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第二話 萩焼と文車恋煩い
13.
しおりを挟む「以上で、私が講義する歴史学入門を終えます。またどこかで、皆さんとご縁がありますよう」
――響き渡るチャイムの音を合図に、ガタガタとあちこちで椅子が鳴る。窮屈だった体を伸ばしたり、学食に行こうと笑顔で声かけあったり。学生たちがおもいおもいに教室を出ていく中、私は教壇の上を片付ける有栖川教授を見つめていた。
今日は歴史学入門で有栖川教授が授業を受け持つ、最後の日。学年があがれば別の講義を受けられるようになるが、一年生の私が有栖川教授の話を聞ける授業はこれでおしまい。先生とはしばしのお別れである。
教授を見るのは縁結びカフェの一件があって以来だが、講義の中で見る有栖川教授の様子は以前と変わらない様子にみえた。
そういえば、キヨさんもこの教室にいたんだろうか。先週まで座っていた、一番前の席には見つけられなかったけれども。
そんなことを思った時、隣から真希ちゃんにがばりと抱きつかれた。
「すーず! お腹すいたー。ごはんいこー!」
「うわっぷ」
「急げば、マシュマロメロンパンがまだ売ってるかも。はやく行こ行こっ」
「う、うん」
ふみちゃんに急かされ、私は慌てて荷物をまとめる。そして、ふたりと一緒に教室を出ようときたのだけれども。
「水無瀬鈴さん」
大教室の入り口あたりで、後ろから呼び止められた。まさかと思いながら振り返ると、やっぱりそこにいたのは有栖川教授だった。
「有栖川先生?」
「なんで鈴ちゃんの名前……」
目を丸くするふみちゃんと真希ちゃんをよそに、有栖川教授はあの人同じ、すっと伸びた背筋で美しく私の前に立つ。
教授の、あの日と変わらない柔らかな笑みを見て、私は妙に納得してしまった。やっぱり教授は、深海魚のような人だ。摩訶不思議なことが周囲で起きても、動じずに静かに泳ぎ続ける。
「お昼、一緒にどうかしら?」
にこりと笑って、教授は私を誘ってくれた。
何が何やらわからずぽかんとする友人二人に見送られ、私はいま、有栖川教授の研究室にいる。
教員棟の一角にあるその部屋は、図書館よりもさらに古い本の匂いが満ちていて、なんだか文学の海の中にいるかのような錯覚を抱いた。
(あ。古本の精霊だ)
天井あたりをぷわぷわ浮かぶ光の玉を、私はなんとなしに見上げる。授業中は大人しくしていたキュウ助も精霊たちに気づいたらしく「きゅうっ」と鳴いて、光の玉たちの方に飛んでいった。
「そこにも何かのいるのですね」
楽しそうに飛ぶ倉ぼっこたちを眺めていたら、有栖川教授が研究室に戻ってきた。どうやら、給湯室で紅茶を用意してくれていたらしい。
私は反射的にキュウ助たちのことを誤魔化しかけて――すぐに思い直して、素直に頷いた。
「いますけど、悪いモノじゃありませんよ。風が吹けば飛んでっちゃいそうな小さな子ばかりですし。先生の研究室が過ごしやすいんでしょうね」
「よかった。きっと、私ととても趣味の合う子達なのですね」
ふんわりと微笑んで、有栖川教授は大学通りにある人気のパン屋さんのサンドイッチを勧めてくれた。
「あなたをお招きしようと、教室に行く前にパン屋さんに寄ってきたのですよ」と、教授は友達と秘密を共有するように、こっそりと悪戯っぽく白状した。
「――あの日のことは、色々と記憶があやふやなのです」
ピリッとマスタードの効いたポテトのサンドイッチと、だし巻き卵のたまごサンドを食べ終わった頃。紅茶の入ったマグカップを両手で包みながら、有栖川教授はポツポツと話し出した。
「あのお店にどうやって行ったのか、誰と何を話したのか。まるで目が覚めて夢が溶けて消えてしまったように、私は思い出せることができないんです。――だけど、水無瀬さん。あなたと、お店にいた『彼女』のことは、不思議と覚えていました」
明るいグレーの瞳で見つめられ、どきりと心臓が跳ねた。だけど教授は私を追求するでも、不気味がるでもなく、ただただ静かに微笑んだ。
「水無瀬さん。あなたが、私と『彼女』の縁を繋いでくれたのですね」
「聞かないんですか? お店のことや、あの人について」
「だって私、説明してもらってもきっと、半分も理解できないもの」
有栖川教授はくすくすと笑って、薄い肩を揺らした。それから空になったマグカップを置いて立ち上がると、机越しに手を差し出した。
「だけど、これだけははっきりしています。あの日、あの場所で、私は『彼女』に会えて幸せでした。私はけっして、あなたを忘れはしません。そう、彼女に伝えてください」
「有栖川先生……」
細い指が綺麗な白い手を、私はしばらく見つめる。それから、私はぎゅっと、有栖川教授の手を握った。
「わかりました」
笑い皺の浮かぶ有栖川教授をまっすぐに見つめて、私は強く頷いた。
「これもなにかの、縁ですし」
キュウ助を連れて、私は有栖川教授の研究室をお暇した。すると、研究棟を出てすぐのところで、私はキヨさんとばったり出くわした。
「おお、スズ。こんなところで奇遇だの」
「キヨさん! なんでこんなところに……」
言いかけて、私は途中で言葉を呑みこんだ。世の中には、聞くだけ野暮という言葉がある。今回のコレは、間違いなくそういった部類の出来事だろう。
キヨさんもキヨさんで、新緑の眩しい木々を見上げながらすっとぼけた。
「ところでスズ。わらわは無性に、甘味が食べたい気分じゃがな。暇ならわらわに付き合え。今日は気分がいいから、お主にも存分に甘味を喰わせてやるぞ」
「そんなこと言って、キヨさんが抹茶フロートを食べたいだけでしょうに」
「良いではないか。抹茶フロートが以下に革新的であるか、お主は知らんのじゃ。良いか? もとは抹茶というのは、一部の風流で雅な貴族の嗜みであってだな……」
亜麻色の髪を揺らす文車と、ただの大学生の私がのんびり並び、大学構内をぶらりと歩く。
こんな関係もいとおかし、と。そんなフレーズが、ふと頭に浮かんだのだった。
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