動乱と恋

オガワ ミツル

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第1話 美しい人

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 薔薇にまつわる数々のお話しは、古今東西で、いたるところにあることでしょう。しかし、このお話しもそんな一つの中の他愛のないお話しでございます。
 これをお聞きになり、皆様のご記憶の中にとどめて頂ければ幸いでございます。このお話しの頃、自分で言うのも恥ずかしゅうございますが、わたくしの若かりしときでした。

 わたくしもその頃には、若々しく溌剌はつらつとした娘でございましたが、今は見る影もございません。そんなわたくしをご覧になり、お前にもそんなに若い時があったのかと、不思議に思う方もおられることでしょう。それを今になってなぜに? とお思いでしょうが、このような悲しく切ないお話しがあっても良いのではと思い、ここにお話しをさせて頂いたのでございます。

 貴方は、そのお話しの主人公は貴女ですか? と、わたくしにお聞きになるでしょう。そのように興味を持たれるのでしょうが、残念でございますがわたくしではございません。その方はわたくしがずっと前にお仕えした方で、とてもお美しい方でございました。

 はい、その方がお近くにおられるだけで、なんともいえず上品でとても良い香りがするのです。その眉目はお麗しく、まるで絵から抜け出たような方でございました。
 そっと微笑むそのお優しい眼差しは人のこころを癒すようで、心から幸せな気持ちになるのでございます。ふっくらとしたお顔と、そのお身体は雪のような白いお肌で包まれて、まるで精霊のようでございました。

 お声はと言うと、軽やかでとても耳に優しく聞こえるのでございます。言い忘れましたが、そんな人なら一つや二つくらいの欠点があるのでは? と、そうお思いになるのでしょうがそれが無いのでございます。むしろ誰にもお優しく素直な方でございましたから。ここまでお伝えすれば、いかにこの方が幸せに満ちた一生をお過ごしになったのでは、と思われることでしょう。

 それが、その欠点というか、そういうものを感じないお人なのです。あのお方は分け隔て無く誰にもお優しいのです。まるで天使のように、なんの迷いも持たず、人を疑ったことのないお方でした。強いて言えば、そのお方が、ご自身がその世に存在していたことが罪、と言えるのかもしれません。なんの非もなくひたすら優しく、そして美しいひと。突き詰めれば、それが罪なのでございましょうか。

 この悲劇は、その方が生を受けたときから、運命付けられていたというべきかもしれません。あの情熱の薔薇が色あせていくように。
 悲しいことに、神様は残酷でございます。人には誰でもバランスというものがあるそうでございます。そのバランスとは、重い物があればその片方にも同じ重さがあるのは道理でございましょう。更に言えば、美しいものの裏には醜いものがあり、そのバランスで調和が保たれるのだとか。幸せ有り余るものには、それに相応しい不幸がある、ということのようでございます。

 そうです、この世に生を受けたものには完璧な幸せなどないのです。またその逆で、どん底で人以下の不幸しか無かったお方でも、あるときから見違えるような幸せが訪れるそうにございます。ここまで言えばお分かりでしょうか。その方もこの法則に逆らうことが出来なかったようでございます。はい、そのお美しく素敵な方にもバランスの法則が働いたようでございます。その代償とは、その方が恋いこがれた方との恋の芽生え、そしてあるときから、その為に……。

 はい、その方には怖ろしいことが待ちかまえていたのでございます。誰もがその真実を知ったときの驚きと恐ろしさにおののき震えるのかもしれません。ですから、あまりに幸せを甘受しているお方はお気を付けなければなりません。これ以上にない幸せに包まれている時を頂とするならば、後は転がり落ちるような不幸せが訪れるのですから。
 その結末に、思わず信じられないと思うかもしれません。いえ、いまその結末を申し上げるのには、まだ早いようでございます。

 さて、前書きが少し長くなりましたので、これからそのお話しをすることにいたしましょうか。その筋書きをゆっくりとお話しし、その方を偲びつつ思い出に浸ろうと思っているのです。どうか、そんなお話しがあったことを、貴方様のお胸の中に留めて頂ければ光栄に存じます。それがその方にお仕えしたわたくしの幸せになるのですから。いえ、それが幸せかどうかをお伝えするのはまだ早いようでございます。それはのちほどにいたしましょう。

 今も昔も人の心の中にある様々な思いは、人それぞれに考えていること、自分の生まれ育った環境、教育、理念、個性等様々な要素によってその生き方や行動が大きく左右されることでしょう。このお話しが人々の心の中に潜む善と悪の道を諭すことができるとすれば、これほどに嬉しいことはございません。

 ではさっそくお話しを進めることに致します。
 その当時のその頃は、ようやく寒い冬が遠ざかり、暖かい春の兆しが見えてくるような季節の中にありました。その方のお家柄は古くからの華族の出でございました。広いお屋敷は周りのお屋敷の佇まいに比べましても、一段と優雅で上品な造りになっておりました。あの頃の方々には、(あのお屋敷)と言うだけで通じたのでございます。それほどに、あのお家柄もお屋敷も立派でございました。

 はい? 今もそのお屋敷があるのかと、お聞きですか? いえいえ、とんでもございません。ずっと前にそんなお屋敷があったことすら、皆様には知られてないのでございます。
 わたくしには、それがとても残念でなりません。そのような昔のお話しならわたくしはいったい何歳なのか? とお聞きになるのですね。

 さて、それは困りましたね。今、それを打ち開けることはいたしかねまする。しかし、おいおいにこのお話しをお聞きになれば、お分かりになることでしょうから。 それまで、しばらく私めのお話しをお聞きくださいませ。


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