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35.君に届けたい想いは
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まだ無名だったポニーさんの、記念すべき『モノカキの城』投稿1作品目。
ひさしぶりに開いたその小説は、あの時も今も変わらず、やっぱりどうしようもなく丹原好みの名作だった。
(あの短編に感動したのがきっかけになって、泥沼状態から抜け出したんだっけな)
かつてを思い出し、丹原はその作品を――3年前に出会った懐かしの短編に視線を落とした。
ある意味で吹っ切れたとも言うべきか。それまで余裕がないからと遠ざけていた娯楽が、あの日を境にスッと頭に入ってくるようになった。
むしろ丹原は、昼休みや仕事終わりの帰りの電車など、オンタイムからオフタイムの切り替えを行うべきタイミングで積極的にWEB小説やら電子マンガを開いて、無理矢理にでも頭から仕事のことを追い出すようになった。
すると不思議なもので、どれだけ仕事がハードであろうと、以前のように精神的に参ってしまうことは無くなった。
どうやら姉は正しかった。萌えは心の養分。ただがむしゃらに仕事に打ち込むだけでは、体より先に心がダウンしてしまうのだ。
それから3年。
当時崩壊一歩手前だった第一グループも体制を立て直し、丹原自身もスキルアップし。以前よりずっと心に余裕を持って毎日を過ごせるようになったけども、相変わらず毎日の心のオアシスはポニーさんが紡ぐむずきゅんストーリーで。
(まさか作者の正体が、会社の後輩とは思わなかったけど)
もう何度目になるかわからない苦笑を、丹原はその口元に浮かべる。
だが、正体が誰か。庭野と自分がどんな関係なのか。それはこの際関係ない。
重要なのは、たったひとつの揺るぎない真実。
「あの日。お前の作品が、俺を救ってくれたんだ」
ぽつりと溢れた声は、真昼の日差しが柔らかく照らすマンションの一室に、染み入るように広がった。
グッと、スマートフォンを摑む指に力が入る。顔を上げた時、丹原の腹は固く決まっていた。
トゥルルル、と。呼び出しコールが3回続いた。
このまま留守電に繋がってしまうかもしれないな。そう思ったとき、相手が出た。
『先輩?』
スマートフォン越しに響いた声に、丹原はぐっと息を呑む。なぜだろう。ひさしぶりに聞く庭野の声は遠いのに近い。こんなときなのに、丹原は心の奥底がむずむずとくすぐったくなるのを感じた。
(……って、それどころじゃないから!)
浮かれている自分をしっかり意識したうえで、丹原は己をしかりつけた。大体、庭野の声を聴いて浮かれるとは何事だ。まだ自分は、奴を好きだなんて認めていない。断じて認めてはいないのだから。
深呼吸をひとつして、己を宥める。それから丹原は、努めて平静を装った。
「ひさしぶり。今、まずかったか?」
『いえ、ちょうど休憩に入ったとこでしたけど。どうしたんですか? 先輩から電話なんて珍しいですね』
庭野の疑問ももっともだ。丹原が掛けたのは、テレワークのために持ち帰っている会社のスマートフォンからではなく、私用のものから。それだけで庭野に、電話の要件が仕事に関する事柄ではないことが伝わったはずだ。
しかし電話をかけたはいいが、どう切り出すべきか。そう迷っていると、庭野がにやりと笑った気配があった。
『もしかして先輩、俺の声が聞きたくなったの? 最近会えなくて寂しいとか?』
「ばっ!? んなわけあるか!」
『えー? だって俺、先輩に借りパクしているものとかないし、既読スルーとかもしていないし。それ以外に、先輩から電話してもらえる理由思いつかないよ?』
「なんでそう、思いつく理由が極端なんだ……」
こめかみを押さえて丹原は呻く。というか心配して損をした。電話の向こうの庭野はあまりにいつも通りだ。
けれども丹原がそう思った途端、電話の向こうで庭野が力なく笑った。
『俺は嬉しいですよ。先輩の声が聞けて』
「え?」
『俺、今ちょっと落ちてて……。だから、嬉しかった』
エスパーかと思ったと。タイミングよく電話がかかってきたことを指して冗談を言った庭野の声は、おそらく本人が想定したものよりずっと弱々しかった。
