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3章 ひとつ目の狐

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「ごきげんよう、旦那さま。こんなところで奇遇ですね」

 シレっとのたまった藍玉に、紅焔はしばし言葉を失った。ようやく頭が追いついたとことで、彼は美しい妃に詰め寄った。

「おま……っ、ごきげんよう、じゃなくて! その恰好どうしたんだ?」

「侍女の服ですよ。春陽宮のストックを拝借したのです。結構似合いませんか?」

「そうじゃなくて、そんな恰好で何をしている!」

「ご想像の通り、天宮城を抜け出そうとしておりますが」

「はああぁ!?」

 素っ頓狂な声をあげて目を吊り上げた時、紅焔の耳に、周囲のヒソヒソ声が届いてしまった。

「あれ、紅焔陛下よね……?」

「一緒にいる子、誰? すっごく詰め寄られてるけど……」

「まさかあの子、このまま首をはねられちゃったりする……?」

 ひいいいぃ!と遠くのほうで侍女たちが悲鳴をあげるのを、紅焔はぎりりと唇を噛みながら聞いた。

(そういえば、俺の通り名、『血染めの夜叉王』だもんな!)

 このままでは、動揺した侍女たちが武官たちを呼びに行きかねない。やむを得ず、紅焔は藍玉の手首を掴んだ。

「来い! 場所を移す」

「あ……」

 細い手首を掴まれた時、藍玉は微かに目を丸くした。それに気づかない紅焔は、藍玉の手を引いたまま走り出す。――その背中をなんとも言えない表情で見上げた藍玉は、すぐに悲しそうに目を伏せた。

 そうやってしばらく逃げ回って人の目を撒いたところで、紅焔は柱の陰に藍玉と隠れた。

(ここなら、誰かに話を聞かれることもないな……)

遠くを侍女たちが談笑しながら通り過ぎるのを、紅焔は柱の影から顔を出して確認する。通りからは奥まったこの場所は、滅多に人が来ることはないのだ。

そんなふうに紅焔が外に注意を払っていると、藍玉が胸の前で両手をクロスさせた。

「こんな人気のない場所に連れ込んで、私に一体ナニをなさるおつもりですか。旦那さまのエッチ」

「ば……! バカを言うな! 俺は、お前の変装が大事おおごとにならないよう、ここまでお前を連れてきたのであって……」

「キャー、オソワレルー」

「藍玉!!」

 棒読みで雑に悲鳴をあげる藍玉に紅焔は怒りかけ……すぐに阿呆らしくなってやめた。

 これは彼女なりの強がりだ。立ち入られたくない時、何か隠し事がある時、藍玉はこうやって茶化して誤魔化す。それをわかった上で、紅焔は腰に手を当てて藍玉に向き合った。

「悪いが、今回は見て見ぬふりできないぞ。そんな恰好までして、君はなぜ、外に出ようとしているんだ」

 藍玉は迷うように目を泳がせた。けれどもすぐに観念して、形の良い唇を開く。

「私なりに反省をしたのです。確かに私は、旦那さまに甘えていました」

「甘えて?」

 思ってもない返答に、紅焔は虚を衝かれた。驚く紅焔に、藍玉は静かに続ける。

「あなたが予想以上に協力してくださったから――勝手ばかりの私を、優しく見て見ぬふりをしてくださったから。私はそれを、当たり前だと思ってしまった。だから、旦那さまの立場を考えず、あんなふうに駄々をこねてしまったんです」

 そこまで一気に告げると、藍玉は意志の強い薄水色の瞳で、まっすぐに紅焔を見上げた。

「もともと私は、すべてをひとりでやり遂げる覚悟で、この城に参りました。ですから、もう旦那さまを困らせることは致しません。自分の足で、ひとつ目の狐を追いかけます」

「どうして、そこまでして……」

 紅焔が思わず呟くと、藍玉の瞳が再び揺れる。けれども視線を逸らすことなく、彼女は紅焔に答えた。

「私の探し人が、ひとつ目の狐の近くに現れるかもしれないのです」
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