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マイデンの紋章 カイル王子Side
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俺の心は早鐘のように打っていた。
俺が38歳なら、クラリッサは37歳のはずだ。
俺が愛したクラリッサが生きていてくれる……。
ピットチェスターの街にできたばかりの最高級ホテルのロビーで、俺たちは再会した。ジーンがハット子爵夫人に駆け寄り、ハット子爵夫人がこちらを振り向いた。
俺とクラリッサの人生に、ホテルで会うという選択肢は存在しなかった。
17歳の純粋で穢れを知らない女の子は、誰も連れずに男性と二人きりにはなれないのだ。ましては、ホテルなどもってのほかだった。
若い俺と彼女は、ひたすら森や野などの外部の視線を遮断した場所で従者と侍女たちが遠巻きに眺める中で会っていた。
俺は泣きたくなった。
涙が溢れた。
10年前に亡くなったはずのクラリッサが生きている!
「お菓子はまだ作っていますか?」
彼女の手に口付けをした時に、ハット子爵夫人がささやいた。
俺はハッとしてハット子爵夫人の顔を見つめた。
「作っていますよ」
「いつぞや舞踏会であなたのお菓子をいただいてとてもおいしかったですわ」
それだけか?
俺のお菓子を食べたあの舞踏会の夜のことを彼女が言っているのは分かったが、さっきまでエミリーとして存在したクラリッサとは明らかに違う?
俺の中で確信めいたものが生まれた。
この裕福な女相続人はクラリッサではないのではないか?
俺は小声でささやいた。
「君はエミリーなのか?」
ホテルのロビーの周りのさざめきが消えた。俺とハット子爵夫人しか存在しなくなった。
その瞬間、ハット子爵夫人は目を見開いて俺の顔をまじまじと見た。彼女がそっと身を寄せてきてささやいた。
「どうしてそれをご存知なのですか?あなたにはわかりますか……?」
ハット子爵夫人はすがるように聞いてきた。
「本物のハット子爵夫人がどこにいるのかご存知でしょうか?私の正体が分かるなら、クラリッサ様はどちらにいるのかご存知ですか?」
俺は胸に手を当てて、動揺を抑えようとした。
あぁ、メイドのエミリーがハット子爵夫人になっている……。
「君がエミリーなのは分かった。本物のクラリッサはハット子爵家にいる。ジーンの仕立て屋を手伝っているメイドのエミリーだ」
ハット子爵夫人は驚愕した表情になったが、どこか納得もしていた。
「今までに何度もそうではないかと思ったのです。でも、彼女は否定したのです。このことは私とメイドのエミリーとの間のだけで交わされた話です。他の誰も知らないのです。私はエミリーをとても大切にしてきました。だって……私でしたし、クラリッサ様ではないかと思うことが度々あったのです」
俺はそうだったのかと思った。10年前の出来事を変えたが、どこの時点で入れ替わったのだろう?
俺が質問をしようとすると、ハット子爵夫人はせっぱ詰まった様子で心配そうに俺に聞いてきた。
「未だにエミリーはどこに行ったのか分からないと言うのは本当でしょうか?」
ハット子爵夫人は手を握りしめて、震えている。彼女は青ざめていた。
「私の本当の父が、あの……ご存知ないかもしれませんが、父がとても乱暴者でして……心配なのです。父が娘を見つけていたらと考えると恐ろしいことが起きないかと心配です。クラリッサ様の身に何かがあったらと恐ろしくて……」
そうだ。
過去のことを聞いている場合ではない。
まずは、エミリーになっているクラリッサの無事を確かめることが先だ。
ボーデランドの世継ぎである俺にはスペアがいない。母は俺の弟を産もうと思っていたらしいが、俺を産んだ数ヶ月後に亡くなった。父は後妻をとらなかった。
父からすると、自分の弟のロジャーがいた。父にとっては自分のスペアとして弟がいたのだ。だが、弟が自分の息子の命を狙っているとは知らなかったはずだ。
馬車の中で、震えながらイザベルは俺に告白した。ザッカーモンド公が俺の命を狙っていたと。だが、ロジャー叔父は国政には興味がなかった。俺からすると、興味があるのはパース子爵の方に見えた。
「裏社会のリーダーがザッカーモンド公か?」
俺の質問に、イザベルは震えながら首を振った。
「隣国のネメシアのスパイよ」
俺は絶句した。
あの大国が?