「大丈夫か?」
そんなわけないのに。声を聞けばわかるのに。飛び出たセリフは、あまりにありふれたもので。
けれども丹原は、そんな風に問いかけることしかできなかった。
「庭野。お前、大丈夫か?」
庭野はしばらく答えなかった。ややあって、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
『大丈夫って答えられたらよかったんですけど。だめだな、俺。強がりも言えないや』
「庭野……」
『来週ね、『てんこい』の二巻が発売なんです。言いましたっけ? 今回はネットに上げていたものじゃなくて、完全に書きおろしの新作で』
知ってるぞ。食い気味に答えそうになる自分を、丹原はどうにか押さえ込んだ。収まれ、オタク。切実に。
そんな丹原の内心を知る由もなく、庭野はぽつぽつと続ける。
『だから担当さんも、色々と宣伝を考えてくれていたんです。書店さんにサイン本を置いていただいたり、都内の書店さんに一緒にご挨拶に行ったり。地道でも、少しでも読者さんに本が届くように色々試してみようって。……この状況で、全部飛んじゃいましたけど』
――緊急事態宣言の全国拡大。大型商業施設への休業要請。
先ほど聞いたばかりの昼のニュースが、頭の中にリフレインする。
やはり思った通りだ。大型商業施設に入る書店の休業。その影響を、庭野はもろに被ってしまった。
『わかっているんです。仕方がないことだって。今は大変な時で、ひとの命に係わることで。もっと苦しんでいるひとがたくさんいるんだって。だけど、どうして今なんだろう。そう思うのは、止められなくて』
せっかくチャンスをもらえたのにな。
そう呟いた庭野の声は、今にも消えてしまいそうだった。
『担当さんには、2巻が良かったら3巻目指そうね、なんて言われてたんです。けど、もう無理ですよね。書店さんが閉まるなんて、俺たち書き手はどうしようもないですよ』
「いや、しかし」
『わかってますよ。ネットでも本は買える、でしょ? けど、本屋さんでしかない出会いってあるじゃないですか。そういう読者さんには、俺の本は届かない。……届けようがないんです。だって〝不要不急〟なんですから』
丹原は返す言葉もなく目を泳がせた。
たぶんこれは、庭野だけの悲鳴じゃない。本が、娯楽が、エンターテイメントが。〝不要不急〟のくくりに入れられた創作文化のすべてが、同じ悲鳴をあげている。
『前に言ってくれましたよね。妄想も、面白ければ作品だって。先輩がそう言ってくれて、すごく嬉しかった。だけど一方で、こうも思うんです。妄想を作品にしてくれるのは読者だ。読んでくれる人がいて初めて、俺の妄想は小説になるんです』
電話の向こうで、衣擦れの音が響いた。以前訪れたアパートの一室で、庭野がひとり膝を抱えて座る込む姿が瞼の裏に浮かんだ。
『本を出せたのに。たくさんのひとに届けられるはずだったのに。あの物語は、――2巻は、俺の妄想で終わっちゃうんだなって』
「そんなわけあるか!!!!」
思わず大声で叫んでから、丹原ははっとマスク越しに口を手で覆った。
庭野からの返事はない。却ってそれが不穏である。
冷や汗を流しつつ、慌てて左右を確認する。まずい。気づかれただろうか。とにかく早く隠れた方がいい。といって、自転車ごと身を隠せるものなど都合よくあるはずが……!
その時、丹原の背後でがらりと窓が開く音がした。
「先輩!?」
スマートフォンから響く音声と、頭上から降ってくる声と。ふたつの庭野の声が、同時に耳に飛び込んでくる。
恐る恐る振り返れば、アパートの窓から半ば身を乗り出し、信じられないものを見るような目でこちらを見下ろす庭野とばっちり視線が交わった。
約ふた月ほどに会う庭野は、やっぱり王子様フェイスなイケメンだ。現実逃避にそんなどうでもいい感想を抱きつつ、丹原は仕方なく耳にあてていたスマートフォンを下ろした。
「よ、よお、庭野。ひさし……」
「何してるんですか!?」
仰天した庭野に遮られた。
そりゃそうだ。電話の相手が、実は家の外に潜んでいたのだ。普通に怖いだろう。ドン引いただろう。何してんだって思うだろう。
(ほんと俺、何してんだ!?)
