは速いのだ。その攻撃を避けつつ反撃を行える者が――否、者しか、白兵にはなれない。
前方できらりと陽光が反射される。一般兵の盾だ。その向こうに赤紫色を帯びた灰色の毛を持つタコアシがいた。全部で五体。それぞれ二人の白兵が当たっている。そして、その邪魔をしようと、人間と同じくらいの大きさの、しかし全く異なる生物が何体も駆け回っていた。
新種。
人間のような四肢を持ち、全身を灰色の短い毛で覆われている。顔面は白く、左右の目玉はそれで見えているのかばらばらに動いていた。おそらく、他の器官、耳を頼りに動いているのだろう。頭には兎の耳のようなものが生えていて、そこと頭の後ろだけは赤かった。キヒヒヒヒと笑いながら、追いかける白兵をおちょくるようにぴょんぴょん跳ねている。間違いなく遊んでいる。
ヒメが眉を顰めた時、キリエが呟いた。
「コーラショか」
「え?」
問う間もなく、キリエは動いた。
「っはあああああああああああっ!」
間にいた一般兵を容赦なく踏み台にして飛び越え、コーラショと呼んだ新種の脳天に矛を振り下ろす。
「キヒャ――」
振り向いた顔面の中央、目と目の間だ。ぱっくりと割れ、暫くふらふらとした後に倒れた。一撃だった。周囲を囲む一般兵が一斉に息を呑む。その直後、キリエと全く同じルートを通って――一般兵には度々申し訳ないが――ヒメも突撃した。どよめきが広がる。その先にはまだキリエがいる。だが、ヒメには一つの確信とも言える予感があった。
キリエが振り向き、矛を構えた。
「ヒメええええええっ!」
ヒメが矛を踏みつけるのと同時に、キリエがその先端を跳ね上げた。
「いっけえええええっ!」
勢いよく射出され、さらに飛びながら、ヒメは左腰の刀を握って腰を捻った。前方には二体のコーラショがいた。飛んでくるヒメに奇声を上げながらも、一体は蹴り返そうというのか片足を引く。だが、遅い。既にヒメは抜いていた。
「ふっ!」
居合い抜き。
現れたのは僅かに反りのある肉厚の刃だ。美しい波紋がギラリと輝き、そして一閃する。
首が飛んだ。
残った胴体を蹴倒しながら着地すると、今度は左手で右の刀を掴み、同様に振り抜いた。ヒメに襲いかかろうとしたコーラショは跳び退ってこれを避けた。ヒメは追撃せずに踵を返すと、キリエと合流し、彼と背中合わせになる。その時になってようやく、うおおおおおおおおおおおおおおおっ……!! という歓声が上がった。
「やったぞ!」「キリエ!」「ヒメ!」「いけ!」「やっちまえ!」「ぶっ殺せ!」「やれ……!」
「どけえいっ!」
雷鳴のように野太い声が叩いた。コンドルはヒメ達を見て一瞬目を見開き、次に苦々しげに唇を歪めた。
「第一小隊、見参っ! かかれっ……!」
静まり返った歓声が再び、否、それ以上に復活し、第一小隊長コンドル以下数十名が突撃する。速やかにタコアシとコーラショを分断し、怪物どもを叩き始めた。
「はあああああああああっ!」
「しっ……!」
ヒメ達も己の得物を振り回す。ヒメの刀は兄弟刀だ。右手の兄刀の方が長く、それで斬る。突く。斬る。叩く。薙ぐ。左手の弟刀はより反りがあり、コーラショのパンチとキックをことごとく払い、叩き、打ち落とした。ヒメは槍戦士の中でも特に近接戦を得意としていた。そして、矢継ぎ早に繰り出す二刀の速度は全く衰えない。ごく普通の刀だからリーチが短く、大きな怪物に対してはどうしても後手に回らざるを得ないが、今回だけはヒメの方が優位にあった。それに気付けたのも、彼の存在があったからだった。
「らぁぁぁぁぁぁああああああああっ!」
