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3章 ひとつ目の狐
10.
しおりを挟む「ごきげんよう、旦那さま。こんなところで奇遇ですね」
シレっとのたまった藍玉に、紅焔はしばし言葉を失った。ようやく頭が追いついたとことで、彼は美しい妃に詰め寄った。
「おま……っ、ごきげんよう、じゃなくて! その恰好どうしたんだ?」
「侍女の服ですよ。春陽宮のストックを拝借したのです。結構似合いませんか?」
「そうじゃなくて、そんな恰好で何をしている!」
「ご想像の通り、天宮城を抜け出そうとしておりますが」
「はああぁ!?」
素っ頓狂な声をあげて目を吊り上げた時、紅焔の耳に、周囲のヒソヒソ声が届いてしまった。
「あれ、紅焔陛下よね……?」
「一緒にいる子、誰? すっごく詰め寄られてるけど……」
「まさかあの子、このまま首をはねられちゃったりする……?」
ひいいいぃ!と遠くのほうで侍女たちが悲鳴をあげるのを、紅焔はぎりりと唇を噛みながら聞いた。
(そういえば、俺の通り名、『血染めの夜叉王』だもんな!)
このままでは、動揺した侍女たちが武官たちを呼びに行きかねない。やむを得ず、紅焔は藍玉の手首を掴んだ。
「来い! 場所を移す」
「あ……」
細い手首を掴まれた時、藍玉は微かに目を丸くした。それに気づかない紅焔は、藍玉の手を引いたまま走り出す。――その背中をなんとも言えない表情で見上げた藍玉は、すぐに悲しそうに目を伏せた。
そうやってしばらく逃げ回って人の目を撒いたところで、紅焔は柱の陰に藍玉と隠れた。
(ここなら、誰かに話を聞かれることもないな……)
遠くを侍女たちが談笑しながら通り過ぎるのを、紅焔は柱の影から顔を出して確認する。通りからは奥まったこの場所は、滅多に人が来ることはないのだ。
そんなふうに紅焔が外に注意を払っていると、藍玉が胸の前で両手をクロスさせた。
「こんな人気のない場所に連れ込んで、私に一体ナニをなさるおつもりですか。旦那さまのエッチ」
「ば……! バカを言うな! 俺は、お前の変装が大事にならないよう、ここまでお前を連れてきたのであって……」
「キャー、オソワレルー」
「藍玉!!」
棒読みで雑に悲鳴をあげる藍玉に紅焔は怒りかけ……すぐに阿呆らしくなってやめた。
これは彼女なりの強がりだ。立ち入られたくない時、何か隠し事がある時、藍玉はこうやって茶化して誤魔化す。それをわかった上で、紅焔は腰に手を当てて藍玉に向き合った。
「悪いが、今回は見て見ぬふりできないぞ。そんな恰好までして、君はなぜ、外に出ようとしているんだ」
藍玉は迷うように目を泳がせた。けれどもすぐに観念して、形の良い唇を開く。
「私なりに反省をしたのです。確かに私は、旦那さまに甘えていました」
「甘えて?」
思ってもない返答に、紅焔は虚を衝かれた。驚く紅焔に、藍玉は静かに続ける。
「あなたが予想以上に協力してくださったから――勝手ばかりの私を、優しく見て見ぬふりをしてくださったから。私はそれを、当たり前だと思ってしまった。だから、旦那さまの立場を考えず、あんなふうに駄々をこねてしまったんです」
そこまで一気に告げると、藍玉は意志の強い薄水色の瞳で、まっすぐに紅焔を見上げた。
「もともと私は、すべてをひとりでやり遂げる覚悟で、この城に参りました。ですから、もう旦那さまを困らせることは致しません。自分の足で、ひとつ目の狐を追いかけます」
「どうして、そこまでして……」
紅焔が思わず呟くと、藍玉の瞳が再び揺れる。けれども視線を逸らすことなく、彼女は紅焔に答えた。
「私の探し人が、ひとつ目の狐の近くに現れるかもしれないのです」
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