広大な陸地を持つネメシアが裏で糸を引いていたと?
俺はハッと気づいた。
北の魔物の森の事件だ。
ネメシアと我が国の境界は、ノークの地だ。ザッカーモンド公であったロジャー叔父の辺境の地だ。そこのメネシア側にはやはり魔物の森がある。
北の魔物の森の事件は、ネメシアが仕掛けた罠だったのか。10年前の出来事が変わったことで、叔父が病床にあったとしてもネメシアが裏にいるとすれば、俺の身にはまだ危険があることになる。
3年後に俺が処刑されるのは、ネメシアの意図によるものか。
だとするとだ。
エミリーが北の魔物の森の事件を解決したことがネメシア側にバレれば、エミリーの身は危ない。
二重の意味でエミリーは狙われる。
恋人、妻として、俺の子を産む可能性。
ネメシアが俺を陥れようとすることをエミリーが防ぐ可能性。
ハット子爵夫人がクラリッサではないとはっきりした今、俺はエミリーを探し出して守る必要がどうしてもある。
俺はハット子爵夫人に別れを告げると、踵を返してホテルのロビーを走り出た。
「イザベル!」
俺は馬車の中で俺たちを待っているはずのイザベルの元に走った。
「本当のことを話してくれ。君はまだエミリーについて隠していることがあるだろう?」
ダークブロンドの髪の青い瞳の美女は、ふわふわの巻き毛を引っ詰めて、今日は男装をしていた。イザベルの俺を見つめる目に涙が滲んだ。
「身を引くとエミリはー言っていました。メイドの自分があなたのそばにいたらダメだと」
なんてバカなことを……。
俺はクラリッサ以外に考えられないのに。
だめだ。
俺は何がなんでもクラリッサを妻にしたい。
一生そばにいたい。
一緒に年を重ねたい。
俺はじっと考え込んだ。
目をつぶった。
クラリッサの思考を考えるんだ……。
彼女は大陸の大金持ちの令嬢だった。貴族ではなかった。自由で色んなことにとらわれない思考の持ち主だった。ミソサザイが彼女を導くようにつきまとっていた。クラリッサが亡くなった後の、俺の3年後の処刑の時もミソサザイが見えた。
俺とクラリッサは特別な絆で結ばれているはずだ。
さっきの言葉から、舞踏会の夜にクラリッサの魅力に気づいたあの夜は、クラリッサの中にいたのはエミリーだったと分かった。だが、俺の心にずっといたのは17歳のあのクラリッサだ。俺が惚れていたのは、クラリッサ自身だとはっきりしている。
彼女の父親は、クラリッサのために特別な隠れ家を用意していた。彼女が迷いもなく金庫のような扉の暗証番号を回すのを俺は見た。マイデンの隠れ家は彼女の頭に叩き込まれている。
ピットチェスターにエミリーが来たのは、娘であるジーンがマイデンの祖父から引き継いだ縫製工場の視察に同行したためだ。そこにマイデンの隠れ家が用意されていた。
マイデンの縫製工場は11箇所ある。本国に3箇所、外国に8箇所だ。俺が最初に間違えた場所であるローデクシャーの森に近い縫製工場は、ここから南にあるレバポートだ。
鉄道の駅は……?
「カーダイア!レバポールに行くぞ!」
俺は愛するクラリッサが、ローデクシャーの森に向かったという確信があった。クラリッサが身を隠すのであれば、俺のためだ。
鉄道で移動している間に日が暮れるだろう。だとすれば、今晩はマイデン家が用意した隠れ家を利用するだろう。彼女はレバポートの隠れ家にいるかもしれない。
俺は馬車を降りて、ハット子爵夫人のそばにいるはずの娘のジーンのところに行った。
マイデンの祖父から贈られたものに何かヒントがあるはずだ。彼はほぼ全財産と言えるだけの資産を娘であるクラリッサに贈った。俺は一度だけクラリッサの父であるマイデン氏に会った。
20年前の当時、マイデン家が買い取った貴族のカントリーハウスのアプローチで会ったのだ。俺は馬車でクラリッサを迎えに行った。クラリッサより早く、マイデン氏がそこにいたのだ。彼のシガレットケースを見たのもその時だ。
使用人が50人を超えるので、大量の衣類やリネンの洗濯をさばくために洗濯室を拡大するための工事を始めるといった、たわいもない話を彼とした記憶があった。アイロンなどの各種の機器も完備するとといった話だ。
18歳の俺は興味がない話だったが、カントリーハウスを修復しようとする彼の生き生きとした表情を覚えている。
その中で、俺の記憶に残る限り、彼は紋章について質問してきた。その時は密かに互いに婚約について腹を探っていた時だったと思う。若い俺とクラリッサをよそに、国王とマイデン氏や側近たちの間でやりとりされていた内々のやり取りがあったはずだ。
彼は、マイデンの紋章を作りたいと言った話をしていたと思う。
そうだ、紋章だ!