ゴォッ!!! と物凄い勢いで振り回される矛。矛には二本の枝刃がついており、ヒメの周りのコーラショ達をまとめて叩っ斬っていく。それはまさしく暴風だった。槍戦士であるにも拘らず、正面から挑み巨大な一撃を叩きつけるそのやり方は盾戦士のようだ。しかし、そうでない証拠にキリエは盛んに動き回り、時には至近から巧みに矛を操って打ち倒してみせる。ヒメはここまで矛を上手く扱う者を見たことがなかった。
コーラショは当然、近接戦を得意とする。そして、その素早さを利用して巧みに相手の間合いを越え、絶対に避けられない距離から重い一撃を浴びせてくる。それは、長柄の武器を使う多くの白兵にとっては、絶対に越えられてはならない一線だ。越えられたが最後、コーラショの連撃の餌食となる。ヒメが第二小隊戦で生き残ったのは、元々の戦闘スタイルのお陰と言って過言ではない。
だが、キリエは違う。盾戦士さながらの重攻撃でありながら、槍戦士の素早さを維持し、コーラショの接近をまず許さない。接近に成功したとしても、矛とは思えないほどの見事な近接戦の技巧が確実に首を刈り取る。彼には隙が無い。
北軍の鬼。
その異名が、ごく自然に脳裏に浮かんだ。
「はああああっ!」
旋回しながら矛を突きだし、横合いからヒメに襲いかかってきたコーラショを串刺しにする。この時には、ヒメにもコーラショの弱点が、キリエの意図が分かっていた。ヒメも一気に踏み込んで先程からやりあっていたコーラショの右足を踏み抜くと、左目に兄刀を、口に弟刀を突き刺し、思いきり回し蹴りを叩き込んだ。
コーラショの素早さは確かに脅威だ。だが、この新種は、他の怪物に比べると実は驚くほどに弱く脆い。
「ひゅう」
キリエが背後に立つ。二人の猛攻にコーラショ達は恐れをなしたか近付いてこない。
「かっこいい」
「キリエこそ」
一発だけ掠った頬に手を当てると、どろりとした赤いものがついた。口の中もぬるりとして、唾と一緒にぺっと吐きだす。周りを見ると、タコアシがまだ一体残っていた。
「苦戦してるな」
キリエの声に振り向けば、第一小隊の他の白兵達は二人のようには上手くいっていなかった。やはり、盾戦士がコーラショの機敏な動きについていけず、槍戦士も自由に動けていない。それでもまだ一人も倒れた者がいないのは、小隊長コンドルの裁量によるものだろう。だが、このままでは埒が明かない。
「ヒメ。タコアシを」
「うん」
キリエが走りだし、少し遅れてヒメも続く。タコアシは足の代わりに腹から吸盤のついた繊毛を生やした、垂れ耳の犬のような姿をしている。勿論、犬はこんなに大きくない。ヒメの身長の三倍か四倍はある。タコアシの心臓の位置は案外普通だ。胴体の真ん中辺りだ。繊毛を避けつつ確実に仕留めるなら、背中から刺すのが一番だろう。
ヒメは上体を大きく捻ると、兄刀を勢いよく投擲した。愛刀はタコアシの胴に突き刺さり、足場となる。タコアシは咆哮を上げ身悶えたが、その鼻面に一人の盾戦士が大きな戦鎚をめり込ませると、タコアシはびくんっと震えて大人しくなった。その隙にキリエと別の槍戦士がタコアシの背中に駆け上がり、それぞれの武器を振るった。タコアシは再び吠えたが、やがて動かなくなった。
魔法無効化が解けると、それまで遠巻きにしていた一般兵が盾を合わせて前進を開始する。魔法兵の呪文詠唱が始まる。キヒィ、キヒャアとコーラショが泡を食ったかのように逃げだした。そして、ヒメ達の方へと大挙して向かってくる。
「ヒメ! こっちだ!」
キリエがタコアシの上で手を振り、反対側へと飛び降りる。いちいちタコアシを迂回したり、刀を回収している暇はない。ヒメもタコアシを乗り越えようと駆け出そうとした時だった。
声が聞こえた。
調子の外れた、歪で聞き取りにくい声。
