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6章 雨濡れの迷い子
3.
しおりを挟む「まったく、本当に。旦那さまは皇帝のくせに、真っ当な感性の、真っ当に普通の人間ですよね」
「は?」
「特別な関係は、不義密通。義理の姉に向ける以上の感情は、横恋慕。そう理解して返答してかまいませんね?」
「っ! あ、ああ……」
あまりに歯に衣着せぬ物言いに、紅焔のほうがソワソワしてしまう。その反応にもう一度満足そうに微笑んでから、藍玉はきっぱり首を振った。
「当時の私は子供で、劉生兄さまが母さまに向ける感情がどんな種類のものだったか、推しはかることはできません。しかし不義密通については、その事実はないと断言できます」
「なぜだ?」
「母が、皇帝を深く愛していたからです」
あっさりとそう口にした藍玉は、心底嫌そうに顔をしかめた。
「私にとっては、理解しかねることでしたがね。皇帝が誰を都から追放しようと、皇帝が誰の命を奪おうと。母はなぜか、皇帝を見放しはしませんでした」
「蘇芳帝も、君の母には耳を貸したと言っていたな」
「耳を貸すだけで、別に聞いてはいませんでしたよ。幼かった私の目から見ても、父は如何に国を大きくし、己の権威を誇示するかにしか興味がありませんでした。そのせいで、どこで誰が苦しもうが知ったこっちゃない。最低最悪のクソ皇帝です」
「……なんというか。妙に既視感のある男だな」
「ええ、そうです。旦那さまの父君が討った、西朝の末王と同じです。残忍で、身勝手で、己の欲を満たすことしか頭にない。西朝がどのように終わったのか知った時、心底軽蔑したものですよ。千年時が流れようが、人間の王はちっとも変わらない。歴史は繰り返すのだと」
嫌悪感を隠そうともせず吐き捨てた藍玉は、ちょっぴり寂しそうに表情を曇らせた。
「なのに――皇帝を心底嫌う私に、母は目を細めて言うのです。あの方を怒らないであげて。いつか昔のあの方に戻ってくれると、母は信じていますと」
そう言って、藍玉は薄水色の瞳にここではないどこかを映そうとするように、四阿の外に視線をやった。
「そんな母を腹立たしく思う反面、うらやましくもありました。だって私は、おかしくなる前の皇帝なんて――かつての父がどんな男だったかなんて、知りもしないのですから」
気がつくと雨が止み、曇天の隙間から太陽の輝きが細く池を照らしていた。屋根より外に手を伸ばして確かめてから、藍玉は明るく告げた。
「結局、長くお引き止めしてしまいましたね。そろそろお戻りにならないと、大臣のどなたかがお迎えにきてしまうのではないですか?」
「俺は血染めの夜叉王で、君は唯一の寵妃だぞ。その逢瀬に割って入れるほど、心臓に毛の生えた大臣はいないさ。そもそも後宮は、男は立ち入り禁止だし」
「そうでしたね。千年前は今ほど厳しくなかったので、うっかりしておりました」
てへっと舌を出し、藍玉が立ち上がろうとする。紅焔を春陽宮の入り口まで見送るつもりなのだろう。
それを一旦手で制して、紅焔はがらりと話題を変えた。
「ところで、夏の園遊会の衣は用意しているか」
「園遊会、ですか?」
ぱちくりと藍玉が瞬きする。紅焔が答えを待っていると、彼女は人差し指を頬に当てて首を傾げた。
「そういえば香家の父から、近く、我が家に出入りする商人を後宮に送ると文が来ていましたね。香家が援助するから、いくらでも好きに生地を選べと。私は、手持ちの衣で問題ないと思っているのですが……」
「香大臣の申し出は断れ。商人も金も、私が工面をする」
「旦那さまが? 春陽妃として十分に予算をつけていただいていますし、大丈夫ですよ。香家の援助を断ったとしても、贅沢をしなければ一着仕立てるくらいわけないですし……」
「皇帝が贈るということに意味があるんだ」
紅焔が強めに告げれば、藍玉が口を噤んだ。彼女はしばし、紅焔を訝しむように見つめていたが、やがて肩をすくめた。
「では、そのように。父にも、そのように返事を出します」
「私からも、大臣に声をかけておこう」
「香家は大喜びでしょうね。皇帝が唯一の妃に衣を贈ったと、天宮城中にあっという間に広まることでしょう」
「広まってくれなければ困る。私が何かを言うよりよほど、私の意向が皆に伝わるはずだ」
澄ました顔で答えれば、藍玉はムッと、可愛らしい唇を尖らせた。ひとつだけ残っていた菓子を口に放り込んでから、藍玉は紅焔を睨んだ。
「鬼通院に足を運んでくださった借りは、これでチャラですからね?」
「むしろ君の貸しでかまわないさ。色をつけて返してやるよ」
ニッと歯を見せてから、紅焔は今度こそ春陽宮を後にした。
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