彼はハット子爵にクラリッサが嫁ぐ頃には、紋章を完成させていたはずだ。
紋章に何かを埋め込んだ可能性はないだろうか。
あの日、マイデン氏は娘を預けることができる男だろうかという懸念もあって俺に話し続けていたと確信がある。世間話のようで、重要なことを彼なりに俺に話していたのではないか。
これは俺にしか分からないことだが、たった一度会ったマイデン氏の話したことは重要な意味があるような気がしてきた。
「ジーン嬢!ハット子爵夫人、お願いがある。結婚式のトルソーの紋章を見せてもらえないだろうか」
ジーンのそばにいたオークスドン子爵がハッとした表情になり、1枚のハンカチを取り出して差し出した。
「昔、子供の頃にハット子爵夫人にボート遊びの日にもらったものです。トルソーの紋章が刺繍されています。今回ジーンと結婚するにあたり、参考にしていました」
俺がいぶかしげにオークスドン子爵を見つめると、彼はうなずいた。彼は10年前のウィントー・パレスのブレックファースト・ウェディングの場にもいた。
俺が刺繍を見ると、ピットチェスターの後にブロンとそれにつながる文字が見えた。
レバポールの後ろにベーカー・メルの文字が並び、さらにその後ろに数字が並んでいる。
レボパールのベーカー・メル通り……?
ピットチェスターはフロン通りの看板の下に隠れ家の入り口があった。
ならば、レボパールもベーカー・メルの看板のところだ!
「ハンカチを借りるよ」
俺はオークスドン子爵にそういうと、ピットチェスター駅に向かって走った。
俺たちがいるホテルからはすぐ近くだった。後ろからルーニーとカーダイアが追ってきた。
俺が38歳なら、クラリッサは37歳のはずだ。
俺が愛したクラリッサが生きていてくれる……。
ピットチェスターの街にできたばかりの最高級ホテルのロビーで、俺たちは再会した。ジーンがハット子爵夫人に駆け寄り、ハット子爵夫人がこちらを振り向いた。
俺とクラリッサの人生に、ホテルで会うという選択肢は存在しなかった。
17歳の純粋で穢れを知らない女の子は、誰も連れずに男性と二人きりにはなれないのだ。ましては、ホテルなどもってのほかだった。
若い俺と彼女は、ひたすら森や野などの外部の視線を遮断した場所で従者と侍女たちが遠巻きに眺める中で会っていた。
俺は泣きたくなった。
涙が溢れた。
10年前に亡くなったはずのクラリッサが生きている!
「お菓子はまだ作っていますか?」
彼女の手に口付けをした時に、ハット子爵夫人がささやいた。
俺はハッとしてハット子爵夫人の顔を見つめた。
「作っていますよ」
「いつぞや舞踏会であなたのお菓子をいただいてとてもおいしかったですわ」
それだけか?
俺のお菓子を食べたあの舞踏会の夜のことを彼女が言っているのは分かったが、さっきまでエミリーとして存在したクラリッサとは明らかに違う?
俺の中で確信めいたものが生まれた。
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俺は小声でささやいた。
「君はエミリーなのか?」
ホテルのロビーの周りのさざめきが消えた。俺とハット子爵夫人しか存在しなくなった。
その瞬間、ハット子爵夫人は目を見開いて俺の顔をまじまじと見た。彼女がそっと身を寄せてきてささやいた。
「どうしてそれをご存知なのですか?あなたにはわかりますか……?」
ハット子爵夫人はすがるように聞いてきた。
「本物のハット子爵夫人がどこにいるのかご存知でしょうか?私の正体が分かるなら、クラリッサ様はどちらにいるのかご存知ですか?」
俺は胸に手を当てて、動揺を抑えようとした。
あぁ、メイドのエミリーがハット子爵夫人になっている……。
「君がエミリーなのは分かった。本物のクラリッサはハット子爵家にいる。ジーンの仕立て屋を手伝っているメイドのエミリーだ」
ハット子爵夫人は驚愕した表情になったが、どこか納得もしていた。
「今までに何度もそうではないかと思ったのです。でも、彼女は否定したのです。このことは私とメイドのエミリーとの間のだけで交わされた話です。他の誰も知らないのです。私はエミリーをとても大切にしてきました。だって……私でしたし、クラリッサ様ではないかと思うことが度々あったのです」
俺はそうだったのかと思った。10年前の出来事を変えたが、どこの時点で入れ替わったのだろう?
