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5章 無限書庫
11,
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書庫係の霊が消えたあとには、一冊の古びた日誌のようなものが落ちている。
少し迷ってから、紅焔はそれを拾い上げた。霊魂の類は、あくまで自分の専門外だ。書庫係の霊の未練を晴らしてやれたのか、彼がまだこの世に留まっているのか、紅焔に窺い知ることはできない。
それでも。
(あの者の慰めに、少しはなってやれただろうか)
ぽつりと、そんな言葉が胸に落ちる。けれども次の瞬間、頭の上から轟いた声に、紅焔は文字通り飛び上がった。
「いたあ!!!!!!!」
「!?」
ぎょっとして顔をあげて、紅焔は驚いた。禁書庫の入り口に立ち、こちらを仁王立ちで見下ろすのは、ひとつ目の狐事件の時に藍玉と一悶着あった呪術師、尹嘉仁だった。
鍛え上げられた体にいかつい美丈夫と、剣士と見紛うような巨体を見上げて紅焔は叫んだ。
「お前、なぜここにいる!?」
「それはこっちの台詞だ、いや、です! あんた様、今までどこに行きやがりらしたんですか!!」
「いくらなんでも不敬じゃないかなあ!」
思わず突っ込むと、嘉仁は「しまった!」というように慌てて両手で口を塞ぐ。一方の紅焔も、ハッとして慌てて振り返った。
(そうだ、宗!)
禁書庫に案内してもらった時、宗は隠れみの術により姿を消していたので、はためには紅焔に従者はいないよう見えていたはずだ。しかも宗の外見は子供にしか見えない。ここで嘉仁と顔を合わせたら、説明が面倒になりそうだ。
しかし紅焔の懸念は杞憂に終わった。書庫係の霊が消えてすぐに、宗も再び隠れみの術を使ったらしい。
(逃げ足の速いやつめ……。結果的に、それに救われたが)
安堵した紅焔は、紅焔は改めて嘉仁を見上げた。
「その反応。私はどれくらい、姿を消していた?」
「………………半刻ほどです。地揺れが起き、淵方士が様子を見に禁書庫に戻ったところ、陛下のお姿がなかったと窺っております」
嘉仁も少しは落ち着きを取り戻したようで、探るような目を紅焔に向けながら慎重に答えた。
「淵方士は、陛下がこの世ならざる境界に囚われた可能性があると話しておいででした」
そこまでわかっているなら話は早い。
なお、春明は直前に揺れがあったことから阿美妃が関係しているのではないかと疑い、書庫内部の捜索は嘉仁にまかせて、自身は阿美堂のある本殿に向かったらしい。
春明に「皇帝発見」の報を急ぎ伝えなければとそわそわする嘉仁に、紅焔は今しがた拾い上げた古い日誌を差し出した。
「阿美妃は関係ない。私は、この者と共にいた」
「この者……?」
「触れてみろ。まだここに、あの者がいるかもしれない」
半信半疑といった様子で、嘉仁は日誌に手を伸ばす。しかし、さすがは春明が認める呪術師といったところか、嘉仁は日誌に触れた途端に目を見開いた。
「これは……」
「丁重に弔ってやれ。気高き精神を持った男だった」
そう言って紅焔は、立ち上がって衣の裾を払う。しかしそこで、嘉仁がひとつ目の狐事件の時に、使い魔である飢者髑髏にひとつ目の狐を喰わせようとしていたことを思い出した。
疑い半分、紅焔はじとりと嘉仁を見た。
「……まさかとは思うが、そなた、その者を先日の髑髏の化け物に喰わせたりは……」
「致しません。同胞の御霊にそのようなこと」
いささかムッとしたように、嘉仁が答える。彼の中の判断基準がどうなってるのかはわからないが、嘉仁の様子からは、その言葉を疑う必要はなさそうだ。
嘉仁の答えに満足した紅焔は、ふわりと衣の裾を靡かせ、あれほど渇望した禁書庫の外へと足を向ける。
「いささか疲れた。今日は引き上げる。春明にもそう伝えてくれ」
