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7章 誰か為の涙

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 雨の季節が終わり、初夏が訪れた。

(結局、周光門の霊を拝むことはできなかったな……)

 新緑の眩しい庭園を軒下から眺めながら、紅焔はあの月夜からのことを思い返した。

 あれから何度か、都に雨は降った。紅焔は約束通り周光門に調査へ出るつもりだったが、それより先に、玉と宗がこっそり門の様子を確かめに行った。

 しかし散々噂になった霊の気配は、幻のように消え失せていた。

(香丞相にも確かめたが、足音を聞く官人もぱったりとでなくなったらしい)

 ひとの噂は早いもので、今となっては周光通りでそんな怪談が騒がれていたことさえ、忘れられ始めている。

 結局、周光門の霊はなんだったのか。なぜ、その気配が藍玉に覚えがあったのか。霊が姿を消した以上、確かめる術はもうない。

 そうこうしているうちに、天宮城はあっという間に繁忙期を迎えた。



*        *         *


「ご機嫌麗しゅうございます、皇帝陛下。毎度ご愛顧賜りありがとうございますっ」

 整った顔に艶美な笑みを浮かべて告げるのは、砂漠の交易路を押さえる大商人・胡伯だ。

 有能で重宝しているという意味で胡伯の言葉は何も間違っていないのだが、なんとなく否定したくなるのは、胡散臭さを感じるほどに整った完璧な細面のせいか。

 紅焔にしてみれば怪しさしか感じない彼の笑みは、大多数にとっては魅力的に映るらしい。その証拠に、この会合とは無関係な宮女や官人たちが、さっきから無意味に広間の前を通って胡伯に熱い視線を送っている。

「そなたの誰これ構わず魅了にかける体質は、どうにかならないのか?」

「なんのことでしょう? ワタクシにはさっぱり意味がわかりかねます」

「まあ、いいが……。園遊会の品は手筈済みだと聞いた。気を抜かず、最後まで頼むぞ」

 胡伯には、数日後に迫る園遊会用の食材の手配を任せている。その搬入経路や流れについて文官たちと最終調整するため、彼は今日城に上ったのだ。

 呆れた目を向けつつ紅焔がそうはっぱをかけると、胡伯は満足そうに両手を合わせた。

「もちろん。品々をお納めする最後の瞬間まで、誠心誠意ことにあたらせていただく所存です。初夏の園遊会は、名のある御仁が天宮城に一堂に集う盛大な催し。陛下のご威光と瑞国の繁栄を知らしめる、完璧な宴でなければなりません」

 つらつらと歌うように続ける胡伯だが、ふと、その目が抜け目なく光った。

「それに此度の園遊会は、亡き兄君の公子もご出席される予定と噂に伺いました。そんな特別な場の一助を担わせていただくのに、どうして手を抜くことが許されましょう」

 どこで聞きつけたのかと、今度こそ紅焔は呆れた。城内の者には周知の事実とはいえ、普段は城外にいる胡伯の耳に入るには早すぎる。

 もしやと思って控える侍従たちを睨むと、何名かが慌てて首を垂れる。なるほど。胡伯の魅了術は、ここでも効いてくるらしい。

(別段、国家機密というわけでもないが……)

 気まずそうに俯いたまま震える侍従たちに、紅焔は諦めて頬杖を突いた。

「特別な、ね。確かに大臣たちは、私が翔龍の登城を許したことに驚いているらしい」

ワタクシも大層驚きましたよ。そして感服いたしました。陛下の御心はなんと慈悲深く、お優しいのだろうと」

「優しい? 血染めの夜叉と呼ばれる私がか?」

「亡き兄君は、かつて陛下のお命を奪おうと剣を抜いた方です。その血を引く翔龍様に園遊会への出席を許されるだなんて、歴史上類を見ない寛大さにございます」

 李翔龍ショウリュウ――兄・焔翔の息子である彼は、近々十歳になる少年である。

 焔翔が死んだとき、翔龍はまだ八歳だった。紅焔はその幼さを考慮し、男児でありながら、翔龍の命を奪うことはしなかった。以来、翔龍は、彼の母である麗鈴レイリンと共に東の離宮で暮らしている。

 その麗鈴から雨期の終わりの頃、翔龍を連れて園遊会に参加したいと文があった。

 麗鈴は紅焔にとっても付き合いの長い女性だ。焔翔が十九、麗鈴が二十歳の時、二人は結婚した。麗鈴は面倒見がよく明るい性分で、当時まだ十一歳だった紅焔のことも、本当の弟のように可愛がった。

 そういう関係もあり、紅焔は麗鈴の申し出をどのように扱うべきか悩んだ。

 皇帝・紅焔の立場からすれば、翔龍は紅焔の身を危うくしかねない存在だ。父・流焔が曖昧な態度を取ったせいでこじれたとはいえ、もともと皇位継承権が上だったのは焔翔だ。その忘れ形見である翔龍を、正統筋と担ぐ輩が出てこないとも限らない。

 少し前の紅焔なら、麗鈴の申し出を棄却していただろう。けれども彼は、義姉と甥っ子の園遊会への出席を認めることにした。

 そう思えるようになったのは、兄・焔翔の死に対する己の心境の変化によるところが大きい。

(俺が、麗鈴にとっては夫の、翔龍にとっては父親の仇であることは変わらないがな)

