魔王の子育て日記

教祖

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波乱

誰がために鐘は鳴る その8

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 刀が蹴り上げられた時、刃先が夏輝へと向かい耳元をかすめた。
 夏輝はうなだれるように手元を見る。紐が切れたのか、ぼとりと兜が落ち、続けて面も重力に逆らえず地へと落ちた。振り切ったはずの刀ははるか後方に転がり、手は虚空掴むのみ。
 「無駄、ではないですか」
 女中の声は駄々をこねる幼子を諭すようであった。語尾の疑問符は無くなっていたように思えた。
 それは宣告だ。もはや僅かな望みも入る余地のない事実。夏輝の手にのぞみはもうない。
 「無駄……か」
 静かな呟きだった。他者からすれば何かを思い出したような、口を突いて出た咄嗟の言葉のように聞こえただろう。しかし、その言葉の軽さは積み上げてきた想い――――重さが奪われたことの証明だった。
 「はい。あなたに願いを叶える力は無い。力無き者が叶えられぬ願いを抱くことは無駄です。あなたの想いは――――あなたは無意味だ」
 「……そうだな」
 夏輝の言葉に感情はなかった。すべてを悟った表情で女中に告げる。
 
 「終わりにしてくれ」

 女中は表情を変えることなく首を縦に振った。
 夏輝に歩み寄り、おもむろに右足を上げ始める。その姿はさながら断頭台のようであった。
 女中の足は釣りあげられる刃となり、膝をつき項垂れる夏輝のうなじへ振り下ろす瞬間を今か今かと待ち望んでいる。
 夏輝はふと、己の両の掌を見た。年頃の女とは思えぬ無数の切り傷と小指の根本のタコ。
 田舎の両親や友人には苦い顔しかされなかったこの手を褒めてくれた人間がいたことを思い出した。
 「いい手になったな。無骨で守るべきもののために研鑽を積んだことが一目で分かる。優しく美しい手だ」
 何気ない稽古の合間。同じように掌を眺めていた時に彼はそう告げた。
 技術の上達を褒めるのと同じ声音で告げられたその言葉に私は赤面した。
 彼からしてみれば、何気ないものだったのであろう。広く目が届き、気くばりのできる彼にとっては他愛のない言葉。だがそれが私にとっては心の奥底まで染み渡り、無限の暖かさを与えてくれた。
 「さようなら」
 巡る走馬灯に終焉を告げる無機質な声。刀身を持たぬ刃は音もなく振り下ろされた。
 
 嗚呼、終わるのか。
 不思議なものだな。今際の際に立たされているというのに焦りはない。
 顔を上げれば眼前に女中の足が迫る。今まで視界に捕えることすらかなわなかったそれは、緩やかな舞踊でも見ているかのようで、世界の粘度が高まったように思えた。
 まもなく刈り取られる意識を少しでも長く感じられるように、卑しくあがく私の魂が見せる幻影。
 なるほど、私の体はまだ生きようとしているらしい。心残りなどないはずなのに。
 いや、あるのか。彼――――朱雀にもう一度あの言葉をかけてほしい。なんとも浅ましい願いだ。
 でも今思うのはこれ一つ。どうせ叶わぬ夢なら貴賎など気にしていられるか。
 そういえば、また青空を眺める約束もしたんだった。これも反故にしてしまうのか。
 ……なんだ、あるじゃないか。もう叶うはずもないのに――――叶わないと誰が決めた?
 今までの戦いの中で分かり切ったじゃないか――――力の差を見せつけられただけだ。
 力のない私に誰かを守ることができるのか――――『誰か』とは誰のことだ。私はそんな高尚な目的で戦場を駆けていたのか? 
 否。誰のためでもない。私は私が彼の傍にいるために、彼と時間を共にするために剣を振るった。それが間接的に人を救うことに繋がっただけに過ぎない。
 どれだけ多くの人を救おうとも、尊敬の念を抱かれようとも、彼の一言に勝るものは無かった。私は――――私の人生は彼を求める為のものだった。
 女中の問いに答えられるはずもない。この卑しい心は彼のためだけに動くのだ。
 まったく、最後の学びが自分の卑しさとは。つくづく彼の隣にはふさわしくない女だな、私は。でも不思議と心は軽くなった。さあ、終わりだ。
 視界のほとんどは女中の皮長靴で覆われている。
 ――――最後に願わくば 
 
 ”貴方の隣で声を聴きたい――――。”
 
 夏輝はただそう強く願い、瞳を閉じた。
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