カタナ、と言った気がした。
嫌な汗が背筋を伝う。そのまま無視するべきなのに、ヒメはできなかった。
コーラショ達の先頭を走るそいつは、他より明らかに大きかった。そして、首に赤い布を巻いていた。変わった形の布だった。四角い布に紐をつけたような形状をしていて、まるでマントのように翻している。似たような姿を町で見たことがあった。ちゃらちゃらとした青年が、おしゃれなのかシャツの袖部分を首元で縛っていた――
「あ……」
あの日。
中途半端に喰われて残った遺体の中で、一つだけ上着を着ていないものがあった。
忘れようもない。
あの日、あの時、ヒメの目の前で。
奴は。
殺した。
喰った。
彼女の相棒を。
「せっ、……!」
セジュン。
ヒメは駆け出した。鞘を腰から引き抜くと、上着泥棒目掛けて投げつけた。上着泥棒はぎりぎりのところで気付いて避けた。その間にヒメは弟刀で他のコーラショ達を強引に蹴散らし、奴に躍りかかる。上着泥棒はキヒャアッ! と叫びながら手の甲で弟刀を弾いた。怪物の骨は、ひょっとすると、この世で一番頑丈だ。コーラショの手足はそれが特に発達して、強烈な打撃を生み出している。反して、それ以外の部分は脆い。第二小隊はそれに気付けなかった。だが、もう倒し方は分かった。ヒメは弟刀を両手で握りしめた。
「それはセジュンの――っ!!」
「キヒィッ!」
振り下ろされた斬撃は常より速くて重い。逃げる上着泥棒にすかさず追い打ちをかける。
「返せっ!」
「キヤッ!?」
「お前のじゃないっ――!!」
待っていたのだ。
本当はずっと待っていたのだ。この時を。
跳び退ろうとしたところに足払いをかける。何かに縋るように手を広げて倒れる上着泥棒に、刀を抱えるように体ごと突っ込んだ。
「死ねぇぇぇぇぇぇっ……!!」
「ヒメッ……!」
その時、上着泥棒の口角がにんまりと吊り上がった。
「カタナ女、バーか」
「ぶっ……!」
顔面と腹を衝撃が突き抜け、目の前が真っ暗になる。足が着いてない。飛んでいる。吹き飛ばされたのだ。それを理解した時、がくんっ――、とヒメは引き戻された。
「何してんだよ、馬鹿っ!」
「あっ……」
ヒメはキリエに左手を掴まれて城壁の外にぶら下っていた。謀られたのだ。下を見ると、遥か下方に灰色の大地が広がっていた。茫然としている間に、キリエは勢いよくヒメを引っ張り上げた。
城壁上に戻ると、一般兵の群れと魔法兵に囲まれている一頭のコーラショがいた。一頭だけだった。他は全て取り逃がしたのだ。ヒメのせいだった。
かろうじて掴んでいた弟刀が手から滑り落ちる。
「わた、し……」
顔を歪ませると、いろんなものがずきずきと痛んだ。ひっくとからからに乾いた喉が鳴る。半分潰れた視界も赤く染まり、ヒメはその場に頽れた。
「アーアーアー」
そのコーラショは小さかった。血色の上着を巻いてもいなかった。
ごく初歩的な幻惑魔法だろうか。
キリエがヒメを抱くようにしながら耳を塞ぐ。だが、その声は届いた。届いてしまった。
「セジュン、美味しかったナア」
「「「燃えろ」」」
オレンジ色の火柱が噴き上がる。けたたましい悲鳴は、まるで嘲笑うかのようでもあり、コーラショは炎にまかれて息絶えた。
「ミリア……起きてる……?」
聞き覚えのある声だった。彼女がドアを開けて入ってくる気配はない。中にいる人物に気を遣い、静かに語りかけてくる。
「すごく、その、辛いと思うんだけど、聞いてほしいの……」
暗闇の中、ミリアは被っていた毛布から僅かに顔を出した。ぼさぼさとほつれた髪。生気の失せた瞳。かさかさとした肌。老婆のように窶れ、ベッドの上で丸くなっている。もう一つのベッドは空だった。少し前までは違った。ここも他と同じように二人部屋で、いつもミリアを引っ張ってくれた年上の女性隊員がいた。
