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3章 ひとつ目の狐

19.

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「――やむをえませんね」

 ソレ・・が、藍玉の声で呟く。

「身内の恥は身内でつけるもの。業腹ですが、お前を我が一族と認めましょう」

 ふわりと柔らかな毛並みを揺らし、ソレが前に進み出る。

何かを恐れるように、狐の異形はソレを威嚇した。漆黒の毛並を逆立たせ、無数の目を剣呑に見開き、異形の狐は鋭い牙をむき出しにする。

『ギエエエエェェェ……ギエエエエエエアアアア!』

 鉄の刃で硝子をひっかくような不快な声で、異形の狐は叫び声をあげる。しかし、藍玉の姿をしたソレは、ダン!と地面を力強く踏み、全身に純白の炎を燃え上がらせた。

「控えよ!! お前が我が眷属の端くれであるならば。母より生まれし醜い忌み子であるならば。私に従いなさい。私に――白の一族の前に跪きなさい!」

 その瞬間、見えない重石が天から落ちてきたかのように、異形の巨体が地面に叩きつけられた。

 異形の狐は鋭い爪で地面を引き裂き暴れるが、ソレは――藍玉は、青白い瞳でどこまでも冷たくそれを見下ろしている。

 やがて藍玉の炎が異形の狐に燃え移り、すべてを浄化するように巨体を包んでいく。異形の狐は苦しげに最期の叫び声をあげ、白い炎の中で霞んで消えていった。

(藍玉……?)

 目の前に佇む彼女を、紅焔は呆然と見上げる。

 一点の汚れのない白き衣を見に纏い、感情を無くした横顔で冷ややかに異形の最期を見守る彼女は、近寄りがたいほどに美しい。

しかし、他者を寄せ付けぬ気配は美しさだけが理由ではない。全身からいまだ立ち昇る白き炎が、狐の耳が、なにより九つに分かれた狐の尾が、彼女が人間ではないと伝えてくる。

太古の昔、都を焼き尽くした災厄の妖狐――阿美妃そのままの姿だと、どうしようもなく伝えてくる。

 カッと、全身の血が沸騰する心地がした。

 考えるより先に紅焔は短刀を引き抜き、鞘を地面に投げ捨てる。勢いそのままに、鋭い刃の切っ先を、藍玉の傷ひとつない白い喉に突きつけた。

 藍玉は動かない。人形のように無感動な瞳で、ただただ静かに突き付けられた刃を見下ろしている。

 その瞳に苛立ちを覚えながら、紅焔は食いしばった歯の隙間から藍玉に問いかける。

「答えろ。君は何者だ。何のために都に来た」

 薄水色の瞳が動き、紅焔の紅の瞳と視線が交わる。途端、これまで彼女との間に起きた出来事の記憶が、そのたびに生まれた新たな感情のすべてが、紅焔の中で暴れまわる。

膝をつき叫び出してしまいたいような衝動を堪えながら、紅焔は国を統べる王として目の前の脅威・・・・・・に重ねて問うた。

「答えろ、藍玉! 返答次第で、俺は君を殺さなければならない……!」

 藍玉の形の良い唇が微かに動く。けれども、その唇がなにか言葉をつむぐより先に、紅焔は何者かによって横から突き飛ばされた。

「ぐっ!?」

「玉! 宗!」

 勢いよく塀に叩きつけられる紅焔の耳に、藍玉の慌てる声が届く。

 彼女が叫んだのは、藍玉の二人の従者の名だ。なぜ春陽宮にいるはずの二人がここに? 疑問を感じた刹那、何者かに首を掴まれ、体を持ち上げられた。

 首が締まり、視界がチカチカと瞬く。驚くことに、紅焔を持ち上げているのは宗だ。子供にしか見えない細腕で、軽々と紅焔の首を締め上げている。

(違う。彼らも、妖の類か……!)

 首を絞める宗と、その後ろで鋭くこちらを睨みつける玉。二人にも狐の耳と、一本ずつだが狐の尾が生えている。よく見れば瞳孔が細くなっており、そこには獣らしい獰猛な敵意がメラメラと燃えている。

「宗、やめなさい!」

 彼らは自分を殺す気だ。紅焔が危機感を覚えたとき、再び藍玉の声が響いた。

 しかし首を絞める手は弱まることなく、むしろグイとさらに力強く、紅焔を上に持ち上げた。

『ダメだよ、姫さま。この人間に正体を見られたんでしょ』

『いけません、姫さま。この人間は、あなたの真実の姿を知ってしまった』

 宗と玉が、順番に答える。

 普段の妙に人懐っこい気配は全くない。ただただ、葬るべき獲物として紅焔を冷徹に見据えている。

『狐は、人間の敵だもの。狐は、人間に恐れられているもの』

『あなたの正体を知ったら、人間はあなたを害するでしょう。現に、この人間もあなたに刃をむけたじゃないですか』

『残念だよ。僕も、この人間は気に入っていたから』

『悲しいです。私も、この人間は好んでいましたから』

『けど、仕方ないよね』

『ですが、やむを得ないですよね』

『『さようなら、姫さまの旦那さま』』

(息、が…………!)

