平和の狂気

ふくまめ

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人類の進歩⑨

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窓の外から人の生活する音が聞こえてくる。空に意識を向けると、さっきまで暗かったはずだがすでに明るくなっている。
あぁ、またやってしまった。
そう思うと同時にドアをノックする音が聞こえ、返事をする。その声が自分が思った以上にかすれていて驚く。辛うじて返すことができた応答が聞こえたのか、部屋に入ってきた人物は私の姿を見て苦笑する。

「また徹夜したみたいだね、ルナ。」
「えぇ…そのつもりはなかったんだけど。」

私の夫、ロロが差し出してくれたコーヒーを一口。知らず知らずのうちに体が緊張していたのか、身をよじるだけでバキバキと体が悲鳴を上げ始める。
もう私も無理できない歳なのね、認めたくないけれど。
私の発言を聞いて、ロロはわざとらしく肩をすくめてやれやれとため息をつく。

「まったく…。君はついこの間、私に同じような説教をしたばかりじゃないか。そんな君が、こんな様子じゃあね。」
「ふふ…そうね、ごめんなさい。気をつけます。」
「ぜひそうしてくれると嬉しいよ。」

お互い研究を行っている身として、実験の状況によっては中断することも、その場を離れることもできない場合があることは理解しているつもりだ。だがそれを許容し続けていては身が持たない。私たちは人間なのだから、限度というものがある。こうして無理をしてしまった日は、互いに注意しあうことも見慣れた光景だ。
私たち、本当に似たもの夫婦なのね。

「明日はお客さんがたくさん来るんだ。体調管理はしっかりしないと。」
「そうね。なんてったって、愛しのメアリちゃんが来てくれるんですもの!」
「私たちの研究を見に来る役人のことを忘れないでやってくれよ?」
「もちろん。でも、そっちはあなたが対応してくれればいいじゃない。私はメアリちゃんに会えることの方が楽しみよ!」
「やれやれ…本当にあの子が大好きだな。」
「えぇ!この間完成したばかりの絵を自慢するの!」
「た、頼むから内密にな…!あれはその、少し恥ずかしいんだ…!」

焦ったように私をなだめにかかるロロに、思わず笑いがこみ上げてしまう。完成したばかりの絵というのは、私の長年の憧れ、夫婦の肖像画のことだ。お金持ちの家って、エントランスに入ってすぐの正面に家族の肖像画を飾っているようなイメージがあるじゃない?昔からそういったシチュエーションに憧れがあったのだ。なんていうか、幸せな家族、みたいな。この気持ちは夫にはなかなか理解できなかったようだけど、最終的には『君がそうしたいなら』って折れてくれた。ただし、エントランスに飾るのだけは勘弁してくれって条件付きだったけど。恥ずかしがり屋なのよね。
もちろん、私も見せびらかしたいわけじゃなくて、家族が寄り添っている絵を描いてほしいという思いだったから、その条件には抵抗しなかった。…でも、誰かには自慢したいから今度来てくれるメアリちゃんに聞いてもらおうっと!

「明日が楽しみね。…今日はゆっくりして、明日に備えましょうか。」
「あぁ、そうしようか。片づけなんかは午後からにしよう。君は徹夜した分少し休まないと。」
「ふふ、ありがとう。あ!でも私が休んでいる間に片づけをしようとしないでね?あなた研究以外の部分は不器用なんだから。」
「わ、分かっているよ…。自分の使っているスペース以外には手を出さない。これでいいかい?」
「えぇ。…ねぇ、私とっても幸せだわ。」
「…あぁ。」

穏やかな日常だ。何十年も戦争し続けているとは思えないような、幸福に満ちた日々。こんな日が続いてくれればいいと心から願っている。
だからこそ、私たちは研究を続けている。
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