「今ね……また来たの。あの……あいつらが。今、上で第一と第五が戦ってる。……ヒメもだよ」
びくりとミリアは震えた。掠れた声でひめと呟いた。
「戦況はね、まだよく分かんないけど、多分、よくないと思う……。ねえ、ミリア……」
叩く音ではない。彼女はおそらく、手の平をドアに押し付けた。
「最低だなって、本当、最悪だなって……思うんだけど、でも、こんなことしか私は言えないの……。大丈夫になったら、出てきてほしいの…………私達は、まだちょっとの情報しか持ってない。ワシリエフ隊長はそっとしてあげてって言うけど、正直、待つことなんてできない。私は、仲間に死んでほしくないから。みんな、第二小隊にはなりたくないから。分かるでしょう? だから、ミリア。お願い、出てきて、ミリア……!」
彼女の声は必死だった。それだけに痛かった。ミリアは耳を塞ぎ、顔を歪め、掠れた喉を震わせた。
「ぃ、……ゃ……」
「ミリア――」
「いやああああぁあぁアアアアアアアアッ――!!」
顔面を覆って毛布の中に戻り、きえろきえろと繰り返す。こんな呪詛しか吐き出せない世界に絶望した。
「ごめん……ミリア……」
やがて、押し殺したような小さな声がした。
「ごめん。本当にごめん。もう言わない。……あのね、ミリア。ごめん。今朝ね、ペレが目を覚ましたの」
ミリアの動きが止まった。顔面を覆う手の下で口だけが動いた。
「黙ってて、ごめん。まず、こっちを言うべきだったのに……ごめんっ、ミリアッ……」
彼女は逃げるように走り去っていった。ミリアは微動だにしなかった。そのまま永遠に時が止まったような沈黙を経て、ミリアは再び毛布から顔を出した。
「ぺ……れ……」
〈大嘘吐き〉ニンスンの時代、この国への侵入経路は第一城壁の五つの星の頂点にある大門だけだった。城壁の上は国の中央にある王城の塔の通称魔法カノンの射程範囲にあって、誰も通ることができなかったのである。現在、〈大嘘吐き〉に代わって魔法カノンを動かす二王、〈永遠王〉と〈罪負い女王〉も稀代の魔法使いであるが、残念ながらその魔力は〈大嘘吐き〉に劣っている。怪物は城壁上の一定の範囲なら通過できるようになった。その範囲というのが中央から最も遠い星の頂点であり、軍はその防衛のために生まれたのである。
第三城壁もその時に生まれた。戦場を狭い第一城壁から広げ、防衛線を広げるためである。
城壁上に上がると、北の方から喊声が聞こえてきた。既に突破されたらしい。ヒメとキリエはがちゃがちゃと白い鎧を鳴らして走り回る一般兵の隙間を縫うように、彼等よりずっと速く駆けた。甲冑を身に纏い同色の大きな盾と剣を持つ一般兵と違い、白兵は身軽だ。装備は胸当てなどの簡単なものしかない。そうでなければ、喰われてしまう。怪物の動きは速いのだ。その攻撃を避けつつ反撃を行える者が――否、者しか、白兵にはなれない。
前方できらりと陽光が反射される。一般兵の盾だ。その向こうに赤紫色を帯びた灰色の毛を持つタコアシがいた。全部で五体。それぞれ二人の白兵が当たっている。そして、その邪魔をしようと、人間と同じくらいの大きさの、しかし全く異なる生物が何体も駆け回っていた。
新種。
人間のような四肢を持ち、全身を灰色の短い毛で覆われている。顔面は白く、左右の目玉はそれで見えているのかばらばらに動いていた。おそらく、他の器官、耳を頼りに動いているのだろう。頭には兎の耳のようなものが生えていて、そこと頭の後ろだけは赤かった。キヒヒヒヒと笑いながら、追いかける白兵をおちょくるようにぴょんぴょん跳ねている。間違いなく遊んでいる。