「お、お待ちください!」
「なんだ?」
思わずといった調子でかけられた声に、紅焔は足を止めて嘉仁を振り返る。嘉仁は一瞬怯んだような顔をしたが、それでも強い眼差しで紅焔を見つめた。
「ひとつ目の狐を祓ったのは陛下ですか?」
思ってもみなかった一言に、紅焔は軽く目を瞠った。……しかし、考えてみれば嘉仁がそう勘違いするのも無理はない。あの時、彼は気を失っていたし、今日だって紅焔はひとりで禁書庫の霊をなだめて異空間から脱出したことになっている。
あえて沈黙を貫く紅焔に、嘉仁は食い下がった。
「貴方様はなぜ……。その力は、どこで身につけたのですが?」
その言葉に、紅焔は思わず笑いを漏らしてしまった。
嘉仁が訝しんで顔を顰めるが、仕方がない。だって、紅焔に力があるなどとんでもない。ここにあの美しい妃がいたなら、「誰の話をしているんですか?」と真顔で問い返していただろう。
取り繕うように肩をすくめて、紅焔は否定した。
「私にそのような力はない。ただ、この世ならざる者との付き合い方について、少しだけ教えてくれた者がいただけだ」
嘉仁は納得いかない顔をしているが、嘘は言っていない。今明らかにできることはこれが全てだ。
嘉仁との問答を切り上げ、紅焔は外に出た。嘉仁が半刻と言っていたように、太陽は高く、空は青い。手で日差しを避けながら空を見上げていると、気づいた護衛騎士たちが駆け寄ってきた。
「陛下!」
「ご無事ですか、陛下!」
先頭に永倫の姿を見て、今更のように外に出られた実感がわいてくる。ホッと表情を緩めて、紅焔は頷いた。
「問題ない。心配をかけてすまなかったな」
「鬼通院の連中、我々が建物内に立ち入るのを許さず……。お姿が見えなくなったとだけ説明を受けましたが、奴らに何かされたのでは? 瑞国として、正式に抗議をすべきではありませんか!?」
「落ち着け。確かに想定外のことに巻き込まれたが、鬼通院に非があるわけじゃない。あれは、彼らにとっても予想がつかなかった事態で……」
そこまで言って、紅焔はふと疑問を覚えた。
(書庫係の霊は、なぜ俺の前に姿を現したんだ?)
嘉仁に渡したときの反応から考えても、書庫係の霊はあの日誌に憑いていたのだろう。日誌が一人で歩くわけもあるまいし、あれが禁書庫に納められたのは紅焔が訪れるよりもずっと前のはずだ。
(固有結界を生み出すほど力をもった霊だ。春明たち呪術師たちが気づかないとも思えない。……なぜ彼らは、書庫係の霊をこれまで放置してきたんだ? 仮に気づかなかったとしたら、これまで沈黙していた霊が、なぜ俺と宗には反応した?)
「陛下?」
考え込む紅焔の顔を、永倫が心配そうにのぞき込む。ややあってから、紅焔は無意識に口元にあてていた手を下ろして首を振った。
「考えすぎか」
「はい?」
「いや。門外漢があれこれ考えても、時間の無駄だと思ってな」
「…………はあ」
紅焔に煙にまかれたと思ったのだろう。永倫が少しばかりムッとした顔をする。皇帝の近衛大将としては正直すぎる表情に苦笑してから、紅焔は彼らにも天宮城に戻る旨を伝えた。
――帰りの輿の中で、紅焔は新たな可能性が思い浮かんだ。
書庫係の日誌は、つい最近、禁書庫に持ち込まれたのではないだろうか。
日誌は今日まで、別の場所に保管されていた。そして紅焔――つもり瑞国の皇帝が禁書庫に調べ物をしに入ることを知り、直前になって禁書庫の中にこっそりと日誌を置いておいた……。
だとしたら、誰がなんのために。何者かは、なぜそんなことをしたのか。
(…………まさかな)
そう肩を竦めてみるが、こびりついた疑念を完全に拭うことはできない。
城へと帰る道を揺られながら、紅焔はしばし、思案にくれたのだった。
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