言われるまでもなく丹原が青ざめたとき、庭野が慌てて窓の中に引っ込もうとした。
「待っててください! とにかく俺、そっち行きますから!」
「ま、待て!!」
考えるより先に叫んでいた。ぴたりと踏みとどまった庭野が、困ったように再びこちらを見下ろす。その戸惑った表情をまっすぐに見上げて、丹原はぐっと息を呑みこんだ。
――そうだ。このままがいい。この距離が、ちょうどいい。
今日は会社の先輩・後輩としてじゃない。ひとりの作者と、ひとりの読者。
ただ、ひとりのファンとして、作者に届けにきたのだから。
「俺は、待ってるから!!」
マスクをほんの少しずらし、顔をあらわにする。そうして丹原は、はっきりとそう、庭野に向けて叫んだ。
「俺は一読者だ。お前のいう、『たくさんのひと』にはなってやれない。けど、お前の作品を楽しみにしているひとりだ。『次』を待っているひとりだ。全力で迎えに行くって、心に決めているひとりだ!」
だから、と。目を丸くする庭野をまっすぐに見つめる。
届け。届いてくれ。
あの日、お前の物語が俺に届いたように。
あの日、お前の物語が俺を救ってくれたように。
あの日からずっと、お前が俺に物語を届け続けてくれたように。
「作品を信じろ。読者を信じろ。自分を――自分の本を、信じろ!!」
ざあっと、強い風が吹いた。春の終わりの風はほんの少し冷たかったが、新しい季節の香りも運んでいる。
その風に髪を揺らし、庭野は面白いくらい呆けていた。
「せん、ぱい……?」
掠れた声が、庭野の口から零れる。それで丹原は、はっと我に返った。
(しまった! 熱くなりすぎた……!)
もっとこう、シンプルかつスマートに応援の言葉を伝えるつもりだったのに。今更のように、かーっと顔が熱くなる。
だから丹原はひらりと自転車に跨り、思い切りペダルを踏み込んだ。
「っ、じゃ! 俺、それを言いに来ただけだから!」
「え? あ、ちょっと、――――先輩!!!!」
思わずブレーキを握ってしまった。そうさせるだけの力が、庭野の声にはあった。
仕方なく振り返る。すると視線の先で、窓枠を摑む庭野に指に力がこもった。
「先輩は……丹原先輩は、やっぱり……?」
「へ?」
「ううん。今言いたいのは、そんなことじゃなくて」
自分から言い出したくせに、庭野は勝手に首を振る。一体何だと言うんだ。そう丹原が首を傾げたとき、庭野が顔をあげた。
丹原ははっと息を呑んだ。庭野の目は濡れていた。涙に光り、潤んでいた。
「俺の作品を、見つけてくれてありがとう。知ってくれて、ありがとう。どうか、」
そこで庭野は声を詰まらせた。
頬を涙が一滴、伝って落ちた。
「どうか、楽しんでいただけますように!!」
涙をこらえるのに失敗する代わりに、庭野はそう言って、さんさんと輝く太陽のように眩しい笑みを浮かべたのであった。
ひさしぶりに開いたその小説は、あの時も今も変わらず、やっぱりどうしようもなく丹原好みの名作だった。
(あの短編に感動したのがきっかけになって、泥沼状態から抜け出したんだっけな)
かつてを思い出し、丹原はその作品を――3年前に出会った懐かしの短編に視線を落とした。
ある意味で吹っ切れたとも言うべきか。それまで余裕がないからと遠ざけていた娯楽が、あの日を境にスッと頭に入ってくるようになった。
むしろ丹原は、昼休みや仕事終わりの帰りの電車など、オンタイムからオフタイムの切り替えを行うべきタイミングで積極的にWEB小説やら電子マンガを開いて、無理矢理にでも頭から仕事のことを追い出すようになった。
すると不思議なもので、どれだけ仕事がハードであろうと、以前のように精神的に参ってしまうことは無くなった。
どうやら姉は正しかった。萌えは心の養分。ただがむしゃらに仕事に打ち込むだけでは、体より先に心がダウンしてしまうのだ。
それから3年。
当時崩壊一歩手前だった第一グループも体制を立て直し、丹原自身もスキルアップし。以前よりずっと心に余裕を持って毎日を過ごせるようになったけども、相変わらず毎日の心のオアシスはポニーさんが紡ぐむずきゅんストーリーで。
(まさか作者の正体が、会社の後輩とは思わなかったけど)
もう何度目になるかわからない苦笑を、丹原はその口元に浮かべる。
だが、正体が誰か。庭野と自分がどんな関係なのか。それはこの際関係ない。
重要なのは、たったひとつの揺るぎない真実。
「あの日。お前の作品が、俺を救ってくれたんだ」
ぽつりと溢れた声は、真昼の日差しが柔らかく照らすマンションの一室に、染み入るように広がった。
グッと、スマートフォンを摑む指に力が入る。顔を上げた時、丹原の腹は固く決まっていた。
トゥルルル、と。呼び出しコールが3回続いた。
このまま留守電に繋がってしまうかもしれないな。そう思ったとき、相手が出た。
『先輩?』
スマートフォン越しに響いた声に、丹原はぐっと息を呑む。なぜだろう。ひさしぶりに聞く庭野の声は遠いのに近い。こんなときなのに、丹原は心の奥底がむずむずとくすぐったくなるのを感じた。
(……って、それどころじゃないから!)
