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5章 無限書庫
9.
しおりを挟む入念な打ち合わせにより、手順の確認を行い。
紅焔らは、改めて書庫係の霊の背後に立っていた。
これまでと同じく、扉を開けただけでは書庫係の霊は反応しない。こちらに背を向けたまま茫然と立ち尽くす姿を前に、宗がこそりと紅焔に囁いた。
「ねえ。旦那さま、本気でやるつもり?」
「ああ。試してみる価値はある」
紅焔も小声で囁き返す。霊がこちらに気付き、飛び掛かってくるまでは一瞬だ。その動きを見極めるためにも、こちらのペースで幽霊に刺激を与えたい。
(部屋の両側に並ぶ書棚。中央には机と二脚の椅子……。ほかの部屋と違うのは、俺たちと机の間に彼がいるだけ。問題ない。何度も、別の部屋で頭に叩き込んだ通りの位置取りだ)
書庫係の霊は依然として動かない。緊張を逃がすために紅焔は深く息を吸い込み、長く静かに吐き出した。
(行くか!)
「宗!」
「了解!」
紅焔の合図に叫んで、宗が勢いよく禁書庫の中に足を踏み入れる。
途端、書庫係の霊がぐりんと体を回転させ、宗めがけて咆哮した。
(そうなるよな!)
書庫係の霊は、宗と紅焔、足を踏み入れたほうに反応する――。これは、これまで何度も試した中でわかったことだ。そして二人一緒にいるからわかりにくいが、飛びかかってくる先も足を踏み入れた側だというのもわかっている。
だからこそ宗も、慌てる素振りなく叫んだ。
「旦那さま、今!」
「そうだな!」
言うが早いが、紅焔は一気に床を蹴って禁書庫に飛び込んだ。すでに書庫係の霊は、宗に向けて飛び出している。一瞬、落ちくぼんだ双眼の奥から鋭い眼差しが紅焔に向けられた気がしたが、さすがの幽霊もいまさら勢いを消すことはできない。
おかげで紅焔は、かつて戦場を駆けた体の軽やかさも相まって、なんの問題もなく幽霊の横を通り抜けることができた。
それでも、生者としてはあり得ない反応速度で書庫係の霊が体を捻り、鋭い爪の先を紅焔に向けるのをビリビリと背中に感じた。それでも紅焔は迷いなく床を蹴り、次の瞬間、襲い掛かる腕をかいくぐって机の下へと滑り込んだ。
(よし! 狙い通りだ!)
「宗!」
「わかってるって!」
紅焔に言われるまでもなく、宗も机の下に遅れて飛び込んでくる。彼もまた、書庫係の霊が紅焔に気を取られた隙を狙ったのだ。
飛び込んでくるやいなや、宗は床に両手をつけて叫んだ。
「強化!!!!!」
ぶわりと宗を中心に床に魔術陣が浮かび、呼応するようにして木製の机が淡く光った。紅焔が顔をあげた時、机の脚の向こうにいる書庫係の霊と視線が交わった。改めて紅焔らに襲い掛かろうと身構えてはいるが、心なしかその瞳に戸惑いの色が見える。
ここまで来たら、もう慌てる必要はない。
紅焔らがこの部屋から逃げ出さなかったことで、強制的に終焉の幕が下ろされた。
「ギャアアアァァァアアウガッ!」
二人に飛びかかろうとした書庫係の霊が、次の瞬間、落ちてきた書棚に潰されて見えなくなる。同様に、まるですべてを押しつぶしてしまおうとするかのように、机の上にも、横にも、書物や壊れた書棚の破片やらは滝のように降り注ぐ。
ミシリと嫌な音を立てる机に、紅焔は思わず叫んだ。
「耐えろ、宗! あと少しだ!」
「言われなくても!」
宗の滑らかな頬を汗が滑り落ち、床に浮かぶ魔術陣の光が強くなる。
永遠に続くかに思われた瓦礫の雪崩のあと、ついに辺りは完全な沈黙に包まれたのだった。
天井も、書棚も、何もかもが崩れ落ちた禁書庫の中央で。不自然に盛り上がった瓦礫の下、こほり、と誰かが小さく咳をする。
次の瞬間、積み上がった書物の山がどさどさと音を立てて崩れ、中から紅焔と宗の二人が這い出した。
「あ~~~~~っ! 死ぬかと思った~~~~っ!」
外に這い出した途端、宗が崩れた書物のうえに大の字になって寝転ぶ。その言葉に嘘はないようで、宗の襟のあたりは汗でびっしょり濡れている。
さすがにそれを茶化すつもりにもなれず、紅焔も地面に片膝を立てて座り込み、慰めるように宗に笑いかけた。
「よくやった、宗。お前の強化呪文がなければ、俺たちは机ごと潰されてたかもしれない」
「ほんっっっっと、それな!!!! だからボクは、この作戦は無謀だって言ったんだ!」
「しかし、春明が『机の下に隠れろ』と言ってただろ? だから、なんとかなるんじゃないかと思って」
「どう考えても、なんとかならない勢いだったでしょ!? まーったくさー! 姫さまが旦那さまのことほっとけないの、なんかわかっちゃったよ。あんた本当に、危なっかさすぎ!」
ぎゃんぎゃんと喚いていた宗だが、不意に口をつぐんだ。その視線の先を追った紅焔も、無意識に背筋を正す。
宗が見つめる先、瓦礫で積まれた床の上には、書庫係の霊が項垂れるようにして座っていた。
毎度崩れた書庫の下敷きになっていた彼が、こうして五体満足で姿を見せるのは初めてのことだ。動揺した宗が、ちょんちょんと紅焔の衣の裾を引く。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと。なんで、あいつが普通にいるのさ。この部屋で書庫の雪崩を耐えれば幽鬼は消える。旦那さま、そう言ったよね?」
「…………」
紅焔はじっと書庫係の霊を見つめた。先ほどまでの半狂乱の姿が嘘のように、彼は俯いたまま沈黙している。ややあって紅焔は、ふっと肩の力を抜いた。
「大丈夫だ。彼に、もう俺たちに飛び掛かる理由はない」
「はい? どういうこと?」
「いいから、そこで待ってろ」
言い置いて、紅焔は瓦礫の山を慎重に抜け、沈黙する書庫係の霊に近づく。宗は何か言いたそうな顔をしたが、紅焔の好きにさせることを選んだらしい。霊の真正面に立った紅焔は、項垂れる書庫係の顔を覗き込むように床に膝をついた。
静かだと、紅焔は思った。風のない夜の湖面のように凪いでいて、荒ぶるものは何もない。その静かさに敬意を払うよう努めて、紅焔もまたそっと言葉をつむいだ。
「大儀であった」
書庫係は動かない。聞いているのか聞いていないのかわからない頭頂に、紅焔はおだやかに続ける。
「そなたは、余とこの者が瓦礫の下敷きとならぬよう、守ろうとしてくれていたのだろう」
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