ヒメが眉を顰めた時、キリエが呟いた。
「コーラショか」
「え?」
問う間もなく、キリエは動いた。
「っはあああああああああああっ!」
間にいた一般兵を容赦なく踏み台にして飛び越え、コーラショと呼んだ新種の脳天に矛を振り下ろす。
「キヒャ――」
振り向いた顔面の中央、目と目の間だ。ぱっくりと割れ、暫くふらふらとした後に倒れた。一撃だった。周囲を囲む一般兵が一斉に息を呑む。その直後、キリエと全く同じルートを通って――一般兵には度々申し訳ないが――ヒメも突撃した。どよめきが広がる。その先にはまだキリエがいる。だが、ヒメには一つの確信とも言える予感があった。
キリエが振り向き、矛を構えた。
「ヒメええええええっ!」
ヒメが矛を踏みつけるのと同時に、キリエがその先端を跳ね上げた。
「いっけえええええっ!」
勢いよく射出され、さらに飛びながら、ヒメは左腰の刀を握って腰を捻った。前方には二体のコーラショがいた。飛んでくるヒメに奇声を上げながらも、一体は蹴り返そうというのか片足を引く。だが、遅い。既にヒメは抜いていた。
「ふっ!」
居合い抜き。
現れたのは僅かに反りのある肉厚の刃だ。美しい波紋がギラリと輝き、そして一閃する。
首が飛んだ。
残った胴体を蹴倒しながら着地すると、今度は左手で右の刀を掴み、同様に振り抜いた。ヒメに襲いかかろうとしたコーラショは跳び退ってこれを避けた。ヒメは追撃せずに踵を返すと、キリエと合流し、彼と背中合わせになる。その時になってようやく、うおおおおおおおおおおおおおおおっ……!! という歓声が上がった。
「やったぞ!」「キリエ!」「ヒメ!」「いけ!」「やっちまえ!」「ぶっ殺せ!」「やれ……!」
「どけえいっ!」
雷鳴のように野太い声が叩いた。コンドルはヒメ達を見て一瞬目を見開き、次に苦々しげに唇を歪めた。
「第一小隊、見参っ! かかれっ……!」
静まり返った歓声が再び、否、それ以上に復活し、第一小隊長コンドル以下数十名が突撃する。速やかにタコアシとコーラショを分断し、怪物どもを叩き始めた。
「はあああああああああっ!」
「しっ……!」
ヒメ達も己の得物を振り回す。ヒメの刀は兄弟刀だ。右手の兄刀の方が長く、それで斬る。突く。斬る。叩く。薙ぐ。左手の弟刀はより反りがあり、コーラショのパンチとキックをことごとく払い、叩き、打ち落とした。ヒメは槍戦士の中でも特に近接戦を得意としていた。そして、矢継ぎ早に繰り出す二刀の速度は全く衰えない。ごく普通の刀だからリーチが短く、大きな怪物に対してはどうしても後手に回らざるを得ないが、今回だけはヒメの方が優位にあった。それに気付けたのも、彼の存在があったからだった。
「らぁぁぁぁぁぁああああああああっ!」
ゴォッ!!! と物凄い勢いで振り回される矛。矛には二本の枝刃がついており、ヒメの周りのコーラショ達をまとめて叩っ斬っていく。それはまさしく暴風だった。槍戦士であるにも拘らず、正面から挑み巨大な一撃を叩きつけるそのやり方は盾戦士のようだ。しかし、そうでない証拠にキリエは盛んに動き回り、時には至近から巧みに矛を操って打ち倒してみせる。ヒメはここまで矛を上手く扱う者を見たことがなかった。
コーラショは当然、近接戦を得意とする。そして、その素早さを利用して巧みに相手の間合いを越え、絶対に避けられない距離から重い一撃を浴びせてくる。それは、長柄の武器を使う多くの白兵にとっては、絶対に越えられてはならない一線だ。越えられたが最後、コーラショの連撃の餌食となる。ヒメが第二小隊戦で生き残ったのは、元々の戦闘スタイルのお陰と言って過言ではない。