 紅焔の首にさらに宗の指が食い込み、本格的に視界が白くなり、意識が朦朧としてくる。

最後の力を振り絞って宗の手を引っ掻くが、小さな手はびくともしない。あまりの力の強さから、窒息するより先に首の骨を折られてしまいそうだ。

――死ぬかもしれない。そう思ったとき、紅焔の心に浮かんだのは小さな後悔だった。

香藍玉。彼女に出会ってから自分は、掴みどころのない彼女に振り回されてばかりだった。

飄々としているかと思えば凛々しく。淡々としているかと思えば意外に情に厚い側面を見せて。妙に大人びているかと思えば、たまに子供っぽい表情を垣間見せる。

そんな彼女を、いつしか目で追いかけるようになっていた。

(惚れた女に人生最後にしたことが、首に刃を突き立てることだったとはな)

 藍玉の中で、自分はひどい男として記憶に刻まれるだろう。いや。そもそも彼女の中で自分は、記憶に残す価値すらないのかもしれない。

 それでも。もう、これで終いならば。

(最後に一度くらい)

 一度くらい。
 皇帝としてではなく、ただの男として彼女と向き合えばよかった。

もう意識がもたない。苦い後悔を最後に、宗に抵抗していた紅焔の手がだらりと落ちる。
 
 けれども思考が無に溶けていく刹那、藍玉の悲鳴にも似た叫びが闇夜を引裂いた。

「やめてええええぇぇぇえぇーーーーーーー!」

 眩い光の爆発が起き、激しい風が殴りつけるように全身をなぶった。

 次の瞬間、首を圧迫する力がなくなり、紅焔の体は固い地面に落とされた。

「ぐ……かはっ! げほ、ごほ、……っ!」

 喉が焼けるように熱く、紅焔は咳き込みながら必死に息を吸い込んだ。流れ込んでくる新鮮な空気に全身が震え、心臓がドクドクと脈打つのを感じた。

(なん、で……)

「コウ様!?」

 地面に膝をついたまま動けない紅焔の耳に、あり得ない人物の声が届く。なんとか顔をあげれば、ぎょっとした様子の永倫が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。

「どうして……お前がここに……?」

「こっちの台詞だよ! いつ城に戻って来たの? いや、そんなことどうでもいい! 誰にやられたんだ? 怪我もしてるし、その首の痣……。すぐに医務官を呼ばなければ!」

「待ってくれ。ここは天宮城なのか?」

「はあ!?」

 急いで問い返せば、意味がわからないといった様子で永倫が目を吊り上げた。

 確かに、よく見れば辺りは見慣れた景色だ。おそらく紅焔が暮らす紫霄殿の渡り廊下のすぐ近くだろう。

(藍玉が、俺をここまで飛ばしたのか?)

 そうとしか考えられない。宗に紅焔を殺させないために、彼女の不思議な力で紅焔だけを天宮城に帰したのだ。

「……はは。本当に、あいつは何でもありだ……」

「コウ様!」

 立ち上がろうとしてよろけた紅焔を、すかさず永倫が受け止める。紅焔を心配そうに支えながら、永倫はきゅっと眉間にしわを寄せた。

「けど、コウ様が戻ってきててよかった。西門の外が騒がしいって、門兵から報せが来たところだったんだ。今夜は例の狐狩り・・・だっていうのに、コウ様はお妃さまと一緒に城下に出てっちゃうし……。そうだ、お妃さまも帰ってるの?」

「っ!」

 とっさに答えられず、紅焔は言葉に詰まってしまった。心配そうだった永倫の表情が、訝しげなものに変わる。

 ――そうだ。殺されずには済んだが、何も解決してはいない。

 藍玉の正体は人間ではなく、玉と宗も狐の妖だった。彼女らは太古の大妖狐・阿美妃と密接に関係があり、下手をしたら阿美妃そのものかもしれない。

 この国の――人間の、敵かもしれない。

(もし本当にそうなら、俺は……)

「コウ様、教えて。何があったの?」

 何かを察したのか、問いかける永倫の声が少しだけ険しくなる。

 けれども紅焔は、月のない夜の下、地面がグラグラと揺れるような感覚を必死でこらえることしかできなかった。
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