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◆最終幕 依依恋恋◆
この心臓は誰のもの②
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夜になれば清虎に会える。
仕事中そのことが頭に浮かぶ度、陸はニヤけそうになる頬を両手で押さえた。連日の夜更かしのせいで少々体は辛いはずだが、不思議と全く苦にならない。むしろ業務は捗っている気さえする。
逢瀬の約束というものが、こんなに心躍るものだとは知らなかった。
その反面、これは劇薬なのだとも自覚していた。清虎がこの街から去って気軽に会えなくなった時、果たして耐えられるだろうか。
――きっと大丈夫。
陸は心の中で「大丈夫と」おまじないのように繰り返す。
毎週末、清虎がどこにいたって公演している劇場に会いに行こう。日本のどこかには必ずいるのだ。新幹線や飛行機を使えば、いつでも会える。大丈夫。
言い聞かせながら今日の業務を終え、帰り支度を始めた陸は、いつの間にか隣にいた深澤に驚いて身を引いた。
「わっ。びっくりした。いつからいたんですか」
「声かけたんだけど、佐伯くんずっと上の空だったからね。何かいいことあった?」
深澤に問われた陸は「ええ、まぁ」と曖昧に首を縦に振る。
「もう帰るなら、飯食って行かない? その『いいこと』の話、聞かせてよ」
「あ……この後、約束があるんです。すみません」
「なるほど、いいことはこれから起こるのか」
深澤が意図しているのかどうかは解らないが、ゆっくり口角を上げるその表情から、悪意のようなものが感じられた。
見慣れないその表情に、陸は戸惑いと警戒の混じった目で深澤を見返す。陸のまとう空気が変化したことに気付いたのか、深澤はククッと喉を鳴らした。
「ごめん。俺、今どんな顔してた? 佐伯くんを怖がらせるつもりはなかったんだけどな」
「いえ、別に怖がっては……」
「そう? それならいいんだけど。なんかねぇ、俺もあんまり余裕ないみたい」
「余裕?」
陸の疑問には答えず、深澤は「困っちゃうよねぇ」と肩をすくめる。陸に向かって手を伸ばし、髪をさらりと撫でた。
「気を付けて帰ってね」
「はい。……お先に失礼します」
深澤が切なそうに眉を寄せるので、陸はどう返して良いのか解らず、それだけ告げて足早に会社を後にした。
『稽古が終わったら直ぐ連絡する。だから陸は、それから家を出たらええよ。俺が着替えたりしとる間に、陸もこっち着くやろ。あんまり早よ来て、外で待ってたらアカンよ。夜は物騒やから』
稽古の合間に送られてきた清虎からのメッセージに目を通し、陸は苦笑いした。
自宅に戻ってもソワソワして落ち着かず、早めに行って劇場前で待っていようかと思ったのだが、どうやら見透かされていたらしい。
「夜は物騒って、心配性だな。俺だって一応、成人した男なのに」
相変わらずボヤっとしていると思われているのだろうか。
ベッドに寄り掛かり、時間が過ぎるのを待つ。そろそろ日付を超える頃で、清虎からの連絡が待ち遠しくて仕方ない。
まるで遠足や修学旅行の前日のような浮かれ具合だった。大人になってから、こんなに何かを楽しみに待ったことなどあっただろうか。雑誌をパラパラめくって時間を潰そうとするが、内容が全く頭に入ってこない。
ふいにスマートフォンから通知音が鳴り、陸の心臓が跳ね上がる。急いでメッセージを見れば、『終わった!』という文字と、楽し気なスタンプが五つも並んでいた。
「あはは。清虎も楽しみにしててくれたのかな」
陸は荷物を掴み、家を出る。気持ちが急いて歩くスピードが徐々に速まり、劇場に着く頃には小走りになっていた。