だが、キリエは違う。盾戦士さながらの重攻撃でありながら、槍戦士の素早さを維持し、コーラショの接近をまず許さない。接近に成功したとしても、矛とは思えないほどの見事な近接戦の技巧が確実に首を刈り取る。彼には隙が無い。
北軍の鬼。
その異名が、ごく自然に脳裏に浮かんだ。
「はああああっ!」
旋回しながら矛を突きだし、横合いからヒメに襲いかかってきたコーラショを串刺しにする。この時には、ヒメにもコーラショの弱点が、キリエの意図が分かっていた。ヒメも一気に踏み込んで先程からやりあっていたコーラショの右足を踏み抜くと、左目に兄刀を、口に弟刀を突き刺し、思いきり回し蹴りを叩き込んだ。
コーラショの素早さは確かに脅威だ。だが、この新種は、他の怪物に比べると実は驚くほどに弱く脆い。
「ひゅう」
キリエが背後に立つ。二人の猛攻にコーラショ達は恐れをなしたか近付いてこない。
「かっこいい」
「キリエこそ」
一発だけ掠った頬に手を当てると、どろりとした赤いものがついた。口の中もぬるりとして、唾と一緒にぺっと吐きだす。周りを見ると、タコアシがまだ一体残っていた。
「苦戦してるな」
キリエの声に振り向けば、第一小隊の他の白兵達は二人のようには上手くいっていなかった。やはり、盾戦士がコーラショの機敏な動きについていけず、槍戦士も自由に動けていない。それでもまだ一人も倒れた者がいないのは、小隊長コンドルの裁量によるものだろう。だが、このままでは埒が明かない。
「ヒメ。タコアシを」
「うん」
キリエが走りだし、少し遅れてヒメも続く。タコアシは足の代わりに腹から吸盤のついた繊毛を生やした、垂れ耳の犬のような姿をしている。勿論、犬はこんなに大きくない。ヒメの身長の三倍か四倍はある。タコアシの心臓の位置は案外普通だ。胴体の真ん中辺りだ。繊毛を避けつつ確実に仕留めるなら、背中から刺すのが一番だろう。
ヒメは上体を大きく捻ると、兄刀を勢いよく投擲した。愛刀はタコアシの胴に突き刺さり、足場となる。タコアシは咆哮を上げ身悶えたが、その鼻面に一人の盾戦士が大きな戦鎚をめり込ませると、タコアシはびくんっと震えて大人しくなった。その隙にキリエと別の槍戦士がタコアシの背中に駆け上がり、それぞれの武器を振るった。タコアシは再び吠えたが、やがて動かなくなった。
魔法無効化が解けると、それまで遠巻きにしていた一般兵が盾を合わせて前進を開始する。魔法兵の呪文詠唱が始まる。キヒィ、キヒャアとコーラショが泡を食ったかのように逃げだした。そして、ヒメ達の方へと大挙して向かってくる。
「ヒメ! こっちだ!」
キリエがタコアシの上で手を振り、反対側へと飛び降りる。いちいちタコアシを迂回したり、刀を回収している暇はない。ヒメもタコアシを乗り越えようと駆け出そうとした時だった。
声が聞こえた。
調子の外れた、歪で聞き取りにくい声。
カタナ、と言った気がした。
嫌な汗が背筋を伝う。そのまま無視するべきなのに、ヒメはできなかった。
コーラショ達の先頭を走るそいつは、他より明らかに大きかった。そして、首に赤い布を巻いていた。変わった形の布だった。四角い布に紐をつけたような形状をしていて、まるでマントのように翻している。似たような姿を町で見たことがあった。ちゃらちゃらとした青年が、おしゃれなのかシャツの袖部分を首元で縛っていた――
「あ……」
あの日。
中途半端に喰われて残った遺体の中で、一つだけ上着を着ていないものがあった。
忘れようもない。
あの日、あの時、ヒメの目の前で。
奴は。
殺した。
喰った。
彼女の相棒を。
