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7章 誰か為の涙
9.
しおりを挟む翔龍はようやく十歳になる少年だが、あと数年もすれば立派な青年になる。
だからこそ紅焔は、今回の園遊会を皮切りに、翔龍を表舞台に戻そうと考えた。丞相はそれと反対のことを考えていたというわけだ。
「何を言い出すかと思えば。同じだろう。春陽妃と私の間に皇子が産まれた時のため、次の皇帝の座を争う男子を減らそうとした。それも香家のためではないか」
「違います。我が命、いえ、丞相としての矜持をかけて、断言いたします。――私がこのようなことを申し上げたのは、すべて、陛下のおんためにございます」
「…………は?」
本気で意味がわからなく、紅焔は呆けた。
戸惑う紅焔に、丞相は重い口を開く。
「陛下は即位なさる前の出来事を……兄君様との最期を悔やみ、ご自身を律しておられると常々感じておりますが、私は真逆に考えております。過程はどうあれ、陛下のご決断は正しいものであったと、私は考えます」
「正しかった? あれが?」
「陛下もご存知の通り、焔翔様の背を最後に押したのは、氾家の先代当主、氾憂帥にございました。我ら旧北領の香家、旧南領の孫家など、旧西朝以外の家が力をつけることを憂慮した憂帥が、焔翔様を利用し、貴方様を支持する旧北・南領の貴族もろとも中央から排除しようとした。それが、あの者の魂胆にございました」
言われるまでもなく、紅焔もよく覚えている。忘れられるわけがない。
氾家は李家、梁家と同じく、旧西朝の家だ。今でこそ力を無くしたが、昔は憂帥の孫娘である麗鈴が焔翔に嫁いだことにより、李家の外戚として幅をきかせていた。
だが、氾憂帥はその処遇だけでは満足できなかった。彼は野心家で、瑞国の統治においても、李家の真の臣下である旧西朝の家が中心になって行うべきだと、たびたび先帝・流焔に主張していた。
けれども実態は憂帥の理想と異なった。李家が楽江統一を掲げた時、まっさきに李家に跪いた香家を、流焔は政治の中枢に重用した。国家統一あと、旧王朝勢力が各地で暴れるのを紅焔が収めた時、共に戦場をかけて武勲をあげた旧南朝の孫家を軍部に取り立てた。
旧西朝以外の家が力をつけるたびに、氾憂帥は氾家の地位が脅かされると義憤を覚えた。焦りと怒りに突き動かされた彼は、孫娘の伴侶である焔翔に目を付けた。
その頃には既に、「李紅焔こそ次の皇帝だ」などという噂が巷に流れていた。紅焔と共に戦場を駆ける孫家や、自領の内乱を鎮めてもらった地方豪族が、その噂に賛同した。焔翔と政策的にぶつかることが多かった香家の官僚らも、紅炎皇帝説に好意的な反応を示した。
小さな積み重ねが、急速に拡大した国の運営に奔走する焔翔の心をすり減らした。いつしか焔翔とその側近は、疑心を紅焔に抱くようになった。
そこを氾憂帥に利用された。氾憂帥にそそのかされた焔翔は紅焔を討つため刺客を送った。
結果、返り討ちにした紅炎により、焔翔と氾憂帥、他にも焔翔派として紅炎暗殺に加担した大勢が捕えられた。彼らはもう、この世にはいない。
「焔翔様は気の毒ではございました。あの方はこの国の発展を願い、その礎を築くことに全身全霊をかけておいででした。ですが一時、不安に呑まれ、己を駒としか思わない悪臣に耳を傾けてしまいました」
陛下は違います、と丞相は続けた。
「貴方様は、何が正義で、何が悪かを見極める目をお持ちです。そのうえで、必要に応じて個人の情を捨て、国としての『正しさ』を貫く強さもおありになる。その背中に私は、楽江全土を背負うにふさわしい為政者のあるべき姿を見つけた気がいたしました」
初めて聞く香丞相の本心に、紅焔は言葉を挟むこともできない。呆気にとられる紅焔を、壮年の丞相は強く見据えた。
