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◇第6章 「行ってきます」の代わりに◇
傷に沁みるほどの快晴②
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男性は鳴り出した自分のスマートフォンに耳を当て「お待たせぇ」とだけ言って通話を切る。玲旺のスマートフォンからも同じ声が聞こえて、目を見開いた。
「え、氷雨さん?」
玲旺が手を伸ばして男性の顔の半分を隠すほどの長い前髪をかき分けると、猫みたいな氷雨の目が覗いた。
「いつもは吸血鬼みたいだけど、今日は人間って感じで不思議」
「何それヒドイ。爆睡してたのにキミから連絡が来たって店から聞いて、飛び起きてスッピンのまま駆け付けたんだからね」
シャワーだけ浴びて慌てて来たのか、氷雨の黒い髪はまだ少し濡れている。
ダボッとした大きめのTシャツにカーゴパンツで、女性っぽさはすっかり抜け落ちていた。いつもは美人なお兄さんだが、今日はカッコイイお兄さんだなと玲旺は興味深そうに眺める。
「日曜なのに氷雨さん休みなの?」
「僕が休日に出勤すると、人が来過ぎて店が混乱しちゃうのよ。それより、明日からロンドンに転勤だって? 電話で挨拶済まそうなんて、ほんっと冷たいよね、キミは。どれくらい向こうにいるの?」
「うーん。まだわかんないけど、一年か二年。向こうに遊びに来ることがあったら声かけてよ。お茶くらいなら付き合うから」
そう言って、氷の溶けたアイスティーを飲み干した。氷雨は何か考え事をするように、指でとんとんとカウンターを叩く。少しの間、沈黙が続いた。
「ねえ。今、久我クンが結構ピンチなのって知ってる?」
氷雨に問われて、久我が「一大プロジェクトを潰した」と言っていたことを思い出した。被害はないとも言っていたのであまり気に留めていなかったが、ピンチと呼ぶほどの出来事だったのかと驚きながら氷雨を見る。
「僕、久我クンから助けて欲しいって言われてるんだ。新しい企画に、僕の力を借りたいんだって。でも、それには今勤めてる店を辞めなきゃいけなくてさ。返事はまだ保留にしてるの」
玲旺の顔を覗き込んだ氷雨の笑みは、化粧をしていなくても妖艶だった。
「久我クンのこと、助けて欲しい?」
氷雨は人差し指を伸ばし、玲旺の手の甲をスッとなぞった。背筋がゾクリと冷える。
「そりゃ、助けて欲しいけど……」
「じゃあ、僕と寝てくれたら、久我クン助けてあげる」
昼下がりに洒落たカフェでする爛れた会話は、場違い過ぎて何だか余計に生々しかった。
「なに、言ってんの。冗談止めてよ」
発した声は震えていた。氷雨の目を見ていたら飲み込まれてしまいそうで、慌てて逸らす。
「本気で言ってるんだけど。だって、上手くいくか解らない企画に乗ってお店辞めるなんて、凄くリスク高いじゃない? キミを先に報酬で貰っても、罰は当たらないと思うんだよねぇ」
少しずつ身を玲旺の方に寄せ、肩が触れた。
俯いた玲旺の耳元で、畳みかけるように囁く。
「キミが過ごす日本で最後の夜を、僕の思い出に頂戴よ。たったの一晩だよ? それで久我クンが助かるんだよ?」
悪魔が実在するなら、きっとこんな姿をしているんだろうと思った。どう考えてもおかしい交渉なのに、優しい声と眼差しに、つい縋り付きそうになる。
「これで僕が久我クンを見放したら、彼、もう会社にいられないかもしれないね」
追い打ちをかけるような言葉に、玲旺の鼓動が早くなった。今の自分と久我を繋ぐのは会社という細い糸だけなのに、それすら失うなんてと青ざめる。
「僕の家、すぐそこなの。ね、今からおいで」
氷雨の吐息が耳を擽った。玲旺は血の気の引いた顔を上げ、氷雨に視線を戻す。彼は頬杖をついたまま、こちらを見てニッコリと笑っていた。前髪の隙間から覗いている左目が、誘うように潤んでいる。いつも人形みたいで血が通っていない印象だったが、化粧もコンタクトもない状態は、生身の人間らしさがあって余計に凄みが増していた。
今から氷雨の家に行って大人しく抱かれれば、力を貸してもらえる。久我の企画を成功させることが出来る。
唾を飲み込んだ玲旺の喉仏が上下した。
「行かない」
ちいさな声だがきっぱりと玲旺は言い切った。氷雨は軽く目を開いて首を傾げる。
「へぇ。久我クン助けなくていいの?」
「こんな形で手を貸したら、それこそ二度と久我さんに会えなくなる気がする。久我さんの顔を真っ直ぐ見れなくなるのは、嫌だ」
玲旺の返答を聞いた氷雨は「そっかぁ」と子どもみたいにケラケラ笑った。
「ごめんね、嘘だよ。もう久我クンには企画に乗るって返事してある。今は円満にお店を辞める根回し中ってトコ。安心して」
あっさり白状した氷雨に、玲旺は心底憤慨して睨みつける。少し前の玲旺だったら殴り掛かっていたかもしれない。
「からかったのかよ。最低だな」
本気で腹を立てている玲旺に、もう一度「ごめん」と小さく呟いてから、氷雨は切なそうに眉を寄せた。
「でも、途中から本気で口説いてた。だってキミは宝物みたいな男の子だから、一度でいいからこの腕の中に抱いてみたかったんだよ。嘘を吐いてでもね」
その声があまりにも寂しそうで、玲旺はそれ以上怒る気になれずに頭を掻いた。ぶすっと口を尖らせて頬杖をつき、通りを眺める。
「……久我さんの事、助けてくれてありがとう」
視線は前に向けたまま、独り言のように呟いた。まさか礼を言われると思っていなかった氷雨は、驚いて少し身を引いた。
「え、氷雨さん?」
玲旺が手を伸ばして男性の顔の半分を隠すほどの長い前髪をかき分けると、猫みたいな氷雨の目が覗いた。
「いつもは吸血鬼みたいだけど、今日は人間って感じで不思議」
「何それヒドイ。爆睡してたのにキミから連絡が来たって店から聞いて、飛び起きてスッピンのまま駆け付けたんだからね」
シャワーだけ浴びて慌てて来たのか、氷雨の黒い髪はまだ少し濡れている。
ダボッとした大きめのTシャツにカーゴパンツで、女性っぽさはすっかり抜け落ちていた。いつもは美人なお兄さんだが、今日はカッコイイお兄さんだなと玲旺は興味深そうに眺める。
「日曜なのに氷雨さん休みなの?」
「僕が休日に出勤すると、人が来過ぎて店が混乱しちゃうのよ。それより、明日からロンドンに転勤だって? 電話で挨拶済まそうなんて、ほんっと冷たいよね、キミは。どれくらい向こうにいるの?」
「うーん。まだわかんないけど、一年か二年。向こうに遊びに来ることがあったら声かけてよ。お茶くらいなら付き合うから」
そう言って、氷の溶けたアイスティーを飲み干した。氷雨は何か考え事をするように、指でとんとんとカウンターを叩く。少しの間、沈黙が続いた。
「ねえ。今、久我クンが結構ピンチなのって知ってる?」
氷雨に問われて、久我が「一大プロジェクトを潰した」と言っていたことを思い出した。被害はないとも言っていたのであまり気に留めていなかったが、ピンチと呼ぶほどの出来事だったのかと驚きながら氷雨を見る。
「僕、久我クンから助けて欲しいって言われてるんだ。新しい企画に、僕の力を借りたいんだって。でも、それには今勤めてる店を辞めなきゃいけなくてさ。返事はまだ保留にしてるの」
玲旺の顔を覗き込んだ氷雨の笑みは、化粧をしていなくても妖艶だった。
「久我クンのこと、助けて欲しい?」
氷雨は人差し指を伸ばし、玲旺の手の甲をスッとなぞった。背筋がゾクリと冷える。
「そりゃ、助けて欲しいけど……」
「じゃあ、僕と寝てくれたら、久我クン助けてあげる」
昼下がりに洒落たカフェでする爛れた会話は、場違い過ぎて何だか余計に生々しかった。
「なに、言ってんの。冗談止めてよ」
発した声は震えていた。氷雨の目を見ていたら飲み込まれてしまいそうで、慌てて逸らす。
「本気で言ってるんだけど。だって、上手くいくか解らない企画に乗ってお店辞めるなんて、凄くリスク高いじゃない? キミを先に報酬で貰っても、罰は当たらないと思うんだよねぇ」
少しずつ身を玲旺の方に寄せ、肩が触れた。
俯いた玲旺の耳元で、畳みかけるように囁く。
「キミが過ごす日本で最後の夜を、僕の思い出に頂戴よ。たったの一晩だよ? それで久我クンが助かるんだよ?」
悪魔が実在するなら、きっとこんな姿をしているんだろうと思った。どう考えてもおかしい交渉なのに、優しい声と眼差しに、つい縋り付きそうになる。
「これで僕が久我クンを見放したら、彼、もう会社にいられないかもしれないね」
追い打ちをかけるような言葉に、玲旺の鼓動が早くなった。今の自分と久我を繋ぐのは会社という細い糸だけなのに、それすら失うなんてと青ざめる。
「僕の家、すぐそこなの。ね、今からおいで」
氷雨の吐息が耳を擽った。玲旺は血の気の引いた顔を上げ、氷雨に視線を戻す。彼は頬杖をついたまま、こちらを見てニッコリと笑っていた。前髪の隙間から覗いている左目が、誘うように潤んでいる。いつも人形みたいで血が通っていない印象だったが、化粧もコンタクトもない状態は、生身の人間らしさがあって余計に凄みが増していた。
今から氷雨の家に行って大人しく抱かれれば、力を貸してもらえる。久我の企画を成功させることが出来る。
唾を飲み込んだ玲旺の喉仏が上下した。
「行かない」
ちいさな声だがきっぱりと玲旺は言い切った。氷雨は軽く目を開いて首を傾げる。
「へぇ。久我クン助けなくていいの?」
「こんな形で手を貸したら、それこそ二度と久我さんに会えなくなる気がする。久我さんの顔を真っ直ぐ見れなくなるのは、嫌だ」
玲旺の返答を聞いた氷雨は「そっかぁ」と子どもみたいにケラケラ笑った。
「ごめんね、嘘だよ。もう久我クンには企画に乗るって返事してある。今は円満にお店を辞める根回し中ってトコ。安心して」
あっさり白状した氷雨に、玲旺は心底憤慨して睨みつける。少し前の玲旺だったら殴り掛かっていたかもしれない。
「からかったのかよ。最低だな」
本気で腹を立てている玲旺に、もう一度「ごめん」と小さく呟いてから、氷雨は切なそうに眉を寄せた。
「でも、途中から本気で口説いてた。だってキミは宝物みたいな男の子だから、一度でいいからこの腕の中に抱いてみたかったんだよ。嘘を吐いてでもね」
その声があまりにも寂しそうで、玲旺はそれ以上怒る気になれずに頭を掻いた。ぶすっと口を尖らせて頬杖をつき、通りを眺める。
「……久我さんの事、助けてくれてありがとう」
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