「せっ、……!」
セジュン。
ヒメは駆け出した。鞘を腰から引き抜くと、上着泥棒目掛けて投げつけた。上着泥棒はぎりぎりのところで気付いて避けた。その間にヒメは弟刀で他のコーラショ達を強引に蹴散らし、奴に躍りかかる。上着泥棒はキヒャアッ! と叫びながら手の甲で弟刀を弾いた。怪物の骨は、ひょっとすると、この世で一番頑丈だ。コーラショの手足はそれが特に発達して、強烈な打撃を生み出している。反して、それ以外の部分は脆い。第二小隊はそれに気付けなかった。だが、もう倒し方は分かった。ヒメは弟刀を両手で握りしめた。
「それはセジュンの――っ!!」
「キヒィッ!」
振り下ろされた斬撃は常より速くて重い。逃げる上着泥棒にすかさず追い打ちをかける。
「返せっ!」
「キヤッ!?」
「お前のじゃないっ――!!」
待っていたのだ。
本当はずっと待っていたのだ。この時を。
跳び退ろうとしたところに足払いをかける。何かに縋るように手を広げて倒れる上着泥棒に、刀を抱えるように体ごと突っ込んだ。
「死ねぇぇぇぇぇぇっ……!!」
「ヒメッ……!」
その時、上着泥棒の口角がにんまりと吊り上がった。
「カタナ女、バーか」
「ぶっ……!」
顔面と腹を衝撃が突き抜け、目の前が真っ暗になる。足が着いてない。飛んでいる。吹き飛ばされたのだ。それを理解した時、がくんっ――、とヒメは引き戻された。
「何してんだよ、馬鹿っ!」
「あっ……」
ヒメはキリエに左手を掴まれて城壁の外にぶら下っていた。謀られたのだ。下を見ると、遥か下方に灰色の大地が広がっていた。茫然としている間に、キリエは勢いよくヒメを引っ張り上げた。
城壁上に戻ると、一般兵の群れと魔法兵に囲まれている一頭のコーラショがいた。一頭だけだった。他は全て取り逃がしたのだ。ヒメのせいだった。
かろうじて掴んでいた弟刀が手から滑り落ちる。
「わた、し……」
顔を歪ませると、いろんなものがずきずきと痛んだ。ひっくとからからに乾いた喉が鳴る。半分潰れた視界も赤く染まり、ヒメはその場に頽れた。
「アーアーアー」
そのコーラショは小さかった。血色の上着を巻いてもいなかった。
ごく初歩的な幻惑魔法だろうか。
キリエがヒメを抱くようにしながら耳を塞ぐ。だが、その声は届いた。届いてしまった。
「セジュン、美味しかったナア」
「「「燃えろ」」」
オレンジ色の火柱が噴き上がる。けたたましい悲鳴は、まるで嘲笑うかのようでもあり、コーラショは炎にまかれて息絶えた。
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【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
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[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
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1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
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【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
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