 麗鈴は賢い女だ。紅焔と焔翔の間に何があったかを理解し、瑞の国がどういう局面であるかを理解し、生家である孫家の女として、翔龍の母としてどう振る舞うべきかを理解していた。

 だから彼女は、焔翔の死について紅焔に己の想いをぶつけたことは一度もない。けれども、だからといって、麗鈴が紅焔に何のわだかまりも抱いていないなんてことはないだろう。

 憎まれるのは当然だ。二人に許されたいとも思わないし、許してくれと乞うつもりもない。けれども憎しみを仕方のないものとして受け流すのではなく、受け入れた上で与えられる限りの誠意を示したい。

 少なくとも今の紅焔は、そう考えている。

「寛大になったつもりはないが、翔龍の出席を許したことで、皆が浮足立っているのは確かだ。そなたも、その分せいぜい励むがいい」

「御意に、抜かりなく。此度の園遊会は必ずや陛下の御心を象徴する、歴史に残る宴となりましょう。その一助となるべく、全力で取り組ませていただきます」

 異国情緒あふれる耳飾りをシャラリと鳴らして、胡伯は恭しく首を垂れる。紅焔から胡伯に、これ以上告げるべきことは何もない。その様子を感じ取って、侍従長が胡伯に退出を促そうとする。

 けれども侍従長が声を上げるより先に、胡伯はぱっと顔をあげて満面の笑みで紅焔を見た。
 
「励むといえば……。ご注文いただいておりました、もうひとつの案件。そちらも本日、お持ちさせていただいております」

「あ、ああ。そうか」

 それがすぐに、藍玉に贈る園遊会用の衣装一式のことだとわかり、紅焔は虚を衝かれながらも頷いた。

 園遊会にはおそらく、皇帝の側室の座を狙って、有力貴族たちがこぞって年頃の娘を着飾って連れてくる。そんな貴族たちを牽制するために、紅焔は藍玉に、園遊会では紅焔が贈った衣を着てくるように言い付けてある。

 その衣一式をそろえるのを、胡伯に注文していたのだ。

「ここで陛下にご覧に入れたく思いますが……お広げしてもよろしいでしょうか?」

「いや、いい。侍従たちに渡しておけ。あとで、春陽宮に運ばせる」

「そんな、もったいない。この胡伯も唸るほど、すばらしい出来に仕上がりましたのに」

「私は最初にいくつか注文を出しただけだ。最終的な生地選びは商会と妃とで行っただろう。ならば、仕上がりに目を通すのは妃であるべきだ」

 紅焔が断ると、胡伯はなぜか悪戯っぽく切れ長の目を伏せた。妙に色っぽい笑みに嫌な予感を覚えた時、胡伯は紅焔にだけ聞こえるよう艶やかに囁いた。

「そのように、理性ある振りなどなさらなくて良いのに……。陛下の胸の内にお妃様への昂る恋情が渦巻いていること、胡伯にはお見通しにございます」

「は……はあ!?」

「噂にたがわぬ陛下の春陽妃様へのご寵愛ぶり。ワタクシ、嬉しくなってしまいました。最初に生地の色味だけご指定されたのは、そういう意味なのでしょう?」

 真正面から問われて、図星だった紅焔は思わず赤面してしまった。――まあ、半分は有力貴族たちへのアピール目的だが、残り半分は下心である。どうせ選ぶならと、思わず生地にあの色味を指定してしまった。

 なんだか無性に照れくさくて、紅焔は仏頂面でシッシッと手を振った。

「無駄口を叩く暇があるならさっさと下がれ。私はもうそなたに用はない」

「少々口がすぎましたね。無粋者はこれにて、スタコラさっさと退散するといたしましょう」

「待て。春陽妃への品は置いていけと言っただろう」

「ふふ、そうでした。確かにお納めさせていただきますね」

 胡伯が目で合図をすると、進み出た彼の部下たちが、いくつかの包みを紅焔の侍従に手渡す。ああは言ったもの、中に危険なものがないか侍従たちにあらためさせたうえで、春陽宮に運ばせる手筈だ。

 部下たちが再び後ろに下がったのを確認してから、胡伯は両手を顔の前に合わせた。

「それでは陛下。今度こそ、これにて失礼させていただきます」

「ああ。さっさと行け」

「おやまあ、手厳しい。ワタクシ、今夜は枕を涙で濡らしてしまいそうです」

 よよよと嘘っぽく衣の裾で目のあたりを拭ってから、胡伯は一礼して、出口へと足を向ける。そのまま出て行くかと思われたが、なぜか彼は足を止めて、紅焔を振り返った。

「本当に、心から喜んでいるのですよ」

「は?」

「かつて戦場では鬼神として剣を振るい、即位されてからは己を夜叉と称して他者を遠ざけてこられた貴方様が、お妃様を迎えられてからは随分とお変わりになられて……。愛はひとを変えるというのは、誠でございますね」

 一介の商人としてはいささか不遜すぎる物言いに、紅焔は眉をひそめた。自由に振舞っているように見えて、胡伯は常に相手の顔色を伺う慎重な男だ。そんな彼らしくもない、随分と正直な言葉である。

 しかし紅焔が真意を確かめるより先に、胡伯は再度深く礼をすると、今度こそ部下を伴って退出した。

 微かな違和感が胸の奥に棘のように刺さったが――園遊会前のあわただしさの中で、紅焔はいつしかそれを忘れてしまった。
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