「どうせこの世は血にまみれております。人の世と地獄に、どこに違いがありましょうや。その地獄の中で、正しさを知りながら国の為に自分を殺せる貴方様を私は尊敬いたします。――だからこそ、貴方様の御世を脅かすものを、私がかわりに排除して差し上げたかった。これだけは、どうしてもお伝え申し上げたかったのです」
そう言って、香丞相は再び深く首を垂れた。
この壮年の丞相を、父がなぜ「最も信頼に足る臣下」と称したのか、ようやく紅焔は腑に落ちた。丞相には権力への執着や野心はない。誰よりも誠実に、国に仕えている。そういう意味では、信頼できる。
けれども裏を返せば、香丞相は冷徹で公正な為政者だ。国に害があると判断されれば、容赦無く切り捨てる。
その丞相が、紅焔を尊敬するとはっきり口にした。背筋に薄寒いものを感じつつ、その重みを考える。
(どうせこの世は地獄、か)
兄が自分を討とうとしていると知った時、紅焔も同じことを思った。
阿美妃の呪いにより、この地はひととひととが争い、血を流し続けるように定められた。身をもってそれを理解したからこそ、紅焔はすべてを捨てて呪いに抗い、太平の世を実現すると己に誓った。そのために、目の前の犠牲に見ないふりをした。
だけど、今は違う。
“君は母の解放を望み、俺はこの国に真の平和を望む。入口が違うだけで、何も矛盾しちゃいない。俺たちは協力しあえるはずだ”
藍玉を引き留めるために叫んだ言葉が、今は紅焔を支えている。
父が、兄が目指したのは、誰もが笑って暮らせる真の太平の世だ。かつては夢幻に過ぎなかったそれが、藍玉との出会いにより現実味を帯びてきた。
紅焔は人の王として、藍玉は狐の姫として。それぞれができる方法で、千年の呪いと戦っている。
だから、自分だけいつまでも、絶望しているわけにはいかない。
「忠心には感謝する。だが、そなたの目指す落とし所を、受け入れることはやはりできない」
「陛下! なぜ……」
「これまでが地獄だからとて、この先も地獄であることを私は良しとしないからだ」
紅焔が言い切ると、香丞相は目を丸くした。その一言だけで、香丞相は紅焔が阿美妃の呪いに抗うつもりだと伝わったようだ。
だから、と紅焔は続ける。
「こたびの騒ぎは徹頭徹尾、幽鬼によるものであるほうが、私には好ましい。鬼通院に手柄をあげさせ、繋がりを深くし、いつの日か共に阿美妃の呪いを祓うための足がかりとしたい」
「本気、にございますか?」
「このようなこと、冗談で言うと思うか」
「いえ、ですが……」
「千年、呪いが続いたからか。それを言うなら、楽江の地は千年戦乱が続き、華の国以来統一されることはなかった。それを打ち破ったのは誰だ? 我ら李家と、その元に集ったそなたたちだ」
勝機はある。
千年の呪いに抗い、楽江の地が統一された。鬼通院には、生まれ持っての天才と言われる淵春陽もいる。そして楽江の統一と同じくするように、――運命に導かれるように、藍玉という狐の姫までもが現れた。
すべてが重なりつつある。千年の呪いを解くための鍵が、惹かれ合うように集まっている。
この偶然の意味は、必ずある。
若き皇帝の決意が固いことを理解したのだろう。驚きに言葉を無くしていた香丞相は、やがて眩しいものを見るように目を細めた。
「陛下のお考え、よく理解いたしました。――私の考えが浅はかにございました。すべて、貴方の望まれるままに。貴方を主君と仰ぎ見る幸運に、心から感謝致します」
「二人を牢から出してくれるな?」
「今すぐに」
香丞相が牢の近くの衛兵に合図を送ると、衛兵が腰の鍵を持ち上げた。ガチャリと音がして錠がはずれ、鉄格子が開いた。
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