浮かれている自分をしっかり意識したうえで、丹原は己をしかりつけた。大体、庭野の声を聴いて浮かれるとは何事だ。まだ自分は、奴を好きだなんて認めていない。断じて認めてはいないのだから。
深呼吸をひとつして、己を宥める。それから丹原は、努めて平静を装った。
「ひさしぶり。今、まずかったか?」
『いえ、ちょうど休憩に入ったとこでしたけど。どうしたんですか? 先輩から電話なんて珍しいですね』
庭野の疑問ももっともだ。丹原が掛けたのは、テレワークのために持ち帰っている会社のスマートフォンからではなく、私用のものから。それだけで庭野に、電話の要件が仕事に関する事柄ではないことが伝わったはずだ。
しかし電話をかけたはいいが、どう切り出すべきか。そう迷っていると、庭野がにやりと笑った気配があった。
『もしかして先輩、俺の声が聞きたくなったの? 最近会えなくて寂しいとか?』
「ばっ!? んなわけあるか!」
『えー? だって俺、先輩に借りパクしているものとかないし、既読スルーとかもしていないし。それ以外に、先輩から電話してもらえる理由思いつかないよ?』
「なんでそう、思いつく理由が極端なんだ……」
こめかみを押さえて丹原は呻く。というか心配して損をした。電話の向こうの庭野はあまりにいつも通りだ。
けれども丹原がそう思った途端、電話の向こうで庭野が力なく笑った。
『俺は嬉しいですよ。先輩の声が聞けて』
「え?」
『俺、今ちょっと落ちてて……。だから、嬉しかった』
エスパーかと思ったと。タイミングよく電話がかかってきたことを指して冗談を言った庭野の声は、おそらく本人が想定したものよりずっと弱々しかった。
「大丈夫か?」
そんなわけないのに。声を聞けばわかるのに。飛び出たセリフは、あまりにありふれたもので。
けれども丹原は、そんな風に問いかけることしかできなかった。
「庭野。お前、大丈夫か?」
庭野はしばらく答えなかった。ややあって、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。
『大丈夫って答えられたらよかったんですけど。だめだな、俺。強がりも言えないや』
「庭野……」
『来週ね、『てんこい』の二巻が発売なんです。言いましたっけ? 今回はネットに上げていたものじゃなくて、完全に書きおろしの新作で』
知ってるぞ。食い気味に答えそうになる自分を、丹原はどうにか押さえ込んだ。収まれ、オタク。切実に。
そんな丹原の内心を知る由もなく、庭野はぽつぽつと続ける。
『だから担当さんも、色々と宣伝を考えてくれていたんです。書店さんにサイン本を置いていただいたり、都内の書店さんに一緒にご挨拶に行ったり。地道でも、少しでも読者さんに本が届くように色々試してみようって。……この状況で、全部飛んじゃいましたけど』
――緊急事態宣言の全国拡大。大型商業施設への休業要請。
先ほど聞いたばかりの昼のニュースが、頭の中にリフレインする。
やはり思った通りだ。大型商業施設に入る書店の休業。その影響を、庭野はもろに被ってしまった。
『わかっているんです。仕方がないことだって。今は大変な時で、ひとの命に係わることで。もっと苦しんでいるひとがたくさんいるんだって。だけど、どうして今なんだろう。そう思うのは、止められなくて』
せっかくチャンスをもらえたのにな。
そう呟いた庭野の声は、今にも消えてしまいそうだった。
『担当さんには、2巻が良かったら3巻目指そうね、なんて言われてたんです。けど、もう無理ですよね。書店さんが閉まるなんて、俺たち書き手はどうしようもないですよ』
「いや、しかし」
『わかってますよ。ネットでも本は買える、でしょ? けど、本屋さんでしかない出会いってあるじゃないですか。そういう読者さんには、俺の本は届かない。……届けようがないんです。だって〝不要不急〟なんですから』
丹原は返す言葉もなく目を泳がせた。
たぶんこれは、庭野だけの悲鳴じゃない。本が、娯楽が、エンターテイメントが。〝不要不急〟のくくりに入れられた創作文化のすべてが、同じ悲鳴をあげている。
『前に言ってくれましたよね。妄想も、面白ければ作品だって。先輩がそう言ってくれて、すごく嬉しかった。だけど一方で、こうも思うんです。妄想を作品にしてくれるのは読者だ。読んでくれる人がいて初めて、俺の妄想は小説になるんです』
電話の向こうで、衣擦れの音が響いた。以前訪れたアパートの一室で、庭野がひとり膝を抱えて座る込む姿が瞼の裏に浮かんだ。
『本を出せたのに。たくさんのひとに届けられるはずだったのに。あの物語は、――2巻は、俺の妄想で終わっちゃうんだなって』
「そんなわけあるか!!!!」
思わず大声で叫んでから、丹原ははっとマスク越しに口を手で覆った。
庭野からの返事はない。却ってそれが不穏である。
冷や汗を流しつつ、慌てて左右を確認する。まずい。気づかれただろうか。とにかく早く隠れた方がいい。といって、自転車ごと身を隠せるものなど都合よくあるはずが……!
