kyrie 涙の国

くり

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西暦1697年、冬、ニューヨーク

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 入らないのかい?
 そう訊くと、少女は小さく頷いた。
 でも、きみ、ずっとそこにいるじゃないか。
 少女は答えなかった。濃い金髪に青灰の瞳。意志の強そうな眉。細いが健康的でしっかりとした肢体を包むのは、女物にしてはやや細身で動きやすそうな服だ。金持ちではなさそうだが、それなりにいい暮らしを送っているのだろう。
 男は辛抱強く待ってみたが、諦めて質問を変えた。
 どうして、一人なんだい?
 少し間を置いてから、これには返事があった。
 今日は、自由にしていいって言われたから。
 誰から?
 ローズクランスさん。
 ああ、きみは働いているんだね?
 先程よりも大きく首が振られて、男は少しだけ嬉しくなり、さらに質問を重ねた。
 それで、何をしていたんだい?
 何も。
 何も? 何も、てことはないだろう?
 訊いてばっかりだね、おじさん。
 青灰の瞳に射抜かれ、男は目を反らしながら苦笑した。
 男が言い訳をするより先に、少女は結局教えてくれた。
 何かしようと思って、歩き回ってた。もう、やめた。
 やめて、ここで立ち止まっていたと言いたいらしい。この教会の前で。中からは歌声がしていた。どこか物悲しくて、荘厳な響きを湛えている。少女はそれにじっと耳を傾けていた。聴きいるその表情は、どこか哀愁を帯びていた。
 この歌。ずっと同じ言葉を繰り返している。
 そうだよ。元々、言葉だけがあって、そこに旋律を付けたんだ。
 何て言ってるの?
 一瞬、男は答えていいものか迷った。しかし、何故そう思ったのかが分からず、求められるままに答えた。
 キリエ・エレイソン。クリステ・エレイソン。キリエ・エレイソン。
 どういう意味?
 主よ、憐れみ給え。キリストよ、憐れみ給え。ミサの言葉だ。
 少女は動かなかった。僅かに目だけを見開き、食い入るように扉の向こう側を見つめた。一体、何が少女の心の琴線をそこまで揺さぶったのか、それは男には知ることはできなかった。
 ただ一人、主のみが知る。
 指先が冷えてきた。少女のはもっと冷たいに違いない。
 入るかい?
 少女は振り向き、何かに憑かれたかのようにぼんやりと頷いた。
 さあ、早くおいで。中は暖かい。ところで、きみの名前は?
 少女の手を引くと、我に返ったかのように薄く笑った。
 また質問ばっかり。
 それでも、やはり少女は教えてくれる。
 クレア・クォントリル。
 
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