劇場前にはまだ誰の姿もなく、隣のコンビニで時間を潰そうと視線を移したところで、店内に清虎の姿を見つけた。黒いキャップを被り、フレームがやや太めの黒縁眼鏡をかけている。
変装だろうかと思いながら声を掛けようとすると、清虎の後ろに若い女性がいることに気付いた。
女性は清虎の腕に馴れ馴れしく自分の腕を絡め、ぶら下がるように甘えている。清虎の方は笑顔ではあるものの、困っているような雰囲気があった。
客なら本名で呼ばない方が良いだろうし、ただのナンパなら芸名で呼ばない方が良いだろう。店から出てきたところで陸が「こんばんは」と呼びかけると、清虎はホッとしたような表情を見せた。
「えー、なぁに? 零、この人だぁれ。知ってるヒト?」
二十代前半くらいの女性は、ダークブラウンの長い髪に控えめなメイクで見た目は清楚なのだが、喋るとその印象はガラリと変わった。しんと静まり返った真夜中のコンビニ前で、清虎はよそ行きの笑顔を女性に向けた。なだめるような声色で、優しく答える。
「この人は俺のマネージャーやねん。直ぐ戻る言うて出て来たんに、なかなか戻らんから迎えに来てくれたんちゃうかな。ね、だから離したって。もう行かな」
「やぁだ。行かないで。まだまだ一緒にいたいよ」
彼女は小さな子どもがイヤイヤをするように首を振り、掴んでいた腕を思い切り引っ張った。距離がグッと縮まって唇が触れそうになり、清虎が慌てて顔を背ける。
「ごめんなぁ、またね。気ぃつけて帰ってな。あぁ、そや。コレあげる。お家帰って飲んで」
清虎は買ったばかりの缶入りのミルクティーをレジ袋から取り出し、女性に差し出した。それを両手で受け取った彼女は、嬉しそうにニッコリ笑う。
「わぁ、ありがとう。ミルクティー大好きなの。でも、零のことは、もっともっと大好きよ」
「おおきに」
腕が離れた隙に、清虎は素早く女性から距離を取って陸の隣に並んだ。
「早よ行こ」
陸に小声で耳打ちした後、女性を振り返り笑顔で手を振る。彼女は追って来ることはせず、その場で機嫌よく手を振り返した。清虎も陸も、自然と早足になってしまう。
仕事中そのことが頭に浮かぶ度、陸はニヤけそうになる頬を両手で押さえた。連日の夜更かしのせいで少々体は辛いはずだが、不思議と全く苦にならない。むしろ業務は捗っている気さえする。
逢瀬の約束というものが、こんなに心躍るものだとは知らなかった。
その反面、これは劇薬なのだとも自覚していた。清虎がこの街から去って気軽に会えなくなった時、果たして耐えられるだろうか。
――きっと大丈夫。
陸は心の中で「大丈夫と」おまじないのように繰り返す。
毎週末、清虎がどこにいたって公演している劇場に会いに行こう。日本のどこかには必ずいるのだ。新幹線や飛行機を使えば、いつでも会える。大丈夫。
言い聞かせながら今日の業務を終え、帰り支度を始めた陸は、いつの間にか隣にいた深澤に驚いて身を引いた。
「わっ。びっくりした。いつからいたんですか」
「声かけたんだけど、佐伯くんずっと上の空だったからね。何かいいことあった?」
深澤に問われた陸は「ええ、まぁ」と曖昧に首を縦に振る。
「もう帰るなら、飯食って行かない? その『いいこと』の話、聞かせてよ」
「あ……この後、約束があるんです。すみません」
「なるほど、いいことはこれから起こるのか」
深澤が意図しているのかどうかは解らないが、ゆっくり口角を上げるその表情から、悪意のようなものが感じられた。
見慣れないその表情に、陸は戸惑いと警戒の混じった目で深澤を見返す。陸のまとう空気が変化したことに気付いたのか、深澤はククッと喉を鳴らした。
「ごめん。俺、今どんな顔してた? 佐伯くんを怖がらせるつもりはなかったんだけどな」
「いえ、別に怖がっては……」
「そう? それならいいんだけど。なんかねぇ、俺もあんまり余裕ないみたい」
「余裕?」