その時、丹原の背後でがらりと窓が開く音がした。
「先輩!?」
スマートフォンから響く音声と、頭上から降ってくる声と。ふたつの庭野の声が、同時に耳に飛び込んでくる。
恐る恐る振り返れば、アパートの窓から半ば身を乗り出し、信じられないものを見るような目でこちらを見下ろす庭野とばっちり視線が交わった。
約ふた月ほどに会う庭野は、やっぱり王子様フェイスなイケメンだ。現実逃避にそんなどうでもいい感想を抱きつつ、丹原は仕方なく耳にあてていたスマートフォンを下ろした。
「よ、よお、庭野。ひさし……」
「何してるんですか!?」
仰天した庭野に遮られた。
そりゃそうだ。電話の相手が、実は家の外に潜んでいたのだ。普通に怖いだろう。ドン引いただろう。何してんだって思うだろう。
(ほんと俺、何してんだ!?)
言われるまでもなく丹原が青ざめたとき、庭野が慌てて窓の中に引っ込もうとした。
「待っててください! とにかく俺、そっち行きますから!」
「ま、待て!!」
考えるより先に叫んでいた。ぴたりと踏みとどまった庭野が、困ったように再びこちらを見下ろす。その戸惑った表情をまっすぐに見上げて、丹原はぐっと息を呑みこんだ。
――そうだ。このままがいい。この距離が、ちょうどいい。
今日は会社の先輩・後輩としてじゃない。ひとりの作者と、ひとりの読者。
ただ、ひとりのファンとして、作者に届けにきたのだから。
「俺は、待ってるから!!」
マスクをほんの少しずらし、顔をあらわにする。そうして丹原は、はっきりとそう、庭野に向けて叫んだ。
「俺は一読者だ。お前のいう、『たくさんのひと』にはなってやれない。けど、お前の作品を楽しみにしているひとりだ。『次』を待っているひとりだ。全力で迎えに行くって、心に決めているひとりだ!」
だから、と。目を丸くする庭野をまっすぐに見つめる。
届け。届いてくれ。
あの日、お前の物語が俺に届いたように。
あの日、お前の物語が俺を救ってくれたように。
あの日からずっと、お前が俺に物語を届け続けてくれたように。
「作品を信じろ。読者を信じろ。自分を――自分の本を、信じろ!!」
ざあっと、強い風が吹いた。春の終わりの風はほんの少し冷たかったが、新しい季節の香りも運んでいる。
その風に髪を揺らし、庭野は面白いくらい呆けていた。
「せん、ぱい……?」
掠れた声が、庭野の口から零れる。それで丹原は、はっと我に返った。
(しまった! 熱くなりすぎた……!)
もっとこう、シンプルかつスマートに応援の言葉を伝えるつもりだったのに。今更のように、かーっと顔が熱くなる。
だから丹原はひらりと自転車に跨り、思い切りペダルを踏み込んだ。
「っ、じゃ! 俺、それを言いに来ただけだから!」
「え? あ、ちょっと、――――先輩!!!!」
思わずブレーキを握ってしまった。そうさせるだけの力が、庭野の声にはあった。
仕方なく振り返る。すると視線の先で、窓枠を摑む庭野に指に力がこもった。
「先輩は……丹原先輩は、やっぱり……?」
「へ?」
「ううん。今言いたいのは、そんなことじゃなくて」
自分から言い出したくせに、庭野は勝手に首を振る。一体何だと言うんだ。そう丹原が首を傾げたとき、庭野が顔をあげた。
丹原ははっと息を呑んだ。庭野の目は濡れていた。涙に光り、潤んでいた。
「俺の作品を、見つけてくれてありがとう。知ってくれて、ありがとう。どうか、」
そこで庭野は声を詰まらせた。
頬を涙が一滴、伝って落ちた。
「どうか、楽しんでいただけますように!!」
涙をこらえるのに失敗する代わりに、庭野はそう言って、さんさんと輝く太陽のように眩しい笑みを浮かべたのであった。
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