俺が質問をしようとすると、ハット子爵夫人はせっぱ詰まった様子で心配そうに俺に聞いてきた。
「未だにエミリーはどこに行ったのか分からないと言うのは本当でしょうか?」
ハット子爵夫人は手を握りしめて、震えている。彼女は青ざめていた。
「私の本当の父が、あの……ご存知ないかもしれませんが、父がとても乱暴者でして……心配なのです。父が娘を見つけていたらと考えると恐ろしいことが起きないかと心配です。クラリッサ様の身に何かがあったらと恐ろしくて……」
そうだ。
過去のことを聞いている場合ではない。
まずは、エミリーになっているクラリッサの無事を確かめることが先だ。
ボーデランドの世継ぎである俺にはスペアがいない。母は俺の弟を産もうと思っていたらしいが、俺を産んだ数ヶ月後に亡くなった。父は後妻をとらなかった。
父からすると、自分の弟のロジャーがいた。父にとっては自分のスペアとして弟がいたのだ。だが、弟が自分の息子の命を狙っているとは知らなかったはずだ。
馬車の中で、震えながらイザベルは俺に告白した。ザッカーモンド公が俺の命を狙っていたと。だが、ロジャー叔父は国政には興味がなかった。俺からすると、興味があるのはパース子爵の方に見えた。
「裏社会のリーダーがザッカーモンド公か?」
俺の質問に、イザベルは震えながら首を振った。
「隣国のネメシアのスパイよ」
俺は絶句した。
あの大国が?
広大な陸地を持つネメシアが裏で糸を引いていたと?
俺はハッと気づいた。
北の魔物の森の事件だ。
ネメシアと我が国の境界は、ノークの地だ。ザッカーモンド公であったロジャー叔父の辺境の地だ。そこのメネシア側にはやはり魔物の森がある。
北の魔物の森の事件は、ネメシアが仕掛けた罠だったのか。10年前の出来事が変わったことで、叔父が病床にあったとしてもネメシアが裏にいるとすれば、俺の身にはまだ危険があることになる。
3年後に俺が処刑されるのは、ネメシアの意図によるものか。
だとするとだ。
エミリーが北の魔物の森の事件を解決したことがネメシア側にバレれば、エミリーの身は危ない。
二重の意味でエミリーは狙われる。
恋人、妻として、俺の子を産む可能性。
ネメシアが俺を陥れようとすることをエミリーが防ぐ可能性。
ハット子爵夫人がクラリッサではないとはっきりした今、俺はエミリーを探し出して守る必要がどうしてもある。
俺はハット子爵夫人に別れを告げると、踵を返してホテルのロビーを走り出た。
「イザベル!」
俺は馬車の中で俺たちを待っているはずのイザベルの元に走った。
「本当のことを話してくれ。君はまだエミリーについて隠していることがあるだろう?」
ダークブロンドの髪の青い瞳の美女は、ふわふわの巻き毛を引っ詰めて、今日は男装をしていた。イザベルの俺を見つめる目に涙が滲んだ。
「身を引くとエミリはー言っていました。メイドの自分があなたのそばにいたらダメだと」
なんてバカなことを……。
俺はクラリッサ以外に考えられないのに。
だめだ。
俺は何がなんでもクラリッサを妻にしたい。
一生そばにいたい。
一緒に年を重ねたい。
俺はじっと考え込んだ。
目をつぶった。
クラリッサの思考を考えるんだ……。
彼女は大陸の大金持ちの令嬢だった。貴族ではなかった。自由で色んなことにとらわれない思考の持ち主だった。ミソサザイが彼女を導くようにつきまとっていた。クラリッサが亡くなった後の、俺の3年後の処刑の時もミソサザイが見えた。
俺とクラリッサは特別な絆で結ばれているはずだ。
さっきの言葉から、舞踏会の夜にクラリッサの魅力に気づいたあの夜は、クラリッサの中にいたのはエミリーだったと分かった。だが、俺の心にずっといたのは17歳のあのクラリッサだ。俺が惚れていたのは、クラリッサ自身だとはっきりしている。
彼女の父親は、クラリッサのために特別な隠れ家を用意していた。彼女が迷いもなく金庫のような扉の暗証番号を回すのを俺は見た。マイデンの隠れ家は彼女の頭に叩き込まれている。
ピットチェスターにエミリーが来たのは、娘であるジーンがマイデンの祖父から引き継いだ縫製工場の視察に同行したためだ。そこにマイデンの隠れ家が用意されていた。
マイデンの縫製工場は11箇所ある。本国に3箇所、外国に8箇所だ。俺が最初に間違えた場所であるローデクシャーの森に近い縫製工場は、ここから南にあるレバポートだ。
鉄道の駅は……?
「カーダイア!レバポールに行くぞ!」
俺は愛するクラリッサが、ローデクシャーの森に向かったという確信があった。クラリッサが身を隠すのであれば、俺のためだ。
鉄道で移動している間に日が暮れるだろう。だとすれば、今晩はマイデン家が用意した隠れ家を利用するだろう。彼女はレバポートの隠れ家にいるかもしれない。
俺は馬車を降りて、ハット子爵夫人のそばにいるはずの娘のジーンのところに行った。
マイデンの祖父から贈られたものに何かヒントがあるはずだ。彼はほぼ全財産と言えるだけの資産を娘であるクラリッサに贈った。俺は一度だけクラリッサの父であるマイデン氏に会った。
20年前の当時、マイデン家が買い取った貴族のカントリーハウスのアプローチで会ったのだ。俺は馬車でクラリッサを迎えに行った。クラリッサより早く、マイデン氏がそこにいたのだ。彼のシガレットケースを見たのもその時だ。
使用人が50人を超えるので、大量の衣類やリネンの洗濯をさばくために洗濯室を拡大するための工事を始めるといった、たわいもない話を彼とした記憶があった。アイロンなどの各種の機器も完備するとといった話だ。
18歳の俺は興味がない話だったが、カントリーハウスを修復しようとする彼の生き生きとした表情を覚えている。
その中で、俺の記憶に残る限り、彼は紋章について質問してきた。その時は密かに互いに婚約について腹を探っていた時だったと思う。若い俺とクラリッサをよそに、国王とマイデン氏や側近たちの間でやりとりされていた内々のやり取りがあったはずだ。
彼は、マイデンの紋章を作りたいと言った話をしていたと思う。
そうだ、紋章だ!
彼はハット子爵にクラリッサが嫁ぐ頃には、紋章を完成させていたはずだ。
紋章に何かを埋め込んだ可能性はないだろうか。
あの日、マイデン氏は娘を預けることができる男だろうかという懸念もあって俺に話し続けていたと確信がある。世間話のようで、重要なことを彼なりに俺に話していたのではないか。
これは俺にしか分からないことだが、たった一度会ったマイデン氏の話したことは重要な意味があるような気がしてきた。
「ジーン嬢!ハット子爵夫人、お願いがある。結婚式のトルソーの紋章を見せてもらえないだろうか」
ジーンのそばにいたオークスドン子爵がハッとした表情になり、1枚のハンカチを取り出して差し出した。
「昔、子供の頃にハット子爵夫人にボート遊びの日にもらったものです。トルソーの紋章が刺繍されています。今回ジーンと結婚するにあたり、参考にしていました」
俺がいぶかしげにオークスドン子爵を見つめると、彼はうなずいた。彼は10年前のウィントー・パレスのブレックファースト・ウェディングの場にもいた。
俺が刺繍を見ると、ピットチェスターの後にブロンとそれにつながる文字が見えた。
レバポールの後ろにベーカー・メルの文字が並び、さらにその後ろに数字が並んでいる。
レボパールのベーカー・メル通り……?
ピットチェスターはフロン通りの看板の下に隠れ家の入り口があった。
ならば、レボパールもベーカー・メルの看板のところだ!
「ハンカチを借りるよ」
俺はオークスドン子爵にそういうと、ピットチェスター駅に向かって走った。
俺たちがいるホテルからはすぐ近くだった。後ろからルーニーとカーダイアが追ってきた。
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