陸の疑問には答えず、深澤は「困っちゃうよねぇ」と肩をすくめる。陸に向かって手を伸ばし、髪をさらりと撫でた。
「気を付けて帰ってね」
「はい。……お先に失礼します」
深澤が切なそうに眉を寄せるので、陸はどう返して良いのか解らず、それだけ告げて足早に会社を後にした。
『稽古が終わったら直ぐ連絡する。だから陸は、それから家を出たらええよ。俺が着替えたりしとる間に、陸もこっち着くやろ。あんまり早よ来て、外で待ってたらアカンよ。夜は物騒やから』
稽古の合間に送られてきた清虎からのメッセージに目を通し、陸は苦笑いした。
自宅に戻ってもソワソワして落ち着かず、早めに行って劇場前で待っていようかと思ったのだが、どうやら見透かされていたらしい。
「夜は物騒って、心配性だな。俺だって一応、成人した男なのに」
相変わらずボヤっとしていると思われているのだろうか。
ベッドに寄り掛かり、時間が過ぎるのを待つ。そろそろ日付を超える頃で、清虎からの連絡が待ち遠しくて仕方ない。
まるで遠足や修学旅行の前日のような浮かれ具合だった。大人になってから、こんなに何かを楽しみに待ったことなどあっただろうか。雑誌をパラパラめくって時間を潰そうとするが、内容が全く頭に入ってこない。
ふいにスマートフォンから通知音が鳴り、陸の心臓が跳ね上がる。急いでメッセージを見れば、『終わった!』という文字と、楽し気なスタンプが五つも並んでいた。
「あはは。清虎も楽しみにしててくれたのかな」
陸は荷物を掴み、家を出る。気持ちが急いて歩くスピードが徐々に速まり、劇場に着く頃には小走りになっていた。
劇場前にはまだ誰の姿もなく、隣のコンビニで時間を潰そうと視線を移したところで、店内に清虎の姿を見つけた。黒いキャップを被り、フレームがやや太めの黒縁眼鏡をかけている。
変装だろうかと思いながら声を掛けようとすると、清虎の後ろに若い女性がいることに気付いた。
女性は清虎の腕に馴れ馴れしく自分の腕を絡め、ぶら下がるように甘えている。清虎の方は笑顔ではあるものの、困っているような雰囲気があった。
客なら本名で呼ばない方が良いだろうし、ただのナンパなら芸名で呼ばない方が良いだろう。店から出てきたところで陸が「こんばんは」と呼びかけると、清虎はホッとしたような表情を見せた。
「えー、なぁに? 零、この人だぁれ。知ってるヒト?」
二十代前半くらいの女性は、ダークブラウンの長い髪に控えめなメイクで見た目は清楚なのだが、喋るとその印象はガラリと変わった。しんと静まり返った真夜中のコンビニ前で、清虎はよそ行きの笑顔を女性に向けた。なだめるような声色で、優しく答える。
「この人は俺のマネージャーやねん。直ぐ戻る言うて出て来たんに、なかなか戻らんから迎えに来てくれたんちゃうかな。ね、だから離したって。もう行かな」
「やぁだ。行かないで。まだまだ一緒にいたいよ」
彼女は小さな子どもがイヤイヤをするように首を振り、掴んでいた腕を思い切り引っ張った。距離がグッと縮まって唇が触れそうになり、清虎が慌てて顔を背ける。
「ごめんなぁ、またね。気ぃつけて帰ってな。あぁ、そや。コレあげる。お家帰って飲んで」
清虎は買ったばかりの缶入りのミルクティーをレジ袋から取り出し、女性に差し出した。それを両手で受け取った彼女は、嬉しそうにニッコリ笑う。
「わぁ、ありがとう。ミルクティー大好きなの。でも、零のことは、もっともっと大好きよ」
「おおきに」
腕が離れた隙に、清虎は素早く女性から距離を取って陸の隣に並んだ。
「早よ行こ」
陸に小声で耳打ちした後、女性を振り返り笑顔で手を振る。彼女は追って来ることはせず、その場で機嫌よく手を振り返した。清虎も陸も、